(9-1)「ソウヤ」・・現稚内市宗谷村。西蝦夷地ソウヤ場所の内。ソウヤ場所は、松前藩により、貞享年間(16884~1688)に開設されたといわれ、運上屋が置かれ、アイヌ集落も形成され、場所運営の拠点となるほか、早くから北蝦夷地、利尻、礼文のアイヌ交易の中心地となった。場所請負人は、寛延3(1750)村山伝兵衛、以降変遷を経て、文化5(1808)柏屋(藤野)喜兵衛が請負い、その後一時共同請負になったが、文化12年(1815)には再び藤野喜兵衛が単独で請負い、以後明治2(1869)まで、藤野家が経営にあたった。

(9-1)「領主(りょうしゅ)」・・松前藩主のこと。当時の藩主は12代崇広(たかひろ)。崇広は、文政12年(18291115日松前藩主章広の第六子として松前福山に生まれる。嘉永2年(1849)松前藩主を継ぐ。安政2年(18552月領地は幕府領となり、陸奥梁川に移封。洋式砲術を奨励する。文久3年(1863)以降、寺社奉行・老中格・海陸軍惣奉行・老中・陸海軍総裁を歴任。慶応元年(1865)英・米・仏・蘭公使が兵庫開港を要求、老中首席阿部正外および崇広は勅許を得ずに開港を決し、同年10月老中罷免、謹慎を命ぜられた。翌2(1866)425日没。三十八歳。墓は、松前町松代の法幢寺にある。

(9-2)「丑蔵(うしぞう」・・「丑」。くずし字用例辞典p12

(9-4)「シラタン」・・「シラヌシ」の誤りか。

(9-4)「立越(たちこえ」・・連用形。「たち」は接頭語。山や川などの障害物となるものを越えてゆくこと。出かける、出かけて行くこと。

(9-5)「申通(もうしとおし」・・連用形。伝言などを取り次いで申し上げること。取り次いで申し上げること。申し届けること。

(9-5.6)「勤番所」・・松前藩は、文化5(1822)の復領後、蝦夷地の警備と行政監督のため、勤番所を12ヶ所(東蝦夷地9~ヤムクシナイ、エトモ、ユウフツ、シャマニ、クスリ、アッケシ、子モロ、クナシリ、エトロフ、西蝦夷地2~イシカリ、ソウヤ北蝦夷地1クシュンコタン)を設けた。嘉永3(1850)時のソウヤ勤番所の体制は、物頭1、目付代1、組士2、徒士2、医師1、足軽(在住足軽で場所請負人の番人)4となっている。(『松前町史』)

(9-6)「領主役場」・・松前藩の藩政を取りおこなう場所、役所。8.29のロシア船来航の報告については、9.16に松前に届いている。

(9-6)「注進(ちゅうしん)」・・〔「注」は書くの意〕。事件の内容を書き記して急ぎ上申すること。事件を急いで報告すること。

(9-9)「エンルエーツ」・・日本名「真岡」か。エンルモコマプ、エンルコマフとも。

     樺太西海岸漁業の中心地。本島唯一の不凍港である真岡港を控える。『大日本地名辞書』には、「西の運上屋とて、総て西浦の漁業を括する所なり。支配人、番人居住し、甚手広なり。夷家も38軒あるよし。」とある。『樺太(サハリン)関係略地図および同地名対照表』(以下「樺太地名対照表」と略)NO67

(9-9)「斬(本ノママ)」・・「春漁為手当、□を伐」とする前後の文脈から、「斬」は、「薪」か。

10-2)「勘弁(かんべん)」・・考えわきまえること。熟考すること。

10-5)「倶々(ともども)」・・一緒に。つれだって。

10-6)「空嶋(からしま)」・・「空(から)」は、内部に本来ならあるべきものがないこと。何も持っていないこと。うつつ。例:「から元気」、「から威張」。

     「空嶋」は、松前藩士や場所請負人の支配人、番人が、樺太から居ない状態になること。

10-8)「乙名(おとな)」・・中世後期以降の村落においてその代表者あるいはその上層階層を呼ぶ名称(『日史大辞典』)。蝦夷地においては、「役土人」の名称の一つ。

     以下、「乙名」をはじめとする「役土人」について、『新北海道史』の記述を部分引用する。

【乙名、脇乙名(わきおとな)、小使(こづかい)】

     寛文の乱に敗北した蝦夷は、まったくその独立を失い、(略)今まで藩主と対等の地位にあった蝦夷の酋長は松前氏に服属することになった。その結果室町末期の自冶体の首脳をさして呼んだ「おとな」の名称が従属した酋長に用いられ、名主、庄屋と解されるにいたった。(略)さらに、各部落には乙名のほかに、脇乙名、小使が任命された。乙名は部落長、脇乙名はその補佐役、小使は乙名の命によって部落の者を号令するもので、これを三役と称し、部落の統治はこの三役を通じて行われたのである。(以下略。)

