(31-2)「仕法(しほう)」・・「し」はサ変動詞「する」の連用形。物事のやりかた。仕方。手段。方法。

(31-2)「貂(てん)」・・樺太に住むテンは、クロテン。

 *クロテン・・イタチ科の動物。以前は北ヨーロッパにもいたが絶滅し、現在ではシベリア、中国北部、および日本では北海道に分布する。体長4055センチメートル、尾長1219センチメートル。毛色は黒褐色が普通であるが、黒色や黄色に近いものもいる。のどの部分は黄白色である。森林にすむが木にはほとんど登らず、日中は樹洞や木の根元の巣穴にいて、夜、小哺乳類、小鳥、魚、果実などを食べる。夏に交尾し、翌年の4月ごろに34子を産む。飼育下での寿命は15年である。本種の毛皮は古代ギリシア時代より知られ、とくに純黒に近いものは貴族の喪服用に珍重された。そのため北ヨーロッパでは絶滅を招いた。ロシアでは旧ソ連時代に捕獲を規制するとともに、1933年以降養殖に成功していて、現在では養殖個体の放獣もしている。また、中国でも養殖している。日本では法規上はテンと区別されず狩猟獣扱いであるが、北海道ではイタチとともに捕獲を禁止している。

テンは、毛皮を利用するためと夜行性のために、銃器によらず、とらばさみや箱わななどのわなで捕獲する。その尾は古く冠飾に用いた。(この項、『ジャパンナレッジ版日本大百科全書(ニッポニカ)』)

*「貂」の読み・・音読みは、「チョウ」。「てん」と読む語源説に、「朝鮮音トン」からがある。(『大言海』)。

*「貂」を含む熟語

  **「貂裘(ちょうきゅう)」・・貂のかわごろも。転じて身分の高い人の衣服。

  **「貂寺(ちょうじ)」・・宮刑(キュウケイ・去勢の刑)を受けて、後宮(きさき・コウキュウ)に使え

る人。「貂」は冠のかざり。「寺」は「侍(はべる)」。

  **「貂蟬(ちょうせん・ちょうぜん・ちょうたん)」・・貂(てん)の尾と蝉(せみ)の羽を用いた冠の飾り。また、その冠。貂の毛は華美でなく、蝉は露を飲んで清らかだというところから、ともに君子の徳にかたどったもの。また、その冠をつける人。高位高官。

  **続貂(ぞくちょう)」・・中国、晉の趙王倫の一党が兵卒にいたるまで爵位をうけたので、時の人が冠にかざる貂が足りなくなったであろうと「貂不足、狗尾続(貂足らず、狗尾続=つ=ぐ)」といったという「晉書‐趙王倫伝」の故事から)つまらない者が高官に列すること。劣者が優者に続くこと。また、他のし残した仕事を受継いで行なうことを卑下していう語。狗尾(くび・こうび)続貂。

    ***「狗尾続貂(くびぞくちょう)」・・「狗尾(くび)」は犬のしっぽ、「続貂」は貂に続くの意。直訳は、冠にかざる貂の尾が足りないので、犬のしっぽの冠がそれに続く。転じて「つまらない者が高官に列すること。劣った者がすぐれた者のあとに続くことのたとえ。また、他人のし残した仕事をついで行なうことを卑下していうたとえにも用いる。

(P312)「宛(づつ)」・・数量、程度を表わす体言、またはそれに副助詞のついたものをうけ、量的に同一の割合、程度が繰り返されることを示す。語源説に、<ツツ(箇々)の義か。「一つ、二つ」などの「つ」を重ねたもの。>がある。

 *「宛」を「つづ」と訓じるのは、「宛」に、「宛(あて)る」=「割り当てる」の意味があり、「づつ」という訓読みがある。

(31-3)「小使(こずかい)」・・乙名の下に置かれたアイヌの役人。

(31-3)「土産取(みやげとり)」・・儀式のとき土産を賜る者として任命された役つきのアイヌ。乙名、小使、土産取の三役についている者を「役土人」といった。

(31-3)「軒別(けんべつ)」・・一軒一軒。戸ごと。家ごと。戸別。

(31-4)「水豹(あざらし・トッカリ)」・・アイヌ語で「トッカリ」という。紋別市にアザラシだけを保護する「紋別市オホーツクとっかりセンター」がある。

(31-6)「撫懐(ぶかい)」・・安んじる。

(31-8)「検究(けんきゅう)」・・調べ尽くす。

(31-8)「北極出地(ほっきょくしゅっち)」・・「北極」星が、「地」平から、「出」ている高さ。北極星の地平線上の高さをいう。ほぼその地の緯度に相当するので、昔地球上で緯度を測るのに用いられた。象限儀を使った。

