(32-2)「合羽(かっぱ)」・・ポルトガル語capa。「合羽」はあて字。防寒コート。ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の「合羽」の語誌には、

 <(1)ポルトガル人の伝えた毛織物のcapa を戦国武将たちは外衣として珍重した。厚手で防水性があり、ヨーロッパのすぐれた技術で染色された鮮明な緋色、黄、黒色が特に愛好された。

(2)「合羽」と当て字され、その形態が日本化されて、「雨合羽」「道中合羽」など、材質も桐油紙や木綿が用いられ庶民層にまで広がった。日本で工夫されたものに、袖をつけた袖合羽、桐油紙製袖なしの坊主合羽、袖つき桐油紙製の豆蔵合羽、木綿製の引廻し、等々がある。>とある。

(32-2)「小安貝(こやすがい)」・・タカラガイ科の巻き貝の異名。特に、大形のハチジョウダカラをさすことが多い。形が卵形で色が美しく妊婦のお守りとされ、また、古代には貨幣としても用いた。

*『竹取物語』で、かぐや姫が求婚者の1人に、ツバメの腹にもつこの貝を所望するのはよく知られている。子安貝ともいうので、安産や育児に伴う呪物(じゅぶつ)とされ、また蔵骨器(ぞうこつき)に入っていた例も鹿児島県伊佐(いさ)市など数例あることから、生命力の再生を願う呪具としての観念もあったらしい。柳田国男は『海上の道』(1961)でこの貝の重要性を指摘しているが、アジア、アフリカ、アメリカの先住民族は先史時代からこの貝殻を貝貨として用い、ニューギニアのモニ人は最近まで貨幣として使用していたという。(この項ジャパンナレッジ版『日本大百科全書』)

(32-2)<漢字の話>「牙」・・2010年改定の新常用漢字に「牙」(4画)が追加された。

現在、常用漢字になっていない漢字(以下、表外漢字)としての「牙」は、4画である。つまり、2画目の「ノ」と「一」を一気に1画で書く。
<「牙」を含む常用漢字の「牙」は、5画>
ところが、「牙」を含む常用漢字の画数は、1画増えた。つまり、2画目を二つに分解した。「ノ」と「一」を1画で書かず、2画に書くようになった。「常用漢字字体表」で画数が増えた例である。
たとえば、「芽」の脚部分の「牙」は4画から5画になった。その他、「雅」「邪」の「牙」の部分が5画になった。同様に「旡」(すでのつくり)部の「既」の旁が、4画の「旡」から、5画になった。常用漢字でも「牙」は4画、「牙」が偏旁にある漢字は5画という矛盾が発生している。
また、現在、表外漢字の「冴(さ)える」、「穿(うが)つ」、「訝(いぶか)る」、「谺(こだま)」、「鴉(からす)」の「牙」は、4画であり、これらの表外漢字と「牙」の字が偏旁にある漢字の画数(5画)が異なっている。

(32-5)「歳」<漢字の話>・・影印の「才」は、日本で、俗に、年齢をあらわす「歳」の代わりに使用される。したがって、テキスト翻刻では「歳」とする。

 「歳」は、太陽暦で、地球が太陽を一周する時間。太陰暦で、月が地球を一二周する間。年。

 なお、「才」は、生まれつきもっているすぐれた能力、資質。頭のはたらき。才能。才知。知能。また、そうした能力、資質のそなわった人。

(32-5)「わらは」・・童(わらわ)。稚児(ちご)より年長で、まだ元服しない者。10歳前後の子ども。童子。

(32-8)「心(こころ)ならず」・・不安でじっとしていることができない。気が気でない。

(32-8)「いたみ居(い)る」・・苦痛に思う。弱る。困る。

(32-10)「夜半(やはん)」・・夜の半分。つまり、よなか。まよなか。よわ。夜中(やちゅう)。

(32-11)「夜喰(やしょく)」・・「喰」を「しょく」と読むのは、「食」の通用語。なお、「喰」は、日本で出来た国字。

なお、ジャパンナレッジ版『日本歴史地名大系』の「南黒丸村(現石川県珠洲市宝立町南黒丸)」の項に、『角谷家文書』から、「寛政六年(一七九四)の払物帳には重箱・夜喰膳・盆などの塗物、徳利・皿・鉢などの焼物、鎌・たらいなどの金工品、柱・桶・戸障子・掛物軸などの木製品のほか、夜着・蒲団・畳」などがみえ、「夜喰膳」がある。

