(14-2)「馳走(ちそう)」・・(1)心を込めたもてなし。また、そのときふるまう酒や料理など。(2)うまい飲み物や食べ物。ぜいたくな食事。立派な料理。

 ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌には

 <(1)江戸時代には、まだ漢語「馳走」の原義(走り回る・周旋の意)が残っていたと思われ、(1)の用法では、酒や料理の意で用いられることよりも、接待・もてなしの意で用いる方が一般的。

(2)現代語では(1)(2)の用法でのみ用いられるが、(1)の用法としては、もっぱら「ご馳走する」「ご馳走になる」の形で用いられ、形式が固定化している。

(3)江戸時代など、ふるくは「馳走になる」など「馳走」の形で用いられることもあったが、次第に丁寧語形「ご馳走」の方が一般的となった。>とある。

(10-2)「徃返(おうへん・ゆきかえり)」・・行きと帰り。また、行って帰ること。往復。

(10-4)「揚荷(あげに)」・・船舶などから陸揚げされる荷物

(10-4)「仕廻(しまい)」・・「仕舞」などの当て字がある。「し」は動詞「する」の連用形。し終える。し

(10-9)「旱必丹(カピタン)」・・船長のこと。なお、江戸時代は、オランダ商館長もさした。

 「カピタン」の当て字には、ほかに、加比丹、加必丹、加昆丹、加昆旦、甲比旦、甲必丹、葛必丹などがある。

(11-2)<漢字の話>「大工」・・①「工」を「ク」と読むのは呉音。「大工(だいく)」の外には、「石工(いしく)」「画工(がく)」「楽工(がっく)」がある。②なお「工」の解字は、にぎるところのある、のみ(鑿)の象形とも、さしがねの象形ともいう。工具の象形から、工作するの意味をあらわす。

(11-3)「ルキン」・・『ふなをさ日記』には、「ヲロシヤに随へる国にてルキンといふ所也といふ。ルキンは北アメリカなり」とある。

(11-34)「此所は魯西亜領分之内」・・アラスカは、1741年、ロシアのピョートル帝に雇われたデンマーク人ベーリングが発見した。ロシア毛皮商人が徐々に入植していき、18世紀末にはロシア・アメリカ会社が毛皮貿易を独占し、シトカを建設して19世紀初めに繁栄を誇った。しかし19世紀なかばになると、ロシアはイギリスがアラスカを奪いはしないかと恐れて、アメリカへの売却交渉を始め、結局1867年にアメリカのシュアード国務長官が720万ドルで購入した。これは当時「シュアードの冷蔵庫」などと嘲笑されたが、シュアードは太平洋にまたがる海洋帝国建設の一環として位置づけていたといわれる。1896年クロンダイクで金鉱が発見されると、アラスカ一帯でゴールド・ラッシュが起こり、カナダと国境紛争が生じたが、これも調停でアメリカに有利に解決した(1903)。

 1912年に準州となり、1959年に49番目の州として連邦に編入され、アメリカの大陸防衛体制の前哨(ぜんしょう)地域として戦略上重要な役割を担っている。

 *ロシアのアメリカ大陸進出略史(小坂洋右=ようすけ=著『流亡』参照)

 ・1725年1月・ロシア皇帝ピョートル1世が、ベーリングを長とする探検隊派遣命令に署名。

 ・1728322日、探検隊、カムチャッカのニジネ・カムチャックに到着。34日間航海して引き返す。

 ・1732428日、女帝アンナ・ヨアンノヴア、第二次探検隊を発令。

 ・17333月出発、ヤクーツクで3年間準備し、オホーツクに着いたのは1737年秋。

 ・17409月、ベーリングら一行第二次探検隊、アメリカ航海に乗り出す。

1741年、ベーリング、アラスカ海岸に上陸。

1784年、ロシアがコディアック島に拠点を建設 。

1799年 ロシアが「ロシア領アメリカ」として領有宣言し、行政を露米会社に委ねる。

1853年 ロシアがアメリカにアラスカ売却を提案。

1861329日、ロシア政府が露米会社から行政権を回収。

18671018日、ロシアがアメリカにアラスカを売却 。

1959年1月3日、アラスカ、アメリカの州に昇格。

 (14-4)穿(?)」・・「釵」はかんざし。「釵子(さいし)」は、宮中に奉仕する女官の髪飾りの一種。古くは唐制に倣って、わが国で髪上げの際に用いた2本脚の金属製のかんざしである。江戸時代、女房の晴装束のおりに、おすべらかしの前髪にあてる平額(ひらびたい)を挿すこととなり、従来の釵子をかんざしといった。釵子は平額を、宝髻(ほうけい)の名残である丸かもじと地髪に留めるために、平額の下方にある丸い二つの穴と、角の穴にかんざしを挿し込んだ。つまりかんざし3本が1組となっている。

(14-6)「気強成(きづよなる)」・・形容動詞「気強なり」の連体形。気が強いさま。

(14-6)「乱妄(らんぼう)」・・乱暴。荒々しい行ないをすること。