森勇二のブログ(古文書学習を中心に)

私は、近世史を学んでいます。古文書解読にも取り組んでいます。いろいろ学んだことをアップしたい思います。このブログは、主として、私が事務局を担当している札幌歴史懇話会の参加者の古文書学習の参考にすることが目的の一つです。

2018年10月

10月 町吟味役中日記注記

 (162-35)「南部」の「部」:旁の「阝(おおざと)」のみに略され、さらに「P」「ア」のように見える場合ある。

(162-3)「二十四才」の「才」:「才」は、川のはんらんをせきとめるために建てられた良質の木の象形で、転じて、もともと備わっているよいもちまえのの意味を表す。うまれつきの能力、素質。

 *俗に年齢の「歳」代用する字。テキストは本来は「歳」が正しい。

(162-3)「五戸(ごのへ)」:現青森県三戸郡五戸町。五戸川の中流左岸の沖積低地と右岸の丘陵地に位置する。東は兎内(うさぎない)村、西は石沢村、南は扇田(おうぎた)村、北は伝法寺(でんぼうじ)村に接する。

(162-5)「花輪村」:現秋田県鹿野市花輪。鹿角盆地中央部、東西から山地が迫り盆地が狭まる所に位置。近世には盛岡藩花輪通の中心として、花輪館を中心に町並ができた。

(162-5)「八戸(はちのへ)」:青森県の東南部に位置する。馬淵(まべち)川と新井田(にいだ)川の最下流部に挾まれた低平地に位置し北東部は太平洋に面している。寛文4年(1664)南部直房が八戸を城下とする八戸藩二万石を創設した。

(162-7)「鯵ヶ沢」: 津軽半島の西側基部、青森県西津軽郡にある町。地名の初見は天文5年(1536)であるが南北朝時代以前から部落が形成されていたことが部落内に散在する板碑によって知られる。赤石川上流四キロにある種里部落は弘前藩祖大浦光信入部の地である。江戸時代には弘前藩九浦の一つとして、町奉行がおかれ、東の青森に対し西の大港と称されて、大坂・蝦夷方面との交易が盛んであり漁港としても栄えた。

(163-2)「大沢村」:現松前郡松前町字大沢。近世から明治2年(1869)まで存続した村。近世は東在城下付の一村で、大沢川河口域に位置する。「福山秘府」や「松前年々記」などによれば、元和3年(1617)には大沢川で砂金が発見され、この砂金掘りには迫害を逃れたキリシタンが入っていた。寛永16年(1639)には「於本藩東部大沢亦刎首其宗徒男女都五十人也」(和田本「福山秘府」)とあるように、キリシタン弾圧の舞台となった。

(163-2)「宮ノ哥(みやのうた)村」:宮の歌村。現松前郡福島町字宮歌(みやうた)。近世から明治39年(1909)まで存続した村。近世は東在の一村で、宮歌川の流域に位置し、北方は白符(しらふ)村、東は津軽海峡。寛永3年(1626)西津軽鰺ヶ沢(あじがさわ)から六人の漁民が来て澗内(まない)の沢に定着し、当地に家を建てた。2~3年後には戸数も二〇軒ほどになり、澗内川で引網を張って鮭をとったという。

 宮歌村旧記によれば同12年松前八左衛門の知行所に定められ、用人の加川喜三郎が江戸から下り、上鍋島かみなべしまから下根祭しもねまつり岬までを松前藩主より拝領したという。その際大茂内(おおもない)村が枝村として、上ヨイチ場所が知行所として付与され、のち九艘川(くそうがわ)村(現江差町)も枝村となったという。

 蝦夷島の和人地が松前藩の家臣ではない旗本の知行所となるということは前例がなく、異質の知行体制であった。本税は直接藩に納入するが、付加税的な小物成は知行主に納めることになっていた。このように複雑な構造下にある宮歌村は多くの問題を抱えていたが、その最大のものは白符村との村境争いであった。

(163-3)「白府(しらふ)村」:白符村。現松前郡福島町字白符。近世から明治33年(1900)まで存続した村名。近世は東在の一村で、白符川の流域、福島村の南に位置し、東は津軽海峡。白府村(支配所持名前帳)、白負(蝦夷草紙別録)などと記されることもあった。文化6年(1809)の村鑑下組帳(松前町蔵)によれば「白符之鷹待候ニ付、村名ヲ白符と申」と記す。