(33-3)「あら麦」・・荒麦。まだ精製しない、からのついたままの麦。

 *コムギ、オオムギは人類が農耕を始めたときからのもっとも歴史の古い作物であり、日本へもイネと同じかあまり遅れないころに大陸から伝来して、栽培が始められた。

 *<漢字の話>「麦」・・①「麦」は常用漢字。影印は、旧字体の「麥」。

  ②「麺」は常用漢字なので、偏は「麦」。旧字体は、「麵」。

  ③ところが、常用漢字でない「麩(ふ)」「麴(こうじ)」の偏は、「麦」ではなく、「麥」

  ④「麥」は11画の部首。また、「麻」(11画)、「黍(きび・12画)」も画数が多いのに、部首になっている。しかも、手元の漢和辞典では、部首を含め、「麥」部は、9字、「麻」は3字(国字の「麿」を除く)、「黍」は、3字しかない。紀元100121年に成立した中国最古の中国最古の漢字字書。『説文解字』は、1万余の漢字を540の部首に類別しているが、漢字を生み出した文明社会黎明期の黄河中流域の人々にとって、「麥」「麻」「黍」は、生きて行く上で、なくてはならない大切な植物であった。

(33-4)「鉄炮」<漢字の話>「炮」・・①「火」部。解字は、『説文解字』に、「毛のままにてを炙(あぶ)るなり」とあり、まるやきをいう。常用漢字ではないので、旁は、中は「巳」。

   ②一方、「砲」は「石」部で、いしゆみ。常用漢字なので、旁の中は、「己」。ただし、旧字体は、「巳」

(33-5)「分銅(ぶんどう・ふんどう)」・・重さを測る際の基準として使用する金属性のおもり。江戸時代、分銅

には十匁目から一分に至る十七種あった。「25貫」は、どんな分銅か。

(33-7)「革提煙草入(かわのさげたばこいれ)」・・ジャパンナレッジ版『日本大百科全書(ニッポニカ)』には、

 <刻みたばこを入れるための袋物。江戸時代初期のころは、刻んだたばこは白い奉書の紙に包むのが上品とされたが、屋外で働く人は手製の巾着(きんちゃく)に入れてきせるに結び、腰に提げた。また鉄砲の弾丸を入れた胴乱(どうらん)を改造して用いる人もあり、しだいに庶民の間に広がって上流階級にも及んだが、武士は印籠(いんろう)を提げるため懐中用を使っていた。たばこ入れの形には、

1)一つ提げ・・巾着または胴乱を根付(ねつけ)で提げるもの、

2)腰差・・巾着または胴乱にきせる筒をつけ、きせる筒で腰に差すもの、

3)提げ・・胴乱にきせる筒もあるが根付で別に提げるもの、

4)懐中用・・革製もあるが、おもに布製の二つ折りで、共裂(ともぎれ)のきせるを入れる袋がつき、婦人用が多い、

5)とんこつ 雨にぬれても中身のたばこが湿らないように木製と金属製があり、一つ提げと腰差形がある、

6)袂落(たもとおと)し 布または竹、籐(とう)で編んだ小さな袋2個を、鎖または紐(ひも)でつないで両方の袂へ肩から提げるが、一方の袋には懐中用の小形たばこ入れを、もう一方の袋には手拭(てぬぐい)などを入れる。たばこ入れはとかく置き忘れることが多いので、このようにさまざまな形があった。

