(57-2)「チヤンヌリ」・・チャン(瀝青)塗り。語源説に、①英語chianturpentine の略か〔大言海〕。②「青」の音tsin から〔外来語辞典=荒川惣兵衛〕。がある。なお、「瀝青」は、樹木、泥炭、褐炭などから、ベンゼンなどの有機溶剤で抽出される有機物質の総称

(57-4)「又(また)」・・接続詞。並びに。

(57-4)「重立(おもだち)」・・「重立つ」の連用形。集団の中で主要な人物である。中心になる。かしらだつ。

(57-9)「麁絵図(あらえず・そえず)」・・江戸時代、願・届書などに添えて提出する粗末な絵図・見取図・略図の類。「麁」は、「麤」の俗字。

(57-9)「アツサム」・・ロシア沿海州の集落。享和元年(1801)、幕吏中村小市郎がカラフトを調査の折、山丹人らに尋ねた記録『唐松の根』には、アムール河下流地方の地図があり、「アツシヤム。家四軒。山丹人躰にて言語、夷人山丹と交る。」と記載されている。

(58-1)「大湾(だいわん・おおわん)」・・インペラートルスカヤ湾か、またはデ・カストリ湾か。ロシヤ海軍少佐ネヴィスコイは、嘉永6(1853)、アムール河下流地方と沿海州進出を図り、部下のポシニャークは、タタール海峡沿岸を調査し、北緯49度附近でインペラートル湾を発見、ネヴィスコイはここに、哨所を設置し、当時のロシヤ皇帝ニコライ1世の息子コンスタンティンにちなみ、コンスタンティン・ニコラエヴィッチ大公哨所と名付けた。デ・カストリ湾に設けた哨所は、アレクサンドル哨所。

 *ロシアの東方進出

 1547年イヴァン4世(雷帝)初めて公式に全ロシアのツアー(皇帝)と称す。

1553年カザン・ハン国を攻略、ついで1556年アストラカン・カン国を併合し、ヴォルガ流域を制圧。

・商人とコサックは毛皮を求めて東進。ロシアは、城塞を建て、毛皮税を取立てる。

1601年にトムスク、1628年にクライノヤルスクを建設。1632年レナ川を渡り、ヤクールクを開く。

1639年にはコサックはオホ-ツク海に達した。

1697年、コサック隊長アトラーソフは、カムチャッカ西岸で漂流民デンベイ(伝兵衛)を発見、モスクワへ送還。

1738年、ロシア探検隊のシパンベルク、ウルップ沖に来る。

 ・1767年、コサックのチョールヌイフ、エトロフに至り、アイヌ人に毛皮税を課す。

 1782(天明2)、大黒屋光太夫、アムチトカ島に漂着、クルクーツクでラクスマンに会い、首都ペテルブルクへ連行。エカチャリーナ女帝に拝謁。

 ・1792年(寛政4年)エカチェリーナ2世号、根室に入津。

 ・1804年(文化元年)レザノフ、長崎に来航、通商を求める。

 ・180607(文化34年)、フヴォストフらクシュンコタン、エロトフ島を襲撃。

 ・1811年(文化8年)、ゴローニン、エトリフで補縛される。

(58-1)「構塞(こうさい)」・・とりでを構えること。「塞」は、辺境のとりで。ここでは、コンスタンティン・ニコラエヴィッチ大公哨所か。

(58-5)「所住(しょじゅう)」・・住んでいる場所。住所

(58-8)「被打潰(うちつぶされ)」・・攻め滅ぼされ。

(58-8)「当時(とうじ)」・・現在。

(58-8~9)「マンコ川口より二日路先、字メヲと申所江魯西亜より構塞」・・嘉永6(1853)にネヴィスコイが設置したニコライ哨所をさすか。

 *アムール川下流域・沿海州をめぐる清国とロシヤの国境問題略史

  ・ネルチンスク条約・・16898月(和暦では元禄2年)、アルール川上流のネルチンスクでアムール川上流域の清露の国境画定。西部国境はアルグン河とゴルヴィツァ河を国境とする。東方では、外興安嶺(こうあんれい・スタノヴィ山脈)に続き、その山嶺から南方のアムール河に流入する河川はすべて清国領となった。しかし、東辺地方は未定とされた。

