(101-1)「ラクマカ」・・西海岸の地名。日本名「楽磨」を当てる。『樺太の地名』(第一書房刊)には、「正しくはラクマツカ。此処はよい澗で、どんな時化(しけ)でも心配なく舟を入れて置くによい処の意」とある。

(101-2)「千石積位の弁財三艘程掛り澗あり」・・ここは、「弁財船が三艘ほど入港できる澗」の意味か。異本は、「澗」を「沼」に作る。しかし、ラクマカに沼はない。影印も「沼」に見えなくもないが、ここは、好意的に「澗」としたい。安政3年(1856)に樺太を探検した武四郎は、「地形南の方に岬突出して少しの澗なり、沖三四丁に暗礁有。其間を弁財懸り澗とす。後ろは山なり」(松浦武四郎記念館刊『竹四郎按日誌 按北扈従(あんぽくこしょう)』)と書いている。

(101-3)「シラヌシ運上屋より凡四十り三十三丁五十間程」・・武四郎に前掲書には「シラヌシへ三十七里卅②二丁廿間」とある。

(101-4)「トコタン」・・西海岸の地名。日本名「床丹」を当てる。

(101-6)「トンナイケヤ」・・西海岸の地名。日本名「富内岸」を当てる。「富内岸」は、「床丹」の南にあるので、ここの記述は、逆か。

(101-8)「レフンニタチ」・・武四郎の前掲書には、ノトロ(日本名「小能登呂岬」)の前に「レフンニタ」がある。武四郎は、北のライチオシカから、シラヌシに向けて南下しているから、本書とは逆になる。

(101-9)「ニタ」・・西海岸の地名。日本名「仁多須」を当てる。武四郎の前掲書には「ニタツク」とある。
(101-10)「ヱリウシナヰ」・・武四郎の前掲書には「ヱソウシナイ」とある。

(102-1)「ハボマヘ」・・西海岸の地名。日本名「羽母舞」を当てる。

(102-1)「ノトロ崎」・・日本領有時代、能登呂半島南端の岬を「西能登呂崎」といい、西海岸の出岬を「小能登呂崎(このとろざき)」と命名した。武四郎の前掲書など、多くは、「ノトロ崎」としている。

(102-3)「ノタツシアン」・・「シ」は、影印では「レ」に見えるが、ここは、好意的に「シ」と読みたい。ノダサム。日本名「野田寒(ノダサム)」。日本領有時代は、「野田」。

(102-4)「尺地(せきち・しゃくち)」・・わずかな土地。せまい土地。

(102-6)「ハチコナイ」・・西海岸の地名。日本名「鉢子内」を当てる。

(102-67)「アユシ子ウシナヰ」・・「シ」は、影印では「ン」に見えるが、ここは、好意的に「シ」と読みたい。

(102-7)「ハアセウシナイ」・・「シ」は、影印では、「ン」に見えるが、ここは、好意的に「シ」と読みたい。武四郎の前掲書には「ハーセウシナイ」とある。

(102-9)「チヽカヘ」・・武四郎の前掲書には「チカヘシボ」とある。

(10210)「ヲフツチコル」・・武四郎の前掲書には「ヲウチイ」とある。

(103-2)「トメウシナイ」・・「シ」は、影印では、「ン」に見えるが、ここは、好意的に「シ」と読みたい。武四郎の前掲書には「トマムシシユナイ」とある。

(103-34)「シラロヽ」・・武四郎の前掲書には「シラヽヲロ」とある。

(103-6)「ナヨロ」・・西海岸の地名。日本名「名寄」を当てる。

(103-8)「中遣船(なかづかいぶね)」・・近世、北海道での廻船分類上の名称。百石積以上を弁才船とするのに対して四十石から九十石積までの小廻船をいう。内地の天当船に相当し、乗組は二人を定数とする。図合船(ずあいぶね)と弁才船との中間を意味する呼称。

(105-1)「ヲシヨロ」・・西海岸の地名。日本名「鵜城(うしろ)」を当てる。万延元年(1860)に、幕府は大野藩に北蝦夷地開発を命じたが、大野藩は、鵜城を経営した。
(105-4)「間竿(けんざお)」・・大工が建築現場で用いる一間以上の長い物さし。「間」は影印は、「問」に見えるが、ここは、好意的に「間」と読みたい。

