(61-4)「其村々江」・・「松前伊豆守家来今井八九郎北蝦夷地奥地迄罷越見分仕候趣申上候書付」(『大日本古文書幕末外交関係文書第7巻』所収)は、「江」に「よりカ」と傍注している。

(61-5)「而巳(のみ)」・・漢文訓読の当て字。「のみ」は、「~にすぎない」「~だけだ」という限定を表すだけでなく、強く言い切る漢文訓読文で用いられる。したがって、テキスト文章の「人別相届候而巳」は、「人別を届けだけ」というより、「人別を届けたのである」と強調の意味に解すべきであろう。

ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の「のみ」の語誌に、

<漢文における文末助辞「而巳」が限定・決定・強調に用いられ、日本語の副助詞「のみ」の用法に近いため、訓読文において文末の「而巳」字を「のみ」と必ず訓じるようになり、意味も「限定」という論理性が薄れ、「強く言い切る」という情意性を表わすようになった。>とある。

古田島洋介氏は、漢文表現の「のみ」について、<「のみ」をひたすら限定と考え、「~にすぎない」「または「~だけだ」と訳そうとすると、否定的な意味合いに傾き、語感を取り違える危険性がある。時として「のみ」が強調の意にもなることを念頭に置いて、「~なのである」をも用意し、さらには限定と強調を兼ねた響きを持つ「~ばかりである」あるいは「~にほかならない」なども手駒に加えておくのが無難だろう、訓読表現の「のみ」は、日本語の「のみ」よりも意味の範囲が広いのである」(『日本近代史を学ぶための文語文入門 漢文訓読体の地平』吉川弘文館 2013)と述べている。

(61-7)<見せ消ち>「ウ子」→「字」・・「ウ」と「子」の左に「ヒ」のような記号がある。これは見せ消ちの記号で、「ウ」「子」を消し、右に「字」と訂正している。写した原本の「字」の冠の「ウ」と脚の「子」が、離れていたのか。

 (61-7)「チヨーメン」・・黒龍江河口右岸の港。

(61-8)「ナツコ」・・北樺太の地名。北緯52度の南。山丹への渡り口。『足軽書付』の「ナツコ」の項には、「満州地方僅ニ壱里半位ニ見ゆる。此処ニ而交易之為メ渡来の山丹人に逢ふ」とある。

 下は、中村小市郎著『樺太雑記』(『犀川会資料』所収 北海道出版企画センター刊 1982)より

 (62-1)「髪薄く」・・「松前伊豆守家来今井八九郎北蝦夷地奥地迄罷越見分仕候趣申上候書付」(『大日本古文書幕末外交関係文書第7巻』所収)は、「髪薄く」の「髪」を「鬚」とし、「鬚薄く」とある。

(62-1)「弁髪(べんぱつ)」・・男の結髪の一種で、頭髪の周囲は剃って、中央に残った髪を編んで長く後ろに垂らしたもの。もと満州人の習俗であったが、清朝時代には中国全域に行なわれた。

(62-2)「衣裾(いきょ)」・・きもののすそ。

(62-4)「耳かね」・・耳金。耳につける金属製の装飾品。耳輪、耳鎖の類。

(62-4)「姿容(しよう・すがたかたち)」・・すがたかたち。みめかたち。容姿。

(62-5)「温柔(おんじゅう)」・・人柄がおだやかで、すなおなこと。また、そのさま。やさしくて、人にさからわないさま。温順。

(62-5)「男子」・・「松前伊豆守家来今井八九郎北蝦夷地奥地迄罷越見分仕候趣申上候書付」(『大日本古文書幕末外交関係文書第7巻』所収)は、「男」に「女カ」と傍注している。

(62-5)「幼稚」・・幼児。「幼」も「稚」も小さいの意。なお「稚」の旁の「隹」は「小さい鳥」の意で、「隹」(ふるとり)」として部首になっている。「隹」には、「雀」「隼」「雛」などがある。

 *晋・陶潜〔帰去来の辞、序〕

  余家貧、耕植不足以自給  余(われ)、家貧しく、耕植するも以て自ら給するに足らず。

幼稚盈室、瓶無儲粟    幼稚、室に盈(み)ち、瓶(かめ)に儲粟(ちょぞく)     

無し。

(62-6)「口吻」・・

(62-5)「手甲(てっこう・てこう・てっこ)」・・手の甲(こう)。手の表面。てこう。

(62-6)「文字」・・「松前伊豆守家来今井八九郎北蝦夷地奥地迄罷越見分仕候趣申上候書付」(『大日本古文書幕末外交関係文書第7巻』所収)は、「字」に「身カ」と傍注している。「文身(ぶんしん)」は、手の甲(こう)。手の表面。てこう。

(62-8)「闘諍(とうそう)」・・いさかい。

(62-8)「家居(かきょ・いえい)」・・すまい。家。

(62-9)「睍(のぞ)き」・・覗き窓。影印は「睍」だが、ふつうは「覗」を使う。

(62-10)「婚(こん)」・・旁の昏は昏夕(ゆうべ)。その時刻より婚儀が行われた。