(1)「天保(てんぽう)三壬辰(ジンシン・みずのえたつ)」:1832年。
*「保」は、漢音で「ほう(ぽう)」、呉音で「ほ」。
「享保(きょうほう)」「保元(ほうげん)」などの年号は漢音で読む。ほかに「神保(じんぼう)町」など地名・人名も漢音で読む場合がある。
(1)「貞守(さだもり)」:奥平勝馬の名。
(3-1)「大(だい)」:大の月。陰暦で30日ある月。天保3年9月は大の月。
*旧暦は、朔望(月の満ち欠け)を基準としている。朔(新月)を迎えた日を月はじめの1日(朔日)とするので、「小の月(29日)」「大の月30(日)」は、朔の日を計算すれば、 大小は自動的に決まる。
ところで、朔望の周期は、平均29.53日だが、月の運動は不規則で、月に13時間ほど変動する。したがって、月の配列は、必ずしも大・小・大・小というわけにはいかない。
庶民にとって、例えば掛け売りの支払い、借金の返済などで、大の月か、小の月かが問題になる。そこで、商店などでは、「大小板」を掲げて知らせた。
大小の配列は、平年で130通り、閏念では300通り以上になった。
*大小暦・・古くは大小または絵暦と呼び、江戸時代にその年の月の大小の順を知らせるために作られた略暦の一種である。当時通用の太陰太陽暦では毎年、月の大小の配列が相違していたため、その年の大小の順や閏月の位置を覚えるための和歌・俳句・漢詩等の短文などが作られた。これらの短文や大の月・小の月の数字を組み合わせて文字や絵にしたもの、あるいは図案の内に散らしたり隠したりした小型の摺物が作られるようになり、好事家の間で年頭に贈答された。大小暦は万治・寛文年間(1658~73)ごろからあらわれるが、明和2年(1765)に大流行した際、鈴木春信がはじめて錦絵のものを版行してから、華麗なものが作られるようになった。大小暦は江戸を中心に各地で機智に富んだものが案出され、また浮世絵師の多くが手を染めたので、江戸時代の文化の特色を示す好史料となる。
*幕府は、暦の私製を禁じ、頒布に至るまで厳重な統制をした。暦作成のシステムは、①江戸の天文方で、月の大小など科学的な部分を計算→②律令の陰陽寮(おんみょうりょう)の暦博士(れきはかせ)の流れを汲む京都の幸徳井(かでい)家に送り、吉凶などの歴註を添える。→③京都の大経師(だいきょうじ)という印刷屋で版にする。→④完成した暦を幕府は、領主・奉行を経て暦屋に渡す。→⑤庶民が入手。
*「大小」を浮世絵などに取り入れた暦が出来たが、言葉でも表された。
①「大庭を白く掃く霜師走かな」(宝井其角)・・元禄10年の大小
・【大(大の月)庭(2・8)を白(4・6)く掃く(8・9)霜(11)師走(12)かな】
②「大酒を屠蘇(正月)より始め雛(3月)幟(5月)七夕(7月)菊見(9月)猪の子(10月)顔見世(11月)」
・安永5年の「大の月」。歌舞伎の顔見世は11月に行われた。
*西洋のカレンダー(calender):新月が来ると、祭司が角笛を吹いて月が改まったことを知らせたラテン語のkalendae(叫ぶ)からきている。「calends」は、古代ローマの月の第1日。
*・現在の「小の月」は、2・4・6・9・11月で「西向くサムライ(士)」。明治5年の新暦施行以降の考案ではなく、江戸時代にすでにいわれた。
・江戸時代に現行と同じ大小の月の配列は慶安4年(1651)、寛政13年(1801)、天保8年(1837)の3回あった。
・侍が日の出に背を向けた、「西向く士」の絵(天保8年の小に月)。明治になってそれが思い出され、現在に受け継がれている。
*天保3年の大小は、
