(26)「腹ゴモリ」・・胎内にいたこども。

(26)「皃(かお)」・・「貌」の異体字。

(26)「古渡(こわたり)」・・古く外国から渡ってきた品物。特に、室町時代またはそれ以前に渡来した織物、薬品、陶磁器などの称。良質、高貴として珍重された。

(26)「色取(いろどり)」・・古く外国から渡ってきた品物。特に、室町時代またはそれ以前に渡来した織物、薬品、陶磁器などの称。良質、高貴として珍重された。

(27)「水豹(すいひょう)」・・「あざらし(海豹)」の異名。

(27)「コハゼ」・・小鉤・鞐。真鍮、角、象牙などでつくった爪形のもの。書物の帙(ちつ)、足袋、脚絆、合羽などの合わせめの端につけて、「こはぜかけ」にかけて合わせとめる。

 <漢字の話>「鞐(こはぜ)」・・国字。

(29)「弥帆(やほ)」・・(「や」は重なる意)和船の船首に展張する小型の補助帆。本帆に対して重ねてかけるところからいい、また、八重帆ともいう。江戸時代の千石積荷船の場合、その面積は本帆の一割以下で帆走力の増加は期待できず、装備はしても実際にはあまり使用されなかった。

(29)「タツル」・・建てる。タ行下二段活用他動詞「建(た)つ」の連体形「建(た)つる。

(30)「石碑」・・重吉が建立した供養碑の変遷を略記する。(村松澄之著『「船長日記」その信憑性と価値』風媒体社 2013 参照 以下『村松本』)

 ・文政5(1822)頃 笠寺(現名古屋市南区笠寺町)に建立(川合彦充著『督乗丸の漂流』筑摩書房 1964 以下『川合本』) 

 ・天保11(1840)から嘉永6(1853)までの間、成福寺(じょうふくじ 現名古屋市熱田区)に移転

  なお、『村松本』は、安政元年の大地震で笠寺の石碑は転倒、放置され、それ以後、成福寺の帰山和尚が移転したとする。

 *碑の台石は、督乗丸をイメージした船の形で、その上に円形の塔がある。

(30)「徳本(とくほん)」・・江戸時代中期の浄土宗の僧。紀伊国日高郡の人。徳本上人、徳本行者とも呼ばれた。宝暦8年(1758)生まれる。天明4年(17846月出家。諸所に草庵を結び、木食草衣、長髪で高声念仏、苦修練行すること多年、わずかに『阿弥陀経』の句読しか習わず、宗義を学ばずして、おのずから念仏の教えの要諦を得たという。教化の足跡は紀伊はもとより、河内・摂津・京都・大和・近江・江戸・相模・下総・信濃・飛騨・越後・越中・加賀など広域に及んでいる。享和3年(180311月京都鹿ヶ谷法然院で長髪長爪の異相を改め、翌月江戸小石川伝通院智厳について宗戒両脈を相承した。文化11年(181410月小石川に一行院が再興されるや、推されて中興開山となった。文政元年(1818106日没。六十一歳。一行院に葬られる。庶民教化者らしく道歌、説法聞書、請待記録、伝記などが多く伝わり、特異な筆跡を刻んだ名号碑が各地に建立されている。戸松啓真他編『徳本行者全集』がある。

(30)「徳本筆(とくほんひつ)」・・徳本の書いたもの。「徳本文字」といわれ、各地に徳本の書いた「南無阿弥陀仏」の六字名号碑や掛軸が残っている。

(30)「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」・・梵語namo amitabhaya buddhaya の音訳で、「帰命無量光覚」と訳す。仏語。阿彌陀仏に帰依することを表わすことば。浄土の信仰者は等しくこれを称えて極楽浄土を願う。真宗ではこれを六字名号といい、仏名とし、これを本尊とする。

(30)台座・・死亡年月日、名前が彫られている。

(30)「矢場(やば)」・・矢場町(やばちょう)。現名古屋市中区大須三丁目・栄三丁目。町号の由来は寛文8年(1668)三輪神社の境内に弓矢場が作られたためとされる。

(30)「半田村(はんだむら)」・・現愛知県半田市の内。北は英比(あぐい・阿久比)川を挟んで乙川村に、次いで岩滑(やなべ)村に接し、南は成岩(ならわ)村に接する。英比川と船江川の河口に挟まれた所で南は海に面している。

(30)「伊豆子浦(いずこうら)」・・現静岡県南伊豆町子浦。妻良(めら)村の北、駿河湾に臨み妻良湊の北側に位置する。妻良からの道は険しく「妻良の七坂、子浦の八坂」といわれ、渡船で往来することも多かった。

