(126-2)「此山を下(くだ・お)り」・・能取湖を抱くようにした能取岬のある東部は丘陵になっている。「山」とあるが、この丘陵の最高地点は、航空自衛隊網走分屯基地付近で標高246メートル。「下り」とあるのは、その丘陵の東海岸に出ることをいう。

(126-23)「海端(うみばた・うなばた・うみっぱた・うなっぱた)」・・海のきわ。海岸。海辺。ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の「海端」親見出しに、読みとして、「うみばた」「うなばた」「うみっぱた」「うなっぱた」が別々に載っている。いずれも同じ意味。

(126-3)「バイラケ」・・『松浦図』には、「ハイラキ」とある。現網走市二ツ岩付近。バイラギ川河口付近。

(126-3)「面白キ岩山の出岬、丸き離れ岩あり」・・二ツ岩のこと。

(126-4)「モヨロ」・・漢字表記地名「最寄(もよろ)」のもとになったアイヌ語に由来する地名。網走川左岸の河口付近の地名。この地は、最寄貝塚で知られる。最寄貝塚は、オホーツク文化の代表的な貝塚の一つ。明治時代から著名な遺跡であったが、大正初年から始められた米村喜男衛の献身的な遺跡保護と調査研究により学問的な評価がたかまり、昭和11年(1936)に国指定の史蹟となった。

(126-6)「アバシリ」・・漢字表記地名「網走」のもとになったアイヌ語に由来する地名。網走は、先住民族の遺跡が多く、その一つモヨロ貝塚はオホーツク式土器文化の代表的遺跡である。北見地方への和人の進出は全道で最も遅かったが、網走には幕府直轄時代万延元年(1860)に網走御用所が置かれ、シャリ場所と分離、アバシリ場所が設定された。

(126-7)「板土蔵」・・「土蔵」は、土や漆喰(しっくい)などで四面を厚く塗った倉庫のことをいうが、蝦夷地の各地に土蔵があったとは思われない。ここでいう「土蔵」は、単に、倉庫をいい、「板土蔵」は、「板蔵」くらいの意か。

*<漢字の話>国訓で「くら」と発音する漢字いろいろあるが、元来の意味には差異がある。

「倉」・・穀物をいれるくら。

「庫」・・器物を入れて置くくら。兵車や武器を入れて置くくら。解字は、「广」+「車」で、車(戦車)をいれるくらの意味を表す。「倉庫」は、穀物でも器物でも、物をいれておくくらの意味になる。

 「蔵」・・物品をおさめておく所。

 「廩」・・こめぐら。「倉廩(そうりん)」は、「倉」は穀ぐら、「廩」は米ぐらの意で、米や穀物類を納めておく倉。

 「府」・・文書や財宝をいれるくら。転じて役所。官庁。「政府」の「府」は、ここから来ている。

(126-9)「丸岩」・・網走川河口の沖にある帽子岩。現在は、網走港の防波堤の構成部分。

(126-10)「巾四十間位川有」・・網走川のこと。網走川は、網走地方を流れる一級河川。流路延長93.6キロ、流域面積1380平方キロ。阿寒カルデラ外輪山の釧北峠付近を源流として北流する。この川は屈斜路カルデラの形成にかかわる軽石流堆積物が厚く覆う洪積台地や丘陵を開析して流れている。津別町字本岐(ほんき)でチミケップ川、津別町市街地の西で津別川が合流する。ここから北東流して美幌町に向かう。谷底平野の幅はしだいに広くなり、河岸段丘の発達も良好である。美幌町市街地の北端で南から美幌川が合流する。その後河床勾配が緩くなり、三角洲を形成しながら女満別町市街地の北西で網走湖に注ぐ。網走湖の東岸から女満別川が流入する。北東岸には湖水の出口があり、再び川となって網走市街地を貫流しオホーツク海に注ぐ。

(127-2)「シリイド」・・『松浦図』には、「シレトコ」とある。現網走市鱒浦漁港付近。

(127-3)「ロボロと申所、面白き岩鼻」・・鱒浦漁港の南にある岩。「ロボロ」については、玉虫左太夫著『入北記』の「アバシリ土人家調」の項に、「アハシリ」と「エチャニ」(本文書では「ヱザニ」)の間に「ヒボロ」がある。

(127-4)「ボンワタリ」・・『松浦図』には、「ホウワタラ」とある。

(127-4)「フンベヲマナヰ」・・『松浦図』には、「フンベヲマイ」とある。

(127-5)「ヲシヨク」・・現網走市鱒浦のオショップ川河口付近の地名。『松浦図』には、「ヲツヨフ」とある。

(127-8)「エザニ」・・現網走市鱒浦の勇仁(いちゃに)川河口付近の地名。『松浦図』には、「エチヤヌニ」とある。

(127-9)「ニゲルバケ」・・現網走市藻琴の藻琴川河口付近の地名。松浦武四郎の『西蝦夷日誌』には、「ニクルハケ」とある。斜里郡小清水町止別(やんべつ)のJR釧網線止別駅の東、斜里町との境界付近に「ニクル沼」がある。

