(114)「箱館御奉行所」・・松前奉行所のこと。幕府は、文化4(1807)10月、奉行所を箱館から福山に移し、松前奉行と改称した。本文書時期の文化13年(1816)は、松前奉行になっている。

(115)「仏は侍渡(はべりわた)らざる」・・ここは、「十字架は渡されなかったか」ほどの意か。「仏」は、「十字架」。「侍(はべり)は、ラ変動詞。「あり」「居り」を丁寧にいう語。鎌倉時代以降は、単に雅文的表現として用いられた。

(115)「さる事は侍らず」・・「そのようなことはありません」ほどの意。

(116)「聞(きこ)え上(あ)ければ」・・申し上げると。下2段動詞「聞え上ぐ」は、「申し上げる」。

(116)「揚(あが)りや」・・未決囚を入れた所。現在の留置所。

(117)「口書(くちがき)」・・江戸時代、法廷で当事者の申し立てを筆記した供述書。口書は、百姓、町人にだけ用いられ、武士、僧侶、神官の分は口上書(こうじょうがき)といった。

(118)「のぼされ」・・送られ。「上(のぼ)す」は、人や物を地方から都へ送りやること。

(118)「下知(げじ・げち)」・・「げち」とも。上から下へ指図すること。命令。いいつけ。

(119)「五郎十」・・中川五郎次。ロシアから持ち帰った牛痘書を訳し、本邦種痘術の鼻祖となった。

・明和5年(1868)陸奥国北郡田名部川内村に生まれる。

・寛政11(1799)、蝦夷地に渡り番人となる。

・享和元年(1801)エトロフ詰となる。

・文化4(1807)4月、エトロフ島にロシア人フヴォストフらが上陸、五郎次ら捕えられる。五郎次はオホーツクに連行された。その後、逃亡をはかり、シベリアを放浪する。再逮捕されたあと、イルクーツクの日本人学校の教師を勤めている。

・文化9(1812)8月、ゴローニン返還交渉のため来日するリコルドに伴われ、ディアナ号でクナシリに到着。

・同年10月、五郎次、松前着。その後、江戸で取り調べを受ける。

・文化11年(181410月、松前奉行に仕える。

*本文書の重吉らが松前で、取り調べを受けていた時期の文化13年、五郎次は、松前に滞在していた。

(1110)「神参(かみまいり)」・・神社に参詣すること。

(1111)「ありきて」・・歩いて。「ありき」は、「ありく」の連用形。

<語誌>「ありく」と「あるく」・・上代には、「あるく」の確例はあるが「ありく」の確例はない。それが中古になると、「あるく」の例は見出しがたく、和文にも訓読文にも「ありく」が用いられるようになる。しかし、中古末から再び「あるく」が現われ、しばらく併用される。中世では、「あるく」が口語として勢力を増し、それにつれて、「ありく」は次第に文語化し、意味・用法も狭くなって、近世後期にはほとんど使われなくなる。

(112)「神無月(かんなづき)」・・陰暦10月。

(113)「三厩(みんまや)」・・青森県津軽半島北西端に位置する村。竜飛(たっぴ)崎が突出している。江戸時代には寒村であったが、松前蝦夷地渡海の要津であった。

(115)「千住(せんじゅ)」・・江戸を出て、奥州街道の最初の宿場町。

(116)「エゾ会所」・・松前奉行所の江戸会所。

(117)「霊岸島(れいがんじま)」・・霊巖寺が建てられてあったところから呼ばれた。東京都中央区、隅田川河口の島。現在新川一・二丁目となる。江戸初期までは中島と呼ばれていた。万治元年(1658)霊巖寺が深川に移ると、水運に恵まれた地の利から倉庫が並び、江戸時代は材木問屋街、のち清酒問屋街として発展した。

(1111)「尾州御屋敷(びしゅうおやしき)」・・江戸の尾張藩の屋敷。上屋敷は、市ヶ谷にあった。

(1113)「清水御門」・・名古屋城三の丸北側にあった門。門内に尾張藩の勘定奉行所があった。

(1114)「かたみ(互)に」・・たがいに。

 *「契りきなかたみに袖をしぼりつつ末の松山浪こさじとは〈清原元輔〉」(後拾遺和歌集 恋四・七七〇)