45-2)「江戸表(えどおもて)」・・地方から江戸を敬っていう称。将軍在住の地による。朝廷の所在地京都をよぶに京都表という類。(『江戸語の辞典』)

45-2)「場所」・・この「場所」は、クシュンコタン(九春古丹)をさす。

45-4)「畢竟(ひっきょう)」・・「畢」も「竟」も終わる意。仏語。究極、至極、最終などの意。途中の曲折や事情があっても最終的に一つの事柄が成り立つことを表わす。つまるところ。ついには。つまり。結局。

45-6)「変事(へんじ)」・・異常な出来事。異変。

46-7・8)<欠字の体裁>欠字は、本来は、『大宝令』『養老令』など、公式令(くしきりょう)で定められた書式の一つ。文章の中に、帝王または高貴な人の称号などが出た時、敬意を表して、その上を一字分もしくは二字分ほどあけておくことをいう。

   7行目「不申候処」と「公儀」の間が空いている。

   8行目「相成候は」と「御威光」の間が空いている。

     ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の「欠字」の語誌に、

     <(1)「台頭」「平出」と共に唐の制度から学んで大宝令に取り入れたもの。台頭は上奏文などに用いるが、日本ではそれ以外あまり見られない。平出は令の規定以来公式に行なわれたが、闕字が最も一般的である。

     (2)闕字は台頭・平出より少し軽く、平安時代以降も永く用いられたが、その用法は必ずしも厳密ではない。しかし、天皇・院・三后などの皇族には中・近世に至るまで比較的本来の形で存続し、明治以降天皇制のもとで復活重用されるようになる。>とある。

4510)「寅」・・十二支のうちの寅年をさす。元号では、安政元年(或は嘉永七年)。西暦1854年にあたる。此の年の1127日に、御所炎上(46日)とペリーの浦賀再来航(116日)などを理由により、安政に改元。

46-5)「堀織部」・・堀利熙。織部は通称。

46-6)「村垣与三郎」・・村垣範正。与三郎は通称。

4678)「探索(たんさく)」・・(人の居場所などを)探し求めること。

46-9)「廻浦(かいほ)」・・内陸未開拓の時期の蝦夷地・北海道では、海岸沿いに諸役人などが巡回・視察すること。

47-2)「ベンカクレ」・・『村垣淡路守公務日記之二』六月十五日の条では、「ヘンクカレ」としている。

47-3)「ラムラニケ」・・前掲書では、「ラムランケ」。

47-4)「カミリ」・・前掲書では「アシリ」。

47-5)「アハユヱキ」・・前掲書では、記載がない。

47-6)「ナイトモ」・・前掲書では「ナヱトモ」。日本語表記地名「内友」、「内冨」。カラフト南海岸のうち。

47-7)「イツホニク」・・前掲書では「イツホンク」。

47-8)「ハツコトマリ」・・日本語表記地名「母子泊」、「函泊」。カラフト南海岸のうち。

47-8)「マラレアイ」・・前掲書では「マウレアヱノ」。

47-8)「土産取(みやげとり)」・・アイヌ集落での階層。和人からの下されもの(清

酒・玄米・炊飯・煙草が主)それらの下されものを無償でもらうことのできる階

層。

なお、アイヌ集落での階層は、地域によって異なるが、一般に、惣乙名・脇乙名・並乙名・小使・土産取・平夷人といわれる。

47-9)「ホロアントマリ」・・日本語表記地名「大泊」。クシュンコタンより二十丁許以南の地。カラフト南海岸のうち。

4710)「チヘシヤニ」・・日本語表記地名「池辺讃(チベサニ)」、「千辺沙荷」。大泊の東方7里の地(吉田東伍『大日本地名辞書』)。カラフト南海岸のうち。

48-1)「シヱマヲコタン」・・前掲書では「シユマヲコタン」としているが、不詳。

48-2)「トウラフツ」・・前掲書では「トウフツ」。「トウブツ」とも。日本語表記地名「遠淵(トウブチ)」。カラフト南海岸のうち。『大日本地名辞書』には、「ブッセ湖の海に通ずる處にして、古来漁場として夙に名あり。」、「寛政七年に至り、伊達、栖原二人、始めて漁場受負人として、撓淵(タウブチ)に至り、漁業を営みたり。之れ、本島に於ける民間漁業の濫觴なりと云ふ。撓淵は即ちトーブツなり。」とある。

48-2)「ヲカフ」・・前掲書では「ヲカワ」。

48-3)「右ヘンカクレ外三人シヨシコロ外六人」・・本書では、合わせて十一人の名前が列記されているが、前掲書では、十人(クシュンコタン平夷人アハユヱキが除かれている。)となっている。      

48-3)「稼方(かせぎかた)・・稼ぎ人たちのこと。働き手たちのこと。

48―4)「罷(ヽ在)居候(まかりおりそうろう)」・・「ヽ在」の「ヽ」の記号は、見せ消ち記号。「在」の左に「ヽ」で、「在」を打消し、右に「居」としている。「罷り在候」を「罷居候」と訂正している。

48-4)「去丑八月中旬魯西亜人共渡来」・・ロシア海軍大佐ネヴェリスコイらが陸戦隊73人を率い、クシュンコタンに来航したのは嘉永6丑年829日で、翌830日は上陸地点の調査、91日にクシュンコタンの北隣のハツコトマリへ上陸。したがって、本書では、「八月中旬」となっているが、厳密には、「八月下旬から九月上旬」。

48-8)「神妙(しんみょう)」・・古くは「しんびょう」とも。けなげなこと。感心なこと。また、そのさま。

48-8)「奇特(きどく、きとく)」・・おこないが感心なさま。けなげなさま。

4810)「手切(てきり、てぎり)」・・「手限」とも。自分の一存で決めること。江戸時代、奉行、諸役人・代官などが上部機構の裁断を仰がず、自己の責任で事件を処理し、あるいは判決を下すこと。

4810)「心得(こころえ)」・・心がまえ。心がけ。

4810)「役夷」・・役夷人。(惣)乙名、(惣)脇乙名、(惣)小使、土産取(みやげとり)の役職についたアイヌの人たち。ここでは、P47に列記されているクシュンコタン惣乙名、同脇乙名、ナイトモ惣小使、同小使、ハツコトマリ土産取。

48-10~49-1)「褒美之品(ほうびのしな)」・・前掲書では、十人のうち、役夷人のヘンクカレ、ラムランケ、アシリ、シヨシコロ、イツホンク、マウレアヱノの六人には、「紅板〆一切と舞扇一本」づつ、平夷人のシフランマ、ヲンクロ、ホマヲウ、ヲカワの四人には、「紅板〆一切と白平骨扇一本」づつ、「外に一同江米三表、酒一盃充、遣ス」旨記載されている。

     なお、「切」は織部(堀)が出し、「扇」は自分(村垣)が出したともある。