(103-1)「嘉十郎」・・高田屋嘉兵衛の兄弟は六人いたが、その一番末の実弟。安永8年(1779)~天保5年(1834)。高田屋は文化8(1811)からエトロフ場所を請け負っていた。

(103-3)「申(さる)の時」・・午後4時。

(103-3)「ヲトイヤハシ」・・ヲトイマウシ。エトロフ島東部のオホーツク海に面した集落。トウロの近く。

(103-6)「ヘツトウブ」・・日本名別飛(べっとぶ)。シヤナの東に位置し、北はオホーツク海に面する集落。明治初年にベトフなどを包含してベトプ村が成立。同6年(1873)の戸数はアイヌ5、男10、・女17寄留人は平民男25・女1(千島国地誌提要)。同8(1875)ベツトブ(ベトプ)村が村名表記を別飛に改める(根室支庁布達全書)

(103-6)「サナ」・・日本名紗那(しゃな)。北はオホーツク海に臨み、紗那湾に紗那港がある。文化4(1807)まで、会所があり、エトロフの中心地だった。文化4(1807)、ロシヤの襲撃で会所が焼き払われ、会所はフウレベツに移転した。明治初年にシヤナなどを包含してシヤナ村が成立。同6年(1873)紗に開拓使根室支庁の出張所が置かれた。

(103-7)「フルヱベツ」・・日本名振別(ふれべつ・ふうれべつ)。エトロフ島中央部にあり、留別村の西、北はオホーツク海に面し、海に突き出した野斗路岬(ノトロ岬)の南に緩やかな大湾(老門湾)があり、振別港がある。文化4(1807)以降、会所がおかれ、エトロフの中心地となった。

(103-8)「フルヱベツは、此島の中にての都(みやこ)」・・文化4(1807)以降、会所がおかれ、エトロフの中心地となった。

(103-8)「いかめしき」・・「いかめしい」は。姿や形が普通より大きく、がっしりしている。

(103-10)「一とふり」・・一通り。「通(とほ)り」は、動詞「とおる(通)」の連用形の名詞化。テキスト影印は、「一とふり」とあるが、「通り」を「とふり」と訓じることはない。ここは、「とほり」が正しい。

(104-3)「下人(げにん)」・・江戸時代、年季奉公人のこと。主家への隷属性が強く、譜代奉公人として家事や耕作労働に使役され、初期の頃は売買質入の対象ともなったが、中頃からは下男・下女と呼ばれ次第に年季奉公人化した。

(104-4)「ヲトイ」・・「オイト」か。「オイト」は、日本名老門。フウレベツの西にある集落。

(104-5)「ヲタシツ」・・日本名宇多須都(うたすつ)。エトロフ島西部のオホーツク海に面した集落。

(104-5)「ナイホウ」・・日本名内保(ないほ)。エトロフ島西部のオホーツク海に面した集落。

(104-7)「タ子モイ」・・日本名丹根萌(たんねもい)。エトロフ島西部のオホーツク海に面した集落。クナシリ島への渡航地。

(104-8割書右)「ヱトロフ島の岸の」・・「岸の」は、語調がよくない。異本は「の」を「を」とし、「岸を」としている。

(104-9)「丑寅(うしとら)」・・方位を十二支にあてて呼ぶときの、丑と寅の中間にあたる方角。北東。陰陽道などで丑寅の方角が神霊、鬼の訪れる方位とされるところから、特に鬼門の意がこめられることがある。

(104-9)「アトイロ」・・アトイヤ。日本名安渡移矢(あといや)。クナシリ島の北端の岬。エトロフへの渡航地。

(104-10)「二百十日」・・立春から数えて二百十日目にあたる日。このころは嵐が多く、また稲の開花期にあたっていたので、その時期を警戒する意味で生まれた暦注。太陽暦では九月一日ごろと一定であるが、旧暦の日付では七月十七日から八月十一日ごろまでのどの日になるか一定でないためこのような暦注が必要であった。なお、越中八尾の「おわら風の盆」は毎年9月1日から三日間おこなわれているが、二百十日の風の厄日に風神鎮魂を願う祭りという。