(163-3)「生符(いけっぷ)町」:現松前郡松前町字大磯・字弁天・字建石。近世から明治33年(1900)まで存続した町。近世は松前城下の一町。上原熊次郎は「生府」の地名について「夷語イナイプなり。二タ胯の沢と訳す。イはイウゴヒ・イウゴテの略語にて、別れ又は繋くと申事、ナイは沢、プとは所と申事の略語なり」と記す(地名考并里程記)。

不動川と化粧けしよう川に挟まれた海岸沿いの町。東は博知石(ばくちいし)町、台地上は白川町。宝暦11年(1761)の「御巡見使応答申合書」に「生府」と町名がみえる。呼称は「イケツフ」(「蝦夷日誌」一編)、「イゲツブ」(木村「蝦夷日記」)、「エケフ」(蝦夷喧辞弁)、「エケブ」(蝦夷迺天布利)など様々である。

 (163-4)「土橋(つちはし)」:現在は、厚沢部町の町域であるが、近世は、江差村の域内に存在した目名村の枝村。「天保郷帳」には、目名村の枝村として、「土橋村・俄虫村・鯎(うごひ)村」などとして、「土橋村」の名が見える。「ツチバシ」(大小区画沿革表)、「ドバシ」(「町村別戸口表」市立函館図書館蔵)ともいう。当村は延宝2年(1674)に津軽から来た喜三郎が檜山稼と農業に従事したのに始まるという。

(163-4)「泊り村」:泊村。現江差町字泊町・字大澗町。近世から明治初年まで存続した村。片原町・オコナイ村の北に位置し、東は元山をはじめとした山地で、沢水を集めた泊川が西に流れる。西は日本海に臨み、泊川河口の湾は船泊り。

 (163-5)「碇町」:現檜山郡江差町字陣屋町など。近世から明治33年(1900)まで存続した町。寺小屋てらこや町の東に続き、東は山地、南は武士川を挟んで五勝手村。横巷十九町の一(「蝦夷日誌」二編)。

(163-6)「新町」:江差村のうち。文化4(1807)の江差図に「中新町、北新町、川原新町」の地名が記載され、このころ北部の東方後背地に裏町として中新町、北新町、川原新町の地名が発生している。

(163-6)「津軽□別」:わかりません。

(164-1)「酌取女(しゃくとりおんな・しゃくとりめ)」:酒席に出て酌をする女。酒興を添え酒を勧める女。酌婦。しゃくとりめ。

(164-2)「力業(ちからわざ)」:強い力をたのんでするわざ。強い力だけが武器であるような武芸。

 *テキスト影印の「力」は「刀」のように見える。

(164-2)「曲持(きょくもち)」:曲芸として、手、足、肩、腹などで重い物や人を持ち上げて自由にあやつること。

(164-6)「黒石(くろいし)」:青森県西部、弘前市の東方一四キロの所にある市。奥羽山脈の西麓、津軽平野の東南端にあり、岩木川の支流浅瀬石川に沿うている田園都市である。中世工藤貞行の領地であったがのち南部領となり、戦国時代末期に津軽領となった。明暦2年(1656)以来、津軽氏の支族津軽信英の所領となり、その子孫津軽親足が文化6年(1809)一万石の諸侯となったとき、その城下町となった。

(164-9)「小杦」の「杦」:『漢語林』は国字とする。「杉」の旁「彡」を書写体に従って「久」に改めたもの。

(166-1)「揚屋(あがりや」:江戸時代の牢屋における特別の部屋。幕府の小伝馬町牢屋では収監者を身分によって分隔拘禁したが、武士を収容するのが揚座敷(あがりざしき)と揚屋である。500石未満の御目見以上直参(じきさん)の武士は揚座敷、御目見以下の直参、陪臣は揚屋に入れ、僧侶、神職も格式により揚座敷、揚屋に分けた。いずれも雑居拘禁であるが、揚座敷に比べると揚屋は食事をはじめとする処遇、牢名主の支配など、実情は庶民の牢とそれほど差異はない。幕府の地方の牢,藩の牢なども,武士を庶民と区別して収容した。

