(1-1)「使掌(ししょう)」・・開拓使の最下級の職。受付・守衛・設営その他の任に当たった。

(1-2)「歳給米(さいきゅうまい)」・・「歳給」は、毎年の給金。一年間の収入。*杜詩続翠抄〔1439頃〕一三「給は歳給、月給、日給としてもあれ」。

(1-45)「昨辰年壬四月(さく-たつどし-うるう-しがつ)」・・慶応4年閏4月。明治改元はこの辰年98日。

(1-4)「壬(うるう)」<漢字の話>・・影印は、「閏」の異体字「壬」。しかし、中国の字書「字彙」に、「閏」は、「壬誤(壬の誤り)」とある。なお、「閏」の解字について、『漢字源』は、「門」+「王」で、暦からはみ出した日には、王が門の中にとじこもって政務をとらないことをあらわす。定数からはみ出る、不正規なものの意。としている。語源については、「潤」を文字読みしたウルヒから生じたものか、とする説がある。

 <閏年について>太陰太陽暦(旧暦)で、月の運行による暦年が太陽の運行によって定まる季節から大きくずれないようにするために、12ヵ月の年の間に時々13ヵ月の年をおく。その余分の月を閏月と呼び、たとえばそれが5月の次にあれば閏5月と呼ぶ。1朔望月(約29.53日)の12倍は1太陽年(約365.24日)より10日余り足りないので、平均32.3ヵ月に1閏月をおく必要が起る。置閏法は197閏が古代諸国に広く行われ、その置く場所は、年の半ばと年末とがあったが、のち中国では中気(24節気のうち冬至・大寒・雨水・春分・穀雨・小満・夏至・大暑・処暑・秋分・霜降・小雪を中気という。中気と中気との間隔は約30.43日)を含まない月を閏月と定めた。日本に行われた暦では、元嘉暦だけ197閏であったが、儀鳳暦以後も長くそれに合わせる努力がなされた。この置閏法により、閏月は推算により自動的に決した。

(1-5)「清水谷殿(じみずだに-どの)」・・清水谷公考(しみずだに-きんなる)。幕末-明治時代の公家、華族。弘化296日生まれ。慶応4年箱館裁判所総督、ついで箱館府知事となる。同年秋、榎本武揚(えのもと-たけあき)ひきいる旧幕軍の来襲で青森へ避難。のち反撃する政府軍を指揮して箱館を奪回し、戦後処理にあたる。一時、開拓使次官をつとめた。明治151231日死去。38歳。

(1-5)「下向(げこう)」・・都から地方へ行くこと。くだること。清水谷は、慶応4年閏45日、箱館裁判所総督に任命された。彼が京都を出発し、蝦夷地に向け出発したのは、慶応4年閏414日のこと。敦賀から長州船・華陽丸に乗船し、同月26日箱館に着いた。なお、箱館への航行中の閏424日に、箱館裁判所は、箱館府と改称され、清水谷は、箱館府の知事に任命されている。

(1-56)「幕府より御引継」・・『函館市史』より、その引継の経過を述べる。

 ・慶応4年閏410日・・新政府の官吏・吉田復太郎、村上常右衛門、堀清之丞(のち基と改名)の3名が先触れ事前調整役として箱館へ派遣され、10日、旧幕府箱館奉行杉浦兵庫頭に面会(箱館の本陣宿で)、箱館裁判所が設置され総督、副総督が近日中に下向する旨を伝え、同時に旧幕府の金穀、倉廩、器財等の引渡封印、下僚の箱館裁判所への任用等引継手続についても伝達した。ここに初めて新政府の意志が直接旧幕府箱館奉行所に伝えられた。

 ・同11日・・杉浦兵庫頭は、近日中に箱館裁判所総督下向する予定と、箱館を総督へ引継ぐことになった旨を市在に触れ出し、自身は五稜郭の役宅を出て組頭宮田文吉の屋敷(文吉は山村惣三郎宅へ移り同居)に引き移り、吉田、村上、堀の3人が立ち会いの上、金穀武器蔵に封印をした。

 ・同26日午後、杉浦奉行と新政府内国事務局判事小野淳輔との間で五稜郭管理引継ぎを終え、五稜郭の門番も松前、南部、津軽3藩の手に移り、番士も交代、船で箱館港に入っていた清水谷総督一行は、称名寺で休息後夕方遅く五稜郭に入った。

 ・同27日、空き役宅に仮役所を移していた杉浦兵庫頭は五稜郭へ出頭して清水谷総督と対面。杉浦が作成した目録引渡しは51日に行うことに決定、役々の去就等はその後の話し合いでということになり、引渡し後も当分の間は、江戸に帰ることを願い出ている者までも手助けをすることに決定。

 ・51日、杉浦兵庫頭は熨斗目麻上下姿で五稜郭に出頭、引渡目録13冊を清水谷総督へ手渡し、一ノ間に着座していた総督は一覧の上これを受取り、引継式は終了した。清水谷は、五稜郭において箱館裁判所の開庁を宣言した。