(104-10)「ゆへ」・・故。歴史的仮名遣いは、「ゆゑ」で、「ゆへ」はない。

(104-11)「所々の番屋に。十七日」・・異本は「番屋に」のあとに、「やどり」がある。

(104-11)「セヽキ」・・クナシリ島中部の太平洋に面した集落。日本名瀬石。

(105-1)「海の岸に温泉あり」・・「セセキ」は、「湯の湧くところ」の意味という。なお、異本は、「温泉」に「イデユ」とルビがある。

(105-1)「トマリ」・・日本名泊。クナシリ島西部の集落。ネムロからの渡航地であった。

(105-5)「子モノ」・・根室。

(105-9)「そこばく」・・副詞「そこば」に副詞語尾「く」の付いたもの。「若干」「幾許」を当てる。数量の多いさま、程度のはなはだしいさまを表わす語。多く。たくさん。はなはだ。たいそう。

(106-3割書左)「便り」・・便利。便宜。都合。

(106-9)「閏八月」・・文化13(1816)は、閏八月があった。

(106-5)「臼(うす)」・・有珠。

(106-6)「信濃の善光寺分身」・・有珠善光寺の公式HPに、「天長3年(826年)、比叡山の僧であった慈覚大師が、自ら彫った本尊阿弥陀如来を安置し、開山したと伝えられている浄土宗のお寺です。」とある。慈覚大師は、平安期の天台宗山門派の祖・円仁のことで、等澍院文書には、それを理由に、等澍院を有珠に建立したい旨、陳情した経過がある。(別添『北の青嵐180号』の拙論参照)

 更に、等澍院文書は、「善光寺を彼宗に被奪取候様、世上之沙汰末々迄難遁」と、きつい口上で述べている。

(106-6)「寺主(てらぬし・てらあるじ・じしゅ)」・・文化13(1816)当時の善光寺の住職は、3辨瑞。なお、辨瑞は、念仏上人といわれ、掛け軸「念仏上人画像」は、平成17年に国の重要文化財に指定された。また、アイヌ語がそえられた和讃、木版「念仏上人子引歌(カモイポボウンケイナ)」も重要文化財に指定されている。

(106-67)「江戸の増上寺より来る」・・蝦夷三ヶ寺建立に際し、僧侶を派遣する最初に本山が決められた。寛永寺(様似・等澍院の本山)、増上寺(有珠・善光寺の本山)、金地院(厚岸・国泰寺の本山)。寛永寺、増上寺は、徳川家の菩提寺である。

(106-11)「蔵町(くらまち)」・・・・大松前川に沿う二本の南北道のうち東側の道に沿った町。南は袋町、西は中川原町。武四郎の『蝦夷日誌』では町名の由来について「此処市中問屋、小宿等の荷物蔵を置る故に此名有」とし、町の様子について「中川原と馬形坂の間也。此町廿二軒の青楼有り」と記している。現松前町字福山。

(106-11)「牢屋敷」・・福山城下の牢について、『松前町史通説編第1巻下』には「福山城の牢は・・少なくとも文化期から幕末期に至るまでの間、寺社町奉行(現松前町役場)のほぼ東、馬形台地(現豊岡)の西側の崖下に位置していたことが確かである。現況は、松前警察署の東向いにある駐車場となっている。現在は使用されていないが、当時は牢の北側を馬形台地に登る牢屋坂が通っており、草萌える以前の早春にはその跡をたどることができる」とある。

(107-3)「悲しみあえり」・・「合(あ)えり」は、歴史的仮名遣いでは「あへり」が正しい。

(107-3)「又の日」・・次の日。翌日。

(107-3)「巳の刻」・・午前10時。

(107-4)「箱館御奉行所」・・箱館奉行所は、文化4(1807)、箱館から福山に移し、松前奉行となったから、ここは、「松前御奉行所」が正しい。

(107-6)揚(あが)りや」・・江戸時代、江戸小伝馬町(東京都中央区日本橋)の牢屋敷内にあった牢房の称。ここでは、単に牢屋をいう。なお、前述の『松前町史』には、『町年寄日記抜書』から「牢元の内へ九尺四面ニ揚屋御拵え」を引いて、「揚屋は、九尺四方=四畳半という小規模なものであったことが知られる」とある。また、同所には、「拘禁方法には、大別して入牢・揚屋入り・預けの三種類があり、罪状・事件との関わり方如何、情状酌量の余地の有無等に応じて、最も重い拘禁方法である入牢から順次軽い揚屋入り、預けへと振り分けられた」とある。