(127-910)「モコト川」・・藻琴川。

(127-10)「川上に大沼有」・・藻琴湖。網走市東部、オホーツク海沿岸部にある。東藻琴村の藻琴山に源を発して北流する藻琴川(二級河川)が流入する汽水湖。周囲7.3キロ、面積0.98平方キロ、最深部5.4メートル。短い流路でオホーツク海に注ぐ。

(128-1)「ナヨロ」・・漢字表記地名「娜寄」のもととなったアイヌ語に由来する地名。藻琴川右岸のオホーツク海沿岸の地名。現網走市北浜付近。

(128-2)「トウブチ」・・濤沸湖。網走市とその東、斜里郡小清水町の境界にある東西約8キロ、南北幅最大約1キロの潟湖。浦士別(うらしべつ)川水系に属する。東西に延びる延長約7キロ・最大幅15メートルの砂洲によってオホーツク海と隔てられ、西端にある湖口が市町境をなし、北岸の砂洲が小清水町、南岸は網走市である。周囲約30キロ、湖面面積9.3平方キロ、最深2.5メートルの富栄養湖。南岸には浦士別川・オンネナイ川・丸万(まるまん)川などが注いでいる。北岸砂洲は小清水原生花園とよばれ、オホーツク沿岸最大の野生植物群落地である。湖一帯は網走国定公園に含まれる。

(128-5)「マクンベツ」・・濤沸湖東岸の地名。現斜里郡小清水町浜小清水。

(128-6)「アヲスマイ」・・アヲシマナヱ。『松浦図』には、「アヲシユマエ」とある。濤沸湖東岸の地名。現斜里郡小清水町浜小清水。漢字表記地名「青琄(あおしまい)」のもととなったアイヌ語に由来する地名。

(128-7)「フレトイ」・・「振問」「古樋」などと表記される。濤沸湖北東側のオホーツク沿岸の地名。現斜里郡小清水町浜小清水。

(128-8)「ヤンヘツ川」・・止別(やんべつ)川。現斜里郡小清水町止別(やんべつ)。

(128-10)「シマヲイ」・・『松浦図』には、「シユマヲイ」とある。

(129-1)「トコタニ」・・『松浦図』には、「トコタン」とある。

(129-3)「シヤリ」・・漢字表記地名「斜里」のもととなったアイヌ語に由来する地名。シャリ場所は、斜里川河口域を中心に現斜里郡北東端の知床岬から現網走市能取岬までの範囲に設定された場所。寛政2(1790)年)5月、ソウヤ場所から分離して新たにシャリ場所が設けられ、松前藩の直轄とされた。

 西蝦夷地の東端に位置し、西はノトロ(現能取岬)でモンベツ場所と、東は東西蝦夷地の境であるシレトコ(現知床岬)でネモロ場所と接する。南のクスリ場所との境は「シャリ領ワツカウイより山え上り、ルウチシと申峠を以て境に相定め候」と斜里岳から藻琴山に続く稜線に設定されていたが、サケ漁を目的にクスリ場所内の西別川上流域へのシャリアイヌの越境がたびたび起こった。

 場所請負人は初め阿部屋村山伝兵衛が寛政2(1790)年から同8(1796)まで、寛政11(1799)からの松前藩直轄時は高橋壮四郎らが管理人となり、文化5(1808)に請負制が再開されると柏屋藤野喜兵衛らの共同請負となった。文化12(1815)から文久2(1862)までは藤野家の単独請負となり、同年以後明治2年(1869))の場所制度の廃止まで山田寿兵衛の請負となった。なお文化4(1807)から翌年にかけてのロシア船の襲撃事件に際して、弘前藩士100名がシャリに駐留し沿岸警備にあたったが、越冬中浮腫病による死亡者が相次ぎ、帰還できたのはわずか17名であったという。現在、斜里町と弘前市は姉妹都市となっており、斜里では、毎年夏、ねぷた祭りが行われている。

(129-78)「東蝦夷地の内、西海岸の行留(ゆきどま・いきどま)り也」・・シャリは、東蝦夷地でなく、西蝦夷地の内だから、この記述は、誤り。斜里は、西蝦夷地の先端に近い。なお、東蝦夷地と西蝦夷地の境界は、知床連山を経て知床岬。

(129-8)「シヤリ越山道」・・いわゆる斜里山道。「札鶴(さっつる)」越ともいわれた。現在の通称でいうと清里産業道路に沿っている。現在の道路でいえば、斜里から清里峠までは道道1115号線(摩周湖斜里線)、清里峠から養老牛までは道道150号線(摩周湖中標津線)、養老牛から中標津町計根別(けねべつ)間は、道道505号線(養老牛計根別)を通り、道道13号線(中標津標津線)になり、中標津市街地手前で国道272号線(通称ミルクロード)になり、標津へ出る。

