*参考文献・・特に引用文献を記さない場合は、『日本国語大辞典』『国史大辞典』『日本歴史地名大系』『日本百科全書(ニッポニカ)』『字通』(いずれもジャパンナレッジ版)、『新潮日本語漢字辞典』(新潮社)、『古語辞典』(旺文社)を参照した。

◎テキスト影印について・・本書の原本は、国立国会図書館所蔵である。影印は、その写本で、全く同一の北海道立図書館と北海道大学附属図書館のふたつの図書館所蔵の『蝦夷地見込書秘書』(以下単に『秘書』)を比べ、適宜、比較的かすれなどの少なく、見やすい影印を選んで使用した。

◎『秘書』の書誌・・テキスト影印の表紙と本文冒頭(P12)に、いつくかの印・付戔がある。これらに触れると、わが国の国立図書館史にもなると思うので、その略史を記す。(国立国会図書館支部上野図書館刊『上野図書館八十年略史』1953参照)

 ①明治5年(18726、文部省達により、博物局書籍館(しょじゃくかん)が東京湯島の旧幕府の聖堂を利用して設置。蔵書は旧昌平坂学問所・和学講談所・医学館・開成学校の引継資料が多かった。

②翌明治6(1873)319太政官達により、博物館・博物局・小石川薬園とともに正院博覧会事務局に合併。

③明治7(1874)729、湯島聖堂が地方官会議の議場に宛てられたために、東京浅草の旧米庫に移転し、翌八月十三日これを浅草文庫と称した。

④明治8(1875)29日、官制上これを文部省に復帰し、蔵書・備品のことごとくを博覧会事務局に移管。

⑤明治8(1875)48、文部省は「東京書籍館(しょじゃくかん)」を再び旧湯島の聖堂に設置、同省所蔵図書をもって閲覧の用に供した。したがって官制・内容ともに新設の図書館となった。明治10(1877)215日閉鎖。その理由は、西南戦争の戦費を得るため最も弱い文化機関を廃止するためであった。

⑥明治10(1877)215、東京書籍館の永井久一郎館長補の働きで、東京府に移管され、「東京府書籍館(しょじゃくかん)」となった。しかし振るわなかった。

⑦明治13(1870)71、再び文部省に復帰、「東京図書館」と称し、市民図書館として成功を得た。

⑧明治18(1885)、東京上野公園内の東京教育博物館内に移転。

⑨明治30(1897)422、同館長田中稲城らの努力によって「帝国図書館」の官制を施行し、同館が帝国図書館となった。

⑩明治39(1896)3月、東京都台東区上野公園の現在の地に新館の一部を建築して移転したが、日露戦争後の不況により建築は完成せず、昭和4年(19298月ようやく増築した。

⑪昭和22(1947)124日政令によって「国立図書館」と改称。

⑫昭和23(1948)29日、国立国会図書館法が公布。

⑬昭和23(1948)65日、国立国会図書館が赤坂離宮を仮庁舎として開館。昭和36(1961)永田町現庁舎に移転。

⑭昭和23(1948)81日静嘉堂・東洋文庫を、翌年41日東京上野の帝国図書館を吸収し、また、各省庁の図書館を支部図書館として全体の構成を整えた。

◎「名古屋県学校」・・「名古屋県」は、明治初期、主として尾張国(愛知県)、美濃国(岐阜県)にあった県。明治4年(1871714日の廃藩置県とともに成立。同5(1872)42日、愛知県と改称されるまで約10ヶ月存続した。(資料1参照)。当初は江戸時代の尾張名古屋藩領から成瀬隼人正家の封土を承継した犬山県域を除く、尾張国愛知・春日井・丹羽・葉栗・中島・海東・海西・知多郡および美濃国の一部などを管轄。4(1871)11月犬山県を併合、同年同月知多郡を額田(ぬかた)県に割く。県庁を名古屋の旧藩臣竹腰(たけのこし)竜若(正旧)邸に設置。4(1871)12月、宇和島県貫属士族井関盛艮が県権令に就任。

 *「名古屋県学校印」・・名古屋県は、明治4年(1871714日~明治5(1872)4月日の間存続した県。この印は、本テキストが「東京書籍館」所蔵以前に、「名古屋県学校」の所蔵であったことが覗える。なお、それ以前の所蔵については、印章からは確定できない。ただ、旧名古屋藩の藩校明倫堂が所蔵していた可能性が高い。明倫堂は、明治2(1869)11月、藩は、職制改革で、「明倫堂」の号を廃して、単に「学校」と称した。この「名古屋藩学校」は、明治4(1871)714日の廃藩置県を受けて、同月27日、廃止になった。(名古屋市役所刊『名古屋市史学芸編』 1915参照)