(107-6)「牢へ帰されて三日めに揚屋へゆき」・・前項で述べたように、重吉らは、当初は「入牢」、次いで軽い「揚屋入り」となったことをいう。

(107-9)「口書(くちがき)」・・江戸時代の訴訟文書の一種。出入筋(民事訴訟)では、原告、被告双方の申分を、吟味筋(刑事訴訟)では、被疑者、関係者を訊問して得られた供述を記したもの。口書は百姓、町人にだけ用いられ、武士、僧侶、神官の分は口上書(こうじょうがき)といった。

(107-8)「下知(げじ・げち)」・・上から下へ指図すること。命令。いいつけ。

(107-9)「五郎十」・・五郎治か。五郎治は、中川五郎治といい、明和5年(1768年)、廻船問屋・小針屋佐助の子として陸奥国川内村(旧盛岡藩、現青森県むつ市川内町)に生まれる。松前に行き、商家に奉公し、やがて松前の豪商・栖原庄兵衛の世話で、享和元年(1801)に場所稼方として択捉島に渡る。帳役を経て番人小頭に昇進し、島内の漁場を取り締まる。アイヌの女を妻にしていた。文化41807424日、ロシアの軍人ニコライ・フヴォストフに番屋を襲撃され、佐兵衛とともに捉えられてシベリアに連行される。文化6年(1809)オリヤ河畔に脱走するが捕らえられ、オホーツクに送還される。翌年再び2人で逃亡しトゴロ地方に渡るが、佐兵衛は病死し、彼も再び捕われの身となり、ヤクーツクへ連行される。この頃から松前の商人・中川良左衛門と偽名を使う。さらにイルクーツクに送られ取調べを受けるが、日本に幽閉中のディアナ号艦長ヴァーシリー・ゴローニン中佐との捕虜交換の為に、文化7年(1810カムチャツカに漂着した歓喜丸の水夫らとともに、日本へ送還されることとなる。文化9年(18122月にオホーツクで種痘書を入手し、医師の助手となって種痘法を習得する。同年84日ディアナ号副長ピョートル・リコルドに伴われ国後島に上陸、捕虜交換の交渉が行われるが、失敗し、五郎治が使者に立てられる。しかし、五郎治と共に上陸した歓喜丸の水夫1人が逃亡し、かえって交渉は難航する。五郎治は、日本の役人の指示によりゴローニンは死んだとリコルドに伝えるが、これを信じなかったリコルドは通りかかかった官船・歓世丸を襲い、高田屋嘉兵衛をカムチャツカへ連行した。またこの際五郎治は日本の役人に『五郎治申上荒増』を提出している。松前及び江戸で取調べを受けた後、文政元年(1818)、手代として松前奉行配下となり、その後松前藩に仕える。ロシア滞在中から一貫してロシアに悪感情を抱いていたが、その一方で種痘法に注目し、箱館・松前を中心に、その技術を実践している。文政7年(1824)、田中正右偉門の娘イクに施したのが本邦初の種痘術である。この頃蝦夷地では天然痘の大流行が3度起っており、このとき彼が種痘を施したとみられる。しかし五郎治は種痘法を秘術とし、ほとんど伝えなかったために、知る者は少数であった。彼の入手した種痘書は幕府の訳官・馬場佐十郎によって文政3年(1820)に和訳されている。その後種痘の技術は箱館の医師、高木啓蔵、白鳥雄蔵などにより、秋田、さらには京都に伝達され、さらに福井では笠原良策によって実践される。弘化5年(1848年)927日、川に足を滑らせ溺死。享年81

(107-10)「神参(かみまいり)」・・神詣で。神社に参詣(さんけい)すること。