 胴乱には金唐革(きんからかわ)、印伝革(いんでんがわ)が使われたが、これらは当時輸入品で高価なため、裕福な人たちのたばこ入れになった。庶民の多くは、一見革製にみえるが和紙に桐油(とうゆ)を塗ったり、渋(しぶ)を拭いて柿(かき)色に染め、革まがいにしわをつけたものを使っていた。江戸時代後期になると、国産の革製もできて、たばこ入れは身につける唯一のアクセサリーとなり、胴乱の蓋(ふた)に著名な彫金師のつくった留め金具を用いたり、きせる筒の材質にも凝るようになった。明治時代には胴乱、金具、緒締(おじめ)、筒の組合せに粋を凝らした工芸品もつくられたが、いまでは好事家の収集品になっているにすぎない。両切りたばこの出現とともに、金属製のシガレット・ケースにとってかわられている。>とある

(33-8)「小田原提灯」・・小型で円筒状の提灯。折り畳むと上下の枠が組み合わされ、袂または懐中に入るので、懐(ふところ)提灯ともよばれ、江戸時代、主として旅行者が用いた。普通、携行するときには布袋に入れ、口紐の端にろうそく入れの竹筒または根付などを取り付け、腰に下げた。これを小田原提灯といったのは、小田原(神奈川県)の甚左衛門という人がつくりだしたからで、享保(きょうほう)(171636)のころには全国的に広く用いられるようになり、土産提灯として、小田原名産の一つとされた。

 *<漢字の話>「提」・・「テイ」は漢音で、「提案」など。「ダイ」は呉音で、「菩提(ボダイ)」など。「チョウ」は、唐音。

(33-8)「剣(けん)かたばみ」・・家紋のひとつ。剣片喰。「片喰(かたばみ)」は、「酢漿草」「酸漿草」とも。道端や田の畦などに生えるありふれた雑草。片葉が三つあるので「片葉三」と名付けられたという。

(33-9)「片仮名」・・もと漢字の一用法である万葉仮名の字画の一部分を省略して作った文字。現行の字体は、明治33年(1900)施行の小学校令施行規則によって統一されたものであるが、それまでは、子(ネ)・井(ヰ)のような異体字、〆(シテ)のような合字も行われていた。名称は古くは「かたかんな」と称した。「かた」は不完全・不十分の意で、この種の文字が、漢字の字体の一部分だけを採って成ったという意であろう。片仮名は漢字の偏旁を省略して作られた文字であるが、その淵源は、本来の漢文の中での漢字の字画省略の手法から発したと見られる。古くから「聲」を「声」、「點」を「点」のように、字画の一部を省いて書く略字の方式があった。さらに字画を簡易化して、偏や旁を省略したものがあり、たとえば「部」を「P」、「醍醐」を「酉酉」、などと書くもので、これらは抄物書(しょうもつがき)と呼ばれた。

 九初頭に、漢文の行間などにその訓点を記入することが始められた際、万葉仮名に交えてその略体を用いた。ところで、訓点記入にあたって、万葉仮名は字画が多く、多くの時間と広い余白とを必要とするため、速やかに、また小形に表記する目的で、その略体化が進められた。その手法には、草書化と省画との二つがあった。草書化の結果、平仮名が成立し、省画の結果、片仮名が成立した。このため、片仮名の字源は万葉仮名であるが、その楷書体からではなく、行書体や草書体からであり(例、アは阿の偏の行書体から、シは之の草書体から)、また正略両字体のある字では、正字ではなく略字からである(例、ネは禰でなく祢から、ヨは與でなく与から、レは禮でなく礼から)。十二世紀になると、片仮名の異体字は少数となり、大体一音一字となる。

 *「かな」・・「かりな」の転じた「かんな」の撥音「ん」の無表記から。「な」は文字の意。わが国に発生、発達した音節文字。本字(ほんじ)である漢字を真名(まな)というのに対して、平仮名、片仮名、変体仮名をいい、また、表音文字という用法上からみた場合には、これに万葉仮名を加えていうこともある。和字。国字。

