(156-1)「六月土用に入」・・陰暦で、立春・立夏・立秋・立冬の前各一八日間の称。陰陽五行説で四季を五行にあてはめる場合、春・夏・秋・冬を木・火・金・水に配すると土があまるので、四季それぞれ九〇日あるうちの終わりの五分の一ずつを土にあてたもの。春は清明、夏は小暑、秋は寒露、冬は小寒の後、各一三日目に土用入りとなり、一八日で土用が明けて新しい季節が始まる。土用中に土を犯すことは忌むべきこととされ、葬送などはこの期間は延期された。

 たとえば、今年の場合、7月7日が小暑だから、13目の7月19日が土用の入り。

 なお、現在、日高管内のコンブ漁は、漁協の浜ごとのコンブ部会で解禁日が決められるが、7月10日頃から20日前後が解禁日。

(156-2)「目方四千貫目にて石高にいたし百石積り、凡五千石高」・・計算すると、20万貫になる。メートル法換算では、750トン。ちなみに平成24年度の日高管内のコンブ生産は、2941トン(乾燥状態)。

(156-3)「水いしと申名代の昆布」・・「水いし」は、「三石」か。北海道産の昆布としては、松前地方のものが主流であったが、昆布漁場も沿岸に広がり、日高沿岸一帯で生産されるようになった。松前産のものが減少したため、三石産がこれに代わり、日高沿岸の昆布は「ミツイシコンブ」と総称されることとなる。名付け親である宮部金吾博士により、明治35年(1902)に学名となっている。

 ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』は、「こんぶ」の語誌を

 <(1)「本草和名」には「和名比呂女、一名衣比須女」とあるが、ヒロメは幅が広いことから、エビスメは蝦夷(えびす)産が多いことから付けられた名と考えられる。

(2)「色葉字類抄」に「コンフ」、「伊呂波字類抄」に「コフ」とあり、中古末にはすでに「こぶ」「こんぶ」の両称が行なわれていた可能性があり、その併称は今日までつづいている。その語源をアイヌ語とする説もあるが、漢名の音読によるとする説もある。

(3)古く砂金などとともに重要物資として交易されていたが、中世には、海上輸送で若狭の小浜に運ばれて「若狭昆布」、さらに京都で加工が行なわれて「京昆布」と呼ばれた。近世以降は、大阪が昆布の中心地の観を呈するようになった。>と記している。

(156-4)「巾三、四寸、丈五、六間」・・メートル法換算では、巾9センチ~12センチ、丈は9メートル~11メートルになる。ミツイシコンブは、実際には、成長した状態で、幅7~15センチ、長さ2~7メートル。本文書の記述は、長さがちょっとオーバーに書かれているか。縁辺部はゆるやかにうねる程度でほとんど波打たない、中帯部は幅の6分の1と細く、表面の中央部に幅の狭い1本の溝が走るように見える。葉の基部は輪郭が広いくさび形またはほぼ円形である。葉の色は緑色を帯びた黒褐色。

(156-4)「干あげ長サ三尺程也切俵に致し」・・影印は、意味不明。ここは、異本を参考に読点を入れると、「干あげ、長サ三尺程(也)(に)切、俵に致し」がいいか。「也」は不用で、「に」を挿入にして、「干あげ、長サ三尺程に切、俵に致し」がいいか。なお「干」を「亍」としているが、単なる筆の流れか。

(156-5)「京、大坂、中国、九州、長崎迄も積出ス」・・昆布の採取は、江戸時代の徳川幕府による蝦夷地開拓以来盛んになり、昆布を食べる地域も広がっていった。昆布が北海道から各地へ運ばれた道は「こんぶロード」と呼ばれ、北海道で採取された昆布は、江戸時代、北前船を使い、日本海沿岸をとおり西回り航路にて大阪まで運ばれ、さらに、こんぶロードは薩摩藩により、琉球王国を中継地点として清(中国)までのびていった。

 たとえば、大阪ではしょうゆで煮てつくだ煮にしたり、沖縄では、ぶた肉や野菜といためたり、煮こんだりして食べてる。関東地方はこんぶロードの到達がおそかったため、全国的に見て昆布の消費量が少ない地域となっている。このように、現在見られる地域による食べ方の違いは、こんぶロードの歴史的背景と関連があるという。(この項日本昆布協会のHP参照)

 *「大坂」・・大阪の地名は、15世紀末に石山別院を建立した蓮如上人の『御文(おふみ)』に「大坂」とあるのが初見と伝えられ、江戸後期には「大坂」「大阪」の字の混用がみられる。明治以降行政名として「大阪」の字を用いるようになった。(この項ジャパンナレッジ版『日本大百科全書(ニッポニカ)』参照)

