森勇二のブログ(古文書学習を中心に)

私は、近世史を学んでいます。古文書解読にも取り組んでいます。いろいろ学んだことをアップしたい思います。このブログは、主として、私が事務局を担当している札幌歴史懇話会の参加者の古文書学習の参考にすることが目的の一つです。

2018年07月

『蝦夷嶋巡行記』7月学習分注記  

         

27-1)「官軍(かんぐん)」:天子・国家の正規軍。朝廷の軍勢。政府方の軍隊。ここでは松前藩の軍勢をいうか。なお、近世日本では、狭義には戊辰戦争時の新政府側軍隊を指す。

*続日本紀‐慶雲四年〔707〕五月癸亥「初救百済也。官軍不利」

*太平記〔14C後〕九・六波羅攻事「官軍多討れて内野へはっと引」

晉書‐桓温伝「耆老感泣曰、不図今日復見官軍」 

       <耆老(キロウ)感泣(カンキュウ)して曰(イワ)く、

        不図(ハカラズ)も、今日(キョウ)復(また)官軍を見(み)る>

       [古老は感泣して言った。「また官軍を見られるなんて、思ってもみなかった」]

  **「耆老」・・「耆」は六〇歳、「老」は七〇歳。六、七〇歳の老人。としより。

  **「晉書」・・中国の正史。二十四史の一つ。一三〇巻。房玄齢ら奉勅撰。唐の太宗の時、貞観二〇年(六四六)成立。

27―1)「日本と蝦夷と戦し時」・・『角川日本地名大辞典』には、

   「中世のアイヌと和人の攻防」として、享禄2(1529)3月、西部セタナイ(瀬棚)の首長タナイヌが乱を起こし、蠣崎義広が工藤祐兼と弟祐致を将としてセタナイに迎撃させたが、兄祐兼は戦死し、弟祐致は熊石まで逃れた。アイヌの進撃が急で、致し方なく海岸の巨巌に身を隠したところ、巌から黒煙が吹き出し、爆風雷光がとどろき、アイヌがたじろぐわずかな隙に、上ノ国に逃れることが出来たと伝える。

   更に、天文5(1536)、熊石の首長タリコナ(タナイヌの娘婿)が勢力を得て、上ノ国に攻めのぼるが、義広に謀られ斬殺された。それ以後、地内も静謐となったという。

(27-2)「其山」の「其」・・脚部が省略されて「廿」の形になることがある。

(27-2)「闇夜(やみよ・あんや)」・・くらい夜。月の出ない夜。

(27-2)「闇夜」の「闇」・(27-6)「問し」の「問」・・「門(もんがまえ)」のくずし字は、省略されて平たいカタカナの「ワ」、または、ひらがなの「つ」の形になることがある。

 *なお「問」の部首は、「門」ではなく、「口」部。

(27-2)「利を失ひ」・・「利を失う」は、いくさなどで、不利になる。劣勢になる。勝利を失う。敗れる。

 *「失ひ」の「失」の影印は、「矢」だが、くずし字では、よくある字形。

 (272.3)「進事不能(すすむことあたわず)」・・進むことができないこと。

 *「不能」・・「あたわず」と読むのは、漢文訓読の返読。

 *「能(あたう)」・・あとに必ず打消を伴って用いられたが、明治以後は肯定形も見られる。従って、「あたは」「あたふ」の形だけが用いられる。

(27-3)「敗軍(はいぐん)」・・戦いに負けること。

 *「敗軍」の「敗」・・くずし字では、旁の「攵(ぼくづくり・ぼくにょう・とまた・のぶん)が「久」の形になることがある。

(27-4)「言(いい)あやまり」・・言いまちがう。言いそこなう。言いあやまつ。

(27-4)「クトウ」・・現久遠郡せたな町大成区久遠。近世、「クトウ」は、西蝦夷地内の集落で、『松前西東在郷並蝦夷地所附』には、「うすへち」、「湯の尻」と並んで「くど」の名がみえ、また、『松前西村々蝦夷地クトウより北蝦夷地嶋迄地名海岸里数書(写本)』には、「熊石村」より、「クトウ迄四里廿四丁五十六間」とある。

