森勇二のブログ(古文書学習を中心に)

私は、近世史を学んでいます。古文書解読にも取り組んでいます。いろいろ学んだことをアップしたい思います。このブログは、主として、私が事務局を担当している札幌歴史懇話会の参加者の古文書学習の参考にすることが目的の一つです。

2019年12月

古文書解読学習会のご案内

私たち、札幌歴史懇話会では、古文書の解読・学習と、関連する歴史的背景も学んでいます。約100名の参加者が楽しく学習しています。古文書を学びたい方、歴史を学びたい方、気軽においでください。くずし字、変体仮名など、古文書の基礎をはじめ、北海道の歴史や地理、民俗などを月1回学習しています。初心者には、親切に対応します。            

参加費は月350円です。まずは、見学においでください。初回参加者・見学者は資料代として,
600円をお願します。おいでくださる方は、資料を準備する都合がありますので、
事前に事務局(森)へ連絡ください。

◎会場:エルプラザ札幌駅北口中央区北8西3

◎開催日時:月1回/午後1時~4時

 ・当面の日程:2月10日(月)

◎現在の学習内容 

    『町吟味役中日記』・・天保年間の松前藩の町吟味役・奥平勝馬の勤務日記。当時の松前市中と近在の庶民の様子がうかがえて興味深い。(北海道大学附属図書館蔵)

    『蝦夷地周廻巡行』・・享和元年蝦夷地取締御用掛松平忠明の蝦夷地巡見に随行して箱館より白老、湧払、石狩、宗谷、斜里、浦川を経て箱館に帰着するまでの道中日記。(早稲田大学図書館蔵)
 代表:深畑勝広

事務局:森勇二 電話090-8371-8473 
メール:moriyuzi@fd6.so-net.ne.jp

12月 町吟味役中日記注記

(55-1)「例座」:「例」は「列」か。列座は、座につらなること。その場所に並びすわること。列席。

(55-1)「由右衛門ヲ以」の「ヲ」:昭和61(1986)年「内閣告示」の「現代仮名遣い」の「本文 代」で、「特定の語については,表記の慣習を尊重して,次のように書く。」とし、

1 助詞の「を」は,「を」と書く。

2 助詞の「は」は,「は」と書く。

3 助詞の「へ」は,「へ」と書く。

      とある。つまり、歴史的仮名遣いは、助詞「を」「は(ワと発音)」「へ(エと発音)」に限って、現代も、生きながらえていることになる。

      なお、〔注意〕として、「次のようなものは,この例にあたらないものとする。」とし、「いまわの際」「すわ一大事」「雨も降るわ風も吹くわ」「来るわ来るわ」「きれいだわ」を例示している。

(55-2)「欣求院(ごんぐいん)」:松前にあった浄土宗の寺院。慶安2年(1649)創建と伝える。江戸初期に欣求という僧がそれまでにあった無縁寺を再興して欣求院としたとも。戊辰戦争の戦火で寺は焼失、廃寺。山号は義経山。「義経が矢尻で刻んだ岩」という義経伝説がある。光善寺の支院に列していたが、明治元年(1868)に光善寺に合併。

      *「欣」を「ゴン」、「求」を「グ」と読むのはともに呉音。「欣求」は、よろこんで願い求めること。

      *「欣求浄土(ごんぐじょうど)」は、このけがれた現実世界を離れて極楽浄土,すなわち仏の世界を,心から喜んで願い求めるという意味。浄土教でよく用いられる。「厭離穢土(えんりえど)」の対。両者を合せて「厭穢欣浄 (えんねごんじょう)」 ともいわれる。

*「求」の訓読みに「求(ま)ぐ」がある。「まぐ」と読む。求め尋ねる。探し求めるの意味。

「宮造るべき所を、出雲の国に求(ま)ぎ給(たま)ひき」(『古事記』)

