森勇二のブログ(古文書学習を中心に)

私は、近世史を学んでいます。古文書解読にも取り組んでいます。いろいろ学んだことをアップしたい思います。このブログは、主として、私が事務局を担当している札幌歴史懇話会の参加者の古文書学習の参考にすることが目的の一つです。

2019年11月

11月 町吟味役中日記注記

                         

(50-3)「相対(あいたい)」:合意すること。相談のうえ、互いに納得して事を行なうこと。あいたいずく。

     *相対死(あいたいじに)は、江戸時代の法律用語。心中、情死のこと。心中が、近松などの戯曲により著しく美化され、元祿頃から流行する傾向にあって、風俗退廃の大きな原因となったため、八代将軍吉宗が心中に代えて使わせた語。

(50-4)「与者(とは)」:格助詞「と」に、係助詞「は」が付いたもの。説明・思考・知覚などの対象やその内容を取り立てていうのに用いる。

     *「与」を「と」と読むのは、漢文訓読の用法。変体仮名ではない。変体仮名では「よ」の字源。

     *「と(与)」の語法

      ①並列。

(ア)および。「…与レ~(…と~と)」の形で同等に結ぶ。

例「堯乃賜舜絺衣与一レ琴」

<堯(ぎょう)すなわち舜(しゅん)に絺衣(ちい)と琴(きん)とを賜(たま)う」(そこで尭は舜に上等な葛布の衣と琴とを与えた)〈史記・五帝本紀〉

(イ)従属。…と一緒に。つれだって。…と。…に。「与レ…(…と・…とともに)」の形で動作にしたがう対象を示す。

例「項梁殺人、与籍避仇於呉中

<項梁(こうりょう)人を殺し、籍(せき)とともに仇(あだ)を呉中(ごちゅう)に避(さ)く>

(項梁は人を殺し、籍とともに仕返しを避けるため呉中に逃れた)〈史記・項羽本紀〉

(ウ)対象。…と。…に。「与レ…(…と・…に)」の形で動作の対象を示す。

例「与項羽別而至高陽

<項羽(こうう)と別れて高陽(こうよう)に至る>

(項羽と別行動をとって高陽に到着した)〈史記・酈生(れきせい)列伝〉

        ▼対象が文脈により省略された場合は「ともに」と訓読する。

例「豎子不与謀

<豎子(じゅし)はともに謀るに足らず>

豎子豎子(小僧は話し相手にならぬわ)〈史記・項羽本紀〉

(50-5)「候節」の「節」:決まり字。

(50-6)「兼々」の「兼」:決まり字。脚部が「灬」(れっか)のようになる場合がある。

(50-8)「停止(ていし・ちょうじ)」:「停」を「ちょう」と読むことについて、ジャ『日本国語大辞典』は「呉音」とし、『漢辞海』『漢語林』は慣用音とする。

      *慣用音:呉音、漢音、唐音には属さないが、わが国でひろく一般的に使われている漢字の音。たとえば、「消耗」の「耗(こう)」を「もう」、「運輸」の「輸(しゅ)」を「ゆ」、「堪能」の「堪(かん)」を「たん」、「立案」の「立(りゅう=りふ)」を「りつ」、「雑誌」の「雑(ぞう=ざふ)」を「ざつ」と読むなど。慣用読み。

(50-8)「停止之所」の「所」:決まり字。偏の「戸」は、「ニンベン」のように見え、旁の「斤」は「石」のように見える。

(50-8)「改(あらた)め」:調べただすこと。江戸時代、公儀の役人が罪科の有無、罪人・違反者の有無などを吟味し取り調べること。取り調べ。吟味。

(50・2-1)「不束(ふつつか)」:江戸時代、吟味筋(刑事裁判)の審理が終わり、被疑者に出させる犯罪事実を認める旨の吟味詰(つま)りの口書の末尾の詰文言の一つで、叱り、急度叱り、手鎖、過料などの軽い刑に当たる罪の場合には「不束之旨吟味受、可申立様無御座候」のように詰めた。

*聞訟秘鑑‐一口書詰文言之事(古事類苑・法律部三一)「御叱り、急度御叱り、手鎖、過料等に可成と見込之分は、不束或は不埒と認、所払、追放等にも可成者は、不届之旨と認」

*「不束」は当て字。本来、「太し」と関係のある語で、太い様子や、太くて見苦しい様子をいう。さらに、細かい配慮に欠ける様子をもいい、否定的であるところから、「不」の字を当て字に用いるようになる。(ジャパンナレッジ版『小学館全文全訳古語辞典』)