◎「明治九年文部省交付」・・「文部省」は、明治4年(18717月の廃藩置県直後の同月18日に創設された中央教育行政機関。文部省は、各官庁に貸出していた書籍や、旧藩の藩校旧蔵の書籍を回収して、東京書籍館に交付した。

◎印章から本書の原本の書誌を考察すると、

 ①「名古屋県学校」所蔵(のち愛知県)

 ②明治9(1876)、文部省は、『蝦夷地見込書秘書』を愛知県から回収、「東京書籍館」に交付する。

  ①「東京書籍館(しょじゃくかん)」所蔵。(P2中央の丸印)

②明治13(1870)、「東京図書館」所蔵。(表紙の付戔)

③明治30(1897)、「帝国書図書館」所蔵。(P2中央の角印)

④現在は、「国立国会図書館」所蔵。

(1-表題)「見込書秘書(みこみしょひしょ)」・・「見込書」は、「大体の予想、見通しについて書きしるした文書」。「秘書」は、ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』には、

 ①秘して、人に見せない書物。秘蔵の本。また、秘伝を書いた書物。

 ②秘密で、重要な文書。機密文書。

 ③天子が秘蔵する書物。宮中の蔵書。

 とあるが、本テキストは、②に当るか。

(2-1)「奉(ほう)」・・献上すること。『蝦夷地廻浦録』(北海道大学附属図書館蔵)には、この「奉」の字はない。

(2-1)「猪俣英次郎」・・安政元年(1854)、村垣与三郎配下の勘定方として、蝦夷地巡検に加わる。

(2-2)「安間純之進(あんまじゅんのしん)」・・北海道立文書館のホームページの「星野家所蔵安間純之進文書」 の「私文書群の作成者に関する情報 」に詳しい経歴が掲載されているので、引用する。

 ・江戸時代後期の幕府の官吏。

 ・1804年(文化元)1019日甲斐国都留郡小沼村(山梨県西桂町)の渡邊家(さきたま屋)に生まれる。

 ・江戸の御家人・玉木家の養子となるが離縁、次いで安間家の養子に入る。

 ・1854年(安政元)、支配勘定のとき、目付堀利煕・勘定吟味役村垣範正に従い、蝦夷地及び樺太に出張。

 ・同年、箱館奉行支配調役、1857年(安政4)、同組頭勤方、次いで組頭を歴任。箱館台場建築の功により将軍から拝領物があった。

 ・1862年(文久2)西丸切手御門番之頭に任ぜられるとともに「永々御目見以上」を仰せ渡され、正式な旗本家となった。

 ・幕府瓦解後は星野家(山梨県大月市)の立て直しに尽力。

 ・1887年(明治201020日死去、享年84歳。

 ・なお、蝦夷地出張の途次、松前藩からの依頼に応じ、箱館に来航したペリーへの対応を、徒目付平山謙二郎、蘭学者武田斐三郎(あやさぶろう)らと共に手助けした。

(2-3)「西蝦夷地」・・松前藩は、自己の支配する範囲を松前(シャモ地・人間地とも通称された)と称し、蝦夷地と区別し、その範囲を、城下を中心として西は熊石付近、東は汐首岬付近までとした。そして蝦夷地には藩の許可なくして和人の往来を禁じて永住を許さず、西は熊石、東は亀田に番所を設けてこれを取り締った。蝦夷地は城下から西行して達する西蝦夷地もしくは上蝦夷地と、東行して達する東蝦夷地もしくは下蝦夷地に分かたれており、寛政十一年(一七九九)幕府が東蝦夷地を直轄した時、箱館付近から襟裳岬を経て知床岬までの間およびその付属の島々を限り、内陸では千歳川筋漁(恵庭市)と斜里山道カンチウシに境杭が立てられた。

(2-3)「リイシリ」・・漢字表記地名「利尻」のもととなったアイヌ語に由来する地名。『津軽一統志』に「るいしん」とあるほか、「りいしり」、「リイシリ」とする例が多いが、「レイシリ」ともある。

(2-3)「島辺(しまべ・しまび)」・・島のほとり。島のまわり。島の付近。「辺」は、「え」と訓じることがあり、濁音化して「べ」ともなる。名詞、または動詞の連体形に付き、そのあたり、その方向などの意を表わす。「片(かた)え」「後(しり)え」「行(ゆ)くえ」「海辺(うみべ)」「沖べ」など。

(2-3)「廻浦(かいほ)」・・海岸沿いに巡検ずること。

(2-3)「為仕候(つかまつりなしそうろう。つかまつりしそうろう。しなしそうろう)」・・「為」を「なす」とすれば、連用形は「なし」、「す」とすれば連用形は「し」。また、「仕」を「シ」と読めば、「しなし」