[] 宮を造るのにふさわしい所を、出雲国にお探し求めになった。

*日本の漢字音:中国音(中国で発音される音)ではなく、日本語の音韻体系に合わせ日本語化した音。「音(おん)」は、漢字伝来以前の日本語(主に大和言葉)を、伝来した漢字に当てはめた「訓(くん)」に対していう。漢字の伝来時期により呉音・漢音・唐音と名称が異なる。(中国王朝名ではない)

①呉音:5~6世紀の中国南方から伝来した音。

②漢音:7~8世紀、平安時代の初めごろまでに、遣唐使・留学僧などにより伝えられた、唐の首都長安の北方標準音に基づくもの。「漢」時代の音のことではない。我が国では、唐王朝時代の中国を「漢」といった。

③唐音:9世紀以降伝来の音。狭義には、江戸時代に、長崎を通じて伝えられた、明から清の初期の中国語の発音。「唐」時代の音ではない。我が国では、このころの中国を「唐(から・もろこし)」といった。

(55-3)「遠慮(えんりょ)」:江戸時代、武士や僧侶に科した軽い謹慎刑。居宅での蟄居(ちっきょ)を命ぜられるもので、門は閉じなければならないが、くぐり戸は引き寄せておけばよく、夜中の目立たない時の出入は許された。

           *「遠慮」の「慮」のくずしは、「恵」に似ている。

(55-5)「御免(ごめん)」:容赦、赦免することを、その動作主を敬っていう語。

     *もともと「許可」を意味する「免」に尊敬を表わす接頭語「御」のついた語で、鎌倉時代から使われている。その後、「御免」の下に命令形を伴って、軽いことわりや、詫びの意を表わす「ごめんあれ」「ごめんくだされ」「ごめんなされ」などの形が生じた。これが定着すると、省略形としての「ごめん」も近世中期頃から用いられるようになった。(ジャパンナレッジ『日本国語大辞典』)

(55-8)「心得違(こころえちがい)」:心得を誤ること。道理にはずれた行為や考え方をすること。また、その人。

(55-9)「心意違」の「意」:「意」は、「得」か。

(56-2)「八平(はっぺい)」:古田八平。町奉行配下の町方頭取(新組足軽)。

(56-2)「孫平(まごへえ)」:中村孫平。町奉行配下の在方下役。

(56-3)「被仰付(おおせつけられ)」:「被」と「仰付」の間が1字空いているのは闕字。

(56-6)「渡部早五郎」:足軽並。『吟味役中日記』の天保397日(P25)の項に「渡辺早五郎」とある。『松前藩士名前控』(北大附属図書館蔵)の足軽並にも「渡辺早五郎」とある。影印の「渡辺」の「辺」は「部」で「渡部」か。

(56-8)「諸士(しょし・しょじ)」:多くのさむらい。多くの士人。しょさむらい。

(56-8)「人別宗門改(にんべつしゅうもんあらため)」:江戸時代に宗門改めと人別改めを複合し村ごとに作成して領主に提出した戸口の基礎台帳。宗門人別帳・宗旨人別帳・宗門改帳・家別帳、単に宗門帳ともいう。明治4年(1871)寺請制度が廃止され戸籍法が作られて、宗門人別改帳は戸籍へと引き継がれた。

(57-1)「役十手(やくじゅって)」:「十手」は、江戸時代、同心、小者、目明しなど、捕吏(ほり)が携帯した道具。長さ一尺五寸(約四五センチメートル)ほどの鉄棒で、手元に鉤(かぎ)がついている。犯罪捜査のときはこれを見せて捕吏である身分証明とし、犯罪者捕縛のときは相手の攻撃を防ぎ、打ったり突いたりするのに用いた。形は階級により差があり、柄のふさ紐の色で所管の別がわかった。じってい。手木(てぎ)。なお、「十手」の語源説に、十本の手に匹敵する働きをすることから「十手」と呼ばれたという説がある。

(57-3)「此度(このたび)」の「度(たび)」:「度」の音読みは「ト」(漢音)、「ド・タク」(ともに呉音)。「度」を「たび」と読むのは、国訓。「度」に回数を表す意味があり、和語の「たび」に当ることから、「度」に「たび」を当てるようになった。「ひと度(たび)」「幾度(いくたび)」「度々(たびたび)」など。

