37-3)「又候(またぞろ)」・・ 「またぞうろう」の変化したもの。なんともう一度。こりもせずもう一度。

37-3)「船高凡弐千四五百石位之異国船」・・秋月著『日露関係とサハリン島』によれば、船号は「ニコライ」号。

37-4)「船頭ケムカシテロム」・・前掲書では、ニコライ号の船長名は「クリンコフストレム」とし、日本側の資料では船長名を「ケムカシテロム」と訛っているとしている。

37-6)「船高凡千六七百石位之異国船」・・前掲書では、船号は「イルトゥイシ」号としている。

37-7)「船将チハチヨウ」・・前掲書では、「チハチョフ」としており、役職を船長代理としている。(船長のPF・ガヴリロフは、インペラートル湾で重症の壊血病に罹っていたとしている。)

37-9・10)「船号チヱエナ、船将ソンレツフ」・・前掲書では、船号を「ドヴィナ」号、船将を「AA・ワシリエフ」としている。

38-1)「アヤン」・・シベリア東部・オホーツク海西岸の港。1844年から露米会社の出張所が移設された。アヤンは、露米会社の前進基地としてオホーツク港、ペトロハブロフスク港、ニコライエフスク港と並んで極東ロシア海域の四大主要港となった。

38-3)「折柄(おりから)」・・ちょうどその時。おりしも。

383.4)「船高凡弐千六七百石位之異国船」・・前掲書では、「メンシコフ」号。

38-4,5)「船将アーレルメン」・・前掲書では、「船長IV・フルゲルム」。

38-6)「取片付(とりかたづけ)」・・整理する。きちんとあとかたづけをする。

38-8)「難心得(こころえがたく)」・・理解しがたく。会得しがたく。

38-9)「布恬延(プチャーチン)」・・ロシアの遣日全権使節「エフィミー・ヴァシーリエヴィッチ・プチャーチン」の日本語表記。(『宛字外来語辞典』)

39-1)「一ト先(ひとまず)」・・何はともあれ。さしあたって。

39-2)「首長」・・クシュンコタンのムラヴィヨフ哨󠄀所の隊長ブッセ。

39-3)「蜜々(みつみつ)」・・密々。内々に行動すること。また、そのさま。ひそひそ。人に知られないようにこっそり。

39-3)「終夜(しゅうや・よすがら・よもすがら)」・・一晩中。夜どおし。「すがら」は、名詞に付いて、初めから終わりまで続く意を表わす。ずっと。

(39-4)「チユヱナ」・・37-9・10)には「船号チヱエナ」とある。

39-4)「フーレルン」・・前掲書では、「メンシコフ」号。

39-4)「ヲロトフユ」・・前掲書では「ヲロトフマ」。長崎でオランダ語の通訳を務めたプチャーチンの幕僚「ポシェット中佐」で、日本側資料で「ヲロトフマ」と呼んでいるのは、彼の官名(蘭文和解では「カピタンロイテナント」)の訛であろうかとしている。なお、ポシェット中佐は、プチャーチンからのムラヴィヨフ哨󠄀所撤退の提案を持参した。

39-6)「今井五郎兵衛」・・松前藩士か。天保15年(1844)時点のヱトロフ勤番所の物頭役に「今井五郎五郎」なる人物の名前がみえる(『松前町史』)。同一人物か。

4045)「従(より)

      公儀」・・「従」以下空白で、改行して「公儀」としているのは、律令で定められた公文書の書式の規定の一つである「平出(へいしゅつ)」で、文書中で、尊敬すべき人の名や称号を書くとき、敬意を表すために行を改めて前の行と同じ高さから書きだす書き方をいう。

なお、「平出」のほか、次の書式がある。

「擡(台)頭(たいとう)」=上奏文などの中で、高貴の人に関した語を書く時、敬意を示すため行を改め、ほかよりも一字分または二字分、上に出して高く書く書き方。

「闕(欠)字(けつじ)」=天子・貴人に関係した称号や言葉の上に、敬意を示すため一字または二字分の余白をあける書き方。

「闕(欠)画(けつかく)」=天子や貴人の名と同じ漢字を書く時、はばかってその最後の一画を省く書き方。

40-5)「品々(しなじな)」・・いろいろ。さまざま。

40-5)「掛合(かけあい)」・・談判すること。交渉すること。

40-6)「先着之者」・・堀・村垣一行のうち、本隊に先行してソウヤを出発し、515日シラヌシ着、同20日クシュンコタン着したのは、堀附添では、御徒目付河津太郎三郎。村垣附添では、御勘定評定所留役水野正左衛門、御普請役橋本悌蔵、支配勘定出役矢口清三郎、御普請役間宮鐡次郎、御小人目付松岡徳次郎。(『村垣淡路守公務日記之二』の「支配向其外北蝦夷地廻浦割」)

40-6)「纔(わずか)之里数」・・ほんの少しの道のり。『蝦夷日記』P92の「シラヌシ」の条に、「クシュンコタンより此所(シラヌシ)迄、海陸里数凡三十五り程」とあり、シラヌシ~クシュンコタン間の距離が記述されている。

     このほか、吉田東伍著『大日本地名辞書』の記述により、シラヌシ~クシュンコタン間の距離を浬(海里)で算出すると、55浬となる。

 単位:1里=3.9㎞ 1浬=1.852

      ・シラヌシ~ノトロ(西能登呂岬)間 2里(7.8㎞)≒4浬

      ・ノトロ~クシュンコタン間 51浬(94.5㎞)

      ○シラヌシ~クシュンコタン間 55浬(102.3㎞)

40-8)「暫時(ざんじ)」・・少しの間。しばらく

40-8)「再応(さいおう)」・・ふたたび。再度。

40-9)「ホウチヤチンより之書翰」・・遣日全権使節プチャーチンの命を奉じた船将ポシェットの名義で、魯西亜使節応接掛筒井備前守、川路左衛門尉宛の封状の書翰(蘭文と漢文で、後日、和解)で、その概要は、「一、使節は、日米和親条約締結(33日)の告報を得、それにより推量するに、我が境界を定むる処置も容易く成就すべきを察し(アニワ港での境界交渉を中止し、)、魯西亜出張の者共、暫の間、アニワ港を退く様取計候。一、使節が尚又申越候には、内約定の事を了するため、江都の近傍なる一港に至らむとするを日本全権に告白す。」とするもの(『幕末外国関係文書之六』―212として所収)。

     なお、『村垣淡路守公務日記之二』によれば、この時、領主家来宛ての開状の蘭文と魯西亜文の書翰(アニワ港駐屯露軍総兵官ブッセからアニワ港滞在の日本武官あて)が(三輪持に)渡されたとあり、後日、和解された書翰には、「我等之為に格別用達致し、案内、手伝い、水主働も致したあいぬ人を虐待することのないように」とする旨が記載されていた(『幕末外国関係文書之六』-213として所収)。