森勇二のブログ(古文書学習を中心に)

私は、近世史を学んでいます。古文書解読にも取り組んでいます。いろいろ学んだことをアップしたい思います。このブログは、主として、私が事務局を担当している札幌歴史懇話会の参加者の古文書学習の参考にすることが目的の一つです。

2018年11月

12月の『巡行記』学習範囲

12月の『巡行記』学習は、<「通信」記載の通りです>と書きましたが、

P46~52の間違いでした。


11月 町吟味役中日記注記

◎10月学習『吟味役中日記』P162の「後方」について:現在は「後潟(うしろがた)」という地名で、津軽半島南部の蓬田の南にあります。

後潟村は、鎌倉時代以来安東氏の支配下にあり、近くに、安東氏の居城といわれる尻八館があリます。なお、村の北端に、天和三年(一六八三)勧請の「後潟神社」があり、明治の神仏分離令で、一時「後方神社」と称したといいます。後潟村は、昭和29年、青森市に合併。

(ジャパンナレッジ版『日本歴史地名大系』)

11月学習

(168-1)「御触出(おふれだ)シ」:触れを出すこと。

(168-2)「御坐候(ござそうろう)」:尊敬語「ござある」の「ある」を「候う」にして丁寧の意を添えたもの。のちには、書簡文でもっぱら丁寧語として用いられた。敬意の度合はきわめて高い。

 ジャパンナレッジ版『国語大辞典』の語誌には、

 <(1)「ご~候」の形式は「平家物語」などに多くの例を見るが、「御座候」は謡曲、虎明本狂言などに散見する程度でしかない。

(2)江戸前期の咄本、例えば挙例の「軽口御前男」では、「御座候」(否定形は「御座なく候」)は文語的色彩の強い文脈で使用されており、当時一般的な語ではなかったことが推定される。

(3)文語的性格が強かったため江戸期から明治大正期に至るまで専ら書簡文(候文体)で使用された。>とある。

*「ござ(御坐・御座)」は、貴人がその座にあること。その座に着くこと。また、いらっしゃること。

*「ござあ・り」:鎌倉時代に起こり、室町時代に多く用いられた語で、「ござる」の前身。尊敬語・丁寧語ともに敬意の度合は極めて高い。

 *影印は「坐」で、現代表記では、「坐」の書き換えに用いる。「坐視」→「座視」、「坐禅」→「座禅」。

 *元来、「座」はすわる場所、「坐」はすわる動作、と使い分けられていた。

 *「坐」は、平成16年、人名漢字に追加された。

 (168-23)「猶亦(なおまた)」:関連ある別のことがらを付加するときに用いる。それに加えて。さらにつけ加えるなら。

 *接続詞「また」の成立は、漢文訓読において、「且」「又」「亦」「復」を「マタ」と訓読したことによると考えられている。

 *「亦」は漢文訓読では助字。~もまた同様に。主語などの後に置かれ、前に述べられていることと同様であることを表す。直前の語に「も」を付して訓読することが多い。

(168-3)「似寄(により)」:似かよっていること。類似。

(168-4)「候半ゝ(そうらわば)」:~したならば。「半」は、変体仮名で「は」の字源。ここの翻刻は「候はゝ」で、よみは「ソーラワバ」。

 *組成は、動詞「候ふ」の四段活用の未然形「候は」+順接の仮定条件(~なら、~だったら)の意味をもつ助詞「ば」。

「候ふ」の活用は、は、ひ、ふ、ふ、へ、へ。左から未然、連用、終止、連体、已然、命令。

(168-4)「下知(げち・げじ)」:上から下へ指図すること。命令。いいつけ。語源説に「クダシシラシムル(下知)義」(『大言海』)がある。ジャパンナレッジ版『国語大辞典』の音史に<中世・近世は大多数が「げぢ」と第二拍濁音>とある。