(50・2-1)「過料(かりょう)」:江戸時代の刑罰の一種。銭貨を納めて罪科をつぐなわせたもの。軽過料、重過料、応分過料、村過料などの種別があった。

      *徳川禁令考‐別巻・棠蔭秘鑑・「享保三年極一、過料三貫文、五貫文。但、重きは拾貫文、又は、弐拾両、三拾両、其者之身上に順ひ、或村高に応じ、員数相定、三日之内為納候、尤、至而軽き身上に而過料差出かたきものは、手鎖」

(50・2-1)「銭(せん・ぜに)」:金銭。硬貨。

*九十六(くじゅうろく)の銭百(ぜにひゃく):江戸時代、銭九十六文を百文として計算したこと。転じて、すこし足りないことのたとえ。

(50・2-1)「貫文(せん・さんかんもん)」:貫。銭を数える単位。一文銭1,000枚を一貫とする。江戸幕府は、寛永通宝(一文銭)を鋳造するようになってから、銭と金の比価を四貫文対一両と公定した。

      *「三貫文」の「貫」:決まり字。冠部が「丑」、脚部の「貝」が繰り返し記号のように見える。

(50・2-2)「手鎖(てじょう)」:「錠」「鎖」は当て字。罪人の手に施す刑具。鉄製瓢箪型で、両手にはめて錠をかけ、手が使えないようにするもの。てがね。てぐさり。江戸時代、未決囚を拘留する方法。手鎖をかけた上、公事宿、町村役人などに預け、逃亡を防いだ。

(50・2-2)「宿預ケ(やどあずけ)」:江戸時代、未決囚拘禁の方法の一つ。出府した被疑者を、取調べ期間中公事宿(くじやど=江戸宿)に預けること。手鎖(てじょう)、過料、叱(しかり)など軽い罪にあたるものに用いられた方法で、重罪のものは入牢させた。

(50・2-3)「憐愍(れんびん)」:あわれむこと。なさけをかけること。あわれみ。れんみん。

(50・2-5)「加州」:加賀国。

      *影印の「州」は、異体字「 」の省略体。

(50・2-10)「初而(はじめて)」の「初」:旁の「刀」が「百」のように見える。

(50・2-10)「当所」の「当」:脚部が「舟」「丹」のように見える。

(50・2-10)「入津(にゅうしん・にゅうつ・にゅうづ)」:「津」を「つ」と読むのは、訓読み。「入津」を「にゅう・つ」と読むのは重箱読み。

      *和語で、海岸・河口・川の渡し場などの、船舶の停泊するところを「つ」といったが、漢字伝来で、「津(しん)」が「つ」と同じ意味であることから、「津(シン)」に「つ」を当てた。「津波(つ・なみ)」「津々浦々(つつ・うらうら)」など。

(51-1)「法度(はっと)」:おきて。さだめ。法律。法。

      *「はっ」「はっ」は、慣用音(漢字音の呉音、漢音、唐音には属さないが、わが国でひろく一般的に使われている漢字の音)。「法被(はっぴ)」「法華(ほっけ)」「法主(ほっす)」など。

      *『漢辞海』には<「ホッ」「ハッ」の音は、日本語になじまない「ホフ」「ハフ」の発音を避けて促音化したもの。>とある。

(51-2)「等閑(とうかん・なおざり)」:深く心にとめないさま。本気でないさま。いいかげん。通りいっぺん。かりそめ。

      *ジャパンナレッジ『日本国語大辞典』の補注に<中古では「源氏物語」に多く見え、用法としては主に男性の女性に対する性情や行動への評価として現われている。>とある。

      *「等閑」を「なおざり」と読むのは、熟字訓。漢語の同義の熟語「等閑(とうかん)」に和語の「なおざり」を当てたもの。

      *熟字訓:漢字二字、三字などの熟字を訓読すること。また、その訓。昨日(きのう)、乳母(うば)、大人(おとな)、五月雨(さみだれ)など。

(51-3)「差置(さしおき)」:「差置く」は、そのままにしておく。放っておく。「さし」は接頭語。

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『蝦夷嶋巡行記』11月学習分 

(98-1)「昔シ戦」:蠣崎氏が松前氏に改称したのは、慶長四年(1599)であるから、それ以前の戦。アイヌとの抗争は、長禄元年(1457)のコシャマインの乱、永正十二年(1515)のアイヌの蜂起、大永五年(1525)の東西両道のアイヌの蜂起がある。

