(180-1)「御附(おつき)」・・「附(つき)」は、つき従うこと。また、その人。ここでは、従者。

 *<漢字の話>「付」と「附」

①「附」は「付」の正字ではなく、全く別の字。現在、両方とも、常用漢字になっている。

②部首に関しては、「付」は「人」部。(偏になったとき、「にんべん」)。「附」は、「阜」部(偏になったとき、「こざとへん」)

③元来の意味では、「付」は「あたえる」の意で、「付与」「交付」「付託」など。「附」は「つく」の意で、「附着」「附録」「附近」「附則」など。北大図書館が、「北海道大学附属図書館」と「附属」としているのは、正しい。

④「ふわ・らいどう」も「附和雷同」、「けんきょう・ふかい」も「牽強附会」と「附」。

⑤しかし、現在は、新聞をはじめ、いずれの場合も「付」で書かれることが多い。ただし、官庁・法律用語では「附属」「附則」などには、「附」を用いる。

(180-1)「供方(ともがた)」・・「供」の敬称。お供。

(180-1)「鷲の木村」・・現茅部郡森町鷲ノ木。「鷲の木」は、現在の行政字は、「鷲ノ木」で、「の」はカタカナの「ノ」。近世から明治35年(1902)までの村。箱館六箇場所の一つ茅部場所に含まれていたが、寛政12(1800)に「村並」となった(『休明光記附録』)。『天保郷帳』の「従松前東在」に「鷲ノ木」とみえ、持場として「尾白内・森・蛯谷古丹・本茅部・石倉」が記される。安政5年(1858)正式に村となった成立時は、西は茂無部(もなしべ)川を挟んで落部(おとしべ)村、東は鳥崎川を挟んで森村、北は海に面していた。明治元年(1868)1020日、榎本武揚率いる旧幕府脱走軍の艦隊が北上して上陸した地としても知られる。明治2(1869)8月茅部郡鷲ノ木村となり、同35(1902)二級町村森村の一部となった。

 *箱館六箇場所・・箱館の後背地を箱館の人びとが運上金を納めて請け負い、産物は小船で箱館に出荷されて本州方面に販売していた。その村々は、木古内、鹿部、砂原、掛潤、鷲ノ木、茅部の六ヶ村。

 *榎本武揚と鷲ノ木・・本書は、嘉永7(1854)に幕吏の堀・村垣の蝦夷地・樺太巡見の際の従者の日記であるが、当時18歳の榎本は、堀の従者だったといわれている。(異説もある)。とすれば、旧幕軍の指揮官・榎本にとって、鷲ノ木上陸は2度目といえる。彼が旧幕軍の旗艦・開陽丸で、蝦夷地を目指した時、上陸地は、かつて上陸した経験のある鷲ノ木としたといわれている。なお、本書冒頭の「蝦夷地御渡海諸役人御名前」に榎本の名前はない。堀の従者の記載の最後に、「御徒士三人、右名前なし」とある「三人」のうちのひとりか。                                      

(180-3)「御本陳(ごほんじん)」・・松浦武四郎は『蝦夷日誌』に「則此処を東陣と号而諸役人の取扱所也」と記している。ここでは、一行の宿泊所くらいの意か。

 *<漢字の話>「陣」と「陳」・・普通、「ジンヤ」と言う場合、「陣屋」と、「陣」を 使う。影印は、「陳」。「陣」は、漢音で「ジン」、呉音で「チン」。一方、「陳」は、漢 音で「チン」、呉音で「ジン」だから、ややこしい。さらに、「陳」の俗字を「陣」と するから一層ややこしい。(『字通』、『新潮日本語漢字辞典』など)

(180-3)「海上十三り」・・本書一行は、室蘭(現室蘭市崎守町)から噴火湾を船で航行し、鷲ノ木に上陸している。「十三り」とあるが、実際は、約47キロで、12里ほど。

 *森~室蘭間の航路略史

 ・幕府の蝦夷地直轄時代から幕吏や諸藩士たちが頻繁に往来していた通路。

 ・明治4(1871)、開拓使は、ケプロンの提言を受け、札幌本道開削計画をたてる。  当初の計画では、航路は、室蘭(現室蘭市崎守町)と砂原間であったが、ワ-フィールドの実測の結果、室蘭は、絵鞆岬の東・トッカリモイ(現室蘭市海岸町と緑町の境界付近:室蘭港付近)、砂原は風波が激しくて不適当とされ、森に移された。