 *別紙参考資料・・保柳睦美著「釜石市唐丹の測地記念標について」(『季刊東北地理25号』=東北地理学会刊 1974=所収)

 象限儀(しょうげんぎ)・・九〇度の目盛りをもつ扇形の天体高度測定器。近世初期に来航したポルトガル船の航海具として舶載されたのを契機にわが国でも製作使用され、原名Quadrante をとってカダランテと呼ばれた。四分の一円周の金属盤と望遠鏡を組み合わせたもの。

**象限・・座標平面が直交座標軸によって分けられる四つの部分の一つ一つ。右上、左上、左下、右下の順に第一象限、第二象限、第三象限、第四象限という。

(31-89)「四十六度より凡五十五度に経り」・・カラフトの緯度は、南端のノトロ岬が北緯4554分、北端のエリザベッタ岬が 北緯5420分。

(31-910)「西岸ノドロより東岸シレトコ迄に大湾を南部となし」・・「大湾」は、アニワ湾。「ノドロ」は、ノトロ岬、「シレトコ」は、中知床岬。

(31-11)「シレトコ岬」・・北知床岬のこと。

(32-2)「流涎(りゅうぜん)」・・食欲を催して、涎(よだれ)を流すこと。また、うらやましがってものをほしがること。

 *杜甫‐飲中八仙歌

「道逢麹車、口、」  道に車(きくしゃ=酒を運ぶ車)に逢うて 口に涎(よだれ)を流す

 「恨不封向酒泉上一」  恨(うら)むらくは、封(ほう=任地)を移して、酒泉(中国の郡名=酒の味のする水を湧出したという。)に向はざるを。

 *流涎・・医学上では唾液過多症ともいい、唾液分泌が異常に亢進(こうしん)するため口腔内に大量の唾液が貯留し、絶えず吐き出したり頻回に嚥下(えんげ)する。原因としては、流行性耳下腺炎の快復期や唾液腺腫瘍などの唾液腺自体の疾患をはじめ、口内炎や歯肉炎などの口腔内の急性炎症、むし歯、不適合な義歯、吐き気、喫煙、香辛料などの刺激によって反射的におこる場合が多い。

(32-5)「嶮岨(けんそ)」・・道や地勢がけわしいこと。険阻。

 <漢字の話>「嶮」・・「𡸴」は「」の俗字。なお、「𡸴」は常用漢字ではない。

(32-5)「フヌフ」・・カラフト東海岸の地名。日本名「班伸」。カシホ(樫保)とモトドマリ(元泊)の間。安政3年(1856)にクシュンコタンからカラフト東海岸を北上した松浦武四郎の『竹四郎廻浦日記』には、「フヌフ 

 マクンコタンより凡四里。此処ホロナイの内の小字也」とある。「フヌフより三里程以内」とあるが、前掲書には、「凡四里」とある。

(32-5)「マクンコタン」・・カラフト東海岸の地名。日本名「馬群潭」。近くに、天然記念物「馬群潭トッコカムイ」(泥火山)がある。

(32-6)「ノボリホ」・・カラフト東海岸の地名。日本名「登帆」。

(32-6)「トツソ」・・カラフト東海岸の地名。日本名「突阻」。背後に「突阻岳」がある。前掲書は、「絶壁の嶮

 岩、山の形ちは遠くより不見しては却て其奇景を尽しがたし。」とあり、さらに、「此山はリイシリの女おp神の住玉ふよし申伝ふ由。またリイシリも此山の後ろより抜出て彼方へ飛しもの也と。依て此山の後ろに山抜し跡有と云。神霊著しき由にて、皆木幣を削りて海中に納む。・・事なくてトツソの岬を越るとは手向の稲穂神やうけらん」とある。

(32-6)「シヨユンコタン」・・カラフト東海岸の地名。日本名「曾院」。前掲書は、「ソエンコタン」とし、「海岸いよいよ嶮悪一歩として歩行路なし。・・その上峨々たる岩山也」と記している。