 *「揚屋」を「あげや」と読めば、遊里で、客が遊女屋から太夫、天神、格子など高級な遊女を呼んで遊興する店。

(166-2)「出物(でもの)」:吹出物。おでき。

(166-2)「膏薬(こうやく)」:1 あぶら・ろうで薬を練り合わせた外用剤。皮膚に塗ったり、紙片または布片に塗ったものを患部にはりつけたりして用いる。軟膏と硬膏があり、ふつう硬膏をいう。

漢方薬の濃い煎液に砂糖などを加え、あめ状にした内服薬。

(167-1)「披見(ひけん)」:文書などをひらいて見ること。

(167-3)「唐津内沢(かわつないさわ)」:現松前郡松前町字唐津・字西館・字愛宕など。

近世から明治33年(1900)まで存続した町。近世は松前城下の一町。唐津内沢川沿いの町。


『蝦夷嶋巡行記』10月学習分注記  

*9月学習分について:編纂会で話し合ったが、結論を得なかった部分。

(38-1・割注右)

 1.「ふとくり也。くしや」

 2.「ふとくかたく、しやも」

 3.「ふとく、かたくしやも」

(38-1・割注右のルビ) 

1. 「ヒトラリ」

2. 「ヒト・フリ」

(38-1・割注左)

 1.「いちんまいいちんまい」

 2.「いちんまいまい」

(38~4)

 1.「矢ひと」(やひと)

 2.「矢比計」(やごろはかり)

 3.「失ひ計」(うしないばかり)

(38~5)

 1.「辺」

 2.「迄」

 

*10月学習

(38-1)「引きしほり切て」・・「志」は「し」、「保」は「ほ」。「引き絞る」の連用形+「切る」の連用形。「切る」は、動詞の連用形について、最後まで~する。~し終えるなどの意を表す。「引きしぼり(絞り)切(きり)て」は、「(矢を弓につがえて、弦を)ぎりぎりまで引いて」の意。

(38-1)「たかわす」・・「太」は「た」、「可」は「か」、「王」は「わ」。「違わず」。

(38-2)「内外(うちそと、ないがい)」・・その程度の数量であることを示す。「十間之内外」は、十間(18.2㍍)程度。

(38-2.3)「ふみつめて」・・「婦」は「ふ」、「三」は「み」、「徒」は「つ」、「女」はめ」。「踏み詰めて」は、相手を窮地に追い詰めること。

(38-4)「運上屋え帰る」・・「え」は「衣」の変体仮名。

(38-4)「蚤(のみ)」・・隠翅目に属する昆虫の総称。

(38-5)「蚊(か)」・・双翅目カ科の昆虫の総称。

(38-5)「昼(ひる)」・・「蛭」か。蛭は、ヒル綱に属する環形動物の総称。

(38-5)「虻(あぶ)」・・双翅目アブ科の昆虫の総称。同字に「蝱」がある。

(38-5)「足たか蜘蛛」・・クモの一種。体長は、雄は25㎜内外、雌は30㎜内外。体は、灰褐色で脚が長く、伸ばすと10cm位になる。

(38-5)「げぢげぢ」・・「げじげじ」。「ゲジ」の俗称。「蚰蜒(げじ)」は、ゲジ目の節足動物の総称。体は、短棒状で2~7cm。青藍色ないし黒褐色で、15対の細長い足がある。

(38-5.6)「挟虫(はさみむし)」・・「鋏虫」か。「鋏虫」は、革翅目に属する昆虫の一種。体長20㎜内外。尾端にはさみがあり、ごみや枯葉の下にすむ。

(38-6)「座中(ざちゅう)」・・集まった人々の中。

(38-6)「遥(さまよい)まはり」・・「さまよい(彷徨い)廻る」で、うろうろ歩きまわるの意。

 *「遥」に「さまよう」の訓があり、「うろうろする」「そぞろ歩く」の意にもなる。

(39-3)「そびえ」・・「楚」は「そ」、「飛」は「ひ」、「衣」は「え」。「聳え」。

(39-3)「水の色」の「色」・・決まり字。

(39-3)「藍(あい)」・・「藍色」のことで、暗い青色。

(39-4)「ホクシ」・・『東西蝦夷地山川取調図』には「ホクシ」、『廻浦日記』には、「(中ホウシ)~並て岬を廻り、ホウ(ク)シ」とあり、国土地理院の20万分の1の地図には、「帆越岬」の名が見える。