(168-6)「置主(おきぬし)」:質入れした者。質置主(しちおきぬし)。

(168-6)「能々(よくよく)」:「よく」を重ねて意味を強めた語。まったく手落ちのないようにして十分に。念には念を入れて。注意の上に注意を重ねて。くれぐれも。よっく。

 *「々」について・同じ漢字を繰り返す場合、「々」だけを用いるのが普通の書き方である。(昭和27.4.4 文部省通知「公用文作成の要領」)

 *丹々、好好、善善とも書く。

 *なお、「民主主義」「漢字字体」「小学校校長」などはそのまま書いたほうがよい。また、「々」に当たる部分が行頭に来る場合は本来の漢字に書き換える。ただし、「佐々木」「多々良」「寿々子」などの固有名詞で「々」を用いるのが本来の形である場合は、行頭に「々」が来てもそのまま用いることになる。(平成7年文化庁編『言葉に関する問答集』)

 *中国では、「粛粛」「洋洋」「淡淡」などと記して、下接の字に「々」を用いていない。

  (木村秀次著『身近な漢語をめぐる』大修館書店 2018

 *「々」は漢字なのか(木村秀次著『身近な漢語をめぐる』大修館書店 2018より)

(168-8)「請人(うけにん)」:江戸時代、保証人の一般的呼称。人請、金請、座請、地請など、各種保証契約に広く用いられた。証人。加判人。口入人。

(169-2)「胡乱(うろん)」:「う」「ろん」ともに「胡」「乱」の唐音)。(1)乱雑であること。勝手気ままでやりっぱなしであること。また、そのさま。(2)不確実であること。不誠実であること。あやしく疑わしいこと。合点がゆかず、ふに落ちないこと。また、そのさま。胡散(うさん)。

 *ジャパンナレッジ版『国語大辞典』の語誌に<(1)「正法眼蔵」や、五山僧の「了幻集」に見えること、また唐音で読まれることからも、禅宗によって伝えられた語と見られる。中国でも「碧巖録」など禅籍に見えるが、禅宗用語というわけではなく、「朱子全書」等、宋代以後の様々な文献にも見える。

(2)「胡」も「乱」も「みだれたさま」を表わし、「胡─乱─」の形でも「胡説乱道」「胡言乱語」「胡思乱想」などが見え、「胡」と「乱」がほぼ同じ意味で使われていることがうかがえる。語の意味も、中国では(1)の意味であったが、日本では(2)の意味をも派生し、後にはこちらの意味の方が多用されることとなった。>とある。

 *また、語源説に、「胡(えびす)が中国を乱したとき、住民があわてふためいて避難したところからきた語」がある。

(169-3)「早束(さっそく)」:「束」は、「速」の当て字。すみやかなこと。にわかなこと。急なこと。また、そのさま。転じて、臨機のすばやい処置。

  *ジャパンナレッジ版『国語大辞典』の語誌に<中国古典籍には見出し難く、類義の二字の組み合わせによる和製漢語かと思われる。院政期の国語辞書「色葉字類抄」に「サウソク」とあり、サッソクと今日のように促音化し、定着するのは室町時代の末頃であろう。>とある。

