森勇二のブログ(古文書学習を中心に)

私は、近世史を学んでいます。古文書解読にも取り組んでいます。いろいろ学んだことをアップしたい思います。このブログは、主として、私が事務局を担当している札幌歴史懇話会の参加者の古文書学習の参考にすることが目的の一つです。

2018年08月

古文書解読学習会

              札幌歴史懇話会主催

 

私たち、札幌歴史懇話会では、古文書の解読・学習と、関連する歴史的背景も学んでいます。

約100名の参加者が楽しく学習しています。古文書を学びたい方、歴史を学びたい方、気

軽においでください。くずし字、変体仮名など、古文書の基礎をはじめ、北海道の歴史や地

理、民俗などを、月1回学習しています。初心者には、親切に対応します。

参加費月350円です。まずは、見学においでください。初回参加者・見学者は資料代60

0円をお願します。おいでくださる方は、資料を準備する都合がありますので、事前に事務

局(森)へ連絡ください。

◎日時:2018年9月10日(月)13時~16時

◎会場:エルプラザ4階大研修室(男女共同参画センター(札幌駅北口 中央区北8西3

◎現在の学習内容

    『町吟味役中日記』・・天保年間の松前藩の町吟味役・奥平勝馬の勤務日記。当時の松前市中と近在の庶民の様子がうかがえて興味深い。

    『蝦夷嶋巡行記』・・寛政10年、幕府の蝦夷地調査隊に参加した幕吏の紀行文。松前より宗谷まで、帰路は石狩川、ユウフツ経由の紀行

 

事務局:森勇二 電話090-8371-8473  moriyuzi@fd6.so-net.ne.jp


8月 町吟味役中日記注記

         

(151-2)「取留(とりとまり・とりとめ)」:しっかりと定まること。まとまり。しまり。とりとめ。多く、否定の語を伴って用いる。

(151-2)「証拠(しょうこ)」:一定の根拠に基づいて、事実を証明すること。証明のよりどころとすること。また、その材料。証明の根拠。あかし。しるし。証左。

 *テキスト影印の「証」は、旧字体の「證」。

①もと「證」と「証」は別字。当用漢字表で「證」の新字体として「証」が選ばれたため、両者の字形の区別がなくなった。

②昭和21年11月の当用漢字表制定当初に、「証」が「證」の新字体として選ばれた。常用漢字表では、いわゆる康煕字典体の活字として「証」の括弧内に「證」が掲げられている。

*「證」の解字は、「言」+「登」。言葉を下から上の者にもうしつげる意味をあらわす。転じて、物事を昭らかにする。

 「証」は、「言」+「正」。言葉で正す、いさめるの意味を表す。

*したがって、事実を明らかにする意味では、「證拠」が本来の意味。「証拠」は、意味が通じない。「證」が「証」に置き換えられたために、本来の意味が不明になった。

(151-3)「片口(かたくち)」:一方の人だけの陳述。片方だけの言い分。または、それだけをとりあげること。

(151-4)「可相分兼候(あいわかりかぬべくそうろう)」:組成は「相分(あいわかり)」+ 

 「兼(か)ぬ」(終止形)+助動詞「可(べし)」の連用形「可(べく)」+動詞「候(そうろう)」。

 *兼ぬ:接尾語ナ行下二段型。動詞の連用形に付く。「思いどおりに実現できない意を表す。…しかねる。…しにくい」の意の動詞をつくる。

 *助動詞「べし」は、動詞の終止形(ラ変動詞は」連体形)に接続する。

(151-6)「不容易(よういならざる)」:「不」の訓に「なら」をおぎなって、「ならず」がある。「ざる」は、文語の打消しの助動詞「ず」の連体形で、動詞および一部の助動詞の未然形に付く。打消しの意を表す。文章語的表現や慣用的表現に用いられる。「準備不足と言わざるを得ない」「たゆまざる努力」など。

  *「回也愚」:[回也(かいや)愚(ぐ)ナラず](『論語 為政』)