(33-9)「平仮名」・・万葉仮名の草体を極度に簡略化して作られた、体系的存在としての仮名。日本語を表記するために、漢字をもとに案出された文字であって、音節全体を一単位として、これに一文字があたる。平安時代に、女性が漢字や片仮名に対してこれを主に用いたことから、「をんなで」(女手)とも称した。平仮名という呼称は後世のもので、ロドリゲスの『日本大文典』にみえるのが古い例である。それ以前は、単に「かんな」「かな」といった。文字体系としての平仮名の成立は、同じく平安時代に成立した片仮名という別の組織を持った文字体系と、体系的な区別が意識され行われるようになった時であろう。「安・阿」「以・移・意」「加・可・閑・我・駕」のように一音節に対して字体数も多く、字源も現行平仮名の字源と異なる万葉仮名を多く用いている。これらは『古今和歌集』などの既成の和歌を美しく書いて見せるというところで共通しており、その目的が、思想伝達という実用よりも、第一義は書芸術としての美意識にある。そこでは書体の美が追求され洗練されるとともに、字形を複雑にして変化を求めることが行われた結果、一音節あたりの字体数が多くなってくる。変体仮名がこの類のものに多いゆえんである。

 今まで私的な場で使われた平仮名が、日記・物語・歌集などにも盛用されるようになり、多くの女性の作家と作品を生み出す契機を作った。平仮名は片仮名に比べて成立当初より漢学の世界から離れ、日常性を帯びていたから、和文の用字となった伝統が江戸時代以後まで続き、現在では日本語の文章を表記するには漢字に平仮名を交える様式が一般化している。

(33-10)「和漢年代記」・・日本と中国の歴史年表。

(33-11)「指南」・・古代中国の方角装置の指南車が一定の方向を示して導くことから、人を教え導くこと、教授・教訓などの意味をもつ言葉として用いられ、さらに指南する人、指南される人をもさすようになった。

 古く中国で用いられた方向をさし示す装置を設けた車。車の上に人形を置き、その人形の手がいつも南をさすようにつくられたものという。

*指南車・・一説に、磁針を車上に装置しただけの車とも。黄帝が戦闘で使用したとも、周公が初めてつくったともいわれる。

ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の「使南車」の語誌に、

(1)「書紀‐斉明四年一一月」には「沙門智踰造指南車」とあり、「指南車」は、北野本訓では「指去南上ノ車を」とあって、「シナムノくるま」と訓んでいたことが知られる。

(2)磁石の指極性を初めて問題にしたのは、後漢の王充「論衡」とされる。日本では磁石は北を指すというが、古く中国では南を基準にする習慣があったため、「指北」ではなく「指南」となった。>とある。

(34-2)「ヲロシヤ」の「ヲ」<文字の話>・・カタカナの「ヲ」は、「乎」の最初の3画から作られている。だから、「フ」+「一」と2画に書かないで、「二」+「ノ」と3画で書く。

(34-4)「ハラノフとヲロシヤの船頭と重吉に」・・「船頭と」の「と」は、現代語では、状況を考えると、語感がよくない。ここは、「ハラノフとヲロシヤの船頭と()」、「ハラノフとロシヤの船頭と(二人で)」のような語があればわかりやすい。