(169-4)「ヶ條(かじょう)」:箇条。記事を幾つかに分けて並べた時のそれぞれの事柄。条項。項目。

 *「ヶ」:小さい「ケ」は、文字の分類では、カタカナか漢字か。

平成18年の文化庁国語審議会漢字小委員会での同委員・阿辻哲次氏の発言を同委員会の議事録から引用する。

○阿辻委員

  これは歴史的に由緒のある使い方で、地名の「三ヶ日」なんて「ヶ」で書きますね。あれは確か戦国時代の地名であるはずで、そういう「三ヶ日」という言葉を今の静岡県の「三ヶ日」という地名だけではなくて、歴史的に由緒のある、つまり実績があったとしたら、現在の住民の方々は当然古代とのリンクを考えるでしょうから、私どもはこういう「三ヶ日」の古戦場があるということで、自分たちの町が平仮名の「か」で書かれていて、でも、歴史の教科書に出てくるときには「ヶ」であるというのは、ちょっとちぐはぐな感じを持つのではないかなと思うんです。この文字は非常に古くから、おっしゃるように箇条書きの「箇」の竹冠の片割れを中国で略字に使っていたものが、日本人がカタカナの「ヶ」と誤解したという由来なんですけれども、多分一千年ぐらいはその使用の歴史はあると思います。行政の力で現在の地名を変えることは可能でしょうけれども、かなり由緒正しい地名として使われているところが、「吉野

◎「ヶ」は、①「箇」の竹冠の片割れを中国で略字に使っていたもの。②日本人がカタカナの「ヶ」と誤解した。「吉野ヶ里」「外ヶ浜」「霞ヶ関」「袖ヶ浦」「由比ヶ浜」「関ヶ原」「八ヶ岳」「茅ヶ崎」など。札幌市内でも「里塚緑ヶ丘」「美しヶ丘」「旭ヶ里」もそうじゃないですか、かなりあるんじゃないかと思います。ヶ丘」がある。

(169-5)「取質(とりしち)」:質取。質として預かる行為。

 *影印の「質」:冠部分と脚部分が縦長になり、2字のように見える。

(169-6)「如何様(いかよう・いかさま)」:行為や状態に対する疑問の意を表す。どのよう。どんなふう。どんな具合。

 *「如何」は、「いかといかと」「いかに」「いかなり」「いかなる」「いかで」「いかが」「いかばかり」「いかさま」などの語群を作る。物事の様子や状態を疑い、推測する意味を表わす。どのよう。どう。

 *「如何」は、漢文訓読の助字で、漢文訓読では「いかんせん」「いかんぞ」「いかん」と読む。

 *「如」は、「ジョ」(漢音)、「ニョ」(呉音)の読みがあるが、「イ」の読みはない。「何」は、「カ」(漢音)、「ガ」(呉音)の読みがある。下接熟語に「誰何(すいか)」がある。

(169-8)「以□御憐愍」:「以」と「御憐愍」の間が1字分空けてあるのは、尊敬の体裁の欠字。

 *「憐愍(れんびん・れんみん)」:憐憫・憐閔とも。あわれむこと。なさけをかけること。あわれみ。

(170-1)「執成(とりなし)」:双方のあいだに第三者がはいって、悪感情を取り除いたり、互いに都合のよい条件を提示したりして、関係を好転させること。とりつくろい。とりもち。斡旋。

(170-4)「造酒蔵(みきぞう)」:人名。

 *「造酒(みき)」:①奈良時代には、宮内省に属する十三司のひとつに「造酒司(みきのつかさ)」があった。②平安期には、宮内省が管する五司に「造酒司(みきのつかさ)」があった。

 *官舎は、藻壁門(そうへきもん)の内、内匠(たくみ)寮の東、典薬(てんやく)寮の北にあった。

 *「造酒」を「みき」と読むことについて:「み」は美称の「御」、「き」については、酒の古語「ミキ」が登場して来る前の古語では「キ」だけだった。新井白石は、古語時代は食べることまたは食べ物を「ケ」、飲み物はそれが転じて「キ」となったという。天皇の食事の料は「御食」(みけ)、「御饌」(みけ)であり、今日でも朝食のことを「朝餉」(あさげ)、夕食のことを「夕餉」(ゆうげ)という言い方も残っている。つまり、酒を「キ」といったのは、酒は神聖で食べ物、飲み物の最高の者として位置づけ、飲食物の総称として「ケ」を与えた。その「ケ」が「キ」に転化したという説がある。