     【惣乙名、惣小使、】

     寛政ごろから場所ごとに惣乙名、惣小使などの役名が設けられ、蝦夷中の名望家をもってこれに充てた。惣乙名は一場所の乙名上に立つもので、普通はその地方一の家柄の者をもってこれに充て、(略)惣小使は場所のおける小使の上に立つものである。

      *参考 『日史大辞典』によると、『惣(そう)』は、中世に出現した村落共同体組織をいう。「惣」は、「揔」の異字で、音通に同じく、「聚束(あつめたばねる)」の意味をもつ。(『角川漢和中辞典』~「惣」は「揔」を誤って書き伝えた字)

     【土産取(みやげとり)】

     「年寄」といった役土人を監督する地位にあるものであり、乙名、小使などに準ずる格式で、オムシャの際などにはそれらとほぼ同様の待遇によって、土産を受けるものであった。

10-8)「ベンクカン」・・本書の後述部分には、「ベンカクレ」とある。

10-8)「ナイトモ」・・樺太南海岸。ナエトモ。日本名「内友」。樺太地名対照表NO3

10-9)「イチホンクヘ」・・本書の後述部分には、「イツホニク」とある。

11-1)「ホロアントマリ」・・樺太南海岸。ポロアントマリとも。日本名「ポロアン泊」、「大泊」。『大日本地名辞書』に、「楠渓(クシュンコタン)より二十丁許以南に大泊(或はポロアントマリとも云ふ)~」とある。樺太地名対照表NO23

11-3)「申含折(もうし・ふくめ・おり)」・・「折」は、「居り」(動詞の連用形に付いて、動作、作用の継続、進行を表す補助動詞の連用形)か。事の次第を詳しく述べて納得させ、指示に従って行動するようにさせていること。言い聞かせていること。言い含めていること。

11-3)「シヽヤ」・・樺太南海岸。スヽヤ、シュシュヤ、ヒシユヤとも。日本名「鈴谷」。樺太地名対照表NO16。『大日本地名辞書』に、「クシュンコタンより以北5里計にしてシユシユヤと云ふ地有、其川すぢ(鈴谷川)に入て、路程6日にして、東海岸ナイブツ(内淵―NO165)に出る。」、さらに、「クシュンコタンを出て、東奥に到るに、当時、本道と称するものは、チ夏サニ~沼(富内湖)~東浦トンナイチヤへ出、シュマコタン~イヌヽシナイ~ロレイ~ナイブツと廻るなり、其里程2倍に及ぶにて、夷人等歩行の時は、皆シスヽヤ(鈴谷)越の方を通るなり。」とあり、南海岸の久春古丹から、鈴谷川沿いに豊原、鈴谷山脈を経て東海岸の内淵へ通じている内陸の通行路について記述がある。

11-4)「イヌヽシナイ」・・樺太東海岸。日本名「犬主、犬主内」。樺太地名対照表NO159

11-5)「ヲローフ」・・ロシアの陸軍中尉オルロフ。ネヴェリスコイがアニワ湾(クシュンコタン)上陸に先立って、6人の部下をつけてサハリン状況の偵察のため上陸させた。西海岸北緯51度付近に上陸後、クシュンナイ(久春内)~マーヌイ(真縫)に至り、東海岸を南下途中、番人らに出会った。また、オルロフは、天保7(1836)7月、日本人の漂流乗組員3人をエトロフ島まで送ってきたときの露米会社の船長。(『サハリン島占領日記』(ニコライ・ブッゼ著 秋月俊幸訳))

11-7)「天保度~漂流人送り参」・・『新北海道史年表』では、「天保7(1836)7.25ロシア船1隻、エトロフ島に来航。越後国岩船郡早川村、長門屋次郎左衛門手船五社丸の乗組員3人を送還し、翌28日開帆」とある。

