◎日露和親条約の締結年月日
・和暦では、安政元年12月26日
・ロシア暦では、1855年1月26日。この日付は、条約に明記されている。
・西暦では、1855年2月7日。

○安政元年について
①普通の年表では、「安政元年(1854)」とあり、親切な年表には、(11.27改元)とある。だから、安政元年は、和歴11月27日から12月30日まで(この年の12月は、大の月)である。
それ以前、つまり、和歴1月1日から、11月26日までは、嘉永7年ということになる。
②年表の見出しに「安政元年(1854)」とあることから、日露和親条約締結年を、かっこで、西暦に表示するとき、「1854年」としている論文などがあるが、正しくない。というのは、1854年は、和暦では、嘉永6年12月3日から、嘉永7年11月12日までである。それ以降が1855年となる。
③嘉永から安政に改元されたのは、和歴では、11月27日で、日露和親条約が締結されたのは、和歴安政元年12月21日であるから、この日は、西暦では、1855年2月7日となる。
④だから、日露和親条約が締結された年を西暦で表せば、1855年である。

◎余談だが、歴史小説なんかでも、陰陽歴対照表を見ないで、年表だけ見て、年号を書いているものを見かける。
近著では、山本一力の『ほかげ橋夕景』の「湯呑み千両」でも、「安政元(1854)年の大晦日」とある。この小説のキーワードにこの年の11月27日の改元があるが、それだけに、14日前の和歴11月13日、西暦が、1854年から1855年に改まっているのを知ってか知らずか。つまり、安政元年の大晦日は、1855年2月16日であり、1854年ではない。

◎結論
日本の歴史の論文であれ、歴史小説であれ、和歴に、西暦を併記する場合、陰陽歴対照表で確認しないと、間違うことになる。それをしないなら、いっそのこと、併記しないほうがいい。
こういいながら、私の古い文章は、対照表を見ないで、年表だけ見て併記してるものが、結構あると思うので、反省している。