(105-9)「此内住也」・・異本は、「此内に住也」「住居致す」に作る。

(106-1)「スメロンクロン人」・・スメレンクル人。ギリヤーク人のこと。アイヌの人々は、ギリヤーク人を「スメレンクル」は呼称した。ギリヤークは、樺太(サハリン)北部およびその対岸黒竜江の最下流域に分布している民族。ギリヤークは黒竜江の下流域を本居としていたが、満洲化したゴルジの圧迫で、漸次河口方面に追いつめられ、その一部が樺太の北部に移住したものと推測される。ギリヤークはロシア人の称呼で、ギリヤークの自称族名はニクブン(樺太)もしくはニバフ(大陸)である。文化5年(1808)から翌年にかけて樺太と黒竜江下流域を探検した間宮林蔵の『北蝦夷図説』四(スメレンクル)は最古のギリヤーク民族誌で、記述もくわしい。

(106-6)「ボロコタン」・・ホロコタン。樺太西海岸の地名。北緯50度の少し北にある集落。安政5年(1857)越前大野藩、カラフト西岸ライチシカより北ホロコタンまでの間に土農を移すこと、ウショロに「元会所」設置を許可される。

(106-7)「上川伝一郎(うえかわでんいちろう)」・・『柳営補任(りゅうえいぶにん)』には、「うえかわ」とあり、「安政三辰五月廿六日、御勘定より下田奉行支配調役、同四巳九月廿六日小十人組」とある。

(106-8)「御小人目付(おこびとめつけ)」・・江戸時代の目付は、臨戦体制が解かれ、幕府・藩の政治機構が整備されるに伴って、政治監察や家臣団統制のための役職として置かれたものである。幕府は、中央に大目付・目付、目付の下僚として徒(かち)目付・小人(こびと)目付を常置し、直轄地大坂・駿府・長崎の目付を定期的に派遣し、大名の領国へも臨時的に国目付を派遣した。

(107-1)「今井八九郎(いまいはちくろう)」・・松前藩の測量家。「今井八九郎測量図」「東西蝦夷地大河之図」などを残している。寛政2年(1790)~文久2年(1862)。

 今井八九郎は寛政2年(1790)、松前藩下級藩士の子として松前に生れた。通称を八九郎、正式には信名(のぶかた)という。蝦夷地は19世紀初頭の文化年間に江戸幕府の直轄地となり、それまで統治を任されていた松前藩は東北に移封された。このとき今井家は藩から財政難により放禄されたものの、松前奉行の同心として幕府に仕えることとなった。同じ奉行所には間宮林蔵が出仕しており、今井八九郎は林蔵から伊能流の測量技術を学んだのである。
文政4年(1821)、再び蝦夷地を領地とされた松前藩は、八九郎を召命して蝦夷地全域の測量を行なわせた。奥尻・利尻・礼文・北蝦夷地(樺太)・国後・色丹・択捉・歯舞などの島嶼部をも含む測量活動はあしかけ10年に及んだ困難な作業であった。天保12年(1841)からは製図作業にかかり、蝦夷島やその周辺島嶼部の地図が完成した。八九郎の清書図は松前藩に提出されたが、明治維新の箱館戦争で失われた。

 重要文化財「今井八九郎北方測量関係資料」について・・「今井八九郎北方測量関係資料」は、松前藩士・今井八九郎による「蝦夷」と呼ばれた現在の北海道を中心とした北方地方の地図を中心とした84点の資料である。その内容は69点の絵図・地図類の他に、9点の文書・記録類、6点の測量具類である。絵図・地図には伊能忠敬流の測量術によって制作された「測量原図」類と、それを基に作成された「測量製図」類に大別される。

 東京国立博物館所蔵の「今井八九郎北方測量関係資料」の絵図・地図類は、清書図の控えとして今井家が所蔵していた資料を、大正3年(1914)に東京国立博物館が今井家から購入したものである。これらの絵図・地図には伊能忠敬や間宮林蔵が測量していなかった島嶼部について精度の高いものがあり、豊富なアイヌ語地名の記載もみられる。松前藩への献呈本が失われた現在では、江戸後期の蝦夷地をうかがい知ることのできる貴重な歴史資料・民俗資料といえよう。南下したロシアの動静を伝える「北蝦夷地ホロコタンより奥地見聞風説書」をはじめとする文書・記録類とともに平成16年(2004)、重要文化財の指定を受けた。
「小者(こもの)」・・中世・近世に武家に仕え、平時には雑役に従事し、戦時には主人の馬前にあって勤仕したものをいった。江戸時代には幕府・諸藩および直参・陪臣の諸家にあって若党・中間・草履取りなどと併称された身分・職名であり、中間よりも地位は低い。