(32-6)「凡四十里」・・マクンコタン~シヨユコタン間は、チカヘロシナイ~マクンコタン間の距離は、四十里もない。『秘書』の「四十里」は誤りではないか。ちなみに、『幕末外国関係文書』8巻52号と『蝦夷地御開拓諸書付諸伺書類』では、いずれも「凡四里程」となっている。(別添の能田文男氏のレポート参照)

(32-7)「トツソ、ノボリホの山高ク」・・「トツソ(突阻山)」は、標高682メートルで、火成岩が露出し稜々犬牙のごとく起伏した山頂は殆どお花畑でその種類豊富で、全山の植物は257種にも及ぶ。また、「ノボリボ(登保岳)」は、標高593メートル。

(32-8)「聳ひ候」・・「聳ひ」は、文法的には、誤りで、ここは、「聳え」と「ひ」は「え」が正しいか。ヤ行下2動詞「聳ゆ」の連用形は、「聳え」。「聳ひ」だと、終止形は、「聳ふ」だが、そういう言い方はない。

(32-8)「大東洋」・・『蝦夷地御開拓御書付諸伺書類』は、「大東洋」に(ママ)とルビをしている。

(32-9)「和キ合(わきあい)」・・「和キ」は、「和気」で、気候などがおだやかで安定していること。

(32-11)「山巒(さんらん)遠く」・・「巒」は山、また、峰の意。山。山岳。カラフトには大きな山脈がふたつあり、ひとつは、樺太山脈(西カラフト山脈)で、南は西能登呂半島から、北は北緯53度付近で終わる全長770キロの樺太の背骨といえる山脈。本文のトツソ附近は、サハリン島の最狭部(28キロ)。それより北、タライカへは、海岸線が北東に伸びる。一方、山脈は、ほぼ真っ直ぐ北に延びているから、海岸からは遠ざかる感じになる。

(32-11)「平坦ニ砂漠ニ」・・「平坦ニ」は、語調がよくない。異本は、「平坦之砂漠に」とある。

(33-1)「タラヒカ地方」・・南樺太北部東岸、北知床(テルペニヤ)岬と野手戸(ソイモノフ)岬との間を占め、南に大きく開けるカライカ湾沿岸の地方。ロシア連邦ではサハリン州の海域で、ロシア名テルペニヤ湾。海岸は美しい弧状をなし、出入りに乏しい。北から幌内川が注ぐ。湾奥に砂嘴(さし)によって隔てられた潟湖(せきこ)である多来加湖(ネフスコエ湖、面積180平方キロメートル)を抱く。湾岸周辺は泥炭地および凍土帯となる。第二次世界大戦前には内路(ないろ)、散江(ちりえ)などの漁村があり、沿岸はサケ、マスの漁場となっていた。中心都市は敷香(しくか)であった。

(33-1)「廻浦(かいほ)」・・沿岸の浦々を廻ること。「浦」は、海、湖などの湾曲して、陸地に入り込んだ所。入り江。湾。

 *「津」・・海岸・河口・川の渡し場などの、船舶の停泊するところ。船つき場。港。

 *「津々浦々」・・国中、全国いたるところ。「日本全国津々浦々」

(33-5)「シヨウニ」・・カラフト西海岸の地名。日本名「宗仁」を当てる。

(33-5)「チイカヒ」・・村垣控』(*)の「北蝦夷地之図」によれば、西海岸、48度線上の「シララウロ」以南、チエカヘシコ岬の隣に、「チイカエ」がある。『樺太の地名』(菱沼右一著 樺太郷土会発行)には、西海岸に旧地名として「チーカイナイボ(アリヘウナイボ)」、改正地名として「有部」がある。

 *村垣控』・・『大日本古文書 幕末外国関係文書』8巻所収「北蝦夷地御国彊見込之場所申上候書付」(以下

書付」の附図で、「北蝦夷地之地図」(東京帝国大学所蔵 原寸縦ニ尺五寸 横五尺)。「書付」には、「此地図ハ、外務省ヨリ本学へ引継ギシ徳川幕府書類ノ中ニ在ルモノニシテ、其袋ノ表面ニ『村垣控』ト記セリ、蓋シ本巻第五ニ号堀村垣ノ上申書ニ添ヘテ上リシ地図の控ナラン」とある。

(33-7)「ソヤコタン」・・『蝦夷地御開拓御書付諸伺書類』には、「リヤコタン」とある。

(33-7)「ナヨロ」・・カラフト西海岸の地名。日本名「名寄」を当てる。

(33-7)「クシユンナイ」・・カラフトの西岸、北緯四八度に位置する小市街。日本名では、当初は楠内・楠苗とも書いた。通常は「久春内」を当てる。東岸の真縫(マーヌイ)との間は約七里の山道で、地峡をなしている。