 安政3(1856)の松浦武四郎の『松浦竹四郎廻浦日記』(以下『廻浦日記』と略)には、「当所の地勢後は平山、左の方エナヲサキ、右の方ニシユヱトフと対峙して一湾をなし、浜未申に向ひて其処々家居す。此処小場所にして、惣て通行継立無レ無、只風波不レ宜時のみ此処に寄る也。」とある。

近代になり、明治14(1881)久遠郡の一艘澗村、三艘澗村、日方泊村が合併して、久遠村が成立。その後、昭和30(1955)貝取澗村と合併し大成町となり、更に平成17(2005)には、瀬棚郡瀬棚町、北桧山町、久遠郡大成町が合併し、久遠郡せたな町となる。

(28-1)「大鱲(たいりょう)」・「鱲師(りょうし)」の「鱲」・・「鱲」は、「猟」の当て字。本来、「鱲」は中国ではチョウザメ、わが国では、からすみ」をいう。

28-1)「互(たがい)に」の「互」・・くずしは、「楽」に似ているので、文脈で判断する。

28-1)「かせき」・・「稼ぎ」の意。

28-2)「そうて」・・沿うて。「そ」は「楚」、「う」は「宇」は、「て」は「帝」。

28-3)「深谷(しんこく)」・・底深い谷。

29-1)「併(しかし)」・・「併」は、国訓で、「しかしながら」の意に用いる。

29-2)「六月五日」・・『蝦夷日記』にも、一行は、64日から8日朝まで熊石に滞在。8日、熊石村を出帆している。

 *「六月五日」の「六」・・くずしは、冠の「亠(なべぶた)」を1画で書く場合がある。「下」のくずしと類似している。

291.2)「いかつち堂」・・「雷神堂」のこと。『渡島日誌』に、熊石村の中に、「畑中上に、雷神堂並て毘沙門堂並て雲母(キララ)崎小岬」とある。

29-3)「小祠(しょうし)」・・小さいやしろ。小さいほこら。

29-4)「びんの間」・・『松前西村々蝦夷地クトウより北蝦夷地嶋迄地名海岸里数書(写本)』には、「ヒンノマ」とある。『渡島日誌』には、「ヒンノマ、此処迄人家有。」としている。

 *「びんの間」の「び」・・変体仮名「ひ」。字源は「飛」。

29-6)「ゆかゝした」・・『松前西村々蝦夷地クトウ~里数書(写本)』には「ヲカノシタ」、『渡島日誌』には「岡下」とある。「ヲカノシタ」か。

29-6)「湄(ほとり)」・・みぎわ。水と草とが交わるところ。『漢辞海』に臨むは、後漢の『釈名』)を引き、「水に臨むさまが、眉が目に臨むのに似ている。」とある。

30-1)「せきない村」・・現八雲町熊石関内町。近世初期、和人地の西境が、それまでの上ノ国から熊石まで拡大されて、関内に番所が設置された。『渡島日誌』には、「関内村、人家十二軒、熊石村分也。前に川有、歩行わたり。海にヨシカシマ暗礁という有。」、「テケマ四丁二十間、ホンモエ、境目に至る。是を境に(西地)入るや皆場所と云。是迄をシャモ土云也。」とある。

30-3)「でけま」・・「渡島日誌」には、「テケマ」とある。

30-3.4)「ゆりきうたの崎」・・不詳。

30-4)「ほろ嶋」・・不詳。

31-2)「究(きめ)たれハ」・・「究める(動詞)」の連用形+「たり(助動詞)」の未然形+「ば(接続助詞)」。

31-3)「同(ひとし)」・・『名義抄』に、「同」の訓に、「オナジ・ヒトシ・ヒトシウス・アツマル・トトノフ・ノリ・カタシ」などをあげている。

*『名義抄』・・『類聚名義抄(るいじゅみょうぎしょう)』の略。平安末期の漢和辞書。編者名は不明だが法相(ほっそう)宗の僧侶の編で、院政期の成立かという。仏・法・僧の三部仕立とし、漢字を偏旁によって分類、音訓・字体などを示す。文字史・漢文訓読語研究の重要資料であり、和訓の部分に付された声点は平安時代のアクセントを知るのに貴重。

31-4)「いしかい取澗」・・現せたな町大成区貝取澗の内。『廻浦日記』には、「カイトリマヘツ、小川也。一名石カイトリマヘツと云。訳は石浜なれば也。本名カイトマイなるべし。」とある。