(2-4)「堀織部(ほりおりべ)」・堀利煕(としひろ)。文政元年(1818619日生まれ。天保12(1841)部屋住で小性組に番入りし(切米三百俵)、同14(1843)学問吟味に乙科及第した。嘉永5年(1852)徒頭となり、翌年ペリー来航の直前に目付に抜擢されて海防掛となった。安政元年(1854)蝦夷地掛として同地に出張し、そのまま箱館奉行に転じて織部正に任じられた。任地での開明政策はよく知られる。同5(1858)外国奉行を兼帯し、翌年神奈川奉行も兼ねて、修好通商条約の締結や関係業務の処理にあたった。万延元年(1860)プロシア使節と商議して条約案をまとめたが、これと対朝廷策との関連をめぐって老中安藤信正と意見対立を生じ、同年116日自刃した。享年43。攘夷派は遺書を偽作して老中の廃帝陰謀への諫死であると宣伝した。墓は東京都文京区小石川二丁目の源覚寺にある。

(2-5)「村垣与三郎」・・村垣範正。文化10年(1813924日、村垣範行の次男として生まれた。同家は庭番の家筋で、祖父定行は松前奉行から勝手掛勘定奉行に上った。範正はその功により天保2年(1831)孫の身で新規に召し出され、小十人格庭番となった(二十人扶持)。細工頭・賄頭などを経て、安政元年(1854)勘定吟味役に抜擢され、海防掛と蝦夷地掛を兼ねた。同年蝦夷地に出張し、帰府後ロシア応接掛として下田に赴いた。同3(1856)箱館奉行に進んで、淡路守を称し、高二百俵となった。同5(1858)外国奉行に転じ、箱館奉行を兼ね、翌年勘定奉行と神奈川奉行も兼帯した。万延元年(1860)遣米使節の副使を勤め、帰国後高五百石に加増された。文久元年(1861)箱館に赴いて対馬のロシア艦退去交渉にあたった。同3(1863)作事奉行に移され、翌元治元年(1864)西ノ丸留守居、さらに勤仕並寄合に退いた。明治元年(1868)隠居し、同13(1880)315日病没した。享年68。墓は東京都台東区の谷中墓地にある。

(2-67)「リイシリ島之儀、先年御普請役間宮林蔵廻島之節」・・間宮林蔵は、寛政11(1799)4月、はじめて蝦夷地にわたって以来、何度か、蝦夷地入りしているが、利尻島巡検を明記した記録は見当たらない。林蔵は文化5(1808)6(1809)カラフト探検を命じられている。また、洞富雄著『間宮林蔵』(吉川弘文館1950)に「林蔵は文化九年(1812)に再び渡島してから、引きつづき文政四年(1821)まで足かけ十年間、蝦夷地で任務についていた。彼が主として従事したのは蝦夷地の実測であった」と記しているが、「林蔵の蝦夷地実測に関しては、その経過を知るべき資料は皆無といってよい」と述べている。

 ところで、伊能忠敬の死後、弟子によって完成した『大日本沿海輿地全図』に添えて幕府に提出された『大日本沿海実測図』(原名は『輿地実測録』。明治3年に大学南校により木版刊行された)の伊能が書いた凡例の中に、「蝦夷地地方測量未完備、故令取間宮林蔵所測、以参補之」とあり、忠敬が実測していない西蝦夷地などは、林蔵の測量を採録している。その「巻13」に「蝦夷地」が記載されているが、「島嶼(とうしょ)」部は、「実測」と「遠測」に区分され、「リーシリ」「レブンシリ」は、「遠測」の部にある。つまり、林蔵は、利尻島には、上陸していないと思われる。

 なお、安政5(1858)に書かれた松浦武四郎の『東西蝦夷場所境取調書上』に、「リイシリ島は(中略)先年間宮林蔵廻浦之砌、字ヲラウシナイと申すヲタより凡七合目迄登り候処、上は絶壁にて難登、立戻り候由」とあり、林蔵の利尻登山を述べているが、武四郎は、何の出典から、記述したのだろうか。

(2-6)「御普請役(ごふしんやく)」・・江戸幕府の職名。享保9年(1724)に勘定奉行支配御普請役として新設。勘定奉行支配下で東海道五川、一五か国の幕府領の堤、川除(かわよけ)、用水などの普請箇所の検分・修築、新田の検分などをつかさどった。また、勘定所詰御普請役は諸国臨時御用などを勤めた。

