上級6~⑤注                                 

 

(1-1)「雑居規則」・・慶応3年に、日本とロシアの間で仮調印された仮条約。樺太における日露国境画定のためにロシアに派遣された箱館奉行小出秀実と目付石川利政ロシア外務省アジア局長ストレモウホフとの間で交渉を行った。旧歴2月25日(西暦3月30日・露暦3月18日)にサンクスペテルブルクにおいて仮調印されたが、日本は条約の一部条項の承認を拒絶し、その旨ロシア領事に通告した。結局、樺太における国境を画定することはできず、樺太はこれまで通り両国の所領とされた。

日本側が拒否した内容は、樺太全島をロシア領としたこと(第1条)、ウルップ島、チルポイ島、ブラツチルポイ島、ブロトン島 を日本領としたこと(第3条)であった。

結局、樺太の国境画定は、明治8年における、樺太での日本の権益を放棄する代わりに、得撫島(ウルップ島)以北の千島18島をロシアが日本に譲渡すること、および、両国資産の買取、漁業権承認などを取り決めた樺太・千島交換条約を締結まで、両国間に懸案として残された。

(1-4)「ある」<文法の話>・・ラ変動詞「あり」の連体形。住んでいる、暮しているの意。もともとは、「昔、男ありけり」(『伊勢物語』)などのように、人・動物も含めてその存在を表したが、現代語では、動きを意識しないものの存在に用い、動きを意識しての「いる」と使い分けているから、本文書の「島中にある両国人民・・」の「ある」は、違和感がないでもない。が、人でも、存在だけをいう時には「多くの賛成者がある」とか、「我思う。故に我あり」などのように「あり」「ある」ともいう。

(1-5)「慮(おもんばか)り」・・「オモヒハカリ」の撥音便(はつおんびん。「に」「ひ」「び」「み」「り」が鼻音になること。ひらがなでは「ん」で表す)。よくよく考えて、思いめぐらしての意。

(1-5)「永世(えいせい)」<漢字の話>・・「世」を「セ」と読むのは、漢音。「世界」「世帯」など。「セイ」は呉音。「世紀」「世嗣」など。「永世」の「世」は、呉音で「セイ」と読む。

(1-7)「議定(ぎてい・ぎじょう)」・・評議して決めること。「テイ」は漢音。「ジョウ」は呉音。

(1-7)「大君(たいくん)」・・江戸時代、外国に対して用いられた徳川将軍の称号。中国の『易経』に、みえるもので、いずれも天子を指す。この称号がわが国で外交文書に使用されたのは、徳川3代将軍家光の時、寛永13年のことで、寛永元年の朝鮮国王への書翰中の将軍署名「日本国源家光」に対馬藩が独断で「王」を加えて(「日本国王」)送ったことが原因であった。そこで「日本国大君」の称号に変更し、寛永13年の朝鮮からの国書にはじめてこの文字を使用させた。これが6代将軍家宣の時、新井白石の意見により一時中止され、「日本国王」と改められた。中国では大君は天子の称であり、朝鮮では王子の嫡子の称であるというのがその理由であった。しかし8代将軍吉宗は日朝外交の体例を五代綱吉の時のものに戻したから、以後、再び「日本国大君」の称号が用いられ、幕府滅亡に至るまでは欧米諸国との外交文書にもこの称号が使用された。本文書当時の「大君」、つまり、徳川将軍は、15代慶喜。

(1-78)「日本大君之使節」・・いわゆる小出使節団。慶応2年、幕府は、樺太国境画定交渉の遺露使節団の代表正使として小出秀実外国奉行兼箱館奉行をロシアへ派遣した。副使はのちに最後の北町奉行となる石川利政である。同年1112日、横浜を出発、1212日、ペテルブルク着、1230日から翌年27日までに、ロシア外国事務参政アジア局長スツレーモフと9回にわたり交渉した。225日、日露間樺太島仮規則が仮調印された。途中、プロイセンのオットー・フォン・ビスマルク宰相やナポレオン3世と謁見し、第2回パリ万国博覧会に参加している。このとき使節団に随行したのが、榎本武揚、山川浩志などである。箱館奉行同心・志賀浦太郎もロシア語通訳として随行している。

(1-8)「サンクト ヘチュルブルク」・・サンクト・ペテルブルク(Sankt Pjetjerburg )。ロシア連邦北西部、フィンランド湾奥のネバ川河口にある都市。1703年、ピョートル大帝によって建設された旧ロシア帝国の首都。1914年ペトログラード、24年にレニングラードと改称されたが、91年現名称に戻った。モスクワに次ぐロシア第2の都市で、造船・兵器・繊維などの工業が盛ん。冬宮・エルミタージュ美術館などがある。ペテルブルク。ペテルスブルク。

(1-11)「シレタトル」・・長官。Secretory

(1-11)「タニーソウエッニク」・・ロシアでは、名前は、名前全体を言う正式名としては、「名・父称・姓」の三つをこの順に並べて言うから、(例 アレクセイ・フョードロヴィチ・カラマーゾフ=カラマーゾフ家のフョードルの息子アレクセイ、の意。)ここでいう、「官名」は、ロシアの「父姓」のことか。

