(150-1)「ヲイカマイ川」・・オイカマナイ川。「ヲイカマイ」は、漢字表記地名「生花苗」のもとになったアイヌ語に由来する地名としても記録されている。「オイカマナイ川」は、2級河川「生花苗川」。最下流に、生花苗沼が形成されている。なお生花苗沼の内陸部、キモントウ川上流にキモントウ沼、南方1.5キロの海岸沿いに周囲7.5五キロの汽水湖ホロカヤントウ沼がある。

(150-1)「船守(ふなもり)」・・渡し守。

(150-3)「ヲン子ナイ」・・松浦武四郎の『竹四郎廻浦日記』には、「ヲイカマイ」と「ホリカヤニ(ホロカヤントウ)の間に、「ヲン子ナイ」があり、「小休所一棟(八坪)有」とある。現在の晩成温泉付近か。

(150-4)「トウブヰ」・・漢字表記地名「当縁」のもとになったアイヌ語に由来する地名。現広尾郡大樹町美成。

(150-7)「アヰホシマ」・・『松浦図』には「アエホシマ」とある。現広尾郡大樹町浜大樹。

(150-8)「ヒロツナヱ」・・歴舟川河口付近の地名。現広尾郡大樹町旭浜。『松浦図』には、「ヘルフ子、ベロツナイともいう」とある。歴舟川は、近世の文献には、「ペロツフナイ」(東行漫筆)、「ベロツナイ」「ペロツナイ」(地名考并里程記・観国録)、「ヘルフネ」「ベルフネ」(「協和私役」「観国録」、「戊午日誌」辺留府禰誌)、「ベロチナイ」(辺留府禰誌)など。

「歴舟・レキフネ」という表記・訓は近代に入りまず歴舟(ヘルフネ)と漢字化され、さらに音を転じて歴舟(レキフネ)となったものであろう。

 「歴舟川」は、大樹町を流れる二級河川で、流路延長64.7キロ、流域面積558.5平方キロ。日方(ひかた)川ともいう。日高山脈南部のヤオロマップ岳に源を発して山脈東斜面を流れ、十勝平野最南部に出て太平洋に注ぐ。この間ポンヤオロマップ川・歴舟中(れきふねなか)の川・振別(ふりべつ)川・メム川などの支流を合せる。上・中流は険しいV字状の渓谷をなし、下流は扇状地を形成するとともに両岸に二―三段の河岸段丘を発達させている。昭和62年以降8回(昭和6263年・平成元年・35122122年)環境省の公共用水域水質調査で日本一きれいな河川に選ばれ、また平成8年には国土庁から「水の郷100選」に選定された全長64.7kmの日本一の清流。大樹町は、「清流日本一の町」をキャッチフレーズにしている。

(150-9)「弐ヶ瀬(ふたかせ・にかせ)」・・「瀬」は、ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』には、<①歩いて渡れる程度の浅い流れ。あさせ。②急流。はやせ。③広く、川の流れや潮流もいう。>とある。ここでは、①か。

 *「流の静なる所を淀といひ、深き所を渕といひ、浅き処をといふ」(『小学読本〔1874〕』)

 *転じて、物事に出あうとき。機会。「身をすててこそ浮かぶもあれ」「逢()」。また、置かれている立場。「立つがない」

(150-11)「モンベツ」・・漢字表記地名「紋別」のもとになったアイヌ語に由来する地名。現広尾郡大樹町旭浜。紋別川は、大樹町と広尾町の境界を流れる。

(151-1)「トヨイ川」・・「トヨイ」は、漢字表記地名「豊似」のもとになったアイヌ語に由来する地名。現豊似川河口付近。現広尾郡広尾町エツキサイ。豊似川は、広尾町北部を流れる二級河川。流路延長37.6キロ、流域面積183平方キロ。日高山脈稜線上のトヨニ岳(1493メートル)東側に発した数条の流れが二股(ふたまた)橋付近で合流して豊似川となって北東へ流れる。上豊似付近でパンケアイアン沢川を合せたのち向きをやや南東に転じ、右岸にカムメロベツ川・カシュンナイ川などを合せながら流れ、海岸平野の農耕地帯を経て太平洋に落ちる。支流はいずれも清澄でヤマベの生息がみられ、またカムメロベツ遺跡・花春内(かしゆんない)遺跡など縄文時代早期から晩期の包蔵地がある。