(57-4)「江戸表」の「表」:〔接尾語〕場所・地名について、そのあたりである意を表す。…方面。…地区。「国表」「江戸表」など。

      *特に、「江戸表」という場合、江戸城御殿のうち、大奥と将軍の私的居住区を除いた、役人、大名の詰所や儀式にあてられる部屋や場所。大名などの邸にもいう。(ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』)

(57-4)「おゐて」:「おきて」の変化した語。漢文訓読において用いられ始めた。「…において」の形で、まれに「…でおいて」の形で、格助詞的に用いられる。)動作、作用の行なわれる場所、時間などを示す。…で。

      *格助詞「に」をともなう「において」の形は「於」を訓読した「ニオキテ」の音便形。「於」は平安時代から「ニオイテ」の他、「ニシテ」とも読まれ(その際、平安初期では、「於」は不読とされ、「ニシテ」は読み添えられる場合が多い)、「ニシテ」が主として具体的な場所を指すのに対し、「ニオキテ(ニオイテ)」は論理的・抽象的な関係を示していた。院政期頃まではこのような使い分けがなされていたようであるが、それがやがて場所・時間を表わす場合にも「ニオキテ(ニオイテ)」が用いられるようになった。平安時代の和文では、「宇津保物語」「源氏物語」「浜松中納言物語」の男性の会話または手紙の中に用いられている。(ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』)

(57-5)「相応之品」の「品」:脚部の二つの「口」は、繰り返し記号のようになっている。

(57-6・7)「取上金(とりあげきん)」:罪人から没収した金銭をいうか。

(57-7)「弐百疋(にひゃくっぴき)」:銭ニ貫文。「疋」は、銭を数える単位。十文(もん)の称。銭一貫文が百疋にあたる。中世、近世を通じて儀礼的な場合や贈答の際に用いた。明治に入り、明治4年(1871)、新貨条例により、一両が一円、一分が二十五銭となった。そこで百疋は二十五銭(一疋は二厘五毛)に置き換えられることになり、旧式の儀礼を踏襲する場合には、昭和初期まで一部にこの単位が用いられた。

(57-7)「下代(げだい)」:下級の役人。下役(したやく)。

(58-6)「仕置(しおき)」:処罰。処分。成敗。おしおき。

      *この語は、江戸幕府の法令整備(「公事方御定書」など)が進むなかで、権力による支配のための采配の意から刑罰とその執行の意に移行した。文化元年(1804)以降に順次編集された「御仕置例類集」は幕府の刑事判例集の集大成であるが、それに先立って「御仕置裁許帳」が幕府最初のまとまった刑事判例集として、宝永期(170411)までに成っていたとみられる。

(58-7)「沖口役所(おきのくちやくしょ)」:港に出入りする船舶、旅人を検査し、沖口口銭、旅人税を取り立てた役所。永正一一年(一五一四)松前氏の祖が大館に居を構え、諸国からの商船、旅人に課税したのが初めで、その後松前藩が北海道の福山、江差、箱館および当別、吉岡の諸港に置いたが、明治になって海官所、船改所などの変遷を経て廃止。(注記末尾に資料を添付)

(59-2)「御忌中(ごきちゅう)」:松前家13代・松前藩8代藩主だった松前道広は、この年・天保3624日、死去した。年79。『吟味役中日記』によれば、9月朔日に四九日法会が行われている。「忌中=服忌(喪服を着ることと汚れを忌んで慎むこと)」期間は13ケ月とされていた。

(59-3)「当賀御礼(とうがおれい)」:月次御礼。『吟味役中日記』を見ると、4月は朔日と15日、5月は15日に行われている。9月は15日だったか。

(59-3)「登城(とじょう)」:「登」と「城」の間に1文字分空けてあるが、「城」を尊  敬する体裁。「闕字(欠字)」という。

      *欠字は、本来は、『大宝令』『養老令』など、公式令(くしきりょう)で定められた書式の一つ。文章の中に、帝王または高貴な人の称号などが出た時、敬意を表して、その上を一字分もしくは二字分ほどあけておくことをいう。欠字、平出も、律令の規定にこだわらず、朝廷ばかりでなく、一般に尊敬を表するいろいろな場面に使われるようになった。職名ばかりでなく、城や屋敷などにも使われ、更には、「仰」など言動にも使われるようになった。