ウェブ版『地図測量人名事典』の今井八九郎の項の引用・・松前藩士、蝦夷地沿岸域の測量を実施し、蝦夷地全域の地図を作成。伊能忠敬、間宮林蔵の実測以降、北方図作製の上で大きな出来事のひとつは、松前藩士で測量しであった今井八九郎が蝦夷地の全沿岸を実地測量して、その実測地図を作製したことである。今井八九郎は、文化4(1807)から松前藩に使えていたが、文化10(1813)兄の今井光が病没した跡を継いで松前奉行配下となった。その間宮林蔵の蝦夷地測量に同行し、測量技術のすべてを学んだという。その後、蝦夷地が文政4(1821)幕府による直轄管理から松前藩の管理へ変更されたことに伴って、今井も松前藩に勤めるることとなった。幕府管理からの変更によって、それまでに作製された地図類など蝦夷地関係の書類は、松前奉行所から江戸に持ち去られたのであろうか、今井は蝦夷地経営のためには正確な地図作成が急務であることを藩主に上申した。文政8年(1825)以降江戸地在勤中に測量器具の購入など準備を進め、同11年に至って藩主から蝦夷地全域の測量実施が命じられた。それ以後、蝦夷本島、樺太南部と歯舞・色丹諸島、奥、焼尻などの離島も含めた北海道周辺の沿岸測量を実施し、文化10年から12年にかけて蝦夷地全域の地図を藩主に提出した。その測量図は、極めて精度の高いものであり、東京国立博物館、早稲田大学図書館、北海道大学附属図書館などに所蔵されている。特に北海道大学附属図書館所蔵「利尻島図(天保5年測量)」は、原稿の五万分の一地形図と比べても遜色のないものだという。(107-1)

(107-3)「行当(いきあたり・ゆきあたり)」・・進んで行って突き当たりそれ以上先に進めなくなること。また、その場所。行きづまり。行きどまり。いきあたり。

 *「いく・ゆく」の語誌

 (1)「いく」「ゆく」は合わせ用いられる。「万葉集」では「いく」の仮名書き七例すべてが字余り句なので、上代ではその使用に何らかの音韻観念の違いがあったようだが、使用度については室町を過ぎる頃まで「いく」が劣勢だった。「いく」はアシユクの約言イユクの中略ともいわれ〔碩鼠漫筆〕、「ゆく」より新しい俗な形であったかともいわれるが明らかではない。逆に「ゆく」の古形という説〔万葉集辞典=折口信夫〕もある。

(2)「いく」は口頭語として使用度を高めていくが、なかでも連用形が促音便となる場合は「いって」「いった」で、「ゆって」「ゆった」とはならない。

(3)明治以降では、国定読本(明治三七~昭和二四)が「いく」の方を基準としたが、大正期には一般の傾向として、一人称者の行為に「いく」、三人称者の行為に「ゆく」という使い分けが認められる。

(4)現在では「常用漢字音訓表」で「いく」「ゆく」双方が認められているが、「ゆく」にくらべると「いく」は話し言葉的な感じを持っている。したがって、動詞の連用形に直接に付く「散り行く」「ふけ行く」など文章語的表現では、「いく」といわないで「ゆく」となる。

(107-4)「而已(のみ)」・・「而已」を「のみ」と読むのは、漢文訓読から。強い限定・断定の意味を表す、「~だけ」「それ以外にない」。漢文の助辞。

 *「有婦人焉、九人而已(婦人あり、九人のみ)」(『論語 泰伯偏』) 

  口語訳<(武王のいう十人の有能な家臣は、)夫人が一人いたので実際には九人であった>

 *「已(イ)、已(すで)に、半ばして、已(や)む而已(のみ)

(107-8)「ナツコ」・・北樺太の地名。北緯52度の南。

(107-9~10)「此処に差渡し二り程の大川有、是を満州川と申候哉。是全く樺太島と満州との境と相見へたり」・・

 「大川」は、タタール海峡を南下するリマン海流を指すか。タタール海峡は、ロシア連邦のシベリア東岸とサハリンとの間の海峡。日本海とオホーツク海とを結ぶ。南北に長く633キロメートル、幅は南部の日本海寄りで342キロメートル、北部で40キロメートル。最狭部はシベリア側のラザレフと樺太のポギビの間で、幅7.3キロメートル、日本ではこの部分を間宮海峡とよぶが、ロシア連邦では発見者のロシア人ネベリスコイにちなみ、ネベリスコイ水道という。文化5年(18085)から翌年にかけ、間宮林蔵、松田伝十郎らは、海峡を調査して樺太が半島でなく島であることを発見し、間宮海峡の名を残した。北部にはアムール川河口のアムール湾がある。水路誌によると、北部の主水道の水深は低潮位で約4メートル、小船舶がかろうじて通行できる程度である。11月から5月ごろまでは結氷し、そりで通行ができる。