大・・正(1)・3・7・9・11・閏11
小・・2・4・5・6・8・10
*以上「大小暦」の項は矢野憲一著『大小暦を読み解くー江戸の機知とユーモア』(大修館書店 2000)参照。
(3-1)「朔日(さくじつ・ついたち)」:その月の第一日。
*「朔」の解字」:「屰」+「月」。音符の「屰(ゲキ・ギャク」は、もとへもどるの意味。
欠けた月がもとへ逆戻りするついたちの意味を表す。
*「ついたち」は、「月の旅立ち」の意味。「朔日(さくじつ)」も「ついたち」月の運行からきた言葉。
(3-2)「御用番」:松前藩の職制のひとつ。配列は、家老―用人―中老・御城使―御用番
―祐筆―御納戸と続く。
(3-2)「蛎崎次郎」:天保3年4月には、参府を仰せ付けられ、江戸留守居役になった。
(3-4)「殿様御忌中」:8代松前藩主道広が天保3年6月24日に江戸にて死去。享年79。
(3-4)「長髪被仰出(ちょうはつおおせいでられ)」:いわゆる月代(さかやき)停止令。主君への礼として、「悲しみのあまり身だしなみをする気力もなく、月代や髪をのび放題にしているという状態を強要するもの」(林由紀子著『近世服忌令の研究―幕藩体制の喪と穢―』(清文堂 1998)
(3-5)「兼而(かねて)」:以前からずっとその状態を続けてきたという気持を表わす。前から。今までずっと。
(3-5)「法会(ほうえ)」:仏語。経典を講説・読誦すること。また、その集まり。法華会・最勝会など。広義には仏事・法要を含み、仏菩薩を供養し、仏法を説き、また、読経して死者の追善供養をすること。また、その行事、集会。法養。
(3-6)「御霊屋(みたまや・おたまや)」:道広の墓所は、駒込・吉祥寺。
(3-8)「月代(さかやき)」:中古以来、成人の男子が、日常、冠または烏帽子をかぶったためにすれて抜けあがった前額部の部分の称。また、室町期、武士が兜を付けるときに剃った前額部の称。つきしろ。つきびたい。近世、露頭が日常の風となった成人男子が、額から頭上にかけて髪を剃(そ)ること。
語源説に「昔、冠を着けるときに、前額部の髪を月形に剃ったところから、サカは冠の意、ヤキ(明)は鮮明の意」がある。
*熟字訓:「月代」を「さかやき」と読むのは熟字訓。熟字訓は、2字以上の漢字からなる熟字を訓読みすること。「花魁(おいらん)」「昨日(きのう)」「大人(おとな)」「五月雨(さみだれ)」など。
*随筆・貞丈雑記〔1784頃〕二「つきしろの事をさかいきと云は、気、さかさまにのぼせるゆへ、さかさまにのぼするいきをぬく為に、髪をそりたる故、さかいきといふなり。さかやきといふはあやまり也」
(4-4)「国産方(こくさんかた)」:江戸時代、幕府や諸藩において殖産興業政策または国産専売の実施を目的に設置された機関。産物方・産物会所・物産会所、国産会所、あるいは、統制の対象となる商品名を付けて木綿会所・紙方会所・櫨方会所・砂糖会所などとも呼ばれている。
(5-1)「出羽本庄(でわほんじょう)」:「本庄」は、現在では「本荘」と表記。本荘は、秋田県の西南部に位置し、日本海に面する市。現由利本荘市。本荘という地名は、江戸時代初期由利郡一円が山形の最上義光領となった際、重臣楯岡満茂が慶長19年(1614)ころ三万八千六百石余の知行地の支配拠点として子吉(こよし)郷本城村地内の尾崎山に新城を建設し、本城城としたことに由来すると推定される。
