(18-1)「御免」・・「ご」は接頭語。ここでは、免官、または、免職することを、その動作主を敬っていう語。。「御免」は、もともと「許可」を意味する「免」に尊敬を表わす接頭語「御」のついた語で、鎌倉時代から使われている。その後、「御免」の下に命令形を伴って、軽いことわりや、詫びの意を表わす「ごめんあれ」「ごめんくだされ」「ごめんなされ」などの形が生じた。これが定着すると、省略形としての「ごめん」も近世中期頃から用いられるようになった。(ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』)

(18-4)「江良村」・・現松前町字江良・字高野・字大津・字二越・字白坂。近世から大正4年(1915)まで存続した村。近世は西在城下付の一村で、南方は清部村、西は海に臨む。大正4年大島村の一部になる。なお大島村は昭和29年(1954)松前町の一部となる。現在、江良地域に、大島小学校がある。

(18-4)「米塩(べいえん・まいえん・こめしお)」・・人間の生活に欠くことのできない米と塩。食料一般をもいう。

 *「米塩の資(し・たすけ)」・・生計を立てるための費用。生活費。

 *「米塩の虫」・・食べていかなくてはならない者。生計をたてていかなくてはならない存在。

(18-5)「粒鯡(つぶにしん)」・・①荷出しする生の鰊。②数の子も白子も取り出した後の鰊。

(18-5)「空船(からぶね)」・・貨客を積んでいない船。とくに、江戸時代の御城米船では積込港まで貨客を積まないで航海させられた。

(18-6)「小砂子(ちいさご)村」・・現檜山郡上ノ国町字小砂子(ちいさご)。近世から明治35年(1902)まで存続した村。石崎村の南に位置し、東部は山地、西は日本海に面する。児砂(蝦夷草紙別録)、児砂子(「蝦夷日誌」二編)などとも記される。「地名考并里程記」に「小砂子 夷語チシヱムコなり。則、高岩の水上ミといふ事」とある。明治35(1902) 上ノ国村に合併。

(18-6)「落船(おちぶね・らくせん)」・・漂着船。津軽海峡横断の航路は津軽三厩から南または東の風に乗るのが最良とされ、途中風が南西に変わる場合は松前に着けず、押流されて吉岡付近の海上に漂着することが多く、これを落船とよんでいる。(『福島町史』)松前藩は沖之口おきのくち役所のある松前・江差・箱館の三湊以外での入国・通関は認めなかったが、航海が繁多になってくるにしたがい落船が増加したため、寛政年間には一部の落船を認める措置をとった

(18-7)「沖ノ口」・・江良に沖ノ口奉行配下の番所があった。武四郎の。『廻浦日記』では「廻船懸る由なればとて沖の口出張所有て下役一人出張す。」とある。

(18-7)「出役(でやく・しゅつやく)」・・①江戸時代、本役を持つものが、そのままで、臨時に他の職務に服すること。また、その役人。しゅつやく。広く、本業以外の公的な役回り、役職などのことをもいう。②職務上の出張。出張勤務。また、その役人。

(18-7)「船改(ふねあらため・ふなあらため)」・・港に出入する船舶の積荷・乗組・便船人などを船番所の役人が検査すること。また、その役人。江戸時代では、江戸に出入する廻船を下田または浦賀で改め、禁制の品や人間の流入・流出を防止したのが代表的な例。

(18-9)「沖口下代」・・沖ノ口奉行配下の役職。

(20-7)「挨拶(あいさつ)」・・応答。受け答え。

(21-2)「印紙(いんし)」・・署名捺印した書付。

(21-3)「売渡(うりわたし)」・・影印の「賣」は、「売」の旧字体。

 <漢字の話>「賣」・・①部首は「貝」で、「貝」部は、金銭・財貨や、それらにかかわる行為・状態などに関する文字でできている。「貢」「財」「貨」「貧「販」「貴」「賤」など。

 ②「貝」は、古代中国では貨幣とされ、財産のシンボルとして珍重された。しかし、近くにある川や池でたやすく手に入る貝ではなく、財産とされた貝は、黄河中流域に位置した殷王朝が、はるか遠方の東南沿海地方から運ばれてきた子安貝だった。

 ③「貝」は、子安貝の象形。子安貝は、その形から、生殖・安産・豊熟の象徴として珍重される。妊婦がお産をするときこれを握っていると安産すると信ぜられ,コヤスガイの名もそれによる。また《竹取物語》にはかぐや姫が〈いそのかみの中納言には,燕の持ちたる子安の貝ひとつとりて給え〉と条件を出した一節があるが、中国からの伝承と言われている。                              