   <顔回(回也=孔子の愛弟子)は、おろかではない>

 

 

 

 

 

 

(151-6)「再応」:同じことを繰り返すこと。再度。ふたたび。多く副詞的に用いられる。

(152-1)「厳敷遂吟味候」:「厳しく吟味(を)遂げ候」。「遂」のしんにょうが、「し」のようになっている。

(152-1)「可相果候」:「相・果(はつ)・可(べく)・候(そうろう)」

 *「可(べし)」は動詞の終止形(ラ変動詞は連体形)に接続するので、「果(は)つ」(終止形)で読む。

(152-34)「早急(さっきゅう・そうきゅう)」:「さっ」は「早」の慣用音。非常に急ぐこと。

 *慣用音:呉音、漢音、唐音には属さないが、わが国でひろく一般的に使われている漢字の音。たとえば、「消耗」の「耗(こう)」を「もう」、「運輸」の「輸(しゅ)」を「ゆ」、「堪能」の「堪(かん)」を「たん」、「立案」の「立(りゅう=りふ)」を「りつ」、「雑誌」の「雑(ぞう=ざふ)」を「ざつ」と読むなど。慣用読み。

(152-3~4)「成丈ケ(なるたけ・なるだけ・なりたけ・なりだけ)」:(動詞「なる(成)」にそれ限りの意を表わす副助詞「たけ」が付いてできた語。)できる限り。できるだけ。なるべく。なりたけ。なりったけ。なるったけ。なるべくたけ。なるべきだけ。

(152-4)「手限(てぎり)」:江戸時代、奉行、代官などが上司の指図を得ないで事件を吟味し、判決を下すこと。手限吟味。

(152-4)「仕置(しおき)」:動詞「しおく(仕置)」の連用形の名詞化処罰。処分。成敗。おしおき。

 *ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌には、<この語は、江戸幕府の法令整備(「公事方御定書」など)が進むなかで、権力による支配のための采配の意から刑罰とその執行の意に移行した。文化元年(一八〇四)以降に順次編集された「御仕置例類集」は幕府の刑事判例集の集大成であるが、それに先立って「御仕置裁許帳」が幕府最初のまとまった刑事判例集として、宝永期(一七〇四〜一一)までに成っていたとみられる>とある。

(153-1)「為御含」:「御含(おふくみ)ノ為(ため)」

 *「為」:下に動詞が来る場合、「す」「さす」とその活用。

      下に名詞が来る場合、「ため」「として」「たり」「なる」

(153-2)「可貴意」:「貴意(きい)ヲ得(う)可(べく)」:相手の考えを聞くことを敬っていう語。多く書簡文に用いる。

(153-3)「松前志摩守」:松前章広。安永4730日生まれ。松前道広の長男。寛政4年松前藩主9代となる。ロシア使節ラクスマンやイギリス船の来航などがあり、寛政11年東蝦夷地が,文化4年には全蝦夷地が幕府直轄地となり、章広は陸奥梁川(福島県)9000石に移封された。文政4年松前復帰がかない、5年藩校徽典(きてん)館を創立。天保4925日死去。59歳。初名は敷広。通称は勇之助。

(153-4)「蛎崎四郎左衛門」:松前藩町奉行。

(153-5)「新井田周治」:松前藩町奉行。

(154-6)「鈴木紀三郎」:松前藩町奉行。

(154-1)「津軽左近将監(つがるさこんのしょうげん)」:津軽信順(のぶゆき)。寛政12325日生まれ。津軽寧親(やすちか)の子。文政8)弘前藩藩主津軽家10代となる。藩政にはあまり熱心ではなく、派手ごのみを幕府からとがめられる。天保10年隠居。文久21014日死去。63歳。号は好問斎,如海,瞳山。