(34-5)「重吉を」・・「重吉の」の「の」の左に見せ消ち記号の「ニ」があり、右に「を」と書きいれてある。「の」は読まないで、「重吉を」と読む。

(34-7)「何レ船」・・異本は、「何レ」の「レ」と「船」の間に「の」があり、「何 レの船」に作る。

(34-10)「心許(こころもと)なく」・・確信がもてないで不安である。気がかりである。頼りにならない。

 「許(もと)」について、ジャパンナレッジ版『日国語大辞典』の「語誌」には、

<モト(許)は所。心の落ち着く所、由る所なしの意か>とある。「何許(いずこ)」、「其許(そこもと)」、「爰許(ここもと)」など。

(34-1011)「心にかなわずば」・・心に適(かな)わず。気にいらなければ。「心に適(かな)う」は、気にいること。

(34-11)「心のまま」・・思うまま。思う存分。

(35-1)「いつ迄も」・・「い」は、当初、カナカナの「イ」を書き、その上にひらがなで、「い」と書いたか。

(35-1)「ベケツの手に従ひ」・・異本は、「手に」がなく、「ベケツに従ひ」に作る。

(35-2)「昨日(きのう)」<当て字の話>・・「きのう」の語源には諸説ある。「キは、キソ、コゾ(去年)、コシカタ(古)などのキ、コと同じ。フはヒ(日)の転」など。

ところで、漢語の「昨日(さくじつ)」について、ジャパンナレッジ版『字通』に、

<「かさねたる日なり」(『説文解字』)とあって、昨日をいう。古くは徂・宿・昔・

夕と声近く、通用することのある字であった。>とある。

唐代の詩人許渾(きょこん)の「秋思」と題する七言絶句の一節に

「昨日少年今白頭」(昨日ノ少年、今ハ白頭)がある。

一方、万葉集の大伴家持の歌に

「葦鴨のすだく入江に 一昨日(をとつひ)も 伎能敷(キノフ)もありつ」

があるが、漢語の「昨日(サクジツ)」を「きのう」と訓じた万葉人の教養とセンスには、感心する。

(35-2)「今ふ(きょう)」・・「今日(きょう)」の「日」を使わず、「ふ」としている。

(35-34)「昨日も今ふも、故郷をわするる様に気を持給へ」・・異本は、「昨日も今ふも」と、「故郷をわするる様に」の間に、「故郷をのみ思ひ暮しては、遂には病となるべし。先づ一度は」

がある。テキストより、異本の方が、意味が通じる。

(35-3)「身を全(まっと)うし」・・気持をしっかりして。「全(まっと)うする」

は、「まったくする」が変して一語化したもの。欠けることなく完全にする。

完全に果たす。また、欠点なく完璧に保つ。

(35-4)「かひはあれ」・・甲斐があるにちがいない。「あれ」は、ラ変動詞「あり」の命令形で、文終止に用いて願望を表す。「希求法」という。

(35-7)「中々に」・・肯定してよい程度に。相当に。ずいぶん。非常に。

(35-9)「つらつら」・・物ごとを、念を入れてするさまを表わす語。つくづく。

よくよく。念入りに。「倩」・「熟」を「つらつら」と訓じる場合もある。

(36-1)「あしからなん」・・きっと悪いだろう。「なん」は、動作・状態の実現すること、完了することを確認し推測する意を表わす。…するようになるだろう。…になってしまうだろう。きっと…だろう。

(36-2)「たべ給(たま)へ」・・上位から下位に「与える」「くれてやる」の意の動詞「たぶ(賜)」に、補助動詞「たまう(給)」の付いてできたもの。多くは、「たび給へ」と命令形が用いられる。お与え下さい。

なお、影印は、「たべ給へ」と「たべ」とするが、「た(賜)ぶ」の連用形は、「たび」だから、文法的には「たび給へ」が正しいか。

(36-4)「だに」・・断定の助動詞「だ」に接続助詞「に」の付いたも事柄に対する不満の感情をこめて、逆接的な関係での接続を表わす。…なのに。

(36-5)「泣居たるを」・・異本は、「泣居るならんを」に作る。

(36-5)「なば」・・完了の助動詞「ぬ」の未然形「な」に接続助詞「ば」の付いたもの。事柄が完了したときを予想し仮定する。…てしまったら。

(36-6)「夫共(それとも)に」・・「それとも」に同じ。

(36-7)「かし」・・文末用法。終止した文に付き、聞き手あるいは自らに対して念を

押し、強調する。中古に現われた助詞で、会話に多く用いられる。

(36-10)「手道具」・・身の回りの小道具や調度。