(162-2)「● より鮭五百本」・・意味不明。異本は、「●尤大鮭五百本」に作る。「より」を「尤」とし、「鮭五百本」の前に、「大」がある。

(162-2)「びん」・・異本は、カタカナで「ピン」に作る。

(162-4)「モヤチコチ」・・松浦図は「チヤシコツ」とある。井寒台と絵笛の間の地名。「チヤシコツ」について、松浦武四郎の『竹四郎廻浦日記』には、「此所より上に新道有。文化度御切開の由。・・上に城跡と云もの有。形ばかりの土塁にして聊(いささか)ばかり象(かたち)を残す。地名チヤシコツ城跡の事也。是よる字エフイの上を通りてシリヱトへ下る」とある。

(162-5)「ユフイ川」・・松浦図には、「イフイ」とある。「ユフイ」は、漢字表記地名「絵笛」のもとになったアイヌ語に由来する地名。現浦河町絵笛。

(162-56)「シリイド」・・漢字表記地名「後辺戸」のもとになったアイヌ語に由来する地名(岬名)。現浦河町浜東栄付近。

(162-6)「ヱウら川」・・異本は、「元ウラ川」に作る。「元」のくずしは、ひらがなの「え」によく似ているので、筆者は、「元ウら川」の「元」を「え」と読み、さらに、カタカナの「ヱ」として、「ヱウら川」としたのではないだろうか。「元浦川」は、浦河町の西部を流れる二級河川。日高山脈の神威岳(一六〇〇・五メートル)に水源を発するシュオマナイ川と、ソエマツ岳(一六二五メートル)に水源をもつソエマツ川が合流する辺りから一般に元浦川とよばれる(河川管理上はソエマツ川筋が本流)。合流点付近からはほぼ南流となり、野深(のぶか)付近から蛇行を繰返し、荻伏(おぎふし)市街を経て太平洋に注ぐ。流路延長四三・五キロ、流域面積二三九・七平方キロ。

(162-78)「ヱ(元)ウら川奥山、続(つらなり・つらなって)蝦夷小屋五十軒余有之」・・「奥山続」は、①「ヱ(元)ウら川奥、山続」。②「ヱ(元)ウら川、奥山続」。③「ヱ(元)ウら川奥山、続蝦夷小屋」などの読み方があるのだろうが、私は、「奥山、続(つづきて・つらなりて)蝦夷小屋五十軒・・」と読みたい。つまり、続いているのは、「奥山」や「山」ではなく、「蝦夷小屋」。元浦河上流には、最近まで、姉茶、野深などのアイヌ人の集落が続いていた。以下、前掲『竹四郎廻浦日記』(安政3年)の記述を表にしてまとめて見る。

 

位置についての記述

地名

蝦夷小屋軒数

川筋は渡し場より少し上(十七丁)

ヒラキウカ

24

此少し上

ヌンヘトウ

3(当時はなし)

又少し上り(凡四丁)

トフシンタリ

13

又少し上りて

フウレトウ

4(今はなし)

又少し上りて

ウエンコタン

3(今はなし)

並て少しまた上に(十丁)

ヤハトル

3(昔5軒有し由)

また少し上りて(十丁)

トウルケシ

2(むかし3軒有)

また少し上に(半里)

ケナシトマラ

むかし有て、今はなし

また少し上に

エヲルウシ

4(昔無かりし処)

又しばし上りて(十丁)

ケナシトマツフ

今はなし(先年3軒有し由)

又少し上りて(半里)

ア子シヤリ(姉茶)

2(昔時は4軒)

又少し上り(八九丁)

コイカヘツ

10(昔は8軒程有し由)

又少し(十二丁)上りて

ヌフカ(野深)

11(昔9軒)

 

合計78軒

 

(162-9)「モトウラカワ」・・かつて当川はウラカワとよばれていた。最下流部の右岸にはウラカワ場所(商場)の運上屋が置かれ、運上屋の一帯もウラカワの地名でよばれていた。しかし一八世紀の九〇年代までに運上屋(会所)は東方の昌平(しようへい)川河口部(ムクチ)に移転、当川やかつての運上屋所在地はともにモトウラカワとよばれるようになった。

