(欄外)「郵便より来(きたる)」・・北海道における郵便業務の開始

  ・明治46月・・開拓使、郵便掛設置。

  ・同48月・・函館郵便役所設置。

  ・同471日・・函館と東京間の郵便がはじまる。(往復回数も月18回。9月には郵便逓送のために函館青森間に汽船の運航を開始)

  ・明治59月・・開拓使、渡辺仙輔(津軽通54=現南4西5)をして札幌郡郵便取扱人に任命。

  ・同5101日・・函館から札幌まで毎月6回郵便業務開始。(東回りで函館から室蘭を経て札幌へ、札幌からさらに小樽へ。西回りで函館から江差、福山を経て後志国久遠までが開設)

  本道の郵便事業は、駅逓を利用して本州に遜色のない速さで広がり、7年には森から長万部・岩内を経由して小樽へ、8年には苫小牧より浦河を経て根室に至る路線、銭函から留萌を経由して苫前までの路線が設置され、9年にいたって、苫前から宗谷へ、宗谷からオホーツク海を下り紋別まで、紋別からさらに網走、舎利を経て根室国厚別までの路線が開設され、浦河・根室線に連絡して、ここに全道一周路線が完成した。

  ・明治81月・・郵便役所、郵便取扱所が郵便局と改称、12年末までには85局を数えるまでに至った。(この項『新北海道第3巻』参照)

 <郵便の意義>そもそも「郵」とは、古代中国において「宿場」のことであった。また宿場を通じて人馬により文書などを継ぎ立てたから「伝達」の意味にも用いられた。さらに宋(そう)代以後になると、公文書を伝達する方法として駅逓(えきてい)と郵逓との区別が設けられた。駅逓はその字のとおり、騎馬によって送達される。郵逓は歩逓ともよばれ、人間の脚によって送達した。そこから「郵」は、人間が歩いて、あるいは走って、文書を伝達するという意味をもつようになる。

  日本の江戸時代において、幕府御用の継飛脚(つぎびきゃく)は、ひたすら走って公用文書を送達した。民間で発達した町飛脚は、遠路の場合には馬に乗ったが、ゆっくり歩き、また近距離の場合には人間の脚で送達した。そこから漢学者のなかには、飛脚による送達を「郵便」と表現する者もあった。明治4年、近代郵便の制度が発足するにあたり、立案者である前島密(ひそか)は、こうした沿革を踏まえて「郵便」の語を採用したわけである。当時は交通機関が発達していなかったから、当然のことながら、差し出された文書は人間の脚によって送達され、配達されたのであった。

 <漢字の話>「郵」・・部首は、「邑(むら)」部。「邑」+「垂(地の果て、辺境)」で、もと国境に置いた、伝令のための屯所(とんしょ)のこと。

 (欄外)「正院(せいいん)」・・明治初年の政府の最高官庁。廃藩置県直後の明治4729日、官制改革によって太政官職制及び事務章程が制定され、太政官に正院・左院・右院が設置された。正院には太政大臣・納言・参議・枢密正権大少史などが置かれ、式部・舎人・雅楽の三局も正院に所属するものとされた。このように、正院は政府の最高政策決定機関であった。その後、何回か機構が改正されたが、明治10118日、正院の称は廃止となった。

 (1-1)「西村正六位(にしむらしょうろくい)」・・旧佐賀藩士。明治210月開拓少主典に任じられ、明治7年の本文書当時は、開拓少判官。開拓使官員表は、資料1参照。

 (1-2)「調所広丈(ずしょひろたけ)」・・旧薩摩藩士。明治2年の箱館戦争には、黒田清隆の配下として参戦。

  同5年正月開拓使8等出仕に任じ、本文書当時は開拓幹事。のち開拓大書記官、札幌農学校校長、札幌県令となる。

 1-3)「小牧昌業(こまきまさなり)」・・旧薩摩藩士。本文書当時七等出仕。

 1-2)「松本大判官(まつもとだいはんがん)」・・旧庄内藩士。明治28月開拓判官に任じ、根室在勤を命ぜられる。「大判官」は、明治58月の官等の改定で、これまでの判官を大判官、中判官のふたつに分離されてできた官等。

 (1-46)「南方に当り・・噴火と相見え」・・松本は、開拓使本庁舎から、樽前噴火を見ている。本庁舎は、明治61029日に落成した木造2階立てで、屋上に8角の展望層があり、高さは28メートル。