(2-6)「間宮林蔵」・・江戸時代後期の探検家。安永4年(1775)常陸国筑波郡上平柳村(茨城県筑波郡伊奈町上平柳)の農民兼箍(たが)職人間宮庄兵衛・クマの子として生まれる。幼少の時より数学的才能に秀で、その才が郷里近くの岡堰工事に従事していた幕吏に認められて寛政2年(1790)ごろ江戸に出る。その際隣村狸淵(むじなぶち)の名家飯沼甚兵衛の養子となり、名を倫宗とし、出郷後は村上島之丞に師事して地理学を学んだ。同11(1799)4月蝦夷地御取締御用掛松平忠明に随行の村上島之丞に伴われてはじめて蝦夷島に渡り、同12(1800)8月蝦夷地御用雇となる。この年箱館において蝦夷地実測のため渡島中の伊能忠敬に会い師弟の約を結び測量術を学ぶ。享和2年(180210月病により職を辞したが、同3(1803)4月復職し、以後東蝦夷地およびクナシリ・エトロフの測量に従事した。文化4年(18074月エトロフ島シャナ在勤中にロシア人のシャナ攻撃に遭遇し、会所を放棄して箱館に帰る。同年6月シャナ事件に関し箱館奉行の取調べをうけ、ついで同年12月シャナ詰責任者とともに江戸に召喚され幕府の取調べをうけたが、林蔵のみ咎なくただちに蝦夷島にもどった。この年御雇同心格となる。同5(1808)幕命により松田伝十郎とともにカラフト島に渡り、林蔵は東海岸を北上してシレトコ岬まで達し、そこより引き返して山越えをして西海岸に出で、先に西海岸を北上していた松田伝十郎のあとを追い、同年620日ノテトで松田伝十郎と合流し、同地より伝十郎とともにラッカに赴きカラフトが離島であることを確かめて帰った。もっともこの年のカラフト探検では、伝十郎が林蔵より二日先にラッカまで至りカラフトが離島であることを確認していた。その後探検結果を松前奉行および天文方高橋景保に報告するとともに再探検を幕府に願い許され、同年7月再び単身カラフトに渡り、翌6(1809)512日西海岸の北端部ナニオーまで至ったがそれ以上北進することができず、やむなくノテトにもどったうえで、同年626日ノテトのギリヤークの首長コーニの満洲仮府行に従い、山丹船に乗って大陸に渡り、711日黒竜江下流の満洲仮府所在地デレンに至り、清朝官吏と応接して帰った。この探検によりカラフトが離島であることが再確認されただけでなく、カラフト・大陸間の海峡の様子が明らかにされ、その旨を幕府に復命した。同8(1811)4月松前奉行支配調役下役格となり、同年秋ごろ伊能忠敬に緯度測定法を学び、12月再び蝦夷島に向かい、翌9(1812)から文政4年(1821)まで多く蝦夷島内の測量に従事したが、この間文化九年には天測量地法を学ぶため松前に拘留中のロシア人ゴロウニンの獄舎をしばしば訪れている。文政5(1822)勘定奉行属普請役、ついで同7(1824)房総御備場掛手附となり異国船渡来の風聞内探のため東北の海岸通りを往返し、同10(1839)には伊豆諸島を調査した。同11(1840)シーボルト事件がおきると、その密告者といわれ人望を失ったが、皮肉にもシーボルトが大陸・カラフト間の海峡を「間宮海峡」としてヨーロッパに紹介したことにより、間宮林蔵の名は世界地図上不朽のものとなった。シーボルト事件後林蔵は幕府隠密として長崎に下り、ついで薩摩藩密貿易の探索、石見国浜田の密輸事件摘発などを行なったが、弘化元年(1844226日江戸深川蛤町の隠宅で没した。享年70。贈正五位。墓は東京都江東区平野二丁目の本立院墓地と郷里茨城県筑波郡伊奈町の専称寺にある。著書に『東韃地方紀行』『北蝦夷図説』がある。

(2-8)「北蝦夷地」・・カラフト。幕府は、文化6(1809)6月から北蝦夷地と唱えるべき旨達する。

資料2 「蝦夷地の範囲と略年表」参照(ジャパンナレッジ版『大日本百科全書(ニッポニカ)』より)

(2-8)「クシユンコタン」・・漢字表記地名「久春古丹」のもととなったアイヌ語に由来する地名。現ロシア領サハリン島のコルサコフ。寛政2年(1790)松前藩がカラフトの経営に着手し、クシュンコタンに運上屋を設け、ついで勤番所を置いて以来、この地はカラフトにおいて日本人が商業および漁業を営むもっとも重要な根拠地となった。

(2-8)「御勘定(ごかんじょう)」・・勘定方。勘定奉行所で、勘定組頭など勘定関係にたずさわる役人。

(2-9)「支配勘定」・・勘定奉行配下の役人で、勘定組頭の指揮をうけ、勘定所所管の事務を処理した役人。

(2-9)「御普請役」・・勘定奉行に属し、江戸・関八州、その他の幕府領、および幕府の管轄した河川の灌漑・用水、ならびに道や橋などの土木工事をつかさどった。