(162-10)「惣名(そうみょう)」・・全域。

(162-10)「を●ニウシ」・・異本は、「ヲニウシ」に作る。本テキスト影印は、「惣名を、ニフシ」と読むか、「惣名、をニフシ(オニフシ)」と読むか。

漢字表記地名「荻伏」のもとになったアイヌ語地名。当地一帯は近代に入り荻伏(おぎふし)村に包含された。現浦河町荻伏。明治初年(同二年八月から同六年の間)から明治一五年(一八八二)までの村。浦河郡の南西部に位置し、西はポンニウシ川(伏海川)をもって三石郡鳧舞(けりまい)村(現三石町)に、北は問民(とうみん)村に、東は元浦(もとうら)川をもって開深(ひらきぶか)村に接し、南は太平洋に面する(「浦河町管内図」浦河町史、輯製二十万分一図、「状況報文」など)。近世の史料(「東蝦夷地場所大概書」、「戊午日誌」宇羅加和誌など)にヲニウシ、エカヌウシ(エカニウシ)、モトウラカワとみえる地などからなる。古くはウラカワ場所の会所(運上屋)があり、またミツイシ場所との境界の地でもあった。

(163-3)「小林屋重吉」・・小林重吉。5代前の祖庄兵衛は、陸奥大畑の人で、寛政年間に松前に渡った。その子半次郎の時、箱館に転住。半次郎の子寅五郎が文政年間三石場所請負人となる。重吉は、文政8年(1825)年1月生まれ。幼名を庄五郎という。明治元年(1868)、箱館町年寄を命じられる。箱館戦争の際には、新政府軍に協力し、旧幕軍が海中に張った網索を切断した。彼は、その後も函館の水道工事を行なうなどの功績がある。明治3年(1870)には、西洋形帆船・万通丸を購入したが、北海道での民間人の西洋形船所有の鼻祖となった。また、明治10年(1877)日高の姨布(おばふ)(現三石町)に刻み昆布製造所をたて、輸出の道をひらく。更に、自宅で月謝をとらない夜学校を始めたが、のち、明治12年(1879)には函館商船学校を設立した。明治35年(1902)没。享年77。

(163-4)「ミツイシ会所」・・この「ミツイシ会所」の文字の位置は、不自然で、意味不明。異本は、3行目の「小林屋重吉」と「持」の間にあり、「小林屋重吉ミツイシ会所持」とある。

(163-5)「ケリマブ」・・漢字表記地名「鳧舞(けりまい)」のもとになったアイヌ語に由来する地名。当地一帯は近代に入り鳧舞(けりまい)村に包含された。現日高郡新ひだか町三石鳧舞。

(163-5)「巾二十間余川」・・2級河川鳧舞川。

(163-8)「是より山坂通」・・いわゆる鳧舞山道。鳧舞と東蓬莱間の約4キロの山道。

(163-9)「ヲラリ」・・東蝦夷地ミツイシ場所のうち。鳧舞川と三石川の間の太平洋沿岸。現日高郡新ひだか町三石東蓬莱付近。

(163-10)「ビセバケ」・・東蝦夷地ミツイシ場所のうち。鳧舞川と三石川の間の太平洋沿岸。現日高郡新ひだか町三石東蓬莱。松浦図には「ヘセハケ」とある。

(164-1)「ミツイシ川」・・日高地方の三石を流れる二級河川。流路延長31.6キロ、流域面積159.4平方キロ。セタウシ山(859メートル)から西方向に延びる稜線(静内川との分水嶺)に水源を発し、太平洋に注ぐ。

(164-3)「ミツイシ」・・漢字表記地名「三石」のもとになったアイヌ語に由来する地名。ミツイシ場所の中心地。武四郎の『山川地理取調図』にはミツイシ川河口付近に「ミトシ」、その西方現姨布川河口までの間に「シヨツフ」「コイトイ」、同河口付近に川を挟んで東に「ミツイシ会所」、西に「ヲハケ」(「ヲハフ」の誤記であろう)、その西に「カシユシラリ」が記載されている。語源はともかくミツイシはミツイシ川河口の地名として発生、やがて河川名・場所名として用いられたことにより会所名ともなり、広域地名化したのであろう。

(164-6)「被下(くだされ)」・・名詞。目上の人、または身分の高い人から物品などをいただくこと。また、いただいたもの。下賜。くだされもの。

 *「見せて下ださいな、免状を、そして下賜(クダサレ)の御時計もネ」(木下尚江著『良人の自白』)