 ・札幌本道の工事は、明治5(1871)318日、亀田村一本木を起点として開始された。

 ・明治5(1871)4月、トッカリモイに木造桟橋が完成、全長266メートルの森の桟橋も完成した。同年6月、開拓使は、喜得丸、晴得丸を森―室蘭間の運送にあて、7月、開拓使附属船稲川丸(15トン)をもって、室蘭~森間の定期航路を開始。以後、弘明丸、辛未丸、石明丸などが就航。

 ・明治14(1881)95日、明治天皇は、北海道巡幸の際、室蘭から召艦・迅鯨(じんげい)で森桟橋に上陸。

 ・明治18(1885)9月、この航路は、日本郵船会社に経営を引き継ぎ、室蘭丸(52t)が運行。

 ・明治26(1893)10月、函館~室蘭間の定期航路が開始され、森~室蘭間の定期航路は廃止。

・明治41(1908)6月、楢崎平太郎、小汽船喜生丸で、室蘭・森間の定期航路開始。

・昭和3(1923)、長輪線(おさわせん)の鉄道(長万部〜輪西間)が開通したため、船舶の定期航路廃止。 

(180-9)「森村」・・茅部場所に含まれていたが、寛政12年(1800)に「村並」となり(火『休明光記附録』)、『天保郷帳』の「従松前東在」に鷲ノ木持場「森」と記される。安政5年(1858)鷲ノ木村から独立して森村となり、同年村並から正式に村となった。成立時は、西は鷲ノ木村、東は尾白内(おしろない)村、北は海に面していた。村名はアイヌ語のオニウシ(樹木の茂った所の意)呼ばれていたが、和人が住居するようになってから、意訳して「森」になったという。「オニウシ」の名は、道の駅「YOU・遊・もり」に併設されている「オニウシ公園」に残る。

(180-8)「掛り間村」・・掛澗(かかりま)村。はじめ箱館六箇場所の一つ茅部場所のうち。のち砂原場所のうち。明治2(1869)茅部郡に所属。明治39(1906)砂原村の大字になる。

(180-8)「大平村」・・尾白内村。「ヲシラナイ」「ヲシラナヘ」ともい、漢字も「大白内」、「大平内」とも書かれた。「尾白内村」は、箱館六箇場所の一つ茅部場所に含まれていたが、寛政12年(1800)に「村並」となり(『休明光記附録』)、『天保郷帳』の「従松前東在」に「鷲ノ木持場尾白内」と記される。安政5年(1858)鷲ノ木村から独立して尾白内村となり、同年村並から正式に村となった。

(180-8)「砂原村(さわらむら)」・・近世から明治39年(1906)までの村。箱館六箇場所の一つ茅部場所の中心であったが、寛政12年(1800)に「村並」となり(『休明光記附録』)、『天保郷帳』の「従松前東在」に「砂原」とみえ、持場として掛澗(かかりま)が記される。安政5年(1858)正式に村となった。遡って、寛政11(1799)東蝦夷地は幕府直轄となり、砂原は盛岡藩兵が警衛することに決まる。文化4年(18074月ロシア船がエトロフを襲ったため、砂原には100人の兵が配置された。砂原村は明治2(1869)茅部郡に所属。平成17(2005)森町と合併し、森町の行政字になる。なお、合併前には、砂原中心地には、「会所町」という字があった。明治二年(1869)8月茅部郡森村となる。

(180-78)「山の出岬砂岬」・・「砂岬」は、「砂崎」か。現森町砂原市街地の東に突き出た「砂崎(すなざき)」を指すか。

(180-7)「駒ヶ嶽」・・北海道南西部、内浦湾南方のコニーデ式火山。標高1131メートル。寛永17年(1640)以降たびたび噴火、昭和4年(1929)にも大爆発があった。渡島富士。渡島駒ヶ岳。

(180-10)「せしの村」・・不詳。『蝦夷紀行』は、本書の「夫よりせしの村なり」の記述はない。

(181-3)「御用人(ごようにん)」・・江戸時代においては、幕府のみならず大名・旗本の家で、財務や内外の雑事をつかさどった役人をいう。したがって、家臣のなかで有能な者をこれに任じられた。

(181-3)「中小姓(ちゅうごしょう)」・・江戸時代の諸藩の職名の一つ。小姓組と徒士(かち)衆の中間の身分で、主君に近侍して雑務をつとめる小姓組に対し、主君外出の際供奉し、また祝日に配膳・酌役などつとめたもの。

(181-4)「少々道□□」・・『蝦夷日記』は、「少々道」のあとに「帰り候而」があり、「少々道帰候而」に作る。

(181-5)「鳥崎村(とりざきむら)」・・現茅部郡森町鳥崎町。鳥崎川河口部西岸にあたる。明治2年(1869)八月渡島国茅部郡鷲ノ木村に属した。『角川日本地名大辞典』(角川書店)には、菅江真澄の『えぞのてぶり』を引用し、<「鳥井が崎とてアヰノの家ありて・・森の中に八船豊受姫(やふねとようけひめ)の祠あれば、鶏居(とりい)あまた立かさねて、是を崎の名におへり」あるように、「鳥居のある先」の意味と思われる>と記している。