(33-7~8)「ライチシカトウ」・・来知志湖(らいちしこ)。カラフト中西部にある湖。周囲約27キロの海跡湖。

(33-8)「イサラ」・・カラフト中西部の地名。日本名「伊皿」を当てる。伊皿山は、1022メートル。

(33-8)「トーキタイ」・・不詳。

(33-9)「ウシヨロ」・・カラフト中西部の地名。日本名「鵜城」を当てる。

(33-10~11)「トカラホツケ岬」・・『蝦夷地御開拓御書付諸伺書類』には、「トクラツケ岬」とある。

(33-11)「ロタンウトミ岬」・・『蝦夷地御開拓御書付諸伺書類』には、「コタンウトル之岬」

(34-2)「山壑(さんがく)」・・山と谷。「壑」はたに。

 *陶淵明 『帰去来辞

「既窈窕以尋、」 既に窈窕(ようちょう)として、以つて壑(たに)を尋ね、

「亦崎嶇而経丘」  亦、崎嶇(きく)として丘(おか)を経(ふ)。

(34-2)「重疂(ちょうじょう・じゅうじょう)」・・幾重にもかさなること。

(34-2)「籓籬(はんり)」・・「藩」「籬」ともに、まがきの意。垣根。かこい。塀。

(34-6)「兀立(こつりつ)」・・他のものからとびぬけて高くそびえていること。突き立っていること。

 *「兀」・・象形文字。頭の髪をそりおとした形。部首は、「儿(ひとあし・にんにょう)」。元(げん)は結髪の形。元の髪を切った形が兀。下部は人の形である。

  **【兀刑(こつけい)】・・あしきりの刑。

  **【兀者(こつじゃ)】・・あしきりの刑を受けた人。

(34-7割注左)「古図にも二島に分ち候もこれあり」・・下図は『北蝦夷地唐太嶋沿革図』(北海道大学附属図書館蔵)より

(34-10)「ホコラニ」・・間宮林蔵著『北蝦夷島地図』の「北蝦夷島西海岸里程記」には、「ホカラニ」とし、「ホロトマリ」より「六里九丁」とある。

(34-11)「ナツコ」・・カラフト北部、西海岸の地名。間宮林蔵著『北蝦夷島地図』の「北蝦夷島西海岸里程記」によると、クシュンナイ~ナツコ間は、9843丁半ある。

 天明6年(1786)にカラフトを見分した佐藤玄六郎は、『蝦夷拾遺』(『北門叢書第一冊』北光書房 1943)のなかで、「ナツコ」を「ナツカウ」とし、「ヲツチシより行程六十里西北の尽境に而、山靼え望める山崎なれば、此地を経て山丹に渡るべし。其渡海十里に不足と云ども、海浅くして湖水急流岩石多く水上に顕れ、橇に乗り、犬に輓せて往来すと云」と記している。

(34-11)「ノテト」・・カラフト北部、西海岸の地名。間宮林蔵が山丹へ渡海した地でもある。文化6年(18096月、箱館奉行所雇間宮林蔵が、幕府の命により単身樺太西海岸ノテトより山韃人の船に便乗して対岸シベリアのデカストリー(アレキサンドロフスキー)に渡り、キジ湖を経て黒竜江下流の満洲仮府の所在地デレンに至り、満洲仮府と付近住民の交易状況を視察し、さらに一日路をさかのぼり、本流を下って河口を経て帰国し、その見聞を『東韃紀行』にまとめた。林蔵は文化5(1808)樺太全島踏査の命を受け、その最北端を目指したが到達することができず、翌年再び試みたが志を得ず、ノテトに滞在中この使船を得た。

(34-11)<見せ消ち>・・「ノチト」の「チ」の左に、片仮名の「ヒ」のような記号がある。これは、「見せ消ち」記号で、「チ」を訂正している(消している)ことを表す。そして、右に「テ」と書きなおしている。だから、ここは、「ノチト」ではなく、「ノテト」が正しいという意味。

 (34-11)「差向(さしむき)」・・副詞。今のところ。さしあたり。とりあえず。目下(もっか)。

(34-11)「泥濘(でいねい)」・・泥が深いこと。土がぬかるんでいること。また、そのさまやその所。ぬかるみ。