 *「将監」:近衛府の第三等官(判官=じょう)。

(154-1)「御内(おんうち)」:「おん」は接頭語。手紙のあて名の下に書きそえることばの一つ。

(155-1)「寅」:天保元年(1830)。

(155-1)「被 仰付(おおせつけられ)」:「被(られ)」と「仰付」の間が一字分空いている。

 尊敬の体裁で、「欠字」という。「仰付」が下接する場合、欠字の体裁をとることが多い。

(155-2)「此節」の「節」:竹冠が小さく、脚部が大きく縦長になっている。

(155-3)「胡乱(うろん)」:(「う」「ろん」ともに「胡」「乱」の唐音)。あやしく疑わしいこと。

 *ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌には、<(1)「正法眼蔵」や、五山僧の「了幻集」に見えること、また唐音で読まれることからも、禅宗によって伝えられた語と見られる。中国でも「碧巖録」など禅籍に見えるが、禅宗用語というわけではなく、「朱子全書」等、宋代以後の様々な文献にも見える。

(2)「胡」も「乱」も「みだれたさま」を表わし、「胡─乱─」の形でも「胡説乱道」「胡言乱語」「胡思乱想」などが見え、「胡」と「乱」がほぼ同じ意味で使われていることがうかがえる。語の意味も、中国では(1)の意味であったが、日本では(2)の意味をも派生し、後にはこちらの意味の方が多用されることとなった。>とある。

*「胡」は、でたらめの意。また胡(えびす)が中国を乱したとき、住民があわてふためいて逃れたところからという説もある。

(155-4及び8)「候」:「候」が「ヽ()」にように、極端なくずしになっている。

(155-4)「先年」の「年」:最終画の縦棒をまるく跳ね上げて、円のようになる。

(155-4)「訳合(わけあい)」:ことの筋道。理由や事情。

(155-6)「頭取(とうどり)」:松前藩町奉行配下の町方の頭取。

 *「頭取」:元来は、音頭を取る人。音頭取。雅楽の合奏で、各楽器特に、管楽器の首席演奏者。音頭(おんどう)が原意。転じて、一般に頭(かしら)だつ人の意になった。

(155-7)「不埒(ふらち)」:法にはずれていること。けしからぬこと。また、そのさま。ふつごう。ふとどき。不法。

 *「埒(らち)」:馬場の周囲に設けた柵(さく)。古くは高く作った左側を雄埒、低く作った右側を雌埒といい、現在は内側のものを内埒、外側のものを外埒という。

*「埒外」(かこいのそと。転じて一定の範囲の外)

*「埒が明く」:物事がはかどる。てきぱきと事がはこぶ。きまりがつく。かたづく。「埒が明かない」はその逆。語源説に、(1)奈良・春日大社の祭礼で、一夜、神輿の回りに埒を作っておき、翌朝、金春太夫がそれをあけて祝言を読む行事から。(2)賀茂の競馬の時に埒を結ぶところから。

(155-8)「唐津内沢町」:現松前郡松前町字唐津・字西館・字愛宕など。近世から明治三三年(一九〇〇)まで存続した町。近世は松前城下の一町。唐津内沢川沿いの町。松浦武四郎は「小商人、番人、水主、船方等多く住す。此流れの向に新井田嘉藤太此処へ被下ニ相成屋敷有。水車有」と記しており(「蝦夷日誌」一編)、船乗りが多かったことがわかる。

(155-8)「御慈悲(ごじひ)」:「慈悲」は、仏語。「慈」は{梵}maitr 、「悲」は{梵}karuna の訳語。衆生をいつくしみ、楽を与える慈と、衆生をあわれんで、苦を除く悲。喜びを与え、苦しみを除くこと。テキストでは、あわれんでなさけをかけること。また、「お慈悲でございますから」などの形で、あわれみを請う意の慣用表現としても用いる。

(156-1)「願書(ねがいがき)」:願いごとを記した書き付け、手紙。

(156-2)「風邪(ふうじゃ・かぜ)」:ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌には、<(1)中国古代の「風」は、大気の物理的な動きとともに、肉体に何らかの影響を与える原因としての大気、またその影響を受けたものとしての肉体の状態を意味した。日本での「かぜ」はもともと大気の動きであるが、「感冒」の意の「かぜ」は、平安時代初期から見られ、おそらくは中国語の「風」の移入か。