   清国はアムール河からのロシア人を駆逐し、この地方に対する影響力を決定的にした。ギリヤークなど、アムール河下流域の住民も清国に対する朝貢関係に入った。

 *アイグン条約・・1858年に清とロシアが中国黒竜江省北部のアイグン(愛琿)で結んだ条約。ロシアはクリミア戦争を機とし、清領のアムール川を航行し、沿岸に植民していたが、アロー戦争が起こると、黒竜江を自領とするために、ネルチンスク条約の未決定境界の条項を利用し、清側に圧力を加え、条約を結んだ。要点は、(1)黒竜江左岸はロシア領、黒竜江右岸は、烏蘇里江(ウスリー川)以西を清領、同江以東、海までの地を両国の共同管理とする。(2)黒竜江左岸の満州人集落は清国が管轄

する。というもの。

 *北京条約・・1860年。アイグン条約で、国境確定まで両国で共有することとされていたウスリー川以東の沿海地方をロシア領とすること。

(58-11)<変体仮名>「離散のため」の「た(堂)」・・「堂」を「た」と読みのは、「堂」の歴史的仮名遣いが「タウ」であるため。

 その外に、頻出する変体仮名で歴史的仮名遣いによる読みの例をあげる。

 ・「当(タウ)」→「た」                

・「良(ラウ)」→「ら」

・「王(ワウ)」→「わ」

・「遠(ヲン)」→「を」

・「越(ヲツ・ヲチ)」→「を」

(58-11)「官府(かんぷ)」・・官庁。役所。当時の清の首都は北京。

(58-11~59-1)「其後争戦を初め候」・・黒龍江を挿んで、清国とロシアの争いの噂。1854年(安政元年)ロシア軍は黒龍江の北を占領した。

(59-2)「王后(おうこう)」・・「后」は、「天子。君主。」(『角川漢和中辞典』)「満州」は、「清の故土」。満州を統治していたのは単なる「諸侯」ではなく、愛新覚羅の一族(男性皇族)。それで、「満州王后」とした。

 当時の王后は、清国九代愛新覚羅奕詝(アイシンギョロ・イジュ)=咸豊帝(かんぽうてい)

(59-2割書右)「后惣大将」・・『大日本古文書 幕末外交文書第8巻』所収の「北蝦夷地ホロコタンより奥地見分風説書」には、「后」を「後」とし、「後惣大将」としている。

(59-2割書左)「由ニ而」・・『廻浦録』は、「而」を「候」とし、「由ニ候」とある。

(59-7)「アテンキ」・・『今井八九郎北地里数取調書』には、「アテンキ 一里半位 此所小川 スメレンクル家五軒有。但小沢砂地高山大木有。シメレンクルの男女五十七人之由」とある。

(59-8~9)「露西亜人、北蝦夷地内クシユンコタン江塞柵」・・嘉永6(1853)9月、ロシア海軍大佐ネヴェスコイがクシユンコタンに構築したいわゆるムラビヨフ哨所。

(59-9)「塞柵(さいさく)」・・「塞」も「柵」もとりで。

(59-9)「混雑(こんざつ)」・・ごたごたすること。もめること。

(59-9)「命之由」・・『廻浦録』は、「之」を「候」とし、「命候由」とある。

(59-11)「ヲツノ□」・・『今井八九郎北地里数取調書』には、「ヲツチシ 弐里半 此所夷小屋一軒有。但平地砂浜大沼大川有。川口六十間位、岩崎沖ニ高き岩有。当所よりロモーへ山越」とある。

(59-11割書右)「□里位」・・「里」の前の字が虫食い状態で読めないが、『廻浦録』は「六」とある。

(60-2)「木品(きしな・もくひん)」・・木の品質。木目。

(60-4)「山根」・・「松前伊豆守家来今井八九郎北蝦夷地奥地迄罷越見分仕候趣申上候書付」(『大日本古文書幕末外交関係文書第7巻』所収)には、「山脇」とある。

(60-10)「姿」・・『廻浦録』には、「恣」とある。

(60-10~11)「貸遣ひ」・・「松前伊豆守家来今井八九郎北蝦夷地奥地迄罷越見分仕候趣申上候書付」には、「貸」を「借」とし、「借遣ひ」とある。

(60-11)「自侭(じまま)」・・自分の思うままにすること。思い通りにすること。また、そのさま。わがまま。気まま。身勝手。