(67-1)「下供(したども)」・・供の中の、下回り(下働き)の者。

(67-1)「大船三船」・・長者丸(柏屋預かり)、広福丸(栖原屋預かり)、吉祥丸(伊達屋預かり)。

(67-2~3)「松前様の御船(おふね)御定紋(ごじょうもん)」・・松前家の定紋は、丸に武田割菱。

 松前家は、武田信広を元祖として強調する。信広は、永享3年(1431)生

まれる。若狭守護武田家の初代武田信栄(のぶひで)の遺孤(いこ。忘

れがたみ)といい、21歳のとき叔父の若狭守護信賢(のぶかた)のもと

を離れ、家子(けご)佐々木繁綱・郎等(ろうとう)工藤祐長らを引具し

関東を経て陸奥国糠部(ぬかのぶ)郡宇曾利郷(うそりごう)田名部(た

なぶ)に至り、さらに享徳3年(1454)下国安東政季(まさすえ)を奉じ

て蝦夷松前に渡島、同族出身という蝦夷上ノ国花沢館主蠣崎季繁(すえし

げ)の女婿(むすめむこ)に迎えられたという。そして、長禄元年(1457

)アイヌ一斉蜂起の際、酋長コシャマイン父子を射殺するなど、乱鎮圧に

武功を発揮し、その声望を高めたとされている。この系譜には異議をはさ

む見解もあるが、アイヌ蜂起の発端となった志濃里館跡や信広の拠点となった上ノ国勝山館跡の発掘調査も近年行われ、信広が軍事的才能をもって蝦夷地館主たちの指導者的地位に就き、武装商人の頭目として若狭・蝦夷地間の交易船を差配した等々は、事実とみられるようになっている。

 なお、武田家は、清和源氏の流れを汲むという。

 *<源(源氏)平(平氏)藤(藤原)橘(たちばな)野(小野)清(清原)伴(ばん)>・・げんぺい・とうきつ・やせいばん

 *源平藤橘(げんぺいとうきつ)を揶揄(やゆ)した言い回し・・<昔、某(なにがし)、今、にがにがし><昔、某(なにがし)、今は金貸し>

(67-4)「出来(しゅったい)」・・物事ができあがること。完成すること。成就。完成。

(67-4)「押切船(おしきりぶね)」・・櫓を使って漕ぐ船。押渡(おしわたり船。

(68-3)「大頭(おおがしら)」・・多人数の集団の長。ここは、「船頭のうちの責任者」という意か。

(68-4)「張立(はりだて)」・・新造船。和船は、帆を張ることから。

(68-6)「惣名(そうみょう)」・・総称。

(68-6~7)「樺太島十八里御渡海」・・宗谷海峡(ラベルーズ海峡)の最狭部は、宗谷岬とカラフトの西能登呂岬で約45キロメートル。十八里は72キロメートル。

(68-7)「シラヌシ」・・樺太南端の地名。ソウヤから最短の港町。能登呂半島(クリリオンスキー半島)の先端の西側にある。江戸期は、運上屋がおかれた。寛政2年(1790)松前藩が始めて勤番所を設けた。以来、樺太の玄関として栄えた。現ロシア名はクリリオン。

(68-9)「汐験(しおじるし)」・・海流の様子。「験(しるし)」は、自然が移りゆくけはい。様子。

(69-1)「御坐候(ござそうろう)」<漢字の話>影印の「坐」・・人名漢字。「座」の異体字ではなく、別の漢字。もと、「坐」は主にすわる動作、すなわち、動詞的に用い、「座」はすわる場所に、すなわち、名詞的に用いた。新表記(常用漢字)では動詞・名詞ともに「座」に統一した。

(69-2)「相分り兼(あいわかりかぬ)」・・わからない。「兼(かぬ)」下2段活用型の接尾語で、動詞の連用形に付く。「~のがむずかしい」「~ことができない」。

(69-3)「タツタン」・・韃靼(だったん)。蒙古系部族、またその居住地方。韃靼は、八世紀に東蒙古にあらわれ、モンゴル帝国に併合された。宋では蒙古を黒韃靼、オングートを白韃靼と称し、明では元滅亡後北にのがれた蒙古民族を、韃靼と呼ぶ。タタール。