       *『吟味役中日記』(天保345月、9月)に見る闕字・平出

        <闕字>

       ・「御」・・11ヶ所

       ・「仰」・・7ヶ所

       ・「殿様」・・2ヶ所

       ・「上様」・・1ヶ所

       ・「城」・・1ヶ所

       ・「津軽様」・・1ヶ所

       ・「松吟院様」・・1ヶ所

        <平出>

       ・「御」・・8ヶ所

       ・「殿様」・・2ヶ所

       ・「公辺」・・1ヶ所

       ・「公儀」・・1ヶ所

(59-3)「継肩衣(つぎかたぎぬ)」:裃(かみしも)のこと。「肩衣」は、①上代の衣服の一種。袖(そで)がなく、肩と背だけをおおった、たけの短い衣服。②室町時代以降の武家の礼服。のちには町人も着用した。袖がなく、肩と背だけをおおった、紋付きの衣服。袴(はかま)と併せて裃(かみしも)という。

      「継肩衣」は、肩衣と袴が共布でないもの。

      *「衣(きぬ)」:衣服。着物。特に、上半身からおおって着るものを総称していう。また、衵(あこめ)、かずきなどもいう。

       上代では日常の普段着。旅行着や外出着は「ころも」といった。そのため「きぬ」は歌ことばとはならなかったようで、複合して「ぬれぎぬ」以外は三代集以降姿を消す。院政期以降は衣服の総称でなくなり、「絹」の意の例が見えはじめ、軍記物語では上層階級や女性の着衣の意味で用いられている。語源上は、材質の「絹」とかかわるか。下層階級の衣服は「いしゃう」であった。(ジャパンナレッジ『日本国語大辞典』)

      *明治45年(1912)発表の文部省唱歌「冬の夜」の歌詞に「燈火(ともしび)近く衣(きぬ)縫う母は」とある。

(59-3)「悴(せがれ)」:影印の「忰」は「忰」の俗字。江戸時代、立心偏(りっしんべん)の「忄」を当てていたが、近代に入って、人偏の「亻」に変えた「倅」の表記も用いられるようになった。(『全訳漢辞海』)

      なお、古代中国では「倅(そつ)」は、百人の兵士一組を言った。宋代以降はは、州や郡の副長官に用いられた。

(59-4)「十三(じゅうさん)」:地域名「十三」を江戸時代前期までは「とさ」と読んだが、後期以降は「じゅうさん」と読むようになった。もっとも、現在は「十三湊」関連に限って古訓「とさみなと」に戻して読んでいる。遺跡は十三湊遺跡(とさみなと いせき)と呼ばれ、2005年(平成17年)714日に国の史跡に指定されている。

