森勇二のブログ(古文書学習を中心に)

私は、近世史を学んでいます。古文書解読にも取り組んでいます。いろいろ学んだことをアップしたい思います。このブログは、主として、私が事務局を担当している札幌歴史懇話会の参加者の古文書学習の参考にすることが目的の一つです。

2018年09月

9月例会は、予定通り実施します。

地震、大丈夫でしたか。
エルプラザが明日、9日から通常通り営業します。
したがいまして、札幌歴史懇話会の9月例会は、9月10日(月)13:00から予定通り実施します。

よろしくお願いします。

『蝦夷嶋巡行記』9月学習分注記 

『蝦夷嶋巡行記』9月学習分注記           

(37-1)「守(まもり)之やくにたつ物」・・「耳」は「に」、「多」は「た」、「川」は「つ」。「守之役にたつ物」とは、防御の役に立つ物(刀)の意。

(37-1割注右)「かんしやり〔カサリ〕」・・飾り。ルビは「カサリ」。「志」は「し」。

(37-1割注右)「ふとくり也」・・刀剣の本数を数える際にもちいる「一振り」か。「婦」は「ふ」。ルビは、「ヒト・フリ」。「ト」と「フ」間の点は中黒の「・」か。

(37-1割注右)「くしや」・・「草」のこと。ルビは、「クサ」。

(37-1割注右)「きれしない」・・「幾」は「き」、「連」は「れ」。「切れない」こと。

(37-1割注左)「ぬきはなし」・・「怒」は「ぬ」、「幾」は「き」、「者」は「は」、「奈」は「な」。「抜き放す」のこと。

(37-1割注左)「見する」・・「春」は「す」。「見せる」こと。

(37-1割注左)「鈍刀(どんとう、なまくらがたな)の赤鰯(あかいわし)」・・「赤鰯」は、赤くさびた刀をあざっけていう言葉。「鈍刀=なまくら刀」を強調して言う。

(37-1割注左)読み方①「いちんまい(く=繰り返し記号・いちんまい=」・・「一枚一枚」。「いちんまい」の「ん」は、語中または助動詞に続く場合に挿入されて語調を強めるために用いられる。ただ、本書は、矢のことを述べているので、ここでは、「一本一本」の意として用いたか。ルビは「イチル」か、または「イチン」か。

 *読み方②「まいまい毒」・・マイマイカブリの毒のことか。

(37-2割注右)「烏頭(うず・とりかぶと)」・・トリカブトの根。有毒でアコニチンを含有。「鳥兜」「鳥冠」「附子(ぶし)」とも。トリカブトの分布は、本州中部以北に多く生息し、また北海道の山野に自生する多年草。トリカブトは、全草が有毒であり、特に地下の根の部分は毒性が強く、アイヌの人々は、毒性の強いオクトリカブトとトウガラシを微妙に調合し、十勝石の矢じりに矢毒を塗り、熊などを捕獲する術とした。

(37-2)「口(くち)蝦夷」・・吉田東伍著『大日本地名辞書』所収の『蝦夷草紙』(最上徳内著)には、「松前所在島、一国の内、地方を考ふるに、其形親疎の二儀あり、~略~、依て口蝦夷(クチエゾ)と奥蝦夷とを弁ふべし。~略~、口蝦夷とは、東海岸に於て勇払以南を指し、西岸には石狩以南に汎称したり。」とある。

(37-4)「甲斐(かい)なき」・・「甲斐ない」は、ききめがない。努力してもそれだけの結果が得られない。むだ。ふがいない。

(37-5)「好めは」・・「盤」は「は」。「好む」の已然形+接続助詞の「ば(逆接の確定条件。「~のに」の意)」。「注文したのに」、「望んだのに」の意。

 

 

 

 

 

(37-6)「海中を望」の「望」・・「望」は決まり字。

 *「臨はそのような姿勢で下界に臨むことをいう。下界よりして高く遠く望むことを望という。」(『ジャパンナレッジ版字通』)