 (1-5)「閃爍(せんしゃく)」・・きらめき輝くこと。光り輝くこと。また、そのさま。

   *「電飛雷撃、閃爍震鳴、天空に迸散して止む」(『明六雑誌‐一七号』所収「地震の説」津田真道)

 (1-5)「全(まった)く」・・自分がこれから示す判断、いま相手から聞いた判断が、嘘や誇張を含まない真実であることを、強める気持を表わす。ほんとうに。実際に。

 (1-67)「大坪権大主典(おおつぼごんだいしゅてん)」・・明治5825日から大坪半(なか)権大主典。旧幕榎本軍の五稜郭占拠の際、清水谷箱館府に随行し、青森に脱出している。資料2

 (1-9)「可申入候(もうしいるべくそうろう)」<文法の話>・・動詞「申入(もうしい)る」の終止形「申入(もうしい)る」+助動詞「べし」の連用形「べく」+動詞「候(そうろう)」の連体形「候(そうろう)」

  *助動詞「べし」は、動詞の終止形に接続(ラ変動詞は連体形)

 1-9)「次官殿(じかんどの)」・・黒田清隆開拓次官。黒田が開拓長官に任ぜられたのは、明治782日で、本文書の時期はまだ次官だった。なお、開拓長官はいなかったから、実質的には、開拓使のトップであった。

 (2-1)「当郡(とうぐん)」・・勇払郡。北海道南西部にあり、太平洋に面する郡。旧胆振(いぶり)国に属し、現在胆振支庁および上川支庁管内に分属。明治28月設置。道央トマム山の高原と泥炭地を含む原野と砂丘地から成り、太平洋に臨んでいる。明治916村を擁していたが、昭和23年苫小牧市が成立し、平成大合併を経て現在は、厚真(あつま)町・むかわ町・安平(あびら)町(以上胆振総合振興局)、占冠(しむかっぷ)村(上川総合振興局)の31村から成る。

 (2-5)「慎定(ちんてい)」・・「慎」は、「鎮」。力でさわぎをおさえしずめること。また、しずまりおさまること。ちんじょう。

 (2-67)「弥増(いやまし)」・・(副詞)いよいよますます。一段と。

 (2-13)「黒沢大主典(くろさわだいしゅてん)」・・静岡県出身士族。明治5825日から大主典。旧幕榎本軍の鷲の木上陸の際、新政府軍の一員として、峠下に出陣している。資料3

(3-6)「浦川支庁(うらかわしちょう)」・・浦河支庁。明治5914日に、根室支庁、宗谷支庁、樺太支庁とともに設置された開拓使管下の地方行政官庁。本文書日付の3ヶ月後の明治7514日廃止され、その行政業務ならびに管轄区域とも札幌本庁に移管された。

  ちなみに、その後の「浦河支庁」の変遷に触れると、明治30年、北海道庁の下級官庁として再発足し、昭和7年、日高支庁と改称され、平成224月、支庁制度改革によって日高振興局に改称・改組された。

 (3-7)「礫石(れきせき)」・・小さな石。こいし。つぶて。「つばい」とも。

 (3-7)「電信寮(でんしんりょう)」・・工部省電信寮。工部省は、明治政府のもとで、官営事業を統合・担当した殖産興業政策の中枢管理機関で、開設は明治3年閏10月。48月には、工学・勧工・鉱山・鉄道・土木・燈台・造船・電信・製鉄・製作の十寮と測量司に拡充された。

 わが国の電信は明治3年に始まるが,その技術員養成のため,明治5年工部省に電信寮を設け,全国から希望者を募り試験の上官費で修学させた。開拓使でも、札幌本道開削と共に電信を敷設し、明治5111日札幌・函