(164-7)「ヲコツナヱ」・・現日高郡新ひだか町三石港町の三石漁港付近の地名。

(164-8)「フツシ」・・ブシとも。漢字表記地名「布辻」のもとになったアイヌ語に由来する地名。布辻川は、旧静内町と旧三石町の境界であった。

(164-9)「ミツイシかかり」・・「かかり」は、「懸り」「掛り」で、担当の意か。ここは、ミツイシ会所管内という程の意か。

(165-2)「ラシユベツ」・・ウシュッペ。アイヌ語に由来する地名。現日高郡新ひだか町静内春立の春立漁港付近のウシュッペ川河口付近。

(165-2)「チヤツナヱ」・・松浦図には、チヤラセナイとある。現日高郡新ひだか町静内春立の春立漁港と元静内の間の地名。

(165-5)「シツナヰ」・・漢字表記地名「静内」のもとになったアイヌ語に由来する地名。現日高郡新ひだか町元静内付近。シツナイ場所は、静内川(シビチャリ川)の流域を中心とするシビチャリ場所と、同川の東方に続く海岸部を中心とするシツナイ場所が、寛政11年(1799)東蝦夷地が幕府直轄地となった際、統合されてシツナイ場所となった。統合後、会所(旧運上屋)は元静内川の河口部に置かれたが、安政6年(1859)頃に捫別(もんべつ)川の河口部(モンヘツのうち)に移転した。なお、現元静内の地は、明治4年(1871)5月、阿波徳島藩の淡路洲本城代家老稲田九郎兵衛邦稙主従一行の上陸地でもある。

(165-5)「萬屋仙左衛門(よろずやせんざえもん)」・・文化9年(1912)から場所請負制が復活し、東蝦夷地は一九場所に統合された。シツナイ場所は福山(松前)の阿部屋伝吉が運上金六七三両永五〇文で落札し、翌文化10年(1813)から実施された(新北海道史)。文政2年(1819)からの七年季は松前の万屋専左衛門・同弥次兵衛の二人がシツナイ、ウラカワ、シャマニの三場所を合せて一千四八両二分永一〇〇文で請負い(「場所請負人及運上金」河野常吉資料)、これにより万屋は日高三地区の基盤を固めた。文政4年(1821)幕府は蝦夷地を松前藩に返還したが、場所請負制度もそのまま引継がれた。文政9年(1826)の更新期にはシツナイ、ウラカワ、シャマニの三場所は万屋(佐野)専左衛門の一人請負人となり、以後場所請負制度の廃止まで、この三場所は万屋専左衛門の独占場所であった(様似町史・静内町史・浦河町史)。

(165-5)「運上金三場所の内」・・「三場所」は、サマニ、ウラカワ、シツナイの事。この三場所の運上金が一緒であることを言う。

(165-8)「モンベツ」・・漢字表記地名「捫別(もんべつ)」のもとになったアイヌ語に由来する地名。シツナイ会所は、安政6年(1859)頃に日高郡新ひだか町春立元静内から、モンベツ(捫別)川河口付近に移転した。

(165-9)「モンベツ川」・・捫別川。現日高郡新ひだか町で太平洋に注ぐ2級河川。

(166-1)「ウセナヰ」・・現日高郡新ひだか町春立と東静内の境界付近。谷元旦の『蝦夷紀行』に「ウセナイに休み居る内、番人の囃しに、当春二月廿八日、海上へ氷ながれ来る。厚さ三丈余にて、大さ六七間、或は三四間もあり。山々に登りて見るに、漸海上一面にて際限なきよし。夷人に尋ぬるに、今迄なき事也といふ。海岸の昆布は皆、氷のために根多く絶えたるよし。甚だ奇なる事也」(前掲条)と、当地への流氷の到来についての記述がみえる。

(166-4)「シヒシヤリ」・・シベチャリ。漢字表記地名「染退」のもとになったアイヌ語に由来する地名。現日高郡新ひだか町静内川河口付近。なお、「シベチャリチャシ跡」が、静内川左岸、河口より五〇〇メートル余り上流の標高約八〇メートルの段丘上にあり、舌状に延びた段丘の先端に位置する丘先式のチャシである。シャクシャインの戦においてシャクシャイン側の拠点と考えられているチャシである。昭和26年(1951)には道指定史跡となり、平成9年(1997)には静内川流域の他の四ヵ所のチャシとともに国の史跡に指定された。松浦武四郎もこのチャシについて板本「東蝦夷日誌」のなかで「ルウトラシ小川チヤシコツ城跡、此処、錫者允(シャクシャイン)の居城なりしと」「金丁文四郎はメナブトに住し(中略)錫者允(シャクシャイン)首長此処に城畳(塁)取立」と記している。

 中央の不動坂チャシが主砦といわれ、ここにアイヌの酋長シャクシャインが拠った。寛文年間(1661~73)染退(しべちゃり)アイヌの酋長シャクシャインと、波恵(はえ、沙流郡日高町門別)アイヌのオッテナ・オニビシの二大勢力が争い、オニビシは松前藩の助力を得て、シャクシャインを討とうとした。シャクシャインは松前藩がアイヌを圧迫して絶滅を企てていると各地に伝えたので、同九年に東西蝦夷地のアイヌが蜂起して乱を起した。松前藩はこれを討ち、シャクシャインの拠るシベチャリのチャシを焼きはらった。