(37-6)「頓而(やがて)」・・そのまま。すぐに。ただちに。

(38-1)「引きしほり切て」・・「志」は「し」、「保」は「ほ」。「引き絞る」の連用形+「切る」の連用形。「切る」は、動詞の連用形について、最後まで~する。~し終えるなどの意を表す。「引きしぼり(絞り)切(きり)て」は、「(矢を弓につがえて、弦を)ぎりぎりまで引いて」の意。

(38-1)「たかわす」・・「太」は「た」、「可」は「か」、「王」は「わ」。「違わず」。

(38-2)「内外(うちそと、ないがい)」・・その程度の数量であることを示す。「十間之内外」は、十間(18.2㍍)程度。

(38-2.3)「ふみつめて」・・「婦」は「ふ」、「三」は「み」、「徒」は「つ」、「女」はめ」。「踏み詰めて」は、相手を窮地に追い詰めること。

(38-4)「運上屋え帰る」・・「え」は「衣」の変体仮名。

(38-4)「蚤(のみ)」・・隠翅目に属する昆虫の総称。

(38-5)「蚊(か)」・・双翅目カ科の昆虫の総称。

(38-5)「昼(ひる)」・・「蛭」か。蛭は、ヒル綱に属する環形動物の総称。

(38-5)「虻(あぶ)」・・双翅目アブ科の昆虫の総称。同字に「蝱」がある。

(38-5)「足たか蜘蛛」・・クモの一種。体長は、雄は25㎜内外、雌は30㎜内外。体は、灰褐色で脚が長く、伸ばすと10cm位になる。

(38-5)「げぢげぢ」・・「げじげじ」。「ゲジ」の俗称。「蚰蜒(げじ)」は、ゲジ目の節足動物の総称。体は、短棒状で2~7cm。青藍色ないし黒褐色で、15対の細長い足がある。

(38-5.6)「挟虫(はさみむし)」・・「鋏虫」か。「鋏虫」は、革翅目に属する昆虫の一種。体長20㎜内外。尾端にはさみがあり、ごみや枯葉の下にすむ。

(38-6)「座中(ざちゅう)」・・集まった人々の中。

(38-6)「遥(さまよい)まはり」・・「さまよい(彷徨い)廻る」で、うろうろ歩きまわるの意。

 *「遥」に「さまよう」の訓があり、「うろうろする」「そぞろ歩く」の意にもなる。

(39-3)「そびえ」・・「楚」は「そ」、「飛」は「ひ」、「衣」は「え」。「聳え」。

(39-3)「水の色」の「色」・・決まり字。

(39-3)「藍(あい)」・・「藍色」のことで、暗い青色。

(39-4)「ホクシ」・・『東西蝦夷地山川取調図』には「ホクシ」、『廻浦日記』には、「(中ホウシ)~並て岬を廻り、ホウ(ク)シ」とあり、国土地理院の20万分の1の地図には、「帆越岬」の名が見える。

(39-4)「中ホクシ」・・『廻浦日記』には、「此処を当時境目とす(是よりフトロ境目也)。其名ホウシはホヲロシの訛にて、通行の船々此処にて帆を卸て霊を拝する故に号しものかと思はる。」とある。なお、永田方正の『北海道蝦夷語地名解』には、「ポロポクウシ、大蔭大崖の下と云う義なり。」とある。

(39-5)「大田山」・・久遠郡せたな町字太田にある太田神社。太田山(四八五メートル)の西麓に鎮座。旧郷社。祭神猿田彦神。近世以来日本海を望む断崖絶壁にそびえる太田山は神の宿る山として信仰され、山上に大日如来など仏像が安置され、太田山権現とも称された。明治初期の神仏分離により仏像・仏具を廃して猿田彦神を祀り現社号に改称した。