(98-1)「あない」:案内。「あんない」の撥音「ん」が表記されなかった語。

(98-3)「アカイ川」:現森町字赤井川付近。近世、宿野辺村の内。河川の赤井川は、村内を流れ、南境で宿野辺川に合流する。『山川取調図』に「赤川」、「シユクノヘ」とある。

(98-3)「シタヌツペ川」:「シユクノヘ川」か。『廻浦日記』には、宿野辺川について、「(赤川) 宿の部、前に川有、巾五六間、橋有。此川小沼の水大沼に通ふ筋也。」とあり、『山川取調図』には、「赤川 シユクノヘ」とあり、本書の「アカイ川、シタヌツベ川」とする道順に適合している。

(98-3)「やち」:谷地。野地。沢、谷などの湿地。「やつ」、「やと」とも。

(98-4)「小沼」:現七飯町の北部、駒ケ岳西壁剣ヶ峰南麓に所在し、「大沼」の南西に位置する「小沼」。周囲16.25㎞、面積3.8㎢。

(98-5)「小峠」:『廻浦日記』には、「小沼から少し坂に上り、小沼峠」とあり、この「小沼峠」が、「小峠」か。

(98-6)「くたること」:「下ること」。「こと」は、合字(または「事」の略字)で、「る」と「五」の間に挿入されている。

(98-6)「大沼」:現七飯町の北部、駒ケ岳西壁剣ヶ峰南麓に所在する「大沼」。周囲20㎞、面積5.12㎢。

(99-1)「大峠」:『蝦夷日誌』には、「峠下から大峠を越えて大沼に至り、さらに小沼峠を下って小沼に行く。」とあり、「峠下」と「大沼」間にある峠をいうか。『廻浦日記』には、「大沼峠」とある。茅部峠・長坂峠ともいう。

(99-2)「蝦夷地と松前地の境なり」:享和元年(1801)、ヤムクシナイ(山越内)に関門ができるまで、茅部峠(大峠)が、松前地(和人地)と蝦夷地の境界だった。

(99-2)「纔(わずか)」:決まり字。影印の旁の脚部の「〃」は「兎」の繰り返し記号。

(99-2)「なゝへ村」:現七飯町。「七重村」、「七々井村」とも。近世、東在の一村で、現町域の南西端近く、久根別川の中流域に位置した。後年、明治三年(1870)に、開拓使が設けた農事試験場である「七重官園」が置かれた。『山川取調図』に「七重」とある。

(99-4)「箱館の湊」:函館湾の南東部に位置する湊。松前三港(津)の一つ。享保以降(17411736)松前藩の場所経営が請負制に移行して商品流通が活発になると、箱館を通行する船舶が増加。特に、東蝦夷地からの荷物の集荷湊として飛躍的に発展し、寛保元年(1741)、それまで亀田に置かれていた番所が箱館に移された。嘉永7(1854)三月、日米和親条約が締結され、六月に上知され、安政2(1855)には、薪水・食料の補給港として開港された。

(99-4)「つヽく」:「徒」は「つ」、「ゝ」は「(つ)の踊り字」、「具」は「く」。「続く」で、切れずにつながる。連続する。

(99-4)「そは」:「蕎麦(そば)」。タデ科の一年生作物。種子をひいてそば粉とする。

(99-4)「粟(あわ)」:イネ科の一年草。ヒエとともに古くから栽培される。五穀の一

      つで、飯や団子にしたり、酒、飴などの原料とする。

(99-5)「稗(ひえ)」:イネ科の一年草。実は黄色く細い粒で、食用、鳥の飼料用。丈夫で災害に強く、やせ地にも育つので、古来、備荒作物として栽培する。

(99-6)「女郎花(おみなえし)」:オミナエシ科の多年草。山野に自生。夏から秋にかけて茎頂に、黄色の小さな花が傘状に群がり咲く。秋の七草の一つ。

           *「女郎花(おみなえし)」の語源について<「オミナエシは黄色い粒のような花をたくさん咲かせ、その姿が昔の女性の食べ物とされた“粟飯”に似ているため「女飯(おんなめし)」と呼ばれ、それが徐々に訛って「オミナエシ」に変化したともいわた>など、諸説あり。