117.8)「案内(あない、あんない)」・・事情をよく知っていること。

11-8)「支配向並并御勘定方」・・堀・村垣一行の内、シラヌシから西海岸を北上して奥地を探索した、支配勘定上川伝一郎、御勘定吟味方下役出役長谷川就作(周作、乾佐)、御普請役代福岡金吾、同津田十一郎、御小人目付藤田幸蔵らの一行を指すか。(『大日本古文書 幕末外国関係文書(「幕末外」と略)』7-補遺21、『蝦夷地見込書秘書』P48

11-9)「コタンウトル」・・樺太西海岸。日本名「古丹」。樺太地名対照表NO99

11―9)「ウシヨロ」・・樺太西海岸。日本名「鵜城」。樺太地名対照表NO103。『大日本地名辞書』に「コタントル(コタンウトル)より海岸を迂回して、北すること10里余に在り。南東方に数座の休火山あり、其の脈延いて鵜城岬となり、陰に一湾を擁して西海岸第一の良港をなす。」とある。また、安政3(1856)、越前福井藩士内山隆佐が、士10人、農工20人を率いて入植し、開拓の業を始めた。

11-9)「チヱトウシ」・・樺太西海岸。安政3(1856)の足軽江澤門四郎の廻浦記(『幕末外14-304』)には、「コタンウトル」と「ウシヨロ」との間(距離凡51618間)に、

「一 チトカンヘシ 此処出岬、嶮崖通行難相成、(略)絶景奇岩有り。

一 エントクシナイ 此処十字形白粉塗ニテ異国人墓印様の物立有之。

一 チウヱトモウシナイ 此処川有、~。」とあり、「チヱトウシ」は、「エントクシナイ」とその北隣の「チウヱトモウシナイ」の付近の地。

1110)「十文字杭」・・ロシア人の墓標。『蝦夷地見込書秘書』P57の松前伊豆守家来今井八九郎の「北蝦夷地ホロコタンより奥地見分風説書」の図と同一物か。

12-1)「尋問(じんもん)」・・口頭で問いただすこと。

12-1)「山靼船」・・松田伝十郎『北夷談』に、「(山靼)船は五葉の松を以て製造し、舟の敷(しき)は丸木を彫るなり。釘はことごとく木釘なり。故に大洋或は風波の時は乗り難し。図左のごとし。」とある。

12-2)「ナイヨロ」・・樺太西海岸。ナヨロ。ナイオロとも。日本名「名寄」。樺太地名対照表NO88

12-4)「士卒(しそつ)」・・士官と兵卒。

12-5)「ヲソヱコン」・・樺太東海岸。ヲソヱコミ、ヲリエコニとも。日本名「押江」。

     樺太地名対照表NO161

12-5)「シラリヲロ」・・樺太東海岸。シララヲロ、シラヲロとも。日本名「白浦」。樺太地名対照表NO172。*西海岸にも「シララヲロ(白浦)」があるが、ヲローフ(オルロフ陸軍中尉)らの一行が東海岸を南下する道筋(マーヌイ~ナイフチの間)に「シラリヲロ(シララヲロ)」がある。

12-5)「ロレイ」・・樺太東海岸。日本名「魯禮、露禮」。樺太地名対照表NO162

12-6)「蝦夷船」・・アイヌの人たちが用いた船。『新北海道史』には、「蝦夷の船は小形で、丸木船と、丸木船を台としてこれに板を綴じつけたものとがあった。丸木船は河や湖に用い、後者は海洋に使った。櫂はいわゆる車櫂(くるまがい)を用い、帆は扇帆と呼ばれた蓆(むしろ)を利用したもので、これによって、よく長途の航海に耐えた。」とある。

12-6)「搔送(かきおくり)」・・連用形。櫂で水を搔いて舟を進めること。

12-8)「スメレニクリ」・・スメレンクル、スメレングルとも。ギリヤーク人(Giliyak)に対するアイヌの人の呼称。自称族名は、カラフト方言ではニクブン、大陸方言ではニバブ。ギリヤークはロシア人の呼称で、キーレンの呼称(Gilekko)が転訛したものであるという。

12-9)「満州海岸」・・現在のロシア沿海州地方の海岸。

1210)「ハツトマリ」・・不詳。