勧請は嘉吉元年(1441)から同四三年頃と伝え、享徳3(1454)松前家始祖武田信広が太田に上陸し、太田山権現の号を与えたというが不詳(大成町史)。近世前期から道南の霊場として信仰を集め「北海随筆」に「西は太田山、東は臼ケ嶽とて信心の者は参詣するなり」と記される。「東遊記」に「ヲヽタという所に大日如来立せ給ふ。(中略)円空法師と言人、この所へ来りて仏像を多く彫刻し、みづから険阻をふみわけて所々に安置」したと記される。「西蝦夷地場所地名等控」には「ヲヽタ山大権現太田山之嶺ヨリ下ニ在。此所迄日本回国之者并ニ男女共世人共為菩提参詣仕候。至而嶮岨成山ニ御座候」とある。文政元年(1818)洞窟内に祠を建て不動明王を安置、天保5(1834)大日堂建立(大成町史)。松浦武四郎は帆越ほこし岬を通る船はみな「大田山(権現)を拝す。又夷人は此処にて必ヱナヲを海中ニ投じて大田山を拝し、海上安全を祈る」と記し(「蝦夷日誌」二編)、安政3(1856)当地を訪れ岩壁の下から鉄鎖で「攀る事十余尋、洞口に到(中略)架中に半鐘・仏具を置く。俯見白波撃崖(中略)偏に登仙の思をなし」たこと、僧宗倹がヒカタトマリに太田山参詣者のため拝殿(籠堂)を建て、また新道を開削していたこと、太田山の神は笛・太鼓・三絃などを好むこと、鳴物を宝前に納め順風を請うと霊験著しいとされたことを記している(廻浦日記)。大漁と航海の安全を祈って信仰されていた(板本「西蝦夷日誌」)。

明治27(1894)拝殿を改築し、社務所を新築したが、大正10年(1921)洞窟内を焼失。しかし同年中に再建し女人遥拝堂を新築。現在例大祭は六月二七・二八日に大漁と海の安全を祈り行われている。

(39-5)「仰望(あおぎのぞむ)」・・仰ぎ見る。頭を上げて遠くから見る。「仰ぐ」+「望む」の連語。転じて「より高いものを願い求める」「尊敬する」「うやまいしたう」の意にも。

 

 *仰望(ぎょうぼう)

  妻~曰、良人者、所仰望而終身也。今若此。(孟子『離婁(りろう)下』)

  [妻~曰く、良人なるは、仰して身をるのものなり。今此(かく)の(ごと)しと。]

  **離婁(りろう)・・中国の古伝説上の人。視力がすぐれ、百歩離れた所からでも毛の先がよく見えたという。

(39-5)「さかしき」・・「佐」は「さ」、「可」は「か」、「之」は「し」、「幾」は「き」。「嶮・険(さが)し」の連体形で、「けわしい」こと。

(39-6)「厳石(いわお・がんせき)」・・岩石。

(40-1)「六十六部(ろくじゅうろくぶ)」・・江戸時代、諸国の寺社を参詣する巡礼又は遊行する者。

(40-1)「ちなみ」・・「因む」の連用形。関係を頼って物事を行うこと。縁につながること。

(40-2)「むゐの嶋」・・「ムイレトマリ」、「ウートマリないしモエレトマリ」の辺か。『廻浦日記』には「ムイレトマリ、人間にて鵜のトマリ云。此辺より人家有。此前海中に大岩三ツ有よって号なるべし。」とあり、また、『東西蝦夷地山川取調図』には、「ウートマリ、モエレトマリ」の名が見える。

(40-4割注右)「むゐ」・・アイヌ語研究者の多くは、「ムイ(mui)」を「箕(み)」としているが、萱野茂は、「①箕、②オオバヒザラガイ」、永田方正は、「①湾、②箕、③塞ル、④鮑肉の如くして貝殻なきもの(ヒザラガイ)」、上原熊次郎は、「①鮑肉の如く貝なし、②オオバヒザラガイ」と、魚介類の「オオバヒザラガイ=軟体動物多板綱ケハダヒザラガイ科」とするものがある。しかし、本書の如く「海鼠(なまこ)」、「海鞘(ほや)」などとするものはない。