31-6)「そばたちたる」・・峙ちたる。聳ちたる。「峙つ。聳つ。」は、稜(そば)が立つ意で、岩、山などが、ほかよりひときわ高くそびえていること。

 *変体仮名の字源は、「楚(そ)・者(ば)・多(た)・ち(知)・た(太)る(留)」

7月 町吟味役中日記注記

(146-6)「漸(ようやく・ようよう)」:①漢語「漸」は「しだいに、だんだん」の意。②和語の「ようやく」は、①「しだいに、だんだん」に加えて、「やっと、どうにかこうにか」の意味もある。つまり、古くは漢文訓読用語であった「ようやく(漸)」に対して、主として仮名文学、和文脈で用いられた。別添資料『日本近代史を学ぶための文語文入門 漢文訓読体の地平』(古田島洋介著 吉川弘文館 2013)参照。

(148-1)「最前」の「最」:テキスト影印は「最」の俗字「㝡」のくずし字。

(148-2)「若(もし)」:「若」を「もし」と読むのは、漢文訓読体。「若(わか)し」は、国訓に過ぎず、漢字本来の意味ではない。なお、漢文訓読体で「わかし」は、「少(わか)し」。

(148-2)「如何(いかが)」:くずし字の決まり字。形で覚える。

(148-3)「周章(しゅうしょう)」:あわてふためくこと。うろたえ騒ぐこと。

(148-5)「別て(而)」:副詞。特に、とりわけ、ことに。

(148-6)「其方(そのほう)」:室町時代以降の用法。武士や僧が、自分より目下の者に対して用いるやや固い響きの語。おまえ。きさま。

(150-4)「曽(かつ・かっ・かつっ)て」:①ある事実が、今まで一度として存在したことがない、という経験に基づく否定を表わす。今まで一度も。まだ全然。かつてもって。

 ②ある事実が、過去のある時点に存在したことがある、という回想的な肯定を表わす。以前。昔。ある時。③まだ起こらない事について、それは実現しないだろう、また、実現させるべきではない、という否定を表わす。どんな事態になっても。ちょっとでも。

 *テキストでは、①か➂。

 *ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌に

 <(1)「日本書紀」の古訓や訓点本などにみられるが、上代の文献で仮名書きの例は見当たらない。「万葉集」では「都」と「曾」の文字がカツテと読まれている。

(2)「都」は本来、すべての意であるが、打消の語を伴って完全否定のような用いられ方をし、「曾」は以前の意で「嘗」と通用して使われる一方、打消の語とともに用いられて「都」同様、否定の強調に使用される。

(3)この語は平安時代では漢文訓読に用いられ、和文では、「つゆ」が用いられる。カッテと促音に読むのは近世以後のことである。>とある。

(150-4)「無御座候」:「無」が極端に平になっている。また、「御」と接近している。

(150-5)「手合利(てごうり)」:手行李。行李は、携行用収納具の一種。竹・柳・真藤などでつくられ、古代より行われる。大中小さまざまの形態があり、大は衣服入れ、小は弁当行李として利用され、中は越中の薬売や越後の毒消売をはじめ、近世社会の行商人はこれを風呂敷に包んでかついだ。それより少し大きいものは旅人たちの振分荷物を入れるものとして手行李とよばれた。江州水口では小さな精巧な真藤製品がつくられ、同高宮や山城でも同じく真藤製品が名産、但州の豊岡・出石と因州用瀬は柳製品の産地である。現在では兵庫県豊岡市(柳行李)、静岡県御殿場市周辺(竹行李)などで生産されている。

(150-6)「差図(さしず)」:「差図」は、本来は、地図・絵図・設計図をいう。また、建築の簡単な平面図をいう。設計のため、あるいは儀式などの舗設を示すために描いたもの。平安時代の日記類には指図が多く描かれていて、風俗史・住宅史の貴重な史料となっている。なお正倉院蔵の東大寺講堂院の図はこれに類するもので、建築の平面図として最古のものである。

 *テキストでは、物事の方法、順序、配置などを指示すること。指揮すること。また、その指示・指揮。命令。現在では、「指図」が一般的。

 *「差図」の「図」:くずし字では、「囗(くにがまえ)」の縦棒を、最後に、左右に「ヽ」を書く場合がある。


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