(151-12)「二タ瀬小さし。都而五ツ瀬有」・・異本は、「二タ瀬、小さき三瀬、都合五ツ瀬」とある。異本の方がわかりやすいか。

(151-4)「ノツカ」・・野塚。野塚川河口付近。現広尾郡広尾町エツキサイ。「ノツカ川」は、「野塚川」で、日高山脈稜線上の野塚岳(1353メートル)の西面が源流。広尾町エツキサイで太平洋に注ぐ。

(151-6)「ラツコ」・・漢字表記地名「楽古」のもとになったアイヌ語に由来する地名。楽古川河口付近。現広尾郡広尾町会所前。

(151-7)「ラツコ川」・・日高山脈稜線上の楽古岳(1472メートル)の東面が水源。

(151-9)「ヒロウ」・・漢字表記地名「広尾」のもとになったアイヌ語に由来する地名。トカチ場所の中心地。トカチ場所は、東蝦夷地に設定された場所の一つ。その境は西は「ヒタヽヌンケ」(現広尾町)の川中をもってホロイヅミ場所に、東は「チョクヘツ」(直別川)をもってクスリ場所(初めシラヌカ場所)に接し、南東は海に面する。往古クスリ場所との境は西方の「ヲコツヘ」(現浦幌町)に設定されていたが、役人の通行が増えたため直別(ちよくべつ)川に渡守を置く必要が生じ、クスリ・トカチ両場所のアイヌが隔年で渡守を勤めるようになり、やがて同川がクスリ・トカチ両場所の境目となったという。内陸部シャマニ場所・シツナイ場所・サル場所との境はカモイノホリ岳などのある日高山脈中に、イシカリ場所との境は十勝川最上流の石狩山地中に各々設定されていた。

 設定された時期は不明だが、クスリ場所と同様162040年代とも考えられる。六六年(寛文6(16666月、トカチ場所知行主である松前藩家老蠣崎蔵人広林からトカチ明神社(現広尾町十勝神社)に円空作の観音像(現同町禅林寺蔵)が納められていることから、同年以前にさかのぼるとみられる。

 寛政11年(1799)当場所を含む東蝦夷地は幕府領となり、一八〇二年(享和2(1802)以降は幕府の永御用地となった。これにより直捌制がとられ、箱館奉行はシャマニ(現様似町)に詰合を派遣し、トカチ場所を管轄下に置いた。

 文政4(1821)蝦夷地が松前藩領に復すると、文政8(1825)からは福島屋清兵衛が運上金二〇〇両で請負人となり、天保9(1838)以降はホロイズミ場所も請負ってトカチ・ホロイズミ両場所の請負人となった。天保11(1841)清兵衛から屋号など一切を継承した支配人杉浦嘉七が両場所の請負人となった。

(151-12152-1)「三丁余沖に廻り壱丁余高サ三丈計の大岩」・・現在の十勝港南端の防波堤の一部になっている立岩。

(152-2)「ヒロウ川」・・広尾川。日高山脈を源とする東広尾川(18.0㎞)と西広尾川(16.4㎞)が「青岩」の手前で合流し、太平洋へ流れ込む。

(152-23)「ンムベマモイ」・・『松浦図』には、「フンヘヲナイ」とある。現広尾郡広尾町フンベ。広尾市街から音調津(おしらべつ)に向かう国道336号、通称黄金道路に沿って約3キロ南の地点にある滝。高さ一〇メートル余、幅一五〇メートル。懸崖から数十条の滝が飛沫をあげている。水源は湧水で、道内の滝としては珍しい。「十勝国地誌提要」には「粉辺浜ニアリ 同所海岸ニ発源シ直ニ海ニ注ク 高二丈余巾三間余」とある。かつては豪壮な景観をみせていたが、昭和30年代から懸崖上の高台の林を海産干場造成のため伐採したことによって保水力がなくなり、水量が減少した。融雪時や大雨の時などは往時をしのばせる水量となり、厳冬期は一面の氷滝となる。近年は自然の造形美に加え、銘水として滝水を持ち帰る人もおり、滝の傍らに海難碑が建てられるなど観光地となった。