(69-4)「ノトロ」・・西能登呂岬(クリリオン岬とも。現ダーリニャヤ岬)。樺太南部西側の能登呂半島の突端にある。

(69-4)「辰巳(たつみ)」・・東南。

(69-7)「此海、北より南への汐、誠に早きなり」・・日本海を北上した対馬暖流は、その大半が津軽海峡から太平洋に流出する。残りは、北海道西海岸沿いに北上し、その大部分が、宗谷海峡を通って宗谷海峡を通ってオホーツク海に流入し、宗谷断流と名を変える。流速は春季~秋季には約1.5 ノットで、夏季には3ノット(時速約5キロ)に及ぶ所もある。

(69-10)「クシユンコタン」・・カラフトの南端アニワ湾の中央にある町。日本名大泊。現コルサコフ。寛政2年(1790)松前藩がカラフトの経営に着手し、クシュンコタンに運上屋を設け、ついで勤番所を置いて以来、この地はカラフトにおいて日本人が商業および漁業を営むもっとも重要な根拠地となった。

(69-10)「支配人清水清三郎」・・栖原家のクシュンコタン場所の支配人は、多くの文献は「清水平三郎」としている。『蝦夷紀行』は、「清水平三郎」。彼は、栖原家の支配人と蝦夷通詞も兼ねており、また、松前藩の士席先手組にも取たてられていた。ロシアのクシュンコタン占拠の際、清水は、松前藩の通訳をつとめ、また、単独でもしばしばムラビヨフ哨所を訪れ、ロシア将校と対談している。資料1

(70-2)「事ども」・・「ども」は、名詞・代名詞に付いて、そのものを含めて、同類の物事が数多くあることを示すが、必ずしも多数とは限らないで、同類のものの一、二をさしてもいう。人を表わす場合は「たち」に比べて敬意が低く、目下、または軽蔑すべき者たちの意を含めて用いる。現代では、複数の人を表わすのに用いられることが多い。

(70-5)「松前役人詰所の役所」・・松前藩の勤番所。松前藩では、夏の4~7月まで、役人2名、足軽2名を常駐させていた。


(71-1)「こと」・・「こ」と「と」が1字の合字になっている。

(71-56)「カモイワの岩・・・破船いたすと申す」・・「カモイワの岩」は、宗谷岬から約30キロメートルの位置に二丈岩(現オパスノチフ島)。西能登呂岬からは、南東の沖合約15キロの、宗谷海峡上にある岩礁。ロシア語名はカーメニ・オパースノスチКамень Опасности)で「危険の岩」という意味。

 (71-6)「大あじ」・・大味。食べ物の味に微妙な風味のないこと。

(71-10)「熊笹(くまざさ)」・・チマキザサ、ネマガリダケなど、山地にはえる笹の俗称。なお、種としての「クマザサ」は、イネ科クマザサ属の常緑の竹。広く庭園に栽植。葉の縁の白い隈取りからこの名がある。

(72-4)「暫(しばらく)も」・・少しも。「暫く」は、少しの間。一時。ちょっと。

(72-6)「船のなりに」・・船の形に。「なり」は、動詞「なる(成)」の連用形の名詞化。できあがったかたち。形状。さまかたち。

(72-9)「噺(はなし)」<漢字の話>・・漢字でなく国字。新しいお話というほどの意。また話・咄などを用いる。噺や咄は、出まかせの、耳よりな話というような意味がある。

(72-10)「持々(もちもち)」・・各自が持っていること。また、そのもの。各自の受持。各自の持物。

(73-34)「さんだん国」・・サンタン国。江戸時代、樺太へ交易を目的に渡来する黒竜江下流域の住民をサンタン(山丹・山旦・山靼)人とよんでいた。

(73-9)「明家(あきや)」・・空家、空屋。人のいない家。

(74-34)「酒、酢、醤油、油など不残氷なり」・・酒は、-114.5度、酢は0.83度、醤油はー40度で氷る。油は凍らない。

(74-8)「手甲(てこう・てっこう)」・・手の甲をおおい保護するもの。

(74-8)「鞜(くつ)」・・くつ。