*十三湖は現在直接日本海に開口していますが、かつては砂州の間の水路、前潟を通じてつながっていました。

 遺跡は前潟と十三湖に挟まれた砂州先端に立地し、規模は南北約2キロメートル、東西最大500メートルにおよびます。

 前潟に面した西側が高く、そこに十三集落の街村が南北に立地しており、成立期の遺跡はこの中央付近で確認されています。

 集落東側の広大な畑地が遺跡の中心で、北西の前潟に面する地区に港湾施設、南端に伝壇林寺跡が位置しています。

 中心の地区は空堀を伴う東西方向の大土塁により南北に二分されています。

 土塁北側は遺構・遺物の内容から、領主やその関係者などの居住区と考えられ、大土塁は遺跡の最盛期である14世紀後半から15世紀前葉のものであり、その北側に遺構が営まれるのは14世紀前半にさかのぼります。14世紀後半以降は大土塁とほぼ同方向の柵を伴う東西道路が規則的に配置され、その間に多くの掘立柱建物・井戸、鍛冶・製銅の工房などの竪穴遺構が分布し、都市計画的な屋敷割がみられます。この地区は遺物の出土量も多く、奢侈品の陶磁器や東北地方では稀少な京都系のかわらけもまとまっており、中心的な場であることを示唆しています。この地区では15世紀前半の火事場整理の跡と考えられる、多量の被熱した礫を廃棄した遺構が多数存在するため、火災により多くの施設が焼失した後、いったん復興作業が行われたと推定されます。この火災は永享4年(1432年)の南部氏との抗争で敗れた際に伴うものとの指摘もあります。

 土塁南側は地割から町屋の存在が推測されています。側溝を備えた南北道路があり、その両側に掘立柱建物と井戸を伴う区画があります。南辺には墓跡や畑がみられ、この地区は15世紀中葉頃、土塁北側の火災後に計画的に整備されたが、まもなく衰退したと考えられます。

この地区から約300メートルおいて伝壇林寺跡があります。土塁や溝等による一辺百数十メートルの方形区画が東西にふたつ並ぶものと考えられ、東方区画は建物や井戸などから居住空間、西方区画はさらに溝による長方形区画があって遺物が少ないことから宗教的施設と推定されます。

 前潟に面した港湾施設は船着場に伴う遺構と推測さ、汀線付近の砂地に広く礫敷が認められ、護岸用の木杭と横板、桟橋の可能性がある縄が巻付いた杭等も出土しています。

伝壇林寺跡、港湾施設とも時期は土塁南側とほぼ同じであると考えられています。

 十三湊遺跡は13世紀初めに成立し、15世紀後半に急速に衰退するまで、中世国家の境界領域に位置するという立地条件のもと、北日本における日本海交通の拠点港として発展、繁栄しました。その衰退後は遺跡地の大半は開発されることもなく非常に良好に保存され、かつ周辺には山王坊遺跡等の関連遺跡が豊富に分布し、とりまく十三湖や日本海の環境・景観もすぐれています。

 国内において、重要な港湾を備えた大規模な遺跡として類いまれな事例です。(「平成17年史跡指定申請書」文化審議会による答申の概要説明文より引用)

(59-7)「枝ヶ崎町(えだがさきまち)」:松前城下の一町。大松前川下流左岸に位置する。西は大松前町と接し、東は泊川町。小松前町・大松前町・唐津内町とともに大手商人・問屋・小宿が店を構える城下の中心地。文化(180418)頃の松前分間絵図によると町の長さは北角から一二〇間。イソヤ場所請負人柳屋庄兵衛、下ヨイチ場所請負人・上ヨイチ場所請負人の柏屋喜兵衛、サッポロ場所請負人浜屋甚七、上ユウバリ場所請負人・下ツイシカリ場所請負人の畑屋七左衛門、アツタ場所請負人浜屋平次が店を構えていた。「蝦夷日誌」(一編)では「大松前町の并びなり。此名大松前の松の枝の振りし当りより起れるにやと思わる。小商人、問屋、小宿、請負人山十、并又十等有、繁華の町なり。うらは枝ケ崎の間と云船澗にして其処ニ又十(柏屋喜兵衛)のしまと云築地有。此又十(万屋増蔵)なるものは高田屋嘉兵衛欠処後、其請負を致して当時富さかえける。」とある。明治33(1900)、福山町の一部となる。

    *「枝ヶ崎町」の「ケ」:「カ(ガ)」と読む。「ケ」はカタカナでなく、「箇所(カショ)」の「箇(カ)」の冠「竹」の片割れ。

(59-11)「進達」の「進」:下級の行政機関から上級の行政機関に対し、一定の事項を通知し、または一定の書類を届けること。この場合、町奉行配下の吟味役から、上級の町奉行へ提出すること。