本荘は近世期を通じて本庄とも記され、もとは本城であったという。慶長7年(1602)由利郡は最上義光に与えられ、義光は家臣の楯岡豊前守満茂を由利に移し、経営にあたらせた。慶長15年(1610)楯岡満茂は地の利を得た子吉川下流の尾崎山(現本荘公園)に本城城の築造を開始した。楯岡氏は本姓を本城氏と称したので、居城を本城と称したといわれる。この本城が、本庄もしくは本荘となるのは、元和8年(1622)楯岡氏が退去した後といわれる。
(5-6) 「鯵ヶ沢町(あじがさわまち)」:津軽半島の西側基部、青森県西津軽郡にある町。地名の初見は天文5年(1536)であるが南北朝時代以前から部落が形成されていたことが部落内に散在する板碑によって知られる。赤石川上流四キロにある種里部落は弘前藩祖大浦光信入部の地である。江戸時代には弘前藩九浦の一つとして、町奉行がおかれ、東の青森に対し西の大港と称されて、大坂・蝦夷方面との交易が盛んであり漁港としても栄えた。明治時代に至り、廃藩置県後は陸上交通の発達、漁業の不振により漸次衰退したが、明治22年(1889)町村制施行以来、常に西津軽郡の政治・経済の中心として今日に及んでいる。昭和30年(1955)鰺ヶ沢町・赤石村・中村・舞戸村・鳴沢村の一町四ヵ村が合併。
(5-9)「金子(きんす)」:(「す」は「子」の唐宋音)金の貨幣。また、広義では単に通貨のこと。もともとは、金貨の造られていなかった中世に、秤量貨幣として用いた金のことをいい、同様に秤量貨幣の銀を「銀子(ぎんす)」といった。後に金貨が造られてからも、金貨幣を指す語として用いられ、広義には貨幣全般をも指す。関西では、銀貨中心の経済だったので、「銀子」が多く用いられた。
*接尾語「子」:中国語では接尾語として使われることがある。接尾語だから、実質的な意味はあまりない。前のことばにくっついて、響きを調える程度のこと。「帽子(ぼうし)」「椅子(いす)」「硝子(がらす)」「扇子(せんす)」「杏子(あんず)」など。。これらのことばはみな、1文字目で意味は完結していて、「子」は接尾語に過ぎない。
*「様子(ようす)」:意味の上からも読み方の上からも、近代中国語から輸入された痕跡が色濃く残っていることば。これがさらに現代中国語から入ってきたことばになると、同じような例が「餃子(ぎょうざ)」のザ、「包子(パオズ)」のズなどに見られることになる。
(この項大修館HP「漢字文化資料館 漢字Q&A」参照)
(6-7)「蔵町(くらまち)」:言松前町字福山。近世から明治33年(1900)まで存続した町。近世は松前城下の一町。大松前川に沿う二本の南北道のうち東側の道に沿った町。南は袋町、西は中川原町。
(7-1)「松吟院(しょうぎんいん)」:松前藩8代藩主・松前道広の戒名。道広は天保3年(1832)6月20日江戸で死去。享年79。墓所は松前・法憧寺。
(7-3)「熨斗目(のしめ)」:練り糸を縦に、生糸(きいと)を横にして織った絹布。また、その布地で作った、腰の部分だけ縞(しま)を織り出した衣服。江戸時代に武家の礼服として用い、麻の裃(かみしも)の下に着た。
(7-7)「赤御門(あかごもん)」:松前城の大手門のこと。
(7-7)「表御門(おもてごもん)」:松前城の本丸御門のこと。
(7-7)「塀重門(へいじゅうもん)」:塀中門(へいちゅうもん)が訛ったもの。塀の途中に設けられる門で、左右にそれぞれ方柱の本柱をたて、その間に観音開き内開きの扉を入れる。扉は桟を組み、入子板には井桁や襷をつけるのが普通である。中世の武家住宅では主殿の中門から南にのびる塀に庭への入口として設けられることが多く、近世においても、江戸城本丸では玄関前から大広間の前を区画した塀に、武家屋敷では書院周辺の庭への入口の形式として用いられている。松前城では北側の寺町御門をいう。