 *「平手造酒(ひらて・みき)」:講談・浪曲「天保水滸伝」に登場する剣客。

(171-7)「奥印(おくいん)」:江戸時代、文書または帳面の奥に、その文書・帳面の記載の真実または適法であることを証明するために捺した印。奥判ともいう。江戸時代、村々の勘定帳に、総百姓の印をとるほか、名主組頭にも奥印させたごときは、その記載の真実であることを証明させたものであり、質地証文に、名主の加印(ふつう奥印の形式でなされる)を必要としたのは、その質地契約が適法であることを証明させるためであった。同じ目的で、文書の裏に加印する場合には、裏印または裏判と呼んだ。

 *「奥印」の「奥」:冠部と脚部が縦長で、2字のように見える。

(172-5)「諸士(しょし・しょじ・しょさむらい・しょざむらい)」:多くのさむらい。多くの士人。

(172-5)「先前(せんぜん・せんせん)」:さきざき。まえまえ。まえかた。

(172-5)「納屋(なや)」:漁村で、漁業用具などを格納する小屋。また、網元がその下で働く若者を起居させるために提供した建物または部屋。転じて、飯場(はんば)。

 *語源説に「ナ(魚)を入れるヤ(屋)の義」がある。

 *「納」に「な」と読むのは、国訓。「な()」は、食用、特に、副食物とするための魚(さかな)。

(172-6~7)「先年御所替」:「所替(ところがえ)」は、大名、小名の領地を他に移しかえること。くにがえ。移封(いほう)。転封(てんぽう)。

 *「先年」:文化4(1807)。松前藩の陸奥柳川への移封をいう。

 *松前藩の移封の概略

 ・幕府は、対露防衛策として段階的に松前藩から領地を召し上げる。

 ・寛政11年(17991月、幕府は、東蝦夷地浦河から知床およびその属島を公収、同年8月、知内川以東浦河までも公収し、9月、幕府はその代地5000石を下付し、武蔵国埼玉郡のうち、12ケ村を下知する旨を松前藩に達す。以後、享和2年7月まで約3か年間、飛地として領有。

*<武蔵埼玉郡のうち12ケ村>

・中閏戸(なかうるいど)村、根金(ねがね)村、根金村新田(現埼玉県蓮田市のうち)

・小久喜(こぐき)村、小久喜村新田、実ケ谷(さねがや)村(現埼玉県白岡市のうち)

・久喜村(くき)、所久喜(ところくき)村、下清久(しもきよく)村、上早見(かみはやみ)村、下早見(しもはやみ)村、樋口(ひくち)村(現埼玉県久喜市のうち)

 ・文化4年.3.22・・幕府、松前・西蝦夷地一円を召上げ、新規9000石下付され、これにより、松前・蝦夷地の全部が幕領になる。

・松前氏の梁川移封・・文化4年7月27日、新領地が示された。

<新領地>

・陸奥伊達郡内[代官竹内平右衛門支配下]梁川村(現福島県伊達市梁川町)、泉沢村、金原田村(現福島県伊達市保原町金原田)の3ケ村5048石余

・陸奥伊達郡内[代官岡源右衛門支配下]大門村(現福島県伊達市梁川町字大関大門)、大久保村(現福島県伊達市飯野町字大久保)、西五十沢(いさざわ)村(現福島県伊達市梁川町字五十沢)3ケ村3954石余・・・合計9002石余

・常陸国信太(しだ)郡・鹿島郡[代官岡田清助支配下4373石余

・同国河内(こうち)郡[代官萩野弥五兵衛支配下323石余

・上野国甘楽(かんら)郡[代官吉川栄左衛門支配下3626石余

・同国群馬郡[代官吉川栄左衛門支配下1300石余

総領知高 18,626石余

(172-78)「一円・・公儀」:「一円」で改行するのは、尊敬の体裁で、「平出」。

 *「一円(いちえん)」:ある地域全体。ジャパンナレッジ版『国語大辞典』に

 <中世後期から江戸初期にかけては、程度副詞から陳述副詞へとその用法を転成し、文末に否定表現を伴うことによって「一円」の意味は「ことごとく」から「一向に、全く」に逆転した。江戸初期以降は、副詞の「一円」は次第に衰退し、現在使用されているのは「近畿一円」のような名詞用法だけとなった。>とある。