(99-6)「ふかく」:「深い」は、夜になってからかなり時がたっているさまをいう。また、夜が明けるにはまだかなり間があるさまをいう。

      *宇津保物語・楼上上「夏のはじめ、ふかき夜のほととぎすの声」

*源氏物語・葵「はかなき御屍ばかりを御名残にて、あかつきふかく帰り給」

(100-1)「大野村」::現北斗市の内。旧大野町。近世は東在の村の一つで大野川の中流域に位置し、内陸部の村落で、元禄郷帳には大野村とみえる。また、天保郷帳には、大野村の枝村に本郷、千代田郷、一本木郷の名がみえる。『山川取調図』に「大ノ」とある。

(100-2)「文月(ふみづき)むら」:現北斗市文月。近世、東在の村の一つ。大野川の支流文月川の流域に位置し、北から東は大野村。北海道(蝦夷嶋)で最初に稲作が試みられた土地で、貞享2(1687)説、元禄5(1692)説がある。『山川取調図』に「文月」とある。

 

 

 

 

 

 

 

 

(100-2)「隣村(となりむら)」の「隣」:現行の「隣」は、部首は「阜(おか)」部。(偏になったときは「阝」=こざと)で、「阜」は、丘や丘状に盛り土したもの。「邑(むら)」(旁になったときは「阝」=おおざと)は、人が群がり住むところ、「むら」を表す。したがって、「鄰」が本来の正字。

      *なお、周代の行政区画名でもあり、五戸を「隣」、五隣を「里」という。

(100-2)「差渡(さしわたし)」:直径のこと。

(100-4)「ゑごま」:荏胡麻。秋、シソに似た穂を出し白い小花を開く。種子より「荏(え)の油」を取る。シソ科の一年草。種(しゅ)としてはシソと同種。東南アジア原産で日本では畑に栽培され、また野生化もしている。全体に特有な匂いがある。茎は高さ八〇センチメートル内外の角柱形で白毛が生じる。葉は、長さ七~一二センチメートル、幅五~八センチメートルの卵円形で対生し、先がとがり縁に鋸歯(きょし)があって裏は淡紫色。夏、白い唇形の花が密生した穂を茎頂および葉腋(ようえき)から出す。果実は四つに分かれ小球形で油がとれ、これを荏の油といって昔は灯油用をはじめ防水用、印刷インキなど広範囲に用いられ栽培も多かった。漢名、荏。え。しろじそ。じゅうね。おおえのみ。えこ。

(100-4)「五升芋(ごしょういも)」:ジャガイモの別名。馬鈴薯とも。一つの種いもから五升とれるところからの呼称。

(100―5)「へな土(つち)」:埴土。粘りけのある土、粘土。ここでは、赤黒い色をした粘土のこと。「へな」の語源説に、「ニ(埴)の転」などがある。

(101-1)「よろしかるへき所」:形容詞(よろし)の連体形「よろしかる」+助動詞(べし)の連体形「べき」+詞の「所」。「似つかわしそうに思われるべき場所」の意。

(101-1)「家こと」:「こと」は、合字。家毎(ごと)。

(101-2)「なしの木」:「梨」の木。

(101-3)「鍛冶在所村」:現北斗市千代田。千代田村は近世大野村の枝村であったが、『検考録』に「枝村の鍛冶在所が、(千代田と)大野の間にある。」とある。

       『山川取調図』に「カシサイ所」とある。

(101-3)「矢田村」:「千代田村」の誤りか。近世、東在の村名(枝村を含む。)に「矢田村」と称する村はない。「千代田村」については、大野川下流域左岸に位置し、近世、大野村の枝村として、『山川取調図』には「千代田」とある。

(101-4)「大野川」:箱館平野の西部をほぼ南東流する二級河川。流路延長28.6キロメートル。大野町字本郷から南流し、以後箱館平野を蛇行して上磯町で、函館湾に注ぐ。

(101-5)「フ子ベチと言川」:「久根別川」か。久根別川は、箱館平野の東部をほぼ南流する二級河川。かって久根別川は、旧上磯町(現北斗市)追分で、西方に転じ、大野川に合流したとある。なお、「クン子ベツ」は夷語で、「クン子は、黒い又濁るの訓にて、ベツは川なり」として、「濁川と訳す」と『地名考幷里程記』にあり、『山川取調図』には、「ニコリ川」と「ク子ベツ」の名がみえる。

(101-5)「龜田村」:現函館市亀田町ほか。亀田半島の基部、亀田川流域にあり、西は箱館湾、南は津軽海峡に面す。近世は東在の村で、箱館よりも先に開け、元禄郷帳、天保郷帳ともに「亀田村」と記されている。元文四年(1749)成立の板倉源次郎の『北海随筆』には、「西は熊石、東は亀田、此両所に関所有て、是より外は蝦夷地とする。」とあり、和人地(松前地)の東境で、松前藩の関所が置かれていた。