(152-4)「ヒボロ」・・漢字表記地名「美幌」のもとになったアイヌ語に由来する地名。美幌川河口付近。現広尾郡広尾町美幌。

(152-6)「ホンヲナウ」・・『松浦図』には、「ヲナヲヘツ」とある。現広尾郡広尾町ヲナヲベツ。自治体の行政字に「ヲ」を使用している珍しい例。

(152-7)「ヲリコマナヰ」・・ヲナヲベツと音調津(おしらべつ)間の地名。現広尾郡広尾町ヲリコマナイ。自治体の行政字に「ヲ」を使用している珍しい例。

(152-8)「ヲシラベツ」・・漢字表記地名「音調津(おしらべつ)」のもとになったアイヌ語に由来する地名。音調津河口付近。現広尾郡広尾町音調津。

(152-9)「ユウベシベタ」・・ルベシベツ。いわゆる「ルベシベツ山道」の広尾側の入口。現広尾郡広尾町ルベシベツ。ルベシベツ山道は、広尾町ルベシベツから、ピタタヌンケに至る約10キロの山道。蝦夷地で開削された最初の道路という。この道路は近藤重蔵が寛政10(1798)にクナシリ・エトロフ両島から巡察の帰途に開削したものとされる。山道はルベシベツ川をさかのぼり、源頭部からほぼ南に標高6080メートルの海食崖上の平坦部を通って日高と十勝の境をなすピタタヌンケに至るもので、この開削により山道の利用も見られたが、多くは山道を通るよりも、磯伝いに波の合間を見て海岸を走り抜けたという。明治24(1891)には、ルベシベツ・タニイソ間に、海岸道路が隧道をつくって開削されたが、本格的な開削は昭和2(1927)からで、昭和9(1934)に完成後は黄金道路と呼ばれている。現在は、国道336号線として、産業・観光道路としての役割を果たしている。

(153-1)「ピタタヌイ」・・ピタタヌンケ。十勝地方と日高地方の境界。現在、ピタタヌンケは広尾町の行政字名になっている。

(153-5)「サルル」・・漢字表記地名「猿留」のもとになったアイヌ語に由来する地名。現幌泉郡えりも町目黒。なお、「猿留」は、現在、えりも町の行政字名は、「目黒」となっているが、蝦夷末期当地に永住した福島屋番人目黒源吉の名前によるものという。

(153-7)「此所より又々山道難所也」・・いわゆるサルル山道。寛政11(1799)、ここから、現えりも町歌別間にサルル山道が開削された。道筋は、えりも町本町から歌別川沿いにさかのぼり、豊似岳の中腹をたどって猿留川の中流から左岸沿いに猿留(現目黒)に至る。新道開削は寛政10(1789)に蝦夷地巡察のために派遣された幕府使番で蝦夷地取締御用掛大河内政寿がシャマニに駐留して指揮、配下の中村小市郎、最上徳内らに担当させて寛政11(1799)5月から普請にかかり、翌年まで整備が続けられた。これより先にシャマニ山道・ルベシベツ山道が開かれている。これらの山道(新道)の完成により、箱館からクスリ(釧路)までの馬による通行が可能になった。この道路の開削以前は海岸沿いに襟裳岬を迂回して、庶野に向い、そこから猿留まで岩礁を越えて広尾に出ていた。この山道により道中の苦労は幾分緩和されたが、難所には変わりなく、古くから蝦夷三険道のひとつとされた。この山道は、明治中頃でも海岸沿いの道路が激浪などで途絶すると山道が利用された。昭和9(1934)にいわゆる黄金道路が開通したことにより、この山道の意義は薄らいだ、山道のうち、歌別川沿いの部分は現在国道336号の一部として利用されている。

(153-8)「カルスコタン」・・猿留山道内の地名。猿留川から離れて山道への入口付近。猿留川の支流のワラビタイ川と猿留川の合流地点の猿留川にかかる猿留山道橋付近。