(172-8)「上(あがり)り」:「上る」の連用形。「上る」は、上に立つ者に物などが収められる。領地、役目などを取り上げられる

 *「アガル」「ノボル」について、ジャパンナレッジ版『国語大辞典』の語誌に

 <(1)アガルとノボルは、共に上への移動を表わすという点で共通する類義語であるが、アガルが到達点に焦点があり、そこに達することを表わすのに対して、ノボルは経過・過程・経路に焦点があるという点が異なる。「川を(船で)ノボル」「×川を(船で)アガル」「川から(岸に)アガル」「川から(谷づたいに山へ)ノボル」

(2)アガルは、ある到達点に達することを表わすところから、基本的には初めの状態を離れること、ある段階から抜け出すことを表わし、その経過・過程は問題にしない非連続的な移動である。そのため、アガルの場合、アガルものが物全体か一部かにかかわらず、視点の向けられているものの移動ということが問題になる。それに対して、ノボルの場合は、少しずつ移動する過程が明らかになるような、それ自体の全体的移動を表わし、しかも自力で移動が可能な事物に限定される。「生徒の手がアガル(×ノボル)」「ダムの水面がアガル(×ノボル)」「湯からアガル」「いつのまにか血圧がアガッていた」「湯から(煙が)ノボル」「興奮して頭に血がノボッていくのがわかった」

(3)到達点という結果に焦点があるアガルは、「ている」を付けてアガッテイルとすると動作・作用の結果を表わす。過程に焦点があるノボルはノボッテイルとすると現在進行中の動作を表わす。「のろしが(森の上に)アガッテイル」「煙が(空へ)ノボッテイル」

(4)また、アガルは、到達点に達するというところから、最終的にある段階に達して完了すること、終了することをも表わすことになる。>とある。

(172-9)「引越(ひっこし)」:松前藩が、松前から、奥州柳川へ移封すること。

(173-1)「御復古(ごふっこ)」:文政4年(182112月、幕府は、蝦夷全島を松前氏に還与し、蝦夷地は松前藩に復帰した。

<復帰の背景>

・表面の理由は、幕府の蝦夷地直轄の結果、取締、アイヌ人撫育、産物の取捌きなどが行き届くようになり旧家格別の儀をもって、むかしのとおり松前蝦夷地を領有させる。

・その裏面は、水野忠成(ただあきら)が、松前氏の運動をききいれたことがある。水野忠成のそうさせたのは、当時の北辺防備意識の衰退があった。

(173-3)「無筋(むすじ)」:道理に合わないこと。

(174-3)「神明町(じんめいまち)」:現松前町字神明・字福山。世から明治33年(1900)まで存続した町。近世は松前城下の一町。大松前おおまつまえ川の奥まった地域にあり、南は蔵くら町。同川は神明川ともよばれた(「蝦夷日誌」一編)。町名は北西方にある神明社(現徳山大神宮)による。

(174-5)「越山(えつざん)」:『松前町史 通説編第1巻下』の「第4編」の「犯罪・裁判・刑罰」から、「越山」に関する記述を要約する。

 ・復領期の松前藩においては、本来死刑に処すべき犯罪者であっても、これに死刑判決を下すことを極力忌避する法規範、換言すれば死刑を減軽することが習慣となっている独自の刑罰体系が存在していた。