(40-4割注左)「なまこ」・・「海鼠」。ナマコ綱棘皮動物の総称。アイヌ語では、「uta(ウタ)」。『松前・蝦夷地納経日記』や萱野茂の『アイヌ語辞典』、知里真志保の『分類アイヌ語辞典(動物編)』にある。ナマコの干物(煎海鼠―いりこ)は、俵物三品(煎海鼠、干鮑、鱶鰭)の一つとして、近世、長崎貿易の輸出産品。

(40-5割注右)「ほや」・・「海鞘」、「老海鼠」。海鞘綱の原索動物の総称。青島俊蔵の『蝦夷拾遺』には、「uyaka(ウヤカ)」、上原熊次郎の『藻汐草』には「①tabibi(たびび)、②totui(トツイ)」とある。

(41-1)「フトロ」・・現せたな町北桧山区太櫓。町の南西部。近世、寛政9(1797)まで場所の運上屋はキリキリにあったが、フトロに移転している。したがって、本書時(寛政10年)は、フトロに移転したばかりの時。『廻浦日記』には、「キリキリ、此処フトロの運上屋元也。フトロと云は是より七八丁北なる川端の砂浜を云也。」とある。

 

 

 

(41-2)「シヤム」・・「シサム(sisamu)」、「シシヤム(sisyamu)」、「シャモ(syamo)」か。

     以下、アイヌ語研究者の諸説を列挙する。

     田村すず子:シサム(sisam)~日本人(和人)沙流方言

     神保小虎:シサム(sisamu)又はシサム・シャモ(syamo)~和人

     中川 裕:シサム(sisamu)~和人

     大須賀るえ子:シサム(sisam)又はシャモ(syamo)~和人。シャモは和人への蔑視語。白老方言

萱野 茂:シサム(sisam)~①和人、②日本の

ジョン・バチラー:シサム(sisam)~①日本人、②外国人

永田方正:シシャム(sisyam)~①日本人、②和人

上原熊次郎:シシャム(-)~①人、②和人、③日本の(シサム)

(41-3割注右)「かく」・・「斯く」で副詞。このように、このとおりの意。

(41-4)「一眉」・・左右の眉毛が、一文字に繫がっている状態。

(41-5)「吃(きつ)」・・「喫」の当て字か。

 


9月 町吟味役中日記注記

                                    

(157-1)「嶋袷(しまあわせ)」:縞袷。二種以上の色糸を用いて、たて、またはよこ、またはたてよこに筋を織りだした織物。また、それに似た模様。筋の現われ方によって縦縞、横縞、格子縞に大別される。「嶋(島・縞)」の語源説に「南洋諸島から渡って来た物であるところから、シマモノ(島物)の略」がある。

(157-2)「飯鉢(めしばち)」:飯を入れる木製の器。めしびつ。

(157-3)而巳(のみ)」:漢文訓読の助辞。文末に置かれて限定・強意の語気を表す。~だけである。~にすぎない。 

 *夫子之道、忠怨而巳矣 (『論語 里仁』)

  [夫子(フウシ)の道は、忠怨(チュウジョ)のみ。]

  (先生の説かれる道は、まごころのこもった思いやり、ただそれだけである)

(157-5)「前書」の「書」:決まり字。脚部の「日(ひらび)」が省略されている。

 *「書」の部首は「曰(いわく・ひらび)」部。「ひらび」は、平たい「日の字」の意。

  曲、更、曽、曹、最、替など。

(163-5)「小平沢町」:現檜山郡江差町字陣屋町など。近世から明治33年(1900)まで存続した町。寺小屋町・碇町の北、中茂尻町の東に位置し、東は山地。横巷十九町の一(「蝦夷日誌」二編)。「西蝦夷地場所地名等控」に江差村の町々の一として小平沢町がみえる。文化4年(1807)の江差図(京都大学文学部蔵)では、寺小屋町と中茂尻町の間の小川の上流沢地が「小平治沢」となっている。同年に松前藩領から幕府領になった際、弘前藩の陣屋が設けられた(江差町史)。