      *くずしは、「近」によく似ている。文脈から判断する。

(60-1)「古手屋(ふるてや)」:古着や古道具などをあきなっている店。古着屋、古道具屋など。古手店。また、それを職業にしている人。

(60-1)「手船(てぶね)」:近世、水運に利用するため自分で所有する船をいう。手船の所有者には幕府・各藩藩主、回船問屋・河岸問屋など運輸業者のほかに物資輸送に関与する商人や農民などもいた。藩主が年貢米や台所用物資あるいは商人荷物の運送に使用する船を藩手船ともよんでいる。運輸業者は雇船で荷物を運送するより問屋手船を使う方がより収益が大きかった。

(60-3)「買積(かいづみ)」:自分の資本で商品を買い入れて船で運んで他に売る商法。

なお、江 戸時代、北海道・奥羽・北陸地方など、上方からみていわゆる北国地方へ、廻船をもって買積あきないをすることを「北国買積(ほっこくかいづみ)」という。

(60-3)「子風(ねのかぜ)」:北風。「子(ね)」は北を差す。

(60-7)「面立(おもだち)」:重立(おもだち)。集団の中で主要な人物である。中心になる。かしらだつ。

(60-7)「奉行中三人(ぶぎょうちゅうさんにん)」:町奉行鈴木紀三郎、新井田周次、蠣崎四郎の三人。

(60-4)「某供両人(それがしともりょうにん)」:吟味役・奥平勝馬、南條長六郎のひたり。

12月学習 巡行記 注

(104-1)「のほ(ぼ)り」の「ほ(ぼ)」:変体仮名。字源は「本」。「不(ふ)」に見える。

(104-2)「天神の社」:現北斗市矢不来に鎮座する「矢不来天満宮」。伝承によると、文和年間(135256)の頃、当地に漂着した菅原道真の木像を安置したことに始まるという。『山川取調図』に、「ヤキナイ」の隣に「天ジン下」の名がみえる。

(104-2)「茂部地村」:茂辺地か。現北斗市のうち。近世、東在の村の一つ。茂辺地川右岸に位置し、東は箱館湾に面する。『山川取調図』に「茂辺シ」の名がみえる。

(104-3)「さがり」の「さ」:変体仮名「さ」字源は現行ひらがなの字源の「左」。

    *「左」と「右」:左の「工」は巫祝(ふしゅく=神事をつかさどる者)のもつ呪具(じゅぐ。呪術に用いる道具)。右の「口」祝を収める器をもつ形。左右は神を尋ね、その祐助を求めるときの行動を示す。ゆえに(尋)は左右を重ねた形。左右は援助を意味する語となる。(『字通』)

(104-3)「館(たて)跡」:『新羅之記録』に記された渡島半島に所在した和人の領主層の道南十二館の一つ、「茂別館」跡をさす。『山川取調図』には、「タテノ下」の名がみえる。なお、注記末尾に資料を添付した。(資料①道南十二館の名称と所在地。②館跡・周辺の考古学的知見) 

(104-4)「幅弐拾間計の川」:茂辺地川。流路延長20.6㎞の2級河川。

(104―5)「ちいさき平場」:小さな平地のこと。

(104-6)「當別村」:現北斗市の内。字名に「当別」の名がみえる。近世、東在箱館付村々の一つ。大当別川および当別川流域にあり、南は三石村に接する。『山川取調図』に、「トウベツ、大トウベツ」の名がみえる。

(104-6)「弐拾間程」:「間」は「軒」か。

(105-1)「三ツ谷村」:『山川取調図』の道順と照合すると、「三石村」の誤りか。「三石村」は、現北斗市のうち。「三ツ石村」とも。近世は、東在箱館付村々の一つ。『山川取調図』に「三石」の名がみえる。

(105-1)「打過(うちすぎ)」:「うち」は接頭語。ある場所を通り過ぎる。通過する。

(105-3)「泉沢村」:現木古内町のうち。字名に「泉沢」の名がみえる。近世、東在に存在した村の一つ。元禄郷帳には「いつみ沢村」、天保郷帳には、「泉沢村」としてその名がみえる。『山川取調図』には、「泉サワ」の名がみえる。

