(1-3)「仕込米(しこみまい)」・・準備米。

(1-4)「澗(ま)」・・河口を利用した河港と区別して、入江や島かげを利用した港をいう。日本海岸から北海道地方にかけて使われることが多い。掛り澗。間湊。

(1-4)「図合船(ずあいぶね)」・・江戸時代から明治期にかけて、北海道と奥羽地方北部でつくられた百石積以下の海船の地方的呼称。小廻しの廻船や漁船として使われた。船型は水押付の弁才船系統であるが、百石積以上の廻船を弁才船として区別するため特に呼ばれるもの。『初航蝦夷日誌』(松浦武四郎著)の凡例に「図合船七十五石より九十五石迄之船を云也。此船近場所通ひに多く用ゆ」とある。

(1-5)「越年(おつねん・えつねん)」・・年を越すこと。「エツ」は漢音、「オツ」は呉音。

(1-5)「為積入(つみいれさせ)」・・積みこませ。

(1-7)「囲船(かこいぶね)」・・長期にわたり使用しないため、陸に引き上げて筵(むしろ)、苫(とま)などで囲い、腐朽しないようにしてある和船。

(1-11)<欠字について>・・「当 御支庁」の「当」と「御」の間が1字あけてあるが、これは、「欠字」といって、古文書の趣きの特徴のひとつ。尊敬の体裁として、尊人などを書く時、敬意を表するため、そのすぐ上を1字か2字分あけて書くこと。

(1-11)「支庁(しちょう)」・・ここでは、開拓使根室支庁のこと。支庁は都・道・府・県庁に属する出先機関の一つで、北海道では市以外の全域に、その他の都県では交通不便の地などに設けられ、本庁まで行かなくても用が足りるようにした役所。

北海道では、明治政府によって置かれた開拓使の出先機関として、明治5914日に5つの支庁(函館、根室、浦河、宗谷、樺太)が設けられたのが始まり。その後、明治30年、それまでの郡役所所在地をもとにした19支庁が設置され、さらに明治43年、鉄道開通に伴い交通事情が改善されたことから、支庁の一部統合により14支庁とされ、このときに14支庁体制がほぼ形づくられた。平成2241日に、支庁は総合振興局となり、支庁はなくなった。

 <根室の役所名の変遷>

 ・明治2.10.9・・判官松本十郎、「根室開拓使出張所」を開設。

 ・明治3.6.17・・花咲、根室、野付の3郡を東京府に割譲。

 ・明治4.5.-・・「根室開拓使出張所」を「根室出張開拓使庁」と改称。

 ・明治5.9.14・・「開拓使根室支庁」設置。本文書は、この間の時期。

 ・明治15.2.8・・開拓使廃止、根室県設置。

 ・明治19.1.26・・北海道庁設置。根室支庁を置く。

(1-12)「野附郡(のつけぐん)」・・明治28月から現在までの根室国および根室支庁管内の郡名。明治2815日設置。旧ネモロ場所の一部が郡域となる。北海道東部、根室国の中央部南寄りに位置し、東は根室湾および根室海峡に面し、南は根室郡、北は標津(しべつ)郡、西は釧路国川上(かわかみ)郡に接する。現在は別海(べつかい)町一町。郡名は松浦武四郎の提案により「野付(のつけ)郡」とされた(「郡名之儀ニ付奉申上候条」松浦家文書)。明治28月開拓使の所管となり、同3617日から同年閏109日まで東京府の管轄となり(新北海道史・法令全書)、その後開拓使根室出張所(根室出張開拓使庁を経て開拓使根室支庁となる)の管轄となった。同53月根室支庁管内の村名が定められた(「事業報告」第一編)。ベツカイ、ヒライト、ノツケ(現別海町)、チャシコツ(現標津町)の4ヵ村で、同85月の根室支庁布達(開拓使根室支庁布達全書)により仮名書きの村名が漢字に改められ、別海村・平糸(ひらいと)村・野付村・茶志骨(ちやしこつ)村となった。ただし「根室国地誌提要」では帆仁恋(ほにこい)村(現標津町)を含み5ヵ村となっている。この間、明治67月に別海村に開拓使根室支庁野付出張所が置かれ、野付・標津・目梨(めなし)の3郡を管轄した。同86月同出張所は廃止され、当郡は支庁直轄となった(「事業報告」第一編)。