(2)感冒が「風」の影響を受けるとすることは、「風を引く」の例でわかるが、その症状は必ずしも感冒には限らず、腹の病気や慢性の神経性疾患などを表わしていたことが、「竹取物語」や「栄花物語」などの例でわかる。また、身体以外に、茶や薬などが空気にふれて損じ、効き目を失うことを「カゼヒク」といったことが、「日葡辞書」から知られる。

(3)「風邪」は、漢籍では病気名とは言えず、「日葡辞書」でも「Fûja (フウジャ)」は「ヨコシマノ カゼ」で、身体に影響する「悪い風」とされている。近世では、「風邪」は一般に「ふうじゃ」と読まれ、感冒をさすようになった。病気の「かぜ」に「風邪」を当てることが一般的になったのは明治以降のことである。>とある。

(156-3)「西舘町(にしだてまち)」:現松前郡松前町字西館・字唐津・字愛宕。近世から明治三三年(一九〇〇)まで存続した町。近世は松前城下の一町。福山城の西、小松前川と唐津内沢川に挟まれた台地一帯、唐津内町の背後(北側)にあたる。

(156-4)「当時(とうじ)」:現代では、「その時。その頃。その昔」の意に用いるが、古文書では、「ただいま。現在。現今。今日(こんにち)」の意味になる場合が多い。

 (156-4)「ケシヨウ川」:現在の化粧川は、松前町建石地区を流れる普通河川。光明寺の奥が水源で、国道228号線に架かる大磯橋付近で日本海に注ぐ。

(156-6)「惣社堂」:松前郡松前町字建石・字弁天。近世から明治三三年(一九〇〇)まで存続した町。近世は松前城下の一町。松前城下の最も西に位置する町。東は生符いけつぷ町。

(156-9)「臥居(ふしおり)」:「臥」の偏の「臣」は「石」のように見え、旁の「人」は「ト」のように見える。

(156-10)「風呂敷」:物を包むための正方形の絹または木綿の布。正倉院の宝物にも、崑崙裹(こんろんのつつみ)といって、号楽の装束を包んだ、表は黄あしぎぬ、裏は白のあしぎぬの袷の風呂敷がある。古くは平包とか平油単と呼ばれていた。風呂敷と呼ばれるようになったのは銭湯の発達に伴うもので、手拭い、その他入浴に必要な品を包んで行き、入浴する時は脱衣などを包んでおき、帰りには濡れたものを包んで持ち帰ったところからきている。中世までは入浴に際し、男性は湯褌、女性は湯巻といって、入浴専用の褌と腰巻につけ替えて入り、湯から上がる時はこれを専用の下盥で洗って帰ったためである。このため、他人のものと間違えないように家紋や屋号を染め抜いて用いた。しかし江戸時代中期ごろには湯褌や湯巻を用いる習慣がなくなると同時に、脱衣籠や棚が出現したため、本来の風呂敷としての必要性は少なくなり、平包が風呂敷と同型のため、もっぱら平包を風呂敷と呼ぶようになった。荷物の持ち運びから商人の商品の運搬、旅行具にもなった。また蒲団などの収納具としても重宝されてきた。その他、江戸時代には頭巾にも用いられた。御高祖(おこそ)頭巾とか風呂敷ぼっちといってもっぱら女性が用いたが、この場合は表が黒や紫のちりめん、裏に紅絹(もみ)をつけたり、浅葱木綿でつくったりした。風呂敷の代表柄である唐草模様は、江戸時代の更紗の流行以後、寿柄として伝えられている。(ジャパンナレッジ版『国史大辞典』より)

『蝦夷嶋巡行記』8月学習分注記

 7月学習分の注記の追加

(30-4)「ゆりきうたの崎」・・武四郎『廻浦日記』に、関内を過ぎて、「スナカイトリマ」と「ウスベツ」の間に「ヨリキウタ」があり、「少しの浜 漁小屋一軒有」とある。現せたな町の「ヨリキ岬」か。