(105-2)「やと(ど)り」:(動詞「やどる(宿)」の連用形の名詞化。宿をとること。旅に出て、他の家などで夜寝ること。また、その所。

(105-3)「走野川」:泉沢村と札苅村の境を流れる「橋呉川」か。『廻浦日記』に「ハシクロ 川有、巾十間計。村境なり。」とある。『山川取調図』に「ハシクロ」の名がみえる。

(105-3)「札狩村」:「札苅村」。現木古内町のうち。字名に「札苅」の名がみえる。木古内町の北東に位置し、東から南は津軽海峡に面し、ほぼ南流する幸連川が海峡に注ぐ。『山川取調図』に、「札苅」の名がみえる。

(105-3)「大平川」:木古内町を流れる普通河川。

(105-4)「喜古内村」:現木古内町木古内。木古内町域の南端に位置し、北は札苅村、東は津軽海峡に臨む。『山川取調図』に「木子内」の名がみえる。

(105-4)「喜古内川」:木古内町内を流れる二級河川。流路延長13.6㎞。『山川取調図』に「キコナイ川」の名がみえる。

(105-4・5)「館有川」:建有川、立有川とも当てる。安政2年(1855)、蝦夷地再直轄の際、建有川~乙部間は、松前領として残った。(資料③参照)

(105-5)「中ノ川」:「中野川」。木古内町内を流れる二級河川。『山川取調図』に「中ノ川」の名がみえる。

(105-5)「森越川」:知内町内を流れる普通河川。『山川取調図』に「モリコシ川」の名がみえる。

(105-5)「大茂内川」:知内町内を流れる普通河川「重内川」。

(105-5)「尻内川」:大千軒岳(標高1071.6m)に源を発し、知内町内を流れる二級河川「知内川」。流路延長34.7㎞。『山川取調図』に、「知内川」の名がみえる。寛政11(1799)812日、知内川以東が幕府の直轄地になった。(資料③参照)

(105-6)「尻内村」:現知内町。近世、東在の村の一つ。北は木古内村、南は小谷石村。西は七ツ岳、袴越岳、岩部岳、南は丸山、灯明岳が連なる山岳地帯。東は津軽海峡に臨む。知内川河口部に集落を形成。

(106-1)「山本」:道順から、知内町に所在する、千軒岳麓の「知内温泉姫の湯」か。

『廻浦日誌』に、「温泉、従追分十丁余、山間、人家意一軒、温泉壺一ツ有」とある。

(106-2・3)「真土(まつち)」:耕作に適している良質の土。

(106-3)「一ノ渡」:『廻浦日記』に、知内村と福島村の村境に「網張野、一之渡野、一ノ渡」と「一之渡」の名がみえ、「川巾十間計、転太石川、此川本川也。」とある。また、『日本歴史地名大系 北海道の地名』には、「明治元年十一月、榎本軍は、(福島村の)一ノ渡、山崎などで、松前藩兵と戦闘を行っている。」とある。

(106-4)「弁当」:容器に入れて携え、外出先で食べる食べ物。

(106-5)「福嶋村」:現福島町。近世、東在の一村で、現福島町の北部から東部一帯を占めていた。枝郷を含めると、東は矢越岬を越え、知内村涌元(現知内町)近くの蛇ノ鼻から、西は慕舞西方駒越下の腰掛岩までの海岸線と、北は一ノ渡(字千軒)を越え、知内温泉(現知内町)近くの湯の尻、栗の木堪坂までの広範な地域。『山川取調図』に「フクシマ」の名がみえる。

(106-5)「出立掛(しゅったつがけ)」:出かける時。出発するまぎわ。でがけ。

   「でがけ」は、出たばかりのところ。出だし。第一歩。

(106-5)「白符村(しらふむら)」:現福島町白符。近世は、東在の一村で、「白府」、「白負」とも。『山川取調図』に「白府」の名がみえる。

(106-6)「間内と言川」:「澗内(まない)川」。白符村の南端を流れる二級河川。流路延長37.4㎞。

(106-6)「宮哥(みやのうた)村」:現福島町宮歌(みやうた)。近世、東在の一村。宮歌川の流域に位置し、北方は白符村、東は津軽海峡。『山川取調図』に「宮ノウタ」の名がみえる。