 野付郡は、かつては、茶志骨村、別海村、平糸村、野付村があったが、現在は、11町で、別海町のみ。

 <漢字の話>「附」と「付」・・「附」は、「付」の旧字体ではなく、別字。両方とも常用漢字になっている。「付」と「附」の元来の意味では、「付」は「あたえる(付与・交付)」、「附」は「つく(附着・附録・附近・寄附)」であったが、現在ではいづれの場合も「付」で書かれることが多い。ただし、官庁・法律の用語で「附属」「附則」などには、「附」を用いる。たとえば、「北大附属図書館」など。しかし、新聞では、「附」を用いず、「付」は22年、市制・町村制の施行により廃止された。

(2-3)「漁場持(ぎょばもち)」・・明治21029日、開拓使は、場所請負人を当分「場所持」と改称し、従前通りの漁場経営を認めた。場所請負制度は廃止されたが、大部分の請負人は旧請負場所のうち若干の漁場に対する出願をして新たな漁場持となった。場所請負制度廃止の意味は大きかったが、旧請負人にはその後も大経営者となり、相当数の漁夫を雇用するものが多かった。

(2-4)「七等出仕(しちとう-出仕)」・・開拓使の職名。六等出仕の下位、大主典の上位。

(2-4)「折田平内(おりた-へいない)」・・明治時代の官僚。弘化3127日生まれ。勤皇を志して、 諸国の名士と交流を持ち、黒田清隆の門下であった。明治4年12 に開拓使八等出仕となる。5年に開拓大主典、10月7等出仕となり、18年8月8日に開拓幹事。10年1月に開拓権少書記官となり、11年11月に権大書記官となる。のち、内務大書記官、山形県令、福島県知事をへて、明治21年警視総監。さらに栃木,広島,滋賀の県知事を歴任した。27年貴族院議員。明治3856日死去。60歳。薩摩(さつま)(鹿児島県)出身。

(2-7)「副戸長(ふくこちょう)」・・明治445日太政官より出された戸籍法によって、便宜に従って区画を定め、区ごとに戸籍事務を掌る役職者として、戸長と副戸長がおかれたのがはじまり。このときは戸籍の責任者という限定があったが、翌549日太政官布告によって、旧来からの庄屋・名主・年寄などという地域の総括責任者を戸長・副戸長と改称することになった。だが区の名称は残ったので、同年1010日大蔵省達によって、各地方土地の便宜により大区に区長、小区に副区長を設けてよいことになった。しかし、この達も任意的なもので、全国的に統一されたわけではなく、むしろ、小区の長は戸長と呼ばれた例も少なくない。同11年の郡区町村編制法ではすべて旧来の郡町村をそのまま行政単位と認め、町村ごとまたは数町村に戸長が一名おかれた。この戸長は行政事務に従事する面と、町村の理事者としての面とをもっていたが、その多くは旧村の名主・庄屋層、豪農層から選ばれた。選出方法は多くの場合民選であったが、戸長の権限は国税徴税、町村公共事業起工、徴兵、戸籍、布告・布達の伝達、義務教育、水利土木、怠納処分権などに及び、旧来の名主・庄屋に比べ行政吏としての性格が強くなっていた。町村民に近く、影響力のある人を末端責任者に据えることを得策として、戸長が原則として町村ごとに定められたのに、その職務が明治政府の末端官吏のようなものであったところに、戸長職の矛盾があった。少なからぬ戸長が自由民権運動に加わったゆえんである。明治22年、市制・町村制の施行により廃止された。