(158-1)「最前(さいぜん)」:さきほど。さっき。いましがた。先刻。多く副詞的に用いる。

 *「最前」を「いやさき」と読めば、「最もさき。いちばんさき。」

 *「最前」の「最」は決まり字。

(158-1)「砌(みぎり)」:「水限(みぎり)」の意で、雨滴の落ちるきわ、また、そこを限るところからという。本来は、軒下などの雨滴を受けるために石や敷瓦を敷いた所。転じて、庭。さらに、あることの行なわれる、または存在する時。そのころ。

 「いぬき」と読めば、階下のいしだたみ。

*万葉集〔8C後〕一三・三三二四「九月(ながつき)の 時雨の秋は 大殿の 砌(みぎり)しみみに 露負ひて〈作者未詳〉」

 *ジャパンナレッジ版『字通』には、<〔説文新附〕九下に「階の甃(いしだたみ)なり」とあり、階下のしき瓦を敷いたところをいう。もと切石を敷いたものであろう。>とある。

(158-4)「出訴(しゅっそ)」:訴え出ること。提訴。

(158-5)「始末吟味(しまつぎんみ)」:事の初めから問いただすこと。「始末」は、始めから終わりまで。

(158-6)「利解(りかい)」:理解。

(159-6)「内済(ないさい)」:表向きにしないで、内々で事をすますこと。また特に、江戸時代、もめごとを裁判沙汰にしないで、隣村役人などの斡旋で話し合いにより事件を和解させること。和談。和融。

(160-4)「噺」:国字。『新漢語林』の解字には「口+新。耳新しいことを話す意」とある。

(160-5)「相談」の「談」:旁の「炎」の脚部は繰り返し記号の「ゝ」「々」のように省略される場合がある。

 *参考「渋」:

  ・昭和21年当用漢字表で「澁」が選ばれた。

  ・昭和24年当用漢字字体表で「渋」に字体整理された。

  ・現行常用漢字表ではいわゆる『康煕字典』体の活字として括弧内に「澁」が掲げられている。

  ・「澁」は、昭和56年に人名漢字許容字体となった。

  ・「澁」は、平成16年に人名漢字に追加された。

(162-35)「南部」の「部」:旁の「阝(おおざと)」のみに略され、さらに「P」「ア」のように見える場合ある。

(162-5)「花輪村」:現秋田県鹿野市花輪。鹿角盆地中央部、東西から山地が迫り盆地が狭まる所に位置。近世には盛岡藩花輪通の中心として、花輪館を中心に町並ができた。

(162-7)「鯵ヶ沢」: 津軽半島の西側基部、青森県西津軽郡にある町。地名の初見は天文5年(1536)であるが南北朝時代以前から部落が形成されていたことが部落内に散在する板碑によって知られる。赤石川上流四キロにある種里部落は弘前藩祖大浦光信入部の地である。江戸時代には弘前藩九浦の一つとして、町奉行がおかれ、東の青森に対し西の大港と称されて、大坂・蝦夷方面との交易が盛んであり漁港としても栄えた。

(163-2)「大沢村」:現松前郡松前町字大沢。近世から明治2年(1869)まで存続した村。近世は東在城下付の一村で、大沢川河口域に位置する。「福山秘府」や「松前年々記」などによれば、元和3年(1617)には大沢川で砂金が発見され、この砂金掘りには迫害を逃れたキリシタンが入っていた。寛永16年(1639)には「於本藩東部大沢亦刎首其宗徒男女都五十人也」(和田本「福山秘府」)とあるように、キリシタン弾圧の舞台となった。