(107-1)「吉岡村」:現福島町字吉岡、字館崎、字豊島、字深山。近世は東在の一村で、吉岡川の流域に位置。道南十二館の内、穏内(吉岡の古名)館があった。吉岡澗(湊)は、「東向の湊ニ而、城下澗(松前湊)より風の憂」なく、「50艘程入選することもある」といわれている。『山川取調図』に「吉岡」の名がみえる。

(107-3)「礼髭村(れいひげむら)」:現福島町字吉野、字松浦。「レヒゲ」とも。近世、東在の一村。北方は吉岡村、東は津軽海峡。『山川取調図』に「礼ヒケ」の名がみえる。

(107-6)「大嶋」:松前大島とも呼ばれ、松前町字江良の西方約56キロにある無人の三重式火山の島。松前小島の北西にある。『山川取調図』に「大島 周七里」とある。

(107-6)「小嶋」:松前小島とも呼ばれ、渡島半島から南西へ約24キロ離れた日本海上に浮かぶ孤島。周囲約4キロ、標高約293メートル。『山川取調図』に「小島 周二里余」とある。

(108-1)「行事(いくこと)」:「古」+「又」は、「事」の異体字。

(108-2)「炭焼沢と言村」:「炭焼沢村」。現松前町字白神。近世、東在城下付の一村。渡島半島南西端に位置し、半島の突端は、白神岬。『山川取調図』に「白神」、「スミヤキ」とある。

(108-3)「荒谷村」:現松前町字荒谷。近世、東在城下付の一村。松前湾に注ぐ荒谷川河口域に位置する。『山川取調図』に「アラヤ」の名がみえる。

(108-3)「大澤村」:現松前町字大沢。東在城下付の一村で、大沢川河口域位置する。『山川取調図』に「大サワ」の名がみえる。

(108-4)「根森村」:現松前町字大沢。近世は、東在城下付大沢村の支郷。『山川取調図』に「子(ネ)モリ」の名がみえる。

(108-4)「大泊川」:現松前町字月島、字豊岡、字東山付近を流れる伝治沢川。享保―宝暦期に、「伝治沢川」を「大泊川」と称していたとある。

(108-5)「唐津内」:現松前町唐津内。近世、城下付の一町。城下のほぼ中央に位置し、南は海に臨む。『蝦夷日誌』では、「此町、中買、小宿、請負人にし而伊達、山田、山仙等有て町並美々敷立並たり。南面海ニ面し船懸り澗有、上の方太夫松前内記、蠣崎蔵人邸等有」と記されている。『山川取調図』に「カラツナイ」の名がみえる。

(109-2)「道法は凡五百里余」:巡見に同行した武藤勘蔵の『蝦夷日記』では、「道法往返にて五百五十六里」となっており、本書とは、約五十里程の差がある。

(109-2・3)「可有之なり(これあるべきなり):断定の助動詞「なり」は、体言と副詞、活用語の連帯形に付く。助動詞「ごとし」には「ごとくなり」のように連用形に付く場合もある。連体形に付く例は上代にはなく、中世以後。

(109-4)「未(ひつじ)九月」:寛政11年(1799)己未。蝦夷地巡検の日程は、寛政10年(1798)戊午4月江戸出立、5月16日松前唐津内到着。5月25日松前出立~(巡見)~8月22日松前唐津内到着となっており、筆者が、本書の『蝦夷嶋巡行記』を著したのは、一年後の翌寛政119月。

(109-4)「公暇齋蔵」:幕吏か。「公暇」は、「官公吏などに公に与えられた休暇」を意味するから、筆名か。筆者は、寛政10(1798)、幕府の蝦夷地調査隊の勘定吟味役・三橋藤右衛門一行の西蝦夷地巡検に参加した巡検隊のひとり。

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