(30)「乙川村(おつかわむら)」・・現愛知県半田市の内。北部は丘陵部で南部は海に面し、東は亀崎かめざき村、南は英比あぐい(阿久比)川を境に半田はんだ村に接する

(30)「伊豆柿崎(いずかきざき」・・現静岡県下田市柿崎。下田町の東、南に突き出した須崎半島付根に位置する。枝郷として北に外浦がある。

(30)「田子(たご)」・・現]西伊豆町田子。駿河湾に面し、東には天城山系の山を負う。農耕地区の大田子(おおたご)と漁業に適した井田子(いたご)からなる。

(30)「亀崎(かめざき)」・・北側で有脇村に接するが、北から東南にかけて海に面し、西は乙川村に接する。海沿いの急斜面に集落を形成する漁村であり港町の様相を示している。

(31)漢文の体裁

 ①原文・・白文                    子曰学而時習之

 ②~1訓読文1・・原文+句読点+返り点        子曰ク、学而時習之、

 ②~2訓読文2・・原文+句読点+返り点+送り仮名   

                            子曰ク、学テ而時ニ習ウ之ヲ、

 ③書き下し文・・                   ()(いは)く、(まなび)(とき)(これ)(なら)う、

(31-4)「喎蘭新訳地球全図(オランダしんやくちきゅうぜんず)」・・いわゆるマテオ・リッチ系地図。寛政8年(1896)に日本で刊行された世界地図で、東西が二つの半球で描かれている。未だオーストラリア大陸の東側が不分明であった時代の世界地図が基となっている。地誌的な記述をまわりに配し、これ1枚で多くの地理情報を得ることができる。50×90cmくらいの一枚図で、東西両半球図のまわりにヨーロッパ・北アメリカなどの地誌が細かく書き込まれたもの。作者の橋本宗吉は幼名を直政、大槻玄沢に学び、大阪蘭学の基礎を築いた人物。 

*マテオ・リッチ系地図・・イエズス会士マテオ・リッチ(1552-1610)が中国での普及活動の一助として「坤興万国全図」を出版したのは、1602年のこと。それから50年後の1652年、この「坤興万国全図」をもとにしたと思われる「万国総図」が、わが国で出されている。「万国総図」は作者不詳だが、これが西洋知識に基づいて作られたわが国最初の世界地図で、マテオ・リッチ系地図と呼ばれる。そして1708年、この「万国総図」をもとにして当時の地図製作の第一人者である石川流宣が「万国総界図」を発表し、さらに1788(天明8)に至り、石川流宣の流れを継いだ長久保赤水が「地球万国山海興地全図説」を発表しました。赤水は原目貞清の「興地図」(1720)とこのマテオ・リッチ系世界地図を参考にしたといわれている。「喎蘭新訳地球全図」、1796(寛政8)の発表で製作者は大阪の医師橋本伯敏(橋本宗吉)、校閲は長久保赤水。赤水は1788(天明8)発表の「地球万国山海興地全図説」の前に「改正地球万国全図」(1785年・天明5) も刊行しており、橋本伯敏が世界地図を発表したときにはすでに世界地図製作の権威の一人になっていた。その赤水の校閲を得るということは、いわば「喎蘭新訳地球全図」は、当代第一人者のお墨付きを得た「最新の地図」ということになる。

(この項ウェブサイト「いるか書房別館」を参照)

(31-5)「乞仮(きっか)」・・物を借りる。また、請託する。また、休暇をとる。

(31-6)「飄蕩(ひょうとう)」・・水にただようこと。船が櫓櫂や帆を損傷したり失ったりして波にもまれただようこと。

(31-7)「環翠(かんすい)」・・緑の中。

(32円外)「墨瓦臘尼加(メカラニカ)・・メガラニカ、マガラニカ、マゼラニカ。マゼランが、152010月、南米南端を廻り、太平洋を横断、214月セブ島で殺害されたのち、22年スペインに帰着した船員の知識により、南極中心に想定された大陸をマゼラニカと称した。東洋にはリッチの世界図類に「墨瓦蝋泥加」として紹介された。メガラニカと訓じ、江戸時代の世界地理学は、正保年間(一六四四―四八)の「万国総図」をはじめ、新井白石・前野良沢・長久保赤水など、幕末に至るまでリッチ図を踏襲した。しかし司馬江漢の『地球図』(寛政4四年(1792))、山村才助の『(訂正増訳)采覧異言』(享和2年(1082))などは考を加え、南米南部パタゴニヤ地方に比定している。