(39-4)「中ホクシ」・・『廻浦日記』には、「此処を当時境目とす(是よりフトロ境目也)。其名ホウシはホヲロシの訛にて、通行の船々此処にて帆を卸て霊を拝する故に号しものかと思はる。」とある。なお、永田方正の『北海道蝦夷語地名解』には、「ポロポクウシ、大蔭大崖の下と云う義なり。」とある。

(39-5)「大田山」・・久遠郡せたな町字太田にある太田神社。太田山(四八五メートル)の西麓に鎮座。旧郷社。祭神猿田彦神。近世以来日本海を望む断崖絶壁にそびえる太田山は神の宿る山として信仰され、山上に大日如来など仏像が安置され、太田山権現とも称された。明治初期の神仏分離により仏像・仏具を廃して猿田彦神を祀り現社号に改称した。

勧請は嘉吉元年(1441)から同四三年頃と伝え、享徳3(1454)松前家始祖武田信広が太田に上陸し、太田山権現の号を与えたというが不詳(大成町史)。近世前期から道南の霊場として信仰を集め「北海随筆」に「西は太田山、東は臼ケ嶽とて信心の者は参詣するなり」と記される。「東遊記」に「ヲヽタという所に大日如来立せ給ふ。(中略)円空法師と言人、この所へ来りて仏像を多く彫刻し、みづから険阻をふみわけて所々に安置」したと記される。「西蝦夷地場所地名等控」には「ヲヽタ山大権現太田山之嶺ヨリ下ニ在。此所迄日本回国之者并ニ男女共世人共為菩提参詣仕候。至而嶮岨成山ニ御座候」とある。文政元年(1818)洞窟内に祠を建て不動明王を安置、天保5(1834)大日堂建立(大成町史)。松浦武四郎は帆越ほこし岬を通る船はみな「大田山(権現)を拝す。又夷人は此処にて必ヱナヲを海中ニ投じて大田山を拝し、海上安全を祈る」と記し(「蝦夷日誌」二編)、安政3(1856)当地を訪れ岩壁の下から鉄鎖で「攀る事十余尋、洞口に到(中略)架中に半鐘・仏具を置く。俯見白波撃崖(中略)偏に登仙の思をなし」たこと、僧宗倹がヒカタトマリに太田山参詣者のため拝殿(籠堂)を建て、また新道を開削していたこと、太田山の神は笛・太鼓・三絃などを好むこと、鳴物を宝前に納め順風を請うと霊験著しいとされたことを記している(廻浦日記)。大漁と航海の安全を祈って信仰されていた(板本「西蝦夷日誌」)。

明治27(1894)拝殿を改築し、社務所を新築したが、大正10年(1921)洞窟内を焼失。しかし同年中に再建し女人遥拝堂を新築。現在例大祭は六月二七・二八日に大漁と海の安全を祈り行われている。

(39-5)「仰望(あおぎのぞむ)」・・仰ぎ見る。頭を上げて遠くから見る。「仰ぐ」+「望む」の連語。転じて「より高いものを願い求める」「尊敬する」「うやまいしたう」の意にも。

 *仰望(ぎょうぼう)

  妻~曰、良人者、所仰望而終身也。今若此。(孟子『離婁(りろう)下』)

  [妻~曰く、良人なるは、仰して身をるのものなり。今此(かく)の(ごと)しと。]

  **離婁(りろう)・・中国の古伝説上の人。視力がすぐれ、百歩離れた所からでも毛の先がよく見えたという。

(39-5)「さかしき」・・「佐」は「さ」、「可」は「か」、「之」は「し」、「幾」は「き」。「嶮・険(さが)し」の連体形で、「けわしい」こと。

(39-6)「厳石(いわお・がんせき)」・・岩石。

(40-1)「六十六部(ろくじゅうろくぶ)」・・江戸時代、諸国の寺社を参詣する巡礼又は遊行する者。

(40-1)「ちなみ」・・「因む」の連用形。関係を頼って物事を行うこと。縁につながること。

(40-2)「むゐの嶋」・・「ムイレトマリ」、「ウートマリないしモエレトマリ」の辺か。『廻浦日記』には「ムイレトマリ、人間にて鵜のトマリ云。此辺より人家有。此前海中に大岩三ツ有よって号なるべし。」とあり、また、『東西蝦夷地山川取調図』には、「ウートマリ、モエレトマリ」の名が見える。