(156-7)「被下(くだされ)」・・名詞。目上の人、または身分の高い人から物品などをいただくこと。また、いただいたもの。下賜。くだされもの。

(156-10)「俄(にわか)に」・・形容動詞「にわかなり」の連用形。突然に。語源説のうち、私は、「急な事は一、二と分かずの意か〔和句解〕。」が納得。

(156-10)「アベヤキ」・・アイヌ語に由来する地名。現えりも町下笛舞付近。普通河川アベヤキ川下流の地名。

(156-11)「フイマム」・・漢字表記地名「笛舞」のもとになったアイヌ語に由来する地名。現えりも町笛舞。

 笛舞村は、明治初年から明治三九年(一九〇六)までの村。幌泉郡の西部に位置し、北西は近呼(ちかよつぷ)村に、南東はアベヤキ川をもって幌泉村に接する。明治四年二月、幌泉詰の開拓大主典関定吉が開拓使本庁に提出した地名の漢字改正案ではブヨマップに「笛舞」の字を当てた。同三九年(1906)、当村など九ヵ村が合併して二級町村幌泉村となった。

(156-11)「此間小川有橋」・・「小川有、橋」か、「小川、有橋」と読むのか。有(ある)のは、小川か橋か。異本は、「小川橋有」に作る。

(157-1)「ホンウエンコタン」・・江戸時代から見える地名。ホロイズミ場所のうち。現えりも町笛舞の笛舞漁港付近。

(157-3)「ニカンベツ」・・アイヌ語に由来する地名。現様似町字旭。普通河川ニカンベツ川河口付近。当地はもとホロイツミ支配所のうちであったが、一八〇一年(享和元年)シャマニ、ホロイツミ両所乙名立会のもとにシャマニ支配所の領域とされた(東蝦夷地場所大概書・場所境調書)。現在もニカンベツ川河口は、両岸とも様似町の区域で、左岸の集落も様似町に属する。

(157-5)「万屋仙左衛門(よろずやせんざえもん)」・・福山出身の場所請負人。佐野仙左衛門。「万屋」は家号。文政2年(一八一九)から万屋専左衛門・同弥次兵衛の二人がシャマニ、ウラカワ、シツナイの三場所を請け負っている。(「場所請負人及運上金」河野常吉資料)。これにより万屋は日高三場所での基盤を固めた。以後、万屋仙左衛門の名で営業。文政4年(1821)、幕府は蝦夷地を松前藩に返還したが、場所請負制度はそのまま引継がれた。三場所は文政9年(1826)の更新期から万屋専左衛門の一人請負人となり、以後場所請負制度の廃止まで続いた。

(157-5)「シヤマに」・・シャマニ。漢字表記地名「様似」のもとになったアイヌ語に由来する地名。影印は、「シヤマ」がカタナカで、「に」がひらがな。様似は、近世はシャマニとよばれ、シャマニ場所の会所などが置かれ、同場所の中心地であった。また海防警備上の要所で、一八二一年(文政四年)に蝦夷地が松前藩領に復すると、同藩は幕府領時代を踏襲して当地に警備の勤番所を置き、五五年(安政二年)の再上知後は、シャマニ詰はニイカップからトカチまでを持場とした。シャマニ場所は、一七九九年(寛政一一年)に東蝦夷地が幕府領となって後、ウラカワ場所の東側に設定されていたアブラコマ場所を東西に分割、西半を当場所、東半はホロイツミ場所としたことで成立した。

(157-5)「ボロムイ」・・現えりも町下近浦付近。

(157-7)「ボロマンベツ」・・漢字表記地名「幌満」のもとになったアイヌ語に由来する地名。現様似町字幌満。

(157-8)「是より山道」・・シャマニ場所から東方のホロイツミ場所へ向かう道のうち、ブユガシュマ(冬島)の東方、ヲソフケウシ(現オシクシ)から内陸部に入り、アポイ岳南裾の山中を上り下りし、その間コトニの休所を経てホロマンベツ(現幌満川)に至った山道。様似山道・様似新道ともいった。山道が開かれる以前は海沿いの道を行ったが、ブユガシュマ―ホロマンベツ間の海岸部は海食崖が発達し(現在は日高耶馬渓とよばれる)、この道はテレケウシ、チコシキル、ルランベツとよばれた大難所をはじめ、波が打寄せる岩場を伝う危険な道であった。ルランベツは、山道と海岸結ぶ坂道があり、念仏坂と呼ばれた。寛政10年(1798)に蝦夷地巡察のために派遣された幕府使番で蝦夷地取締御用掛大河内政寿が翌九九年にシャマニに駐留して指揮、配下の中村小市郎らに担当させて同年五月から普請にかかっている。このとき併せてサルル山道が開かれ、またこの年には近藤重蔵がルベシベツ山道を開削している。これらの山道(新道)の完成により、箱館からクスリ(釧路)までの馬による通行が可能になった。