(153-9)「サルル川」・・猿留川。えりも町の北東部を流れる川。十勝支庁との境界にある標高1121.4メートルの無名峰の南山腹を発源とし、南に流れ落ちてから記念橋付近(支流右一号の川合流点)で東に流れを変え、丹根内(たんねない)川・登(のぼり)川・チャツナイ川などを合せて目黒(めぐろ)市街で太平洋に注ぐ。流路延長22.1キロ、流域面積97.9平方キロ。

(153-10)「沼見峠」・・猿留山道の標高419メートルの地点。沼見峠には一八五九年(安政6(1859)にはホロイツミ場所請負人福島屋とその支配人卯三郎が願主になり、北辰妙見を納めた石祠が設けられた。また文久元年(1861)にも両人が願主となって馬頭観音が建立されており(石碑石仏)、きわめて重要な道であったことがうかがえる。

(153-2)「周囲四丁余程の池」・・豊似湖。えりも町の北部、観音岳の北東山腹にある湖。目黒市街から南西へ約6キロの山中にあたり、湖面の標高は300メートル。日高管内で随一の自然湖で、馬蹄形をしており、馬蹄湖ともいう。また、ハート形をしていることから、ハートレイクといわれている。周囲は1.5キロ、最大水深18メートル、水の色は緑青色、透明度6メートル。現在は林道が通じ、鬱蒼たる老木に囲まれた湖である。

(153-2)「入水(じゅすい・にゅうすい)」・・「入」を「じゅ」と読む場合の「じゅ」は、慣用音で、国訓。人や物が水にはいること。特に、人が死ぬために、水中に身を投げること。投身。にゅうすい。

 *<漢字の話>「入」・・「ジュウ」は漢音、「ニュウ」は呉音。「ジュ」は国訓。「入」を「ジュ」と読む例は、「入内(ジュダイ)」(内裏=ダイリ=に入ること)。「入院(ジュイン)」(僧侶が住職となって寺に入る事)など。

(153-8)「トヨニ」・・猿留山道の最高地点。標高488メートル。

(153-10)「アフチ」・・アブチとも。現えりも町の百人浜に流れ込むアアツ川流域。ここに、猿留山道の休み所が設けられた。

(155-1)「エレモンの岬」・・襟裳岬。えりも町の南端部に位置し、日高山脈が南に延びて太平洋に突き出た岬。付近は各標高が8090メートル、4060メートル、20メートル前後の三段の海岸段丘が発達、とくに岬西側(字東洋側)の海岸は4060メートルの中位段丘がただちに海に臨んで海食崖となっている。岬突端は標高60メートルの断崖で、さらに沖合に向かって7キロほど岩礁が続いている。地先海域は暖流と寒流がぶつかる地点で、5月から8月にかけて海霧が発生しやすく、昔から航海の難所とされ、明治22年(1889)岬西側の高さ60メートルの段丘上に襟裳岬灯台が設置された。一帯は風の強いところとしても有名で、年間に風速10メートル以上の日が290日、うち15メートル以上は200日に及ぶ。強風により一部では樹木がはうように地にへばりつき、所々に裸地もみえる。

(155-3)「ヲタベツ」・・漢字表記地名「歌別」のもとになったアイヌ語に由来する地名。現幌泉郡えりも町歌別。

(155-5)「モセウスナヰ」・・現えりも町の歌別川河口右岸の地域。

(155-8)「ボロイツミ」・・漢字表記地名「幌泉」のもとになったアイヌ語に由来する地名。現幌泉郡えりも町本町市街地。ホロイズミ場所は、西側ではニカンベツ川を境にシャマニ場所に接し、東側ではピタタヌンケを境にトカチ場所に接していた。寛政11(1799)にアブラコマ場所をシャマニ・ホロイズミ両場所に分割して成立した。嘉永5(1852)から杉浦嘉七の請負地になる。

(155-1011)「住吉大明神」・・現住吉神社。『えりも町史』によると、文化9(1812)に、箱館の島屋佐兵衛がホロイズミ場所の請負人となり、同11(1814)に社殿を建立したという。