(1-12)「スツレモーホフ」・・Stremauhovストレモウホフとも。彼は、明治8年の樺太・千島交換条約締結の際にも、ロシア側代表であった。

(1-12)「報答(ほうとう)」・こたえること。返事。

(1-12)「巨細(こさい・きょさい)」<漢字の話>・・くわしいこと。「巨」を「こ」と読むのは、慣用音(日本で昔からつうようしている字音)。「巨燵(こたつ)」、「巨摩(こま。山梨県の郡名)」など。「巨」は、万葉仮名(乙類)の「こ」でもある。

(2-5)「方今(ほうこん)」・・ちょうど現在にあたる時分。ちょうど今。ただ今。また、近い過去から現在までを漠然とさしてもいう。現今。

(2-6)「向後(こうご・きょうこう)」・・この後。今後。もと漢語で、平安時代の漢文資料に多く見られるが、鎌倉時代以降国語化が進み、口頭語・記録語の中に定着した。時代を問わず漢音で「きゃうこう」と読まれたが、江戸時代には「かう(呉音)+ご(慣用音)」という読み方もされた。

(2-8)「ウルップ」・・ウルップ島。千島列島南部の島。古くは得生(うるふ)島、ラッコ島などとよばれた。北東は新知(シムシル)島に、南西は択捉(えとろふ)島に連なる。長さ117キロメートル、幅20キロメートル、面積1420平方キロメートル。ロシア連邦ではサハリン州に属し、ウルップ島Урупとよぶ。海岸線は海食崖(がい)が発達し、オホーツク海に面する北西岸の床丹(とこたん)湾が唯一の錨地(びょうち)。島には25の火山が並び、南部に白妙(しろたえ)山(1326メートル)、中央やや北寄りに雪光(せっこう)山(1330メートル)の2火山がぬきんでている。後者は美しい円錐(えんすい)火山で、晴天なら90キロメートルの海上から遠望でき、船舶のよい目標となる。1643年(寛永20)オランダ船が記録し、1786年(天明6)には最上(もがみ)徳内が探検、1801年(享和元)江戸幕府が島の南端に「大日本属島」の木標を立てた。1878年(明治11)ごろ南樺太(からふと)から転じた松前商人が漁場を開いたが、84年、明治政府は先住民約100人を色丹(しこたん)島に移住させた。

(2-8)「チルボイ」・・ウルップ島の北東にある小島。チリポイ島(知理保以島)。知理保以北島とも。周囲約 22 キロメートル、面積約 21 平方キロ資料1

(2-89)「フラットチルボイ」・・ウルップ島の北東にある小島。チリポイ南島(知理保以南島)。直径約500メートル、最高点153メートルでほぼ円形をした小島がある。資料1

(2-9)「フロトン」・・ウルップ島の北にある小島。ブロートン(武魯頓)島。島の名前の由来は、1796年(寛政8年)から2年に渡り千島・サハリン沿岸を調査した、イギリス海軍プロヴィデンス号のブロートン艦長(噴火湾の命名者でもある)に由来する。面積7平方キロ、海岸線17キロ。資料1

(3-4)「争端(そうたん)」・・争いのいとぐち。もめごとの発端。

(3-5)「司人(つかさびと)」・・役人。官人とも書く。

(5-5)「訳官(やっかん)」・・翻訳、または通訳をする役人。通訳官。通事。読むときは、「やくかん」でなく、促音便に「やっかん」と読む。

(5-7)「北特堡(ペテルブルク)」

(5-9)「小出大和守(こいでやまとのかみ)」・・小出秀実(ひでみ)。幕末の武士。土岐頼旨(とき-よりむね)

の子。小出権之助の養子。幕臣。目付外国掛などをへて文久297日、箱館奉行となり、慶応2年外国奉行を兼任。同年ロシアで樺太(からふと)の国境交渉にあたり、国境画定にはいたらず日露雑居の仮条約に調印する。3年勘定奉行、江戸町奉行となった。通称は修理(しゅり)。著作に「魯国御用留」。

(5-10)「石川駿河守(いしかわするがのかみ)」・・石川利政(いしかわ-としまさ)。幕府の武士。幕臣。慶応2年目付となり、箱館奉行小出秀実(ひでみ)にしたがってロシアにいき樺太の国境画定交渉にあたる。のち、その

経緯を「魯行一件書類」にまとめる。帰国後外国奉行、4年江戸町奉行となる。同年5月幕府の脱走兵と内通した疑いで新政府軍に屋敷をかこまれ自殺。通称は謙三郎。

・・中国音で、「北 bei」、「特 te」、「堡 bao」で、「bei te bao」。この他に、「比特堡」「彼特堡」などの表記がある。「樺太概覧」は、ほとんど「比特堡」としている。「福沢諭吉は『世界国尽』のなかで、「平土留保留府」をあて、「ぺいとるぼるふ」と振り仮名している。ちなみに、(1-8)「サンクト ヘチュルブルク」は、「聖彼特堡」などを宛てる。