 ・死刑にかえて現実に下された処断、すなわち越山・遠島・渡海にも松前藩の刑罰体系の独自性を見出すことが可能である。

 ・いすれも追放刑でありながら、越山・遠島が百姓もしくは無宿に適用されるのに対し、渡海は旅人に適用される。

 ・越山は流刑の一種 

  越山に処せられるのは18世紀半ば頃までは武士に限られ、逆に18世紀末以降は百姓・無宿人及び武士としては最下級の足軽身分にほぼ限られている。

  越山の地が基本的には和人地と蝦夷地との境界の村に設定されている。

  越山の地が基本的には和人地内に限定され、蝦夷地に及んでいない。

(174-7)「東在(ひがしざい)」:蝦夷地と和人地の境界は、時代により推移があるが、17世紀には、松前城下より北方の熊石、東方の亀田で、熊石までを西在、亀田までを東在(ひがしざい)とよんでいた。

 (174-8)「石崎村」:現函館市石崎町・白石町・鶴野町。近世から明治35年(1902)までの村。現市域の南東端にあり、南は津軽海峡。地名について「地名考并里程記」に「此所石の出崎なる故、和人地名になすと云」と記される。近世は東在の村で、元禄郷帳・天保郷帳ともに石崎村と記す。

(174-8)「丑年(うしどし)」:文政12(1829)

(174-8)「七月(しちがつ):「シチ」(漢音)、「シツ」(呉音)、「なな」(国訓)。

 *「ヒチ」は、方言。

(174-9)「寅年(とらどし)」:天保元年(1830)

(175)付札:P174の1~3行の上に重ねて添付されている。

(175-1)「蔵町(くらまち)」:現松前町字福山。近世から明治33年(1900)まで存続した町。近世は松前城下の一町。大松前川に沿う二本の南北道のうち東側の道に沿った町。南は袋町、西は中川原町。「蝦夷日誌」(一編)では町名の由来について「此処市中問屋、小宿等の荷物蔵を置る故に此名有」とし、町の様子については「中川原と馬形坂の間也。東牢の坂ニ限り、西牛浦ニ及ぶ。此町廿二軒の青楼有り」とある。

(175-1)「旅人(たびにん)」:旅から旅へと渡り歩く人。各地をわたり歩いている博徒・てきやの類。旅行をしている人。旅路にある人。たびゅうど。たびうど。たびと。旅行者。旅客。「たびにん(旅人)」は別意。

(175-2)「川原町(かわらまち)」:現松前町字福山。近世から明治33年(1900)まで存続した町。近世は松前城下の一町。大松前川に沿って南北に通ずる二筋の道のうち西側の道に沿う町。河原町とも記した。

(167-1)「徊徘」:徘徊。行ったり来たりすること。どこともなく歩きまわること。うろうろと歩きまわること。うろつくこと。

(176-5)「牢番(ろうばん)」:牢屋の番人。監獄の監守。

 *影印の「窂」は、「牢」の異体字。「牢」の解字は囲いに入れられた牛の形にかたどる。かこい・おりの意味を表す。なお、『字通』は、「宀は家ではなく、牢閑(おり)の象」とし、柵かこいの形であるから、 に作るのがよい」とする。

 *「牢」の部首は「宀(うかんむり)」でなく、「牛」部。

 *「牢」はいけにえの意味もあり、牛・羊・豕(ぶた)の三種をそなえたものを「大牢」、羊・豕を「少牢」という。

(176-7~8)「紀三郎」:松前藩町奉行・鈴木紀三郎。

『蝦夷嶋巡行記』11月学習分注記

*10月学習分について編纂会で話し合った事項

1.P38~3行:①「射ゆえ」か。②「射ゆく」か。結論出ず。

2.P38~4行:影印は「癸」に見えるが「蚤」か。

3.P38~5行「昼」:意味は、①日中の昼か。②「昼」は「蛭」の当て字か。結論出ず。*翻刻は「昼」とする。

4.P39~3行:①「そびえ」(「そびゆ」の連用形)②「そびく」(終止形)か。

*翻刻は「そびえ」とする。

5.P39~5行「大田山・・之下也」:①「之下也」か。②「被下也(くださるなり)」か。

 *翻刻は「之下也」とする。「被下也」の場合、割注に入れるべきではないか。

6.P40~2行:①「漕行て」か。②「漕行也」か。③「漕-行之」か。

 *翻刻は「漕行て」とする。

 