(157-9)「ほろまんべつ川」・・幌満川。日高山脈の広尾岳付近に源を発し、中流には洪水予防と電源用の幌満ダムがある。ダムの下方は幌満渓谷の景勝地、また下流左岸には国指定の天然記念物ゴヨウマツの自生地があるなど、流域一帯は日高山脈襟裳(えりも)国定公園の一部となっている。

(157-10)「ヤワヲイ」・・シャマニ山道中の地名。現様似町山中付近。

(157-10)「岩鼻(いわはな)」・・岩の突端。突き出た岩の先端

(158-1)「山坂難所也」・・松浦武四郎の『竹四郎廻浦日記』には、「川を渡りて巌壁の間に爪懸り有ばかりの道の有るを辛ふじて上る也。・・甚難所なりし也。念仏坂と其を言し」とある。

(158-2)「ヲホナイ」・・シャマニ山道中の地名。現様似町山中付近。

(158-3)「コトニ」・・シャマニ山道中の地名。現様似町山中付近。様似山道の途中にコトニ小休所があった。

(158-4)「フユニ」・・漢字表記地名「冬島」のもとになったアイヌ語に由来する地名。現様似町字冬島。

(158-7)「ふゆか島と申大岩」・・いわゆる冬島の石門。現在は冬島漁港の防波堤の一部になっている。

(158-8)「行きぬけ」・・先へ抜けて出ること。抜け通っていること。また、通り抜けられる所。通り抜け。いきぬき。

(158-9)「海苔」・・のり。生のまま、または乾燥して食用とする。むらさきのり(紫菜)・あまのり(甘海苔)・のり(海苔)などの名称を主とし、古代から珍重されて神饌や貢納品に当てられていた。

 *<漢字の話>「海」の字の当て字・・「海薀(もくず)」「海花石(きくめいし)」「海神(わたつみ)」「海鏡(つきひがい)」「海月(くらげ)」「海参(いりこ)」「海女・海人・海士(あま)」「海嘯(つなみ)

」「海松(るみ)」「海鞘(ほや)」「海人草(まくり)」「海星(ひとで)」「海石(いくり)」「海石榴(つばき)」「海扇(ほたて)」「海鼠(なまこ)」「海獺・海猟・海狸(らっこ)」「海桐(とべら)」「海豚(いるか)」「海髪(おご)」「海豹(あざらし)」「海鷂魚(えい)」「海蘿(ふのり)」「海螺(つぶ)」「海栗・海胆(うに)」「海驢・海狗(あしか)」「海老(えび)」「海象(せいうち)」

(158-10)「シラリア」・・漢字表記地名「白里谷」のもとになったアイヌ語に由来する地名。現様似町平宇。シミチカップ川とポロサヌシベツ川に挟まれた地。

(159-1)「ビラウト」・・漢字表記地名「平宇」のもとになったアイヌ語に由来する地名。現様似町字平宇。

(159-1)「小坂登り」・・平宇から、現在の様似町大通にでる「平宇山道」があった。

(159-2)「廿間余の川」・・現様似町字平宇で太平洋に注ぐ門別川。

(159-3)「運上金千八十三両」・・サマニ、ウラカワ、シツナイの三場所の運上金。

(159-10160-1)「帰郷山等樹院厚沢寺」・・帰嚮山等澍院。影印の「等樹院」の「樹」は、「澍」のまちがい。等澍院は、文化3(1806)に江戸幕府が建立した直轄の官寺で、伊達有珠の善光寺(浄土宗)、厚岸の国泰寺(臨済宗)と並び「蝦夷三か寺」と呼ばれた寺院(天台宗)。禄をくれる幕府が瓦解した明治維新後に、一時廃寺の悲運にあいましたが、明治3(1897)に再興され現在に至っています。これまでに何度も移転改築を繰り返し、建立当時の面影を残すものはわずかに護摩堂の姿だけですが、本堂には鎌倉時代(推定)に作られた聖観世音菩薩像や薬師如来三尊仏像(江戸後期・推定)など、様似町指定文化財の貴重な仏像がまつられているほか、平成17年(2005)には歴代の住職記などの古文書(様似郷土館所蔵)と百万遍念珠箱が国の重要文化財に指定されている。

(160-1)「天台宗上野三十六坊」・・東京都台東区上野桜木にある天台宗の寺院。東叡山と称する。徳川家康の帰依を得た僧天海は、家康の没後、日光山に東照宮を営んでこれを管し、また武蔵国川越の東叡山喜多院に住持したが、元和8年(1622)江戸幕府より江戸忍岡の地を与えられ、ここに寺院建立を開始し、幕府の監督と援助のもとに寛永2年(1625)その本坊を完成した。天海は東叡山の名をここに移し、本坊を円頓院と称した。翌年、藤堂高虎がその傍に東照宮を建て、ついで諸侯および天海らが競って諸堂をその周辺に建立し、上野一帯の地は坊舎が甍をならべて壮観を呈した。山内の小院は最終的には36ヶ寺まで増えつづけ、「東叡山三十六坊」といわれた。