(101-6)「八幡宮(はちまんぐう)」:亀田八幡宮。田川の右岸にあり、北海道教育大学函館校と市道八幡通一号を挟んで対面して所在する。祭神誉田別命。旧郷社。「渡島国地誌提要」によれば藤原則房が蝦夷鎮静のため宇佐から遷祭し、明応3年(1494)河野加賀守森幸が社殿を造営したと伝える。慶長8年(1603)・延宝2年(1674)にも造営がなされている。「北海道志」巻一〇は社殿の造営を明徳元年(1390)とし、「明治神社誌料」では同年森幸が越前気比(けひ)神宮(現福井県敦賀市)から応神天皇の分霊を奉じて当地の鎮守として千代(ちよ)ヶ丘に奉斎したのに始まると伝える。文禄3年(1594)蠣崎氏の祈願所となり、慶長八年松前盛広が本殿・拝殿を建立。以後延宝2年・享保9年(1724)と松前氏による修繕をうけ崇敬社としての地位を築く一方、当地の氏神としても崇信を集めた(函館市史)。五月節句には競馬が行われた(「蝦夷日誌」一編)。

       明治2年(1869年)517日に旧幕府軍榎本武揚・大鳥圭介等がここで降伏を黒田清隆に誓約の地でもある。

(101-6)「領主の別荘」:寛政3(1791)の『東蝦夷地松前ヨリアツケシ迄道中記(東蝦夷地道中記)』には、「亀田村は松前藩主直領で」、「藩主の隠居所、八幡宮、弁天宮がある」と記されており、この隠居所をさすか。

(102)「亀田番所」:慶長(15961615)末期には、東在の境として、亀田村に番所が置かれ、松前藩士が詰めていたとされていたが、その後、箱館の方が、東蝦夷地からの荷物の集荷湊となって飛躍的に発展したことから、寛保元年(1741)、亀田番所は、箱館に移設されている。したがって、本書時の亀田番所の所在地は箱館であった。

(102)「片かは町(まち)」:「片町」とも。川や海岸、谷、崖、そのほか武家屋敷などの関係で、道の一方側だけに家が建ち、町名が付されている街並みのこと。これに対し、道の両側に、向かい合って家が建ち、同じ町名が付されている町並を「両側町」という。京都の市街地の町割りや江戸の古い市街地の町割りは、基本的に「両側町」としての区画割りがされている。

(103-2)「津軽家より五百人来りて勤番す」:寛政9(1797)7月、英国のブロートン率いるスクーナー船が蝦夷地周辺に来航したことなど、近年松前に異国船が度々入来したことから、幕府は、同年9月、津軽藩に番頭一名の箱館派遣方を命じ、津軽藩は、これを受け、箱館派遣の番頭以下500人余の人数割を提出、11月、組頭大将山田剛太郎以下が、箱館に到着、浄玄寺に本陣を置いた。

(103-3)「有川村」:現北斗市の内。旧上磯町の区域。久根別川(大野川)・戸切地(へきりち)川の河口付近。近世、東在箱館付村々の一つ。『山川取調図』に「有川」とある。

(103-4)「壁利地村」:戸切地(へきりち)村か。。現北斗市戸切地。箱館平野西端の戸切地川流域、南は箱館湾に面する地域にある。近世は、東在箱館付村々の一つ。『山川取調図』に「戸切チ」とある。

(103-5)「水沢村」:東在に「水沢村」と称する村(枝村を含む)はない。道順から、「三谷(みつや)村」か。「三谷村」は、「三ツ谷村」、「三屋村」とも。現北斗市のうち。近世は東在箱館付村々のうち。『山川取調図』に「ミツヤ」の名がみえる。

(103-5)「取川村」:東在に、「取川村」と称する村(枝村を含む)はない。「富川(とみかわ)村」か。「富川村」は、現北斗市のうち。近世、東在箱館付村々の一つで、矢不来村の北にあり、東は箱館湾に面する。『山川取調図』には「トミ川」の名がみえる。

(103-5)「やき内村」:古くは、「カムイヤンケナイ」、「ヤンケナイ」、「ヤギナイ」とも。現北斗市の内。字名に「矢不来」の名がみえる。近世に存在した村。箱館湾の西端近く、海岸が海に迫った地に位置し、矢不来川が流れる。『山川取調図』に「ヤキナイ」とある。

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