館間が開通した。そこで当然技術員を要するので、かねて電信寮と仮学校との聞に打合せがあったと見え、この月電信寮に私費入学をしていた小林鉀三郎なる者を開拓使官費生に申請している。しかし、開拓使の電信技術員養成は明治6年に始まる。この年715日、電信寮から、間もなく北海道電信機ステーショ4カ所を設けねばならず、14名としても16名の技術員を要するので、20名程至急養成する必要があるから準備されたいとの要請があり、9月開拓使は差当り仮学校生徒中から5名を選んで寮に通わせて伝習させることにし、後更に4を追加し、11月函館支庁管下より13-4才の者(英,仏語が出来れば更によし)15人程を募集し、費用はすべて官費とし、8-9ケ月の修業で技術一等見習士に採用することにし、年少5名を送った。以後相当の人数が年々入学せしめられたが、開拓使からの生徒は全部アンチッセルの住んでいた官宅を宿舎として収容し、寮に通わせた後は普通学科を教育した。開拓使が専門の技術教育を電信寮に委託したのである。明治8年仮学校札幌移転と共に、生徒は電信寮に移されたと思われるが、明治76月現在27名を数えていた。

(3-8)「上州(じょうしゅう)」・・上野(こうずけ)国の別称。今の群馬県。

(3-8)「富岡製糸所(とみおかせいしじょ)」・・明治初年に上野国富岡に設立された官営模範製糸場で、のち民間へ払い下げられた。政府は横浜の有力生糸輸出商社エッシュ=リリアンタル商会からの器械製糸場設立の申請を退けつつ、明治32月にみずから模範製糸場を設立する方針を定め、同年6月に同商会所属のフランス人生糸検査技師ポール=ブリューナを雇い入れた。ブリューナはフランス式の輸入繰糸器械300台を備えた製糸場建設の見込書を提出し、武蔵・上野・信濃各地を調査した末、設置場所として上野国甘楽郡富岡町(当時岩鼻県管内、現在群馬県富岡市)を選んだ。製糸場は横須賀製鉄所(造船所)の建築技師バスティアンが設計し、民部省(のち大蔵省)所属の尾高惇忠らが実務を担当して同43月に着工、同57月にほぼ完成した。「繰糸伝習工女」の募集は当初難航したが、ようやく同年104日からフランス人教婦4名の指導の下で、全国各地から派遣された女工の訓練が開始された。横浜からフランスなどへ輸出された同製糸場の生糸は大変好評だったため、同製糸場の設備を模倣・簡易化した中小器械製糸場が各地に設立され、富岡帰りの女工が繰糸指導にあたった。しかし、官営富岡製糸場(同99月より富岡製糸所と改称)の営業成績は思わしくなく、同1311月の工場払下概則に基づく払下広告が出されたが応ずる者はなかった。同24年の払下入札も予定価格に達する者がなく、同269月の入札で三井家が落札した。三井では設備を拡張するとともに女工の労務管理を強化した結果同製糸所の営業成績は好転したが、名古屋・三重の新設製糸所の成績が不振だったため、同359月に富岡製糸所は三井家のほかの製糸所とともに横浜の原合名会社へ売却された。原合名時代の富岡製糸所は養蚕農家への蚕種配布を率先して行い高格生糸の生産につとめたが、昭和137月から片倉製糸紡績(のち片倉工業)の手に移され、昭和622月限りで操業を停止した。

 開拓使は、明治7年白石村移民の少女3人など6人を富岡製糸場へ派遣した。

(3-9)「高畑(たかはたけ)権少主典」・・高畑利宣(としよし)権少主典。天保12年山城国乙訓(おとくに)郡上久世村(現京都市南区のうち)生まれ。明治7年開拓使官吏高畑利宜は群馬県富岡製糸場への伝習工女6人および東京電信寮への生徒8人を引率して出張した。のち、石狩川探険し水源に達している。小樽銭函間道路開削、樺戸道路開削にもたずさわる。資料4

 高畑利宜と製糸伝習の工女および電信生徒たち。場所は増上寺境内か。(北大図書館蔵) 

(4-2)「巳午(みうま・シゴ)」・・南南東方位。

(4-3)「焔烟(えんえん)」・・ほのお。「焔」は、「炎」の書き換え字。「烟」は、「煙」の書き換え字。

(4-3)「天際(てんさい)」・・天のはて。天のきわ。空のずっと遠くの方。「遙に天際(テンサイ)の一線を劃するは波静なる周防灘」(『帰去来』国木田独歩)

(4-5)「豊熾(ほうし)」・・さかん。「豊」も「熾」もさかんの意。

(4-8)「払暁(ふつぎょう)」・・夜が明けようとするころ。あけがた。よあけ。あかつき。黎明。「ふっきょう」とも。

(4-9)「船越長善(ふなこしながよし)」・・開拓使の下級吏員。当時等外1等出仕。