(40-4割注右)「むゐ」・・アイヌ語研究者の多くは、「ムイ(mui)」を「箕(み)」としているが、萱野茂は、「①箕、②オオバヒザラガイ」、永田方正は、「①湾、②箕、③塞ル、④鮑肉の如くして貝殻なきもの(ヒザラガイ)」、上原熊次郎は、「①鮑肉の如く貝なし、②オオバヒザラガイ」と、魚介類の「オオバヒザラガイ=軟体動物多板綱ケハダヒザラガイ科」とするものがある。しかし、本書の如く「海鼠(なまこ)」、「海鞘(ほや)」などとするものはない。

(40-4割注左)「なまこ」・・「海鼠」。ナマコ綱棘皮動物の総称。アイヌ語では、「uta(ウタ)」。『松前・蝦夷地納経日記』や萱野茂の『アイヌ語辞典』、知里真志保の『分類アイヌ語辞典(動物編)』にある。ナマコの干物(煎海鼠―いりこ)は、俵物三品(煎海鼠、干鮑、鱶鰭)の一つとして、近世、長崎貿易の輸出産品。

(40-5割注右)「ほや」・・「海鞘」、「老海鼠」。海鞘綱の原索動物の総称。青島俊蔵の『蝦夷拾遺』には、「uyaka(ウヤカ)」、上原熊次郎の『藻汐草』には「①tabibi(たびび)、②totui(トツイ)」とある。

(41-1)「フトロ」・・現せたな町北桧山区太櫓。町の南西部。近世、寛政9(1797)まで場所の運上屋はキリキリにあったが、フトロに移転している。したがって、本書時(寛政10年)は、フトロに移転したばかりの時。『廻浦日記』には、「キリキリ、此処フトロの運上屋元也。フトロと云は是より七八丁北なる川端の砂浜を云也。」とある。

(41-2)「シヤム」・・「シサム(sisamu)」、「シシヤム(sisyamu)」、「シャモ(syamo)」か。

     以下、アイヌ語研究者の諸説を列挙する。

     田村すず子:シサム(sisam)~日本人(和人)沙流方言

     神保小虎:シサム(sisamu)又はシサム・シャモ(syamo)~和人

     中川 裕:シサム(sisamu)~和人

     大須賀るえ子:シサム(sisam)又はシャモ(syamo)~和人。シャモは和人への蔑視語。白老方言

萱野 茂:シサム(sisam)~①和人、②日本の

ジョン・バチラー:シサム(sisam)~①日本人、②外国人

永田方正:シシャム(sisyam)~①日本人、②和人

上原熊次郎:シシャム(-)~①人、②和人、③日本の(シサム)

(41-3割注右)「かく」・・「斯く」で副詞。このように、このとおりの意。

(41-4)「一眉」・・左右の眉毛が、一文字に繫がっている状態。

(41-5)「吃(きつ)」・・「喫」の当て字か。

(42-2)「ブヨ」・・アイヌ語。穴。「プイ(pui)(puy)」。因みに、人為的に掘った穴は、「スイ(sui)」とも。

(42-2)「シヤ」・・アイヌ語。石。「シユマ(shuma)」、「スマ(suma)」。

(42-4)「二(ふたつ)の川」・・太櫓川と後志利別川か。

(42-4)「セタナイ」・・現せたな町瀬棚区。漢字表記地名「瀬棚」のもととなったアイヌ語に由来する地名。本来は、河川名だが、コタン名や場所名としても記録されている。

 「天保郷帳」には、「セタナイ持場の内」に「セタナイ」が見える。『廻浦日記』には、「セタナイは、此澗の惣名にて犬沢と云訳也。昔し、山より犬、鹿を追出し来り、此澗に入て死せしと云伝え、則本名はセタルベシナイなるを略せしと云。」とある。

 山川地理取調図には「エンルンカ セタナイと云」とある。

(42-5)「数奇」・・「数丁」か。

 


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