 この道は、江戸時代、根室と北見両国を結ぶ幹線道路であり、昔からアイヌの人たちの重要な通路であった。地形でいえば、摩周湖の東の分水嶺(ルチシ)=清里峠までは、斜里川、サッツル川に沿って登り、ルチシから根室領に入ってカネカ川に沿って下る。カンチウシ山の南麓で、標茶に出る道が分離し、標津へは、左折して標津川に沿って標津へ出る。

(129-8)「四日路あり」・・本文書も、前掲の武四郎も、同じ行程で宿泊地も同じである。斜里を朝発ってカムイノミウシビラヲゲセ(松浦「カモイチノミヒラウシ」)で1泊、2日目は峠付近のワツカヲイ(松浦「ワッカウイ」)、3日目は、峠を下ってシベツ川沿いのチラヱワタラ(松浦同)で宿泊している。斜里~標津間は、3泊4日ということになる。

(129-10)「チヤチヤ登(のほ)り」・・チャチャノホリ。羅臼岳のこと。松浦武四郎は「チヤチヤノホリ」とよんでいるが(『山川地理取調図』など)、『観国録』には「東北岬尽頭、第一峰ヲシレトコト云ヒ、第二峰ヲメナシ東ノ義、チヤヽヽ岳」との記述がみえ、国後島のチャチャ岳と区別するために「メナシチャチャ岳」とよばれていた可能性がある。羅臼岳は、羅臼町と西側に接する網走支庁管内斜里郡斜里町の境にある。知床連峰の最高峰で、標高1661メートルのコニーデ型火山。平成8年(1996)に活火山と認定された。

(129-10130-1)「シリトクの鼻」・・知床岬のこと。知床岬は、斜里町の北東端、北海道の北東端に位置するオホーツク海に突き出た知床半島先端の岬。網走支庁と根室支庁の境界であり、前近代には東・西の蝦夷地の分界でもあった。

(130-4)「ラヱベツ」・・『松浦図』には、「ライヘツ」とある。
(130-4)「とくさ」・・シダ類トクサ科の常緑多年草。北海道、本州中部以北の渓流沿いの林下などに生え、また観賞用に庭園などで栽培される。地中を横に走る根茎から高さ50100センチメートルの多数の地上茎を叢生する。地上茎は深緑色を帯び中空で径5ミリメートル内外になる。節間は二〇本程の稜と溝が交互して走る。葉は集まって長

さ一センチメートル内外の鞘となり、しばしば黒みを帯びる。胞子穂は長さ一センチメートルほどの楕円体で茎の先端に単生する。全体に珪酸(けいさん)塩を多量に含み、著しく硬くざらつくので、木地、骨、爪などをみがくのに用いる。和名、砥草は砥(と)の役をする草の意。あおとくさ。漢名、木賊。

(130-5)「ウフルヱ」・・『松浦図』には、「フフルイカ」とある。

(130-6)「ツフランケウシ」・・『松浦図』には、「チフランケウシ」とある。

(130-7)「タン子ビラ」・・『松浦図』には、「タン子ヒラ」とある。

(130-8)「カムイノミウシビラヲゲセ」・・『松浦図』には、「カモイノミウシヒラ」とある。松浦武四郎の『西蝦夷日誌』には、「名義神酒を呑処の平と云り。前に土人等舎利岳の神え手向のエナヲ多し」とある。現斜里郡清里町神威(かもい)付近。

(130-9)「此所、シヤリ川、端(はた・ほとり)」・・現斜里郡清里町神威付近は、斜里川の中流で、「端」は、「先端」の意味ではなく、ここでは、斜里川のほとりとか、近くの意味。したがって、「シヤリ、川端」でなく、「シヤリ川、端」と読むほうが正しいか

(131-1)「サシル」・・漢字表記地名「札弦(さっつる)」のもととなったアイヌ語に由来する地名。「札鶴」とも。『松浦図』には、「サツルフト」とある。

(131-2)「シヤリルイランニ」・・『松浦図』には、「シヤクルエラン」とある。

(131-2)「小かけ」・・「小屋かけ」の「屋」欠か。異本は、「小屋掛」に作る。

(131-3)「ニシバコキリウシ」・・『松浦図』には、「ニシハキシキルランニ」とある。

(131-5)「ワツカオイ」・・漢字表記地名「湧生」のもととなったアイヌ語に由来する地名。斜里郡清里町の斜里川の支流札鶴川上流の山間部。松浦武四郎の『西蝦夷日誌』には、「名義は水冷」とある。札鶴川の更に支流のハトイサックル川の源流部に「神の子池」があるが、ワッカオイはこの付近。「神の子池」は、摩周湖の地下水によってできた、青い清水を湛える池で、摩周湖(カムイトー=神の湖)の伏流水からできているという言い伝えで「神の子」池と呼ばれている。

(131-7)「つべたし」・・形容詞。「つめたし」の文語体。

(131-9)「ルウツチ」・・アイヌ語で峠を意味する「ルツチ」。現道道150号線の斜里郡清里町と標津郡中標津町との境界である分水嶺・清里峠付近。

(131-10)「ケ子カワツカヲイ」・・『松浦図』には、「ケ子ワツカ」とある。