*11月学習

(41-1)「フトロ」・・現せたな町北桧山区太櫓。町の南西部。近世、寛政9(1797)まで場所の運上屋はキリキリにあったが、フトロに移転している。したがって、本書時(寛政10年)は、フトロに移転したばかりの時。『廻浦日記』には、「キリキリ、此処フトロの運上屋元也。フトロと云は是より七八丁北なる川端の砂浜を云也。」とある。

(41-2)「シヤム」・・「シサム(sisamu)」、「シシヤム(sisyamu)」、「シャモ(syamo)」か。

     以下、アイヌ語研究者の諸説を列挙する。

     田村すず子:シサム(sisam)~日本人(和人)沙流方言

     神保小虎:シサム(sisamu)又はシサム・シャモ(syamo)~和人

     中川 裕:シサム(sisamu)~和人

     大須賀るえ子:シサム(sisam)又はシャモ(syamo)~和人。シャモは和人への蔑視語。白老方言

萱野 茂:シサム(sisam)~①和人、②日本の

ジョン・バチラー:シサム(sisam)~①日本人、②外国人

永田方正:シシャム(sisyam)~①日本人、②和人

上原熊次郎:シシャム(-)~①人、②和人、③日本の(シサム)

(41-3割注右)「かく」・・「斯く」で副詞。このように、このとおりの意。

(41-4)「一眉(かたまゆ)」・・片方の眉。眉の片一方。

(41-5)「吃(きつ)」・・「喫」の当て字か。

(42-2)「ブヨ」・・アイヌ語。穴。「プイ(pui)(puy)」。因みに、人為的に掘った穴は、「スイ(sui)」とも。

(42-2)「シヤ」・・アイヌ語。石。「シユマ(shuma)」、「スマ(suma)」。

(42-4)「二(ふたつ)の川」・・太櫓川と後志利別川か。

(42-4)「セタナイ」・・現せたな町瀬棚区。漢字表記地名「瀬棚」のもととなったアイヌ語に由来する地名。本来は、河川名だが、コタン名や場所名としても記録されている。

 「天保郷帳」には、「セタナイ持場の内」に「セタナイ」が見える。『廻浦日記』には、「セタナイは、此澗の惣名にて犬沢と云訳也。昔し、山より犬、鹿を追出し来り、此澗に入て死せしと云伝え、則本名はセタルベシナイなるを略せしと云。」とある。

 山川地理取調図には「エンルンカ セタナイと云」とある。

(42-5)「寔(ここ)」・・『名義抄』は、古辞書の訓として、「寔」に、「コレ・マコト・トドム・チリ・ココニ・カクノゴトク」を挙げている。

(42-5)「数奇」・・「数丁」か。

(43-1)「通(とほ)たしむ」・・「た」は「ら」か。「通らしむ」か。「通る」の未然形「通ら」+助動詞の「しむ=~させる」で、「とおらせる」の意。

 *「しむ」の「む」:変体仮名「む」の字源「武」。現行ひらがな「む」の字源でもある。

 *「武」の解字:『漢辞海』は『春秋左氏伝 宣公十二年』の

 「楚子曰、非爾所知也。夫文、止戈為武」

 [楚子曰わく、爾(なんじ)の知る所に非ざるなり。夫(そ)れ文に、止戈(しか=ほこをとどめる。戦いをやめることを)武と為す]