(30-4)「ほろ嶋」・・武四郎『廻浦日記』には、「コウタ」(現せたな町の小歌岬)を過ぎて「ホロシュマ 小岬なり」とある。

 

8月学習注記

(32-1・2・4)「見ゆる」・・自動詞ヤ行下二段。活用形は、え(未然)・え(連用)・ゆ(終止)・ゆる(連体)・ゆれ(已然)・えよ(命令)。

 *1行目は、「見ゆる石」で、「見ゆる」は「石」にかかる連体形。

 *2・4行目は、「見ゆる。」で、感情や余情を含んで終止する「連帯止め」。本来は終止形の「見ゆ」。

(32-1)「水(み、みず)ぎわ」・・「幾」は「き(ぎ)」、「王」は「わ」の変体仮名。水際のこと。

 *「王」は、変体かなで「わ」の字源。旧仮名遣いでは「ワウ」。中国音で[wáng]。日本の発音では「ワン」に近い。

 *「王仁」は、「ワニ」と呼ぶ。応神天皇のとき、百済から呼びよせたとされる渡来人。「古事記」に「論語」をもたらしたとある。

 *「王」(4画)の部首は「玉」部(5画)で、部首より画数が少ない。

(32-2)「工(たくみ)」・・匠。「石工(いしく、せっこう)」のことか。

 *「工」を「ク」と読むのは、呉音。大工(だいく)、金工(きんく)など。

(32-2)「奥尻嶋」・・桧山地方の西方に位置し、日本海に浮かぶ離島。東西11㎞、南北27㎞、周囲84㎞。「奥尻」は、アイヌ語の「イクシュンシリ(向の島)」が転訛したもの。元禄13(1700)の「松前島郷帳」に「おこしり島」、「天保郷帳」に、江差村持場之内ヲコシリとの記載がある。アイヌに命じて捕獲したオットセイの皮などは、幕府の献上品として重要視された。後、文久元年(1861)建網が導入され、春の鰊、夏の長崎俵物の生産場所に移っていった。

(32-2・3)「かいとりま」・・漢字表記名「貝取間」。昭和30年まで貝取澗村として存在。昭和30年、久遠村と貝取澗村が合併し、「大成町」となった。『北海道市町村行政区画便覧』によると、「旧貝取澗村は、文化年間に初めて乙部村の来住者をみてより、その後、慶応年間に至り東北地方より二十数戸の移住者がり戸口が増加するに至った」とある。『廻浦日記』には、「カイトリマヘツ(一名石カイトリマヘツ)」とある。

(32-3)「沙取間」・・『廻浦日記』には、「スナカイトリマ」とある。

(32-4)「鰊猟(にしんりょう)」・・「鰊」の旁は「東」でなく、「柬」。なお、中国では「鰊(レン)」は、「小魚」をいい、「ニシン」は「鯖」と書く。

(32-5)「松前」・・「松」は、「木」+「公」を上下に書いた異体字。

(32-5)「家也」・・「也」は、ひらがな「や」の字源。古文書にある「や」は、変体かなの「や」か、「也(なり)」と読む漢字かを、文意で判断する必要がある。テキストでは、「なり」と読み、「也」と翻刻する。

(32-6)「ウスベチ」・・「ウスベツ」とも。漢字表記地名「臼別」。江戸期、クドウ一円は、「ウスベツ」とも称され、場所名もウスベツ場所と呼ばれることもあった。

『廻浦日記』には、「ウシベツ」とあり、「本名ウスベツなるべし。夷人は、ウシベと云。川巾凡三十間余。小石川にて浅し。秋は鮭少し上るよし也。川中蒲柳おおしと。」とある。