(160-2)「当時新正院より来る」・・本文書当時の等澍院住職は、八世地慈真で、駒込南谷寺住職からの赴任。

 寛永寺の小院に「新正院」はない。

(160-3)「ソンヒラ」・・ソビラ。ソビラ岩は、現様似漁港の防波堤になっている。

(160-3)「大岩小岩」・・様似海岸の名勝・親子岩などの岩をさすか。

(160-4)「此間に小坂有り」・・現在の塩釜トンネル付近は、岩壁で、かつては、現在の様似町西町から、鵜苫に抜ける「塩釜山道」があった。

(160-6)「ウトマンベツ」・・漢字表記地名「鵜苫」のもとになったアイヌ語に由来する地名。現様似町字鵜苫。

(160-78)「ホロベツ川」・・日高幌別川。浦河町の東部を流れる二級河川。ピリカヌプリ(一六三一・二メートル)の南面を水源とし、左岸にソガベツ川、右岸にルテンベツ川などを合せながら南流を続け、左岸にシマン川・メナシュンベツ川が注ぐ辺りから中流域となり、下流部では右岸にケバウ川を入れて、字東幌別と字西幌別の境界で太平洋に注ぐ。流路延長三六・九キロ、流域面積三三五平方キロ。

(160-10)「ホロベツ」・・漢字表記地名「幌別」のもとになったアイヌ語に由来する地名。現浦河町幌別。

(161-1)「シロイツミ」・・漢字表記地名「白泉」のもとになったアイヌ語に由来する地名。現浦河町白泉。

(161-2)「ボロシユマ」・・漢字表記地名「幌島」のもとになったアイヌ語に由来する地名。現浦河町幌島。

(163-3)「ツクシヤブ」・・漢字表記地名「月寒」のもとになったアイヌ語に由来する地名。現浦河町月寒(つきさっぷ)。

(161-5)「唐なす」・・かぼちゃ。ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』には、「とうなす」の語誌に

 <(1)トウ(唐)はトウガラシ(唐辛子)、トウキビ(唐黍)などと同様、外来の作物名に冠せられるもので、「和漢三才図会」によれば、この作物の形や色が熟したナスに似ているところからトウナスと命名された。

(2)トウナスは上方ではカボチャと同種を指したようだが、「武江年表」「嬉遊笑覧」などによれば、江戸では小形の別種をそう呼び、明和七、八年(一七七〇、七一)ごろからはやりだしたらしい。

(3)カボチャとトウナスの違いは、「とうなすといふもの箱根より西になし。みな東埔塞(かぼちゃ)なり」〔羇旅漫録〕のようにはっきり認識された場合もあったが、「道理でカボチャがトウナスだ」(似たりよったりの意)という流行語を生み出したように、しだいにその区別は失われていった。

(4)現在ではトウナスという語は主に関東で使用され、共通語カボチャに対する方言と意識されるに至っている。>と記している。

(161-6)「ウラカワ」・・漢字表記地名「浦河」のもとになったアイヌ語に由来する地名。現浦河町の中心地。ウラカワ場所は、当初は現在の元浦(もとうら)川流域を中心に設定され、その後領域に変動があったと考えられるが、東蝦夷地が上知となった一七九九年(寛政一一年)以降はほぼ現在の浦河町域を領域とした場所。

(161-6)「運上金壱所也」・・サマニ場所、シズナイ場所の三場所が一緒であることをいう。

(161-9)「ムコベツ川」・・向別川。向地(むこち)川ともよばれた。浦河町を流れる二級河川。流路延長一七・二キロ、流域面積五九・九平方キロ。日高山脈西縁に伴走する副山脈の水源域で急流であるほかは、全体として白亜紀砂岩類からなる丘陵域を緩慢に流れて太平洋に注ぐ。「ムコベツ」は、漢字表記地名「向別」のもとになったアイヌ語に由来する地名。現浦河町堺町付近から、向別川流域一帯の地名。

(161-10)「イカンタイ」・・漢字表記地名「井寒台」のもとになったアイヌ語に由来する地名。現浦河町井寒台。

 昆布は生育する浜によって明確の品質に差がでてくる、昆布の成長に良い環境が整っている浜の方が、昆布(こんぶ)の発育状況が良いからだ。例えば、日高地区では 各浜は特上浜、上浜、中浜、並浜の4ランクに分けられいる。当然、特上浜の価格が 一番高くなる。このような浜格差は、長い経験から決められる。「井寒台」は、特上浜にランクされている。