 を引いて、「武」は「戈(ほこ)」+「止(=とどめる)」で、「戦争を止めること」の意とする。

 一方、『漢語林』は、「止」は足の象形で、いくの意味。「戈」は、ほこの象形。ほこを持って戦いに行くの意味、と全く逆の解字。

(43-2)「往夏(おうか)」・・過ぎ去った夏。去年の夏。

(43-3)「ことごとく」・・影印の「こと」は、「こ」と「と」の合字。

(43-5)「セタ」・・アイヌ語。〔seta〕。犬。

(43-5)「ル」・・アイヌ語。〔ru〕。道。路。坂。

(43-5)「ナイ」・・アイヌ語。〔nai〕ないし〔nay〕。川。沢。

(44-3)「わらし」・・草鞋。「わ」は「王」。

(44-3)「幟(のぼり)」・・細長い布の上と横に多くの乳(ち)をつけて竿に通し、立てて標識にするもの。戦陣、祭典などで用いる。のぼり旗。

(44-4)「進るしむ」・・「る」は「ま」か。「進む」の未然形「進ま」+「しむ」で、「進(すす)ましむ」か。

(44-4)「衆」・・勘定吟味役三橋藤右衛はじめとする西蝦夷地巡見隊一行のこと。

(44-4)「興(きょう)に入(いる)」・・おもしろがること。

(44-6)「三本杉」・・三本杉岩のこと。せたな町瀬棚区本町の北側の海岸海中に並立する三体の巨岩の総称。名称は、杉の大木に似た形状にちなむ。

(45-1)「くる」・・「く」は「具」。「る」は「流」。P44から「なつくくる」となり、P45の「く」は衍字。

(45-2)「バイカチ」・・現せたな町瀬棚区字西大里、字元浦。「バエカヂ」、「ハイカチ」、「バイカツシ」とも。漢字表記地名は「梅花都」。地名の由来は、背負石の意。海岸に大石あり、小石を背負う故に名づく。

(45-3)「アフラ」・・現せたな町瀬棚区字西大里、字元浦。漢字表記地名は「虻羅」。「元禄元帳」に「あふら」、「天保郷帳」に「セタナイ持場のうちアブラ」と見える。武四郎の『西蝦夷日誌』には「湾宜敷して波浪無故に、油の如しと云うより号しか」とあり、また『廻浦日記』には「夷言はヒリカトマリと云しと。」ある。

(45-3)「ナカウタ」・・現せたな町瀬棚区字島歌、字西大里、字元浦。『廻浦日記』には、「中ウタ、人家多し、少し澗也」とある。

(45-4)「ツクナイ」・・現せたな町瀬棚区字島歌。漢字表記地名「嗣内(つくない)」。『蝦夷日記』の「セタナイ」の項に、「ワヅカケ、キブナヰ、ハイカチ、ナル(カ)ウタ、ツクナイ、アブラ、デタリ、シツケ各八ケ村、六七軒位ツヽなり。」と、「ツクシナイ」での名がみえる。

(45-5)「モツタ」・・現島牧村字持田。漢字表記地名「持田」、「茂津多」。『廻浦日記』には、「モツタ、大岩岬、峨々として海中につき出す。昔此上を切通せしとかや。」とある。

(45-5)「 ゜」・・「モツタ」と「チ゜ヒタペルケ」の二カ所の地名をを区分する記号、現行の読点か。

(45-5)「チ゜ヒタペルケ」・・『廻浦日記』には、「チヒタベケレ、此処大暗礁有。陸は峨々たる岩壁、チヒタヘケレは船が割れしと云事なるよし。」とある。山川地理取調図には「チヒタヘシケ」とある。

(45-5.6)「白糸の滝」・・『大日本地名辞書』には、「持田(モツタ)岬の北東四浬に在り、此処に滝あり、白糸と名づく。瀑布、高凡七十尺、広九十尺、山の半腹より流れ、百丈の素練を引く如し、西岸第一の勝望なり。」とある。

(45-6)「カリバシレトコ」・・『廻浦日記』に「ホロカリハ 岬也」とある。また、同日記には「当時はホロカリハとホンカリハの間を(スツキ場所とシマコマキ場所の)境とする也。」とある。

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