③「貝」は、子安貝の象形。子安貝は、その形から、生殖・安産・豊熟の象徴として珍重される。妊婦がお産をするときこれを握っていると安産すると信ぜられ,コヤスガイの名もそれによる。また《竹取物語》にはかぐや姫が〈いそのかみの中納言には,燕の持ちたる子安の貝ひとつとりて給え〉と条件を出した一節があるが、中国からの伝承と言われている。

④「買(かう)」と「賣(うる)」・・「売」の旧字体「賣」の解字は、「出」+「買」。「買」が「かう」の意味に用いられたため、区別して、「出」を付し、「うる」の意味を表す。常用漢字の「売」は、「賣」の省略形の俗字による。なお、「買」の解字は「网」+「貝」で、「网」は「あみ」の意味、「貝」は「財貨」の意味。あみをかぶせて財貨をとりいれる、かうの意味をあらわす。

 ⑤また、「賣」は、平成16年に人名漢字になった。「賣野(うりの)」「木賣(きうり)」「賣豆紀(めずき)」など。

(21-3)「筈」・・①矢の上端で、弓の弦をかける部分。矢筈(やはず)。②弓の両端。弓の弦を受けるところ。弓弭(ゆはず)。③矢筈と弦とはよく合うところから、物事が当然そうなること。道理。理屈。筋道。転じて、予定・てはず・約束などの意にもいう。

 なお、棒の先に股のある、掛け物を掛ける道具も「矢筈」という。

 <漢字の話>「筈」・・解字は、「竹」+「舌」。音符の「舌」は、「会」に通じ「あう」の意味。弓のつると矢とが会する部分。

(21-5)「大留(おおどめ)村」・・現檜山郡上ノ国町字大留。近世から明治35年(1902)まで存続した村。上ノ国村の北、天ノ川の下流域北側に位置する。明治35年上ノ国村に合併。

(21-6)「年寄(としより)」・・近世では町役人・村役人・宿役人などの称ともなった。村役人としては、名主または庄屋に次ぐ地位の者をいうことが多い。大留村では、次に「百姓代」とあるので、「年寄」は、村の長を年寄と称していたか。

(21-1022-1)「碁盤坂」・・現松前郡福島町字千軒附近。なお、昭和13(1938)1021日国有鉄道福山線渡島知内駅 - 当駅間開通に伴い、碁盤坂駅として開業。昭和47(1972)15日に千軒駅に改称。

(22-1)「倒死(たおれじに・とうし)」・・路上などでたおれて死ぬこと。ゆきだおれ。

(23-5)「碇町」・・檜山郡江差町字陣屋町など。近世から明治33年(1900)まで存続した町。寺小屋てらこや町の東に続き、東は山地、南は武士川を挟んで五勝手村。武四郎の『再航蝦夷日誌』に「寺小屋町の上也。漁者、水主、小商人等也」とある。

(22-7)「通書(つうしょ)」・・手紙。

(22-7)「山之上町」・・武四郎の『再航蝦夷日誌』に「薬師町より上なる町也。此辺り青楼の小宿、水主、船頭の囲ひもの、小商人多し」とある。

(22-9)「幸便(こうびん)」・・つごうがよいこと。よいついで。また、そのような時に人に手紙を託することが多かったので、手紙の書き出しの文句や添え書きのことばとしても用いる。

(23-1)「被仰出(おおせいだされ)」・・ご命令されて。「仰せいだす」は、「命じ出だす」「言い出だす」の尊敬語。命令を発せられる。お言いつけになる。お言葉を口に出される。

 なお、「被仰出(おおせいだされ)」は、「おおせいださる」の連用形の名詞化で、名詞として、「おいいつけ。御命令。おおせいで」の意味になることがある。「被仰出書(おおせいだされがき)」(ご命令書)

(23-1)「供(ども)」・・人を表す言葉について複数を表す接尾語。複数の意味がうすれた「子供」以外は、多く「共」と書く。

 *「子供」・・(1)元来は「子」の複数を表わす語であり、中古でも現代のような単数を意味する例は確認し得ない。ただ、複数を表わすところから若年層の人々全般を指す用法を生じ、それが単数を表わす意味変化の契機となった。

(2)院政末期には「こども達」という語形が見出され、中世、近世には「こども衆」という語を生じるなど、「大人に対する小児」の用法がいちだんと一般化し、同時に単数を表わすと思われる例が増える。

(3)漢字表記を当てる場合、基本的には上代から室町末期まで「子等」であるが、院政期頃より「子共」を用いることも多くなる。近世に入り、「子供」の表記を生じた。

(ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌)

(23-2)「辰之刻」・・午前8時。

(23-8)「差添(さしぞい・さしぞえ)」・・他の人を守ったり助けたりするために同伴すること。また、その人。