(163-2)「宮ノ哥(みやのうた)村」:宮の歌村。現松前郡福島町字宮歌(みやうた)。近世から明治39年(1909)まで存続した村。近世は東在の一村で、宮歌川の流域に位置し、北方は白符(しらふ)村、東は津軽海峡。寛永3年(1626)西津軽鰺ヶ沢(あじがさわ)から六人の漁民が来て澗内(まない)の沢に定着し、当地に家を建てた。2~3年後には戸数も二〇軒ほどになり、澗内川で引網を張って鮭をとったという。

 宮歌村旧記によれば同12年松前八左衛門の知行所に定められ、用人の加川喜三郎が江戸から下り、上鍋島かみなべしまから下根祭しもねまつり岬までを松前藩主より拝領したという。その際大茂内(おおもない)村が枝村として、上ヨイチ場所が知行所として付与され、のち九艘川(くそうがわ)村(現江差町)も枝村となったという。

 蝦夷島の和人地が松前藩の家臣ではない旗本の知行所となるということは前例がなく、異質の知行体制であった。本税は直接藩に納入するが、付加税的な小物成は知行主に納めることになっていた。このように複雑な構造下にある宮歌村は多くの問題を抱えていたが、その最大のものは白符村との村境争いであった。

(163-3)「白府村」:白符村。現松前郡福島町字白符。近世から明治33年(1900)まで存続した村名。近世は東在の一村で、白符川の流域、福島村の南に位置し、東は津軽海峡。白府村(支配所持名前帳)、白負(蝦夷草紙別録)などと記されることもあった。文化6年(1809)の村鑑下組帳(松前町蔵)によれば「白符之鷹待候ニ付、村名ヲ白符と申」と記す。

(163-3)「生符(いけっぷ)町」:現松前郡松前町字大磯・字弁天・字建石。近世から明治33年(1900)まで存続した町。近世は松前城下の一町。上原熊次郎は「生府」の地名について「夷語イナイプなり。二タ胯の沢と訳す。イはイウゴヒ・イウゴテの略語にて、別れ又は繋くと申事、ナイは沢、プとは所と申事の略語なり」と記す(地名考并里程記)。

不動川と化粧けしよう川に挟まれた海岸沿いの町。東は博知石(ばくちいし)町、台地上は白川町。宝暦11年(1761)の「御巡見使応答申合書」に「生府」と町名がみえる。呼称は「イケツフ」(「蝦夷日誌」一編)、「イゲツブ」(木村「蝦夷日記」)、「エケフ」(蝦夷喧辞弁)、「エケブ」(蝦夷迺天布利)など様々である。

 (163-4)「土橋(つちはし)」:現在は、厚沢部町の町域であるが、近世は、江差村の域内に存在した目名村の枝村。「天保郷帳」には、目名村の枝村として、「土橋村・俄虫村・鯎(うごひ)村」などとして、「土橋村」の名が見える。「ツチバシ」(大小区画沿革表)、「ドバシ」(「町村別戸口表」市立函館図書館蔵)ともいう。当村は延宝2年(1674)に津軽から来た喜三郎が檜山稼と農業に従事したのに始まるという。

(163-4)「泊り村」:泊村。現江差町字泊町・字大澗町。近世から明治初年まで存続した村。片原町・オコナイ村の北に位置し、東は元山をはじめとした山地で、沢水を集めた泊川が西に流れる。西は日本海に臨み、泊川河口の湾は船泊り。

 (163-5)「碇町」:現檜山郡江差町字陣屋町など。近世から明治33年(1900)まで存続した町。寺小屋てらこや町の東に続き、東は山地、南は武士川を挟んで五勝手村。横巷十九町の一(「蝦夷日誌」二編)。

(163-6)「新町」:江差村のうち。文化4(1807)の江差図に「中新町、北新町、川原新町」の地名が記載され、このころ北部の東方後背地に裏町として中新町、北新町、川原新町の地名が発生している。

(163-6)「津軽□別」:わかりません。


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