(166-4)「巾四十間余の大川」・・「大川」は、現静内川。静内川は、日高地方、静内町を流れる二級河川。流路延長68キロ、流域面積649.8平方キロ。上流は日高山脈中南部に水源をもつシュンベツ川とメナシベツ川ともよぶ本流の二股に分れ、静内町農屋(のや)付近で合流して南西に流れ、太平洋に注ぐ。河口に静内町市街がある。旧名は染退(しべちやり)川(大正一一年測量五万分一図)で、近世にはシビチャリ、シブチャリ、シフシャリ、シビチャレなどともよび、語意も諸説ある。 

 近代に入り明治4年(1871)阿波徳島藩淡路洲本城代の稲田家が流域に入植、また同5年(1872)には西の新冠川流域にまたがる新冠牧馬場が、当川の中流右岸、現御園の河岸段丘面に開かれ、これらの開発が現在の馬産・酪農、沖積地での稲作の基礎となった。上流が急流で氾濫が多く、明治44年(1911)の八〇町歩の耕地の流失、昭和30年(1955)に静内市街地の入船町全域が冠水した被害などが顕著(静内町史)。

(166-8)「シンヌツ」・・漢字表記地名「真沼津」のもとになったアイヌ語に由来する地名。現新ひだか町静内駒場付近。当地一帯は近代に入り下下方(しもげぼう)村に包含された。当地はニイカップ場所とシツナイ場所の境界となっており、武四郎の『廻浦日記』に「浜道到てよろし凡一里。此処ニイカツフ、シツナイの境目也」とあり、標柱に「三ツ石境フツシへ五里一丁、サル境アツヘツへ三里八丁」とあると記す。現在、新日高町(旧静内町)との境界は、もう少し西。

(166-9)「濱田屋佐次兵衛」・・箱館在住の商人・場所請負人。文化9年(1821)から場所請負制が復活し、東蝦夷地は一九場所に統合された。ニイカップ場所は入札により箱館の浜田屋亀吉が運上金一八五両で落札、翌文化10年(1813)明治2年(1869)の請負制度の廃止まで、浜田屋が当場所の経営を独占した。

(166-10)「ヲラリ」・・漢字表記地名「浦里」のもとになったアイヌ語に由来する地名。現新冠町西泊津(にしはくつ)付近。

(166-10)「ムイノスケ」・・現新冠町の市街地の地名。松浦図には「モエノシケ」とある。

(167-3)「ニイカツフ川」・・日高地方、新冠町を流れる二級河川。流路延長77.3キロ、流域面積402.1平方キロ。日高山脈中部の幌尻(ぽろしり)岳に水源を発し、南西に流れ太平洋に注ぐ。中・上流域は日高山造山褶曲帯にあって屈曲に富み、諸所に先行谷を造り、険しい急流。下流は新第三紀の丘陵域を直線状に流れて谷底を広げ、三―四段の河岸段丘と沖積地が発達。河口左岸に新冠町市街があり、海岸の丘陵末端に二―三段の海岸段丘が発達する。近世には河口部左岸にニイカップ場所の会所が置かれていた。

(167-5)「ニイカツフ」・・漢字表記地名「新冠」のもとになったアイヌ語に由来する地名。ニイカップは古くはヒボクといった。ニイカップ場所の範囲については、「東蝦夷地場所大概書」によると、西はアツヘツ(現新冠町と日高町厚賀の境界をなす厚別川)をもってサル場所に、東はシンヌツ(ニイカップ会所元から東へ一里の地点)をもってシツナイ場所に接し、場所内海岸部の路程は三里八町。ただし「場所境調書」によると、シツナイ場所との境界は、もともと、シンヌツ西方のヲラリとシンヌツの間にあったという。文化9(1812)から請負制が復活し、東蝦夷地は19場所に統合された。当場所は入札により箱館の浜田屋亀吉が運上金185両で落札、翌10年(1813)から明治2年(1869)の請負制度の廃止まで、浜田屋が当場所の経営を独占した。一八二一年(文政4年(1821)幕府は蝦夷地を松前藩に返還したが、場所請負制度はそのまま引継がれた。

 なお、ニイカップ会所の位置について、松浦武四郎の『竹四郎廻浦日記』には、「峨々たる断崖の岬を廻りて砂浜の上に会所一棟・・」とある。

(167-10)「セツブ」・・漢字表記地名「節婦」のもとになったアイヌ語に由来する地名。