(33-1)「小河しり」・・「しり」は、「尻、臀、後」で、最後の部分。後尾。しまい。

 本書では、「クドウ」の地名の由来を「小河じり」としているが、その由来は、諸説があり、以下、参考まで記す。

 1.上原熊次郎地名考

  夷語クントゥなり。弓を置く崎ということ。Ku-un-tu(仕掛け弓・ある・山崎)の意。市街の東側の稲穂崎のことである。

 2.松浦武四郎説。

   『再航蝦夷日誌』では、この岬を「本名クント(?)エトと云よし。クンは 黒し、エトは岬。也黒サキと云こと也」とする。

②『西蝦夷日誌』では、「グウンゾウにて、弓形に入り込んだ処のある岬」として、「弓・   の・山崎」と読んだものらしい。

3. 永田方正説

 ①元名「クンルー」(kun-ru)。危路の意。久遠村の岬端崩壊して、通路危険なるに名づく。

 ②アイヌが「クンルー」と発音するや殆ど「グンヅー」と聞ゆるを以て、和人      誤聞して「クドウ」と呼ぶ。旧地名解に弓を置く岬と訳し、松浦日誌に弓形と訳したるは、誤聞によりて誤訳したるなり。

或人云う、久遠の原名は、「アナクド」なりと。これは、俚人の妄想に係るのみ。     更科源三、山田秀三両氏とも、どちらが正しいか、急には決めることが出来ない

というスタンスといえる。          

(33-1・2)「ゆのしり」・・『廻浦日記』には、「ニヨシリナイ、訛てユノシリ川と云。」として、「ユノシリ」の名が見える。

(33-2)「運上屋(うんじょうや)」・・江戸期、場所請負人が、場所経営の拠点として現地に設けたのが運上屋(家)。第一次幕領期に、東蝦夷地が幕府の直営になったとき、「運上屋」は、「会所」に改められたが、西蝦夷地では、幕領となった後も場所請負制度が続けられたため、「運上屋」の名称は変更されなかった。なお、松前藩の復領後も、東蝦夷地では「会所」、西蝦夷地では「運上屋」の名称が継続された。

(33-4)「拝礼(はいれい)」・・頭を下げて、礼をすること。拝むこと。

(33-5~34-2)・・この儀式を「ヤンカブチ」という。

(33-5)「あくらをかき」・・「あくら」は、「胡座(あぐら)」で、「かき」は、「掛く、懸く、繫く」の連用形。両ひざを左右に開き、両足首を組み合わせて座る座り方をすること。

(33-6)「あげて」・・「阿(あ)」・「希(け・げ)」・「天(て)」。

 *「希」は、変体かなで「き」の字源。「希」の呉音が「け」。「希有(けう)」など。「き」は漢音。

(33-6)「いたヾく」・・「頂く、戴く」で、頭の上にのせてもつこと。

(34-1)「ひげを」・・「飛(ひ)」・「希(け・げ)」・「越(を)」

(34-2)「つゝしみたる容貌(ようぼう)」・・「津」は「つ」、「三」は「み」、「多」は「た」。影印の「兒」は、「貌」の異体字。常用漢字は、「貌」。

(34-2)「酋長(しゅうちょう)」・・かしら。特に未開人の部族のかしら。酋領。なお、「酋長」は、差別用語として、放送禁止用語に指定され、「首長」と訂正されている。

(34-2)「乙名(おとな)」・・一族の長。家長。中世末期、村落の代表者を指した。近世、蝦夷地において、請負場所内の各集落(コタン)の長を乙名と呼称した。なお、各コタンには、乙名のほか、脇乙名、小使と称する役蝦夷(役土人)がいた。後、安政3(1856)には、場所全体を統括する惣乙名を庄屋、惣脇乙名を惣名主、各コタンの乙名は名主と呼称が改められた。

(34-3)「耳かね」・・「耳金(みみがね)」で、耳たぶにつける金属製の装飾品。

(34-3)「耳かねをはめ」・・「耳」「可(か)」・「ね(年)」・「越(を)」・「者(は)」・「女(め)」。

(34-3)「黒羽二重(くろはぶたえ)」・・黒色の紋付などの礼装用の和服地。羽二重は、たて糸に撚りをかけない生糸を用いて平織りにした、あと練りの絹織物。柔らかく上品な光沢がある。