(181-6)「鳥サキ川」・・鳥崎川。松浦武四郎は「鬼ウシベツ一名鳥サキ川」として、「此川、森と鷲の木の境也。川巾十七八間、水の有間は常々八間位也。仮橋をかけたり」「此川上十丁計にして、臭水の出る処有よし」(『蝦夷日誌』)と記している。鳥崎川流域は、「鳥崎八景」として知られる渓谷。

(181-9)「追分村」・・尾白内(おしろない)川中流域にある。『西蝦夷地日記』には、「山中茶屋四ケ所あり、何れも酒わらぢ等商之往来多、商も有之様子也。追分に壱軒、鷲木より一り半、佐原鷲木追分也」とある。

(181-10)「焼山」・・『松浦図』に「ユノタイ」と「ムマ立ハ(馬立とも)」の間に「ヤケ山」がある。

(182-1)「相原周防守(あいはら・すおうのかみ)」・・「政胤」は、「季胤」とも。本書の伝説は、駒ケ岳伝説のひとつ。 大沼に浮かぶ島に、相原島があり、相原周防守政胤の碑がある。

*「周防」・・山陽道八か国の一つ。大化改新後、六郡で一国となる。鎌倉時代は東大寺の知行国であったが、南北朝時代以後大内氏が守護職となり、山口に城下町を築いた。江戸時代は毛利氏の支配下に置かれ、明治四年(一八七一)の廃藩置県後に長門国を合わせて山口県となる。

*<漢字の話>「周防」・・「周」を「ス」と発音するのは呉音。一方、「防」を「ホウ」(歴史的仮名遣いでは「ハウ」)と発音するのは漢音。

(182-2)「山へ登り、□に死ス」・・異本は、「山へ登り、供に死ス」と空白の個所は、「供」に作る。

(182-3)「宿の辺村」・・宿野辺村(しゅくのべむら)。現茅部郡森町赤井川。 北は尾白内村、南は峠下村、村内を精進(しょうじん)川と赤井川が流れ、南境で宿野辺川に合流する。近世は「スクノベ」、「スクノツヘ」などと呼ばれた。万延元年(1860)、わずかな戸数でありながら鷲ノ木村から独立して宿野辺村が誕生した。明治2(1869)亀田宿野辺村となるが、同8年(1875)茅部郡に編入された。明治35(1802)森村の一部となった。

(182-4)「此先に小沼あり」・・「小沼」は、「小沼」か、「蓴菜(じゅんさい)沼」のどちらををさすか。なお、蓴菜(じゅんさい)沼」のいわれについては、明治5年(1872)、開拓次官黒田清隆がこの地を視察した際、この沼で良質のジユンサイが多く採れるということを聞き、命名したという。

 (182-5)「小沼峠」・・小沼と蓴菜沼の中間にある日暮山(ひぐらしやま。303メートル)山頂。この山は昭和初期まで「小沼山」ともいわれていた。

 (182-6)「大沼」・・駒ヶ岳西壁剣ヶ峯(1131メートル)南麓にある湖。東側に大沼、大沼の南西に小沼が位置し、小沼の日暮山を挟んだ西側に蓴菜(じゆんさい)沼がある。一帯は大沼公園とよばれ、駒ヶ岳とともに大沼国定公園に指定されている。三湖とも駒ヶ岳の噴出物が折戸(おりと)川を堰止めて形成された。大沼は周囲20キロ、面積5.1平方キロ、最大深度13.6メートル、透明度3.5メートルの富栄養湖。駒ヶ岳の泥流堆積物が多数の島をつくり、小湾が形成されている。北から宿野辺川、南から軍(いくさ)川・苅間(かりま)川などが流入し、北東に向かって折戸川が流出する。

(182-7)「しな坂」・・不詳。

(182-7)「大峠登り」・・現小沼から、大峠(茅部峠、長坂峠などとも)への山道。

(182-8)「大峠峯」・・茅部峠、長坂峠、大沼峠ともいう。峠下~大沼間の山道の最高地点。現国道5号線の大沼トンネル の上。

(183-1)「半道(はんみち)」・・一里の半分。半里。なお、「小半道(こはんみち)」ということばもある。漱石は、「小半里」に「コハンミチ」とルビをつけている。

 *「雑木林を小半里(コハンミチ)程来たら」(『二百十日』夏目漱石)