(1-7)「裁判所(さいばんしょ)」・・司法権を行使する国家機関をいうが、歴史上は、行政機関の呼称として用いられたのを嚆矢とする。慶応4年正月27日に、大阪鎮台を大阪裁判所と改称し、つづいて、兵庫鎮台も兵庫裁判所と改め、さらに、長崎・京都・横浜・大津・箱館・笠松・新潟・但馬府中・佐渡・三河に裁判所を新設した。しかし、同年閏421日になって政体書が制定され、地方行政が府・藩・県の三治に分けられることになるや、裁判所も府あるいは県と呼ばれることになり、同月24日に、箱館裁判所が箱館府と改称されたのをはじめとして行政機関である裁判所は順次消滅することになった。

 <箱館裁判所と箱館府>箱館裁判所は、慶応4412日に設置された。次いで閏424日、箱館府と改称(慶応4年閏421日の「政体書」を受けて3日後の24日改称蝦夷地での布達は717日)されたのちも、箱館裁判所は、開拓使が設置されるまで蝦夷地の諸政を担当したが、新政府が誕生したばかりで、諸制度が未整備であったため、これまでその設置時期や改廃に関して混乱がみられる。(『函館市史』)

(1-7)「趨事(すうじ)」・・裁判所開庁の際、判事、権判事以下の職名を司事、参事、従事、給事、趨事、無等(のち行事と命名し、78日に属事と改称)の6等と定めた。

 職名の対照表及び給料と各局定員数は、次の通り。
・司事席・・以前の組頭・同格(月俸四百円~二百円)・・民政三員、文武生産外国勘定監察執達各一員都て八員、判事を補、一局ノ諸務を督す
・参事席・・以前の調役・同並・同出役・同並出役(月俸三百円~百円)・・民政四員、其外各局二員、夫々分職を受て各其一務を掌る。都て十六員
従事席・・以前の定役元締・同格(月俸二百円~七十五円)・・民政六員、文武生産各四員、外国勘定各三員、監察執達各二員都て二十四員、参事等ノ職を補ふ、又各其事務に従ふ、場所出役ノ者は一千家に一員を置・給事席・・以前の定役・同格・同出役(月俸百二十円~六十円)・・民政十員、其外各六員、監察執達各三員都て四十員、場所出役凡五百家に一員を置く。
趨事席・・以前の同心組頭・同格・同心(月俸七十円~三十円)・・民政二十員、文武生産各十二員、外国勘定各八員、監察執達各四員都て六十八員
・無等・・以前の足軽     

(1-78)「市中掛(しちゅうかかり)」・・箱館府は、旧幕府脱走軍から蝦夷全島の奪回体制が整った330日、奪回後の施政刷新のため機構改革を実施した。元年閏4月の政体書体制の具現化を目指したもので、中央政府の機構に倣って府を上下2局に分け、上局を評議決定権を持つ議事局とし、下局を実際に施政に携わる施事局とした。さらに施事局を庶務、外国、会計、刑法の4局に分け、それぞれの職掌を分掌した。「市中掛」は、庶務局の中の掛。資料3.

(1-910)「脱走人襲来(だっそうにんしゅうらい)」・・明治元年1020日、榎本武揚率いる艦隊鷲の木に上陸した。

(1-1011)「同廿五日 清水谷殿には、向地へ御引揚」・・清水谷知府事は、24日夜五稜郭を出て箱館に移り、25日未明、府の首脳らと共にカガノカミ号(後に陽春艦と改称)で箱館港を脱出、その日の夕刻青森港へ入った。

(1-122-1)「長谷部卓爾(はせべたくや)」・・長谷部辰連(たつつら)。旧福井藩士。幕末・明治初期の政治家。弘化元年生まれ。勝海舟門下に入り航海術を学ぶ。慶応4年4月、箱館裁判所勤務を命じられる。のち、開拓大書記官となる。さらに、山形県知事を経て貴族院になる。明治43年没。

(2-4)「山背泊り(やませどまり)」・・箱館市中の1町。函館山山裾北部に位置する。現在函館市入船町。

(2-7)「小安村(おやすむら)」・・現函館市戸井町字小安町(おやすちよう)。近世から明治35年までの村。

(2-89)「鑿穿(さくせん)」・・穿鑿(せんさく)。さぐり求めること。

(3-1)「菊地出雲守(きくちいずものかみ)」・・箱館八幡宮の神職菊池出雲守重賢(しげたか)。

(3-2)「村山次郎(むらやまじろう)」・・箱館戦争の時、旧幕府脱走軍が占拠した箱館で遊軍隊を名乗り、ゲリラ的活動を行った一団の代表。遊軍隊は、明治元年10月脱走軍に追われて箱館府知事清水谷公考(しみずだにきんなる)らが青森に避難した際、村山次郎(歌人で箱館府の役人)が箱館に残った府の役人と市民有志で組織したちょう報機関。(『函館市史余話』)

(3-6)「地蔵町(じぞうまち)」・・箱館市中の1町。函館山東部、函館港沿岸。町名の由来は、弁天町にあった高竜寺持ちの地蔵堂があったため。現函館市豊川町。

(3-11)「当五月十一日、御討入」・・政府軍が海陸より箱館に進撃した。

(3-12)「赤川村(あかがわむら)」・・函館市赤川町。近世から明治35年までの村。亀田川中流域にある。近世は東在の村

(3-12)「出陳(しゅつじん)」・・出陣。影印の右は、「車」でなく、「東」