(32円外)「漂蕩」・・水にただようこと。船が櫓櫂や帆を損傷したり失ったりして波にもまれただようこと。

(32)「寒帯」(北)のうち

(32右上)「寒帯」・・現在では、地球上でもっとも高緯度にあって寒冷な地帯。極圏(6633分)より極側の地域をいう。気候的には植生を指標として亜寒帯の極側に位置する無樹木地域をさし、最暖月の平均気温が10℃未満の地域に相当する。

(32右上)「クルウンランド」・・グリーンランド。

(32右上)「クホ子ト」・・

(32右上)「夜国(やこく)」・・一年の大半は夜ばかり続き日光を見ない、地球の南北両極に近い国。

*紅毛雑話〔1787〕一「日の南方へ周るにしたがひ、夜国の方はくらくなり」

*和蘭天説〔1795〕「海水不氷、夜国は氷海となる」

(32左上)「ローインニヤー子」・・

(32左上)「タニヤーノーハ」・・

(32)「正帯(せいたい)」のうち・・

(32右上)「正帯」・・現在でいう温帯に同じ。江戸時代に使われた語。

*管蠡秘言〔1777〕「戯論五行〈略〉南北の極は共に冷帯、赤道は中にして熱帯、赤道の南と北とに各正帯あり」

*和蘭通舶〔1805〕一「冬至規より南四十三度を温帯と名く、又正帯と称す」

*遠西観象図説〔1823〕中・地球「これを距ること南北各四十三度の間なる諸州は、四時正しくして、寒暖和平なり。故にこれを正帯と云ふ」

(32右上)「テルラボウボル」・・

(32右上)「カスベレ」・・

(32右上)「ヒルシマ」・・

(32右上)「カランチハンタ」・・位置からサンサルバドルか。

(32右上)「フロリカ」・・フロリダ。

(32右上)「カナヽダ」・・カナダ。

(32左上)ノーハメクシヨ」・・

(32左上)「ノーハガラナダ」・・グラナダ

(32左上)「ヒスカヤノーハ」・・

(32-左上)「東紅海(ひがしこうかい)」・・カルフォルニア湾。アフリカ東北部と、アラビア半島とに挟まれた湾を「紅海」というのに対していうか。

(32左上)「カリホルニヤ」・・カリフォルニア。

(32左上)「ヘルマノス」・・

(32左上)「テルラヱソニス」・

(32左上)「東大洋」・・太平洋・大西洋・インド洋を三大洋、北極海・南極海を加えて五大洋というが、太平洋を「東大洋」としたか。

(32)「暖帯(だんたい)」のうち

(32右中)「暖帯」・・地球上の、赤道から南北の回帰線までの地帯。今日の「熱帯」をいう江戸から明治初期にかけての語。長久保赤水、橋本宗吉の地図に使用されたため比較的普及し、明治になっても福沢諭吉の「世界国尽」や久米邦武の「米欧回覧実記」などで使われた。

(32右中)「イスハニヨヲラ」・・イスパニョーラ島。ハイチ。   

(32右中)「キコバ」・・キューバ。なお、「キコバ」の左上の島々は、バハマ諸島か。

(32右中) 「ノーハイスパニヤ」・・メキシコ。「ノーハイスパニヤ」はスペイン領時代の呼称。「ヌエバ・エスパーニャ」。「ノーハ」「ヌエバ」は、「新(ニュー)」の意。

(32右中)「黄道(こうどう・おうどう)」・・地球からみて、太陽が天球上を一年間に一周してえがく天球上の大円軌道。地球の公転運動を天球上に投影したもの。

*慣例碑減[1777]「運航[略]日輪北によりテオコなるときは、赤道以北の地は昼長く夜丹(短し)。日輪南によりて行る時は、悉くこれら反するなり。此の北と南とに距る所の路を黄道と名くるなり」

(32右中)「コアイナ」・・ガイアナ。

(32右中)「テルラヒルマ」・・位置的には、ベネズエラか、コロンビア。

(32右中)「ブラシル」・・ブラジル。

(32右中)「アマゾイ子」・・アマゾン

(32右中)「バラクハイ」・・パラグアイ。

(32右中)「ベヱロウ」・・ペルー。

(32左中)「イサヘルラ島」・・イザベラ島。南アメリカ大陸西岸より約1100キロメートル西方の赤道上にある島。アルベマールAlbemarle島ともいわれる。人口約500。エクアドルの一州であるガラパゴス諸島の一島。

(32)下方の「正帯」のうち

(32右下)「ウルハイク」・・ウルグアイ。

(32右下)「トクシマ」・・位置的には、ポリビアか。