(183-1)「峠の下村」・・峠下村。久根別川の上流、函館平野北端に位置し、南を除く三方を山に囲まれる。地名は大沼峠(茅部峠・長坂峠)の下に位置することによる。峠下村は、近世から明治35年(1902)まで存続した村。明治35(1902)七飯村の一部となった。なお、峠下は、箱館戦争が始まった所で、大鳥圭介率いる旧幕軍と新政府軍が戦った。

(183-2)「此国にて始て田地(でんち)有、稲生立(おいたち)、米の出来(できる)処、この辺なり」・・蝦夷地における水田の起源は諸説ある。寛政11(1799)、東蝦夷地が幕府の直轄地になると、各地で農作物の試作が行われる。水田については、箱館近在で試みられている。『新北海道史第2巻』にある文化6年における箱館開発場の田畑反別を左に示す。

(183-2)「田地(でんち・でんじ)」・・田となっている土地。田。

 *<漢字の話>「田」、「畠」、「畑」・・

 ①「田」・・元来の意味は、水田に限らず、耕作地 の総称。

     「歸去來辭」(陶淵明)

 歸去來兮    かえりなんいざ

 田園將蕪胡不歸 田園、将(まさ)に蕪(あ)れ

なんとす。 胡(なん)ぞ帰らざ

る。

 この場合も「水田」ではなく、田畑一般をいう。

 ②「はたけ」は、「白田(はくでん)」という。ジャパンナレッジ版『国史大辞典』には、

 <「畠」の字は、「水田」に対する「白田」(乾いた

田を意味する)から作られた国字であり、「はたけ」「はた」などと訓んじた。それに対して「畑」も国字であり、「火田」の二字から作られた。意味は焼畑である。したがって「畠」の字と「畑」の字とは本来区別されていたのであるが、中世末期には次第に混用されるようになり、近世初期になると「畠」と「畑」の字の区別はなされなくなる。そして、「畑」の方が検地帳などでむしろ一般的に使用されるようになったのである。>とある。

(183-5)「壱の渡り村」・・現北斗市市渡(いちのわたり)。近世から明治33年(1900)まで存続した村。大野川の上流から源流域に位置し、南東方下流側は大野村。近世は東在の村。箱館と渡島半島東岸の鷲ノ木場所・鹿部場所を結ぶ街道の要衝であった。明治33(1900) 大野村の一部となる。

(183-5)「本郷村(ほんごうむら)」・・近世から明治33年(1900)まで存続した村。大野川中流域に位置し、西から南は大野村。近世は東在大野村の枝村。明治33(1900)大野村の一部となった。

(183-7)「時雨(しぐれ)」・・「しぐれ」は、本来は、主として晩秋から初冬にかけての、降ったりやんだりする小雨。また、そのような曇りがちの空模様をもいう。本書の嘉永7年閏728日は、夏の終わり頃。新暦に換算すると、821日にあたる。『村垣淡路守公務日記』(東京大学史料編纂所編 東京大学出版会刊)には、この日の天候について「晴、折々微雨」とある。

 *「時雨」の語源説・・ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』には12もの語源説をあげている。私の個人的趣味では、 

 ①紅葉を染める雨であるところから、ソミ・ハ・フレリ(染葉雨)の反シフリの転(『名語記』)。

 ②過ぎ行く通り雨であるところから、スグル(過)の転(『語源をさぐる』=新村出)。

 あたりが、好きだ。

 *<漢字の話>「時」、「雨」の国訓・・「時」を「時雨(しぐれ)」のように、「し」と訓じる例に「時化(しけ)がある。また、「雨」の訓には、「五月雨(さみだれ)」の「みだれ」(「さ」は、「五月(さつき)」の「さ」、「みだれ」は、「雨(ミダル、雨が降ること)」)、「梅雨(つゆ)」などがある。

(183-7)「大野村」・・近世から明治33年(1900)まで存続した村。大野川の中流域に位置し、南方下流側は千代田村、北西方上流側は市渡村。近世は東在の村。明治33年、文月・本郷・千代田・一本木・市渡の五村と合併して大野村が成立した。

(183-8)「米穀沢山出来るなり」・・現在の北斗市文月に「北海道水田発祥の地」碑がある。碑文に

<亀田郡大野村押上のこの地に、元禄五年農民作右衛門なる者南部の能田村から移って。人々の定着は米にあるとして地を拓し、自然水により四百五十坪を開田し、産米十俵を収穫した。爾来、消長あったが、後「御上田」と称して現在に及んでいる。先人未踏の北辺に、今日道産米三百万石の基礎はかうして発祥したものである。>とある。