(34-3)「立葵(たちあおい)」・・アオイ科の越年草、延齢草の別名。茎のある葵の葉三つを杉形(すぎなり)に立てた形の紋所の名。

(34-4)「ぬふたる」・・影印は、「ぬ(縫)ふ」+「たる」となっているが、「縫ふ」の連用形は「縫(ぬ)ひ」で、活用からは、「ぬ(縫)ひたる」となるか。

(34-4)「単物(ひとえもの)」・・裏を付けないで仕立てた衣類の総称。特に、裏を付けない長着をいう。

(34-5)「黒紗綾(くろさや)」・・平織り地に四枚綾で稲妻や菱垣(ひしがき)などの文様を織り出した光沢のある黒色の絹織物。

(34-5)「しめたり」・・締めたり。「女」は「め」、「多」は「た」。

(34-6)「結たれは」・・影印の字形は「詰」にみえるが、文意から、「結」で「結(むすび)たれば」か。

(34-6)「惣髪(そうはつ)」・・男子の結髪の一つ。月代(さかやき)を剃らず、伸ばした髪の毛全部を頭頂で束ねて結ったり、または、束ねたり剃ったりしないで、髪を全部後ろへなでつけて垂下げたもの。

(35-2)「あつゝし」・・「あっし」とも。ここでは、オヒョウの靭皮の繊維を細かく裂き、糸にして織った布。またその布で作られたアイヌの服。

(35-3)「きれはち」・・「幾」は「き」、「連」は「れ」、「者」は「は」、「知」は「ち」で、「切れ端(きれはじ・きれはし)」のことか。

(35-3)「唐草様の形」・・唐草は、ウマゴヤシの別名。「唐草模様」のこと。つる草が絡み合う様を図案化した装飾模様のこと。日本では中国からの伝来といわれるが、古くから世界各地で用いられ、アラベスク(イスラム美術の装飾文様)もその一種。

(35-4)「筒袖の半てん」・・「筒袖(つつそで、つつっぽ)」和服で袂の部分がない筒型の袖の形をした、羽織に似た丈の短い上着。「半てん」は、「半纏、袢纏」。

(35-5)「呼給(よびたま)ひて」・・ここでの「給ふ」は、動作の主体(呼ぶ人)に対する尊敬を表す意で用いられており、「お呼びになられる」の意。

(35-6)「給(たまは)り」・・ここでの「給ふ」は、「与える」の尊敬語として用いられ、「お与えになる」の意。

(36-1)「釘」・・影印の字形は、「釘(くぎ)」に見えるが、前後の文意から、「針(はり)」の意。

(36-1)「賜(たま)ふ」・・「与ふ」、「授く」、「やる」などの尊敬語。

(36-2)「一覧(いちらん)」・・一通りざっと目を通すこと。

 *「覧」・・冠部左の「臣」が、大きく独立し、旁のように見え、脚部の「見」は、旁に見える場合がある。

(36-2割注左)「筆紙」・・筆と紙。文章に書き表すこと。用例として、「筆紙に尽くし難い」がよく使われる。

(36-3)「拝(はい)す」・・頭を深くたれて、敬礼する。

(36-3)「尋(たづぬ)る」・・「尋ぬ」の連体形。事情を問いただす。質問する。

(36-4)「掛刀」・・松浦武四郎の『蝦夷漫画』に描かれている「たん子ぷ、太刀のこと」か。   

(36-4)「弓箭󠄀(きゅうぜん・きゅうせん・ゆみや)」・・弓矢。

(36-5)「見ん事」・・「ん」は、文語助動詞「む」の転化したもの。「む」は、助動詞で、話し手自身の意志や決意を表し、「~するつもりだ。」、「~するようにしたい。」。

(36-5)「乞(こふ・こう)」・・人にあることを求める。

(36-5)「日本語(にほんご)」・・日本の言葉、言語。

(36-5)「悉(ことごとく)」・・のこらず。みな。

(36-6)「一二(いちに」・・一つ、二つ。若干。

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