(30-1)「押込(おしこめ)」・・江戸時代の刑罰の一種。門を閉じ蟄居(ちっきょ)させ、外出を禁ずるもの。「押込」を「おしこみ」と読むと、「人家に押し入って強盗すること。また、その賊。強盗。」の意味になる。

(30-2)「弁天町(べんてんちょう)」・・北西―南東に走る箱館町の表通りに沿う町で、大町の北西に続く。大町などとともに箱館で最も早くに開けた町の一つ。町北端の岬(弁天崎・弁天岬)には弁天社(現厳島神社)が祀られており、町名は同社に由来。

(30-4)「面体(めんてい)」・・かおかたち。おもざし。面貌。面相。

 <漢字の話」「体(テイ)」・・「体」を「テイ」と読むのは、漢音。「タイ」は呉音。

  「体裁(ていさい)」「世間体(せけんてい)」「風体(ふうてい)」「ほうほうの体(てい)」「あり体(てい)」「体(てい)のいい~」「体(てい)たらく」など。

(30-5)「売渡(うりわたし)」・・売買の対象となっている物を売って相手に渡す。⇔買い受ける。

 <漢字の話「売」>・・①テキスト影印は、「売」の旧字体「賣」。②部首は、新字体の「売」が「士(さむらい)」部、旧字体の「賣」は、「貝」部。③「賣」の解字は「出」+「買」「買」が「かう」の意味に用いられたため、区別して、「出」を付し、「うる」の意味を表す。④新字体の「売」は、「賣」の省略体の俗字。

(30-6)<くずし字>「差出」の「出」・・影印は、「山」+「〻」(繰り返し記号)。ほかに「炎」も「火」+「〻」。また、「品」、「州」、「森」、「轟」、「澁」、「姦」、「傀儡」の「儡」、「磊落」の「磊」などの脚部が、繰返し記号になる場合がある。

(30-6)「売徳(うりどく)」・・売得。物を売ることによって利益を得ること。また、その利益。影印の「売徳」の「徳」は当て字。

  ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の用例に

  <高野山文書‐(年月日未詳)〔江戸〕高野山衆僧法度写(大日本古文書六・一二一九)「衆僧山林入薪等取売徳仕間敷事」>を挙げている。

(30-7)「地蔵町(じぞうまち)」・・函館市末広町・豊川町・弁天町・大町・内澗町・当町と続く箱館町の表通りに沿う町で、内澗町の東に位置する。古く北方は海に面していたが、地先の海岸は前期幕府領期から順次埋立てられていった。内澗町寄りから一―六丁目に分れ、内澗町から南東に向かって当町に入った表通りは、当町二―三丁目あたりで緩やかに弧を描いて向きを北東方に変えて進み、六丁目の北東端部には亀田村との境界となる枡形が設けられていた。

(30-8)「手代(てだい)」・・商業使用人の一つ。番頭とならんで、商人の営業に関するある種類または特定の事項について代理権を有するもの。支配人と異なり営業全般について代理権は及ばない。現在では、ふつう部長、課長、出張所長などと呼ばれる。

(31-1)「山之上町(やまのうえちょう)」・・現函館市弥生町。山ノ上町・山の上町・山上町とも記す。「蝦夷日誌」(一編)が「山の上」は東を法華寺(実行寺)、西は神明社、北は裏町(大黒町)の坂を限りとする「此処の惣名也」とし、「箱館夜話草」には「山ノ上町といふは惣じて神明宮の通りより芝居町此辺までをさいていふ処なり」とあるように、元来は箱館町の表通り(弁天町・大町の通り)の上手(山手)、函館山北東面の小高い山裾一帯に開けた新開地をいった。小名を含む広義の山之上町は文化年間(一八〇四―一八)に南部出身の大石屋忠次郎が芝居小屋を設けたのを契機に、茶屋などが集まる遊興地となり、近世末には山ノ上一―二丁目から常盤町・茶屋町・坂町にかけての一帯に山ノ上遊廓が形成された。

(32-1)「深泊り」・・P32の注記参照。

(32-6)「代銭(だいせん)」・・代金。なお、「代銀」は銀目で支払う代価。銀本位であった上方地方で多く用いられた。

(32-7)「不届至極(ふとどきしごく)」・・江戸時代、死罪に処すべき判決の末尾に書く罪名に冠して用いたことば。

(32-78)「可被仰付処(おおせつけ・らる・べき・ところ)」・・

  書下しは「可仰付処」。

  組成は、下ニ動詞「仰付(おおせつく)」の未然形「仰付(おおせつけ)」+尊敬の助動詞「被(らる)」の終止形「被(らる)」+推定の助動詞「可(べし)」の連体形「可(べき)」+名詞「処(ところ)」。

(32-8)「入墨」の「墨」・・影印は2字に見えるが縦長の「墨」1字。脚の「土」はひらがなの「ち」のようになる場合がある。

(32-9)「馬形東上町(まかどひがしうえまち)」・・現松前郡松前町字豊岡。近世から明治33年(1900)まで存続した町。近世は松前城下の一町。大松前川と伝治川(大泊川)に挟まれた海岸段丘上にあり、段丘の北側は馬形上町、南は東中町、東は東新町。

(32-11)「身元請(みもとうけ)」・・雇われて働く者の身元を保証すること。

(32-12)「トラメキ町」・・現松前郡松前町字月島・字朝日。「寅向」・「とらめき」とも表記される。ほか登良女喜・度良目木・戸羅目木などの文字を当てる。伝治沢川から及部川に至る海岸沿いの地域にあり、西は泊川町。当町は天明―寛政期に町立てされたとみられる。文化6年(1809)の村鑑下組帳(松前町蔵)では伝治沢町と合せて家数一二七・人数四一四。また「とらめき町、下は水かふり、平磯にて町裏地所無之、町屋東裏は崖之下ニ而、夫より泊川町際ニ至而は地面無之、崖下往還壱筋計も狭く」と記され、崖際に立地して目前に海が迫り、地形的に恵まれていない様子がわかる。「蝦夷日誌」(一編)には「トラメキ」として「此並川向也。人家より足軽多く有。此上に平野有。野畜の馬多し」とある。

(32-12)「逗宿(とうしゅく)」・・逗宿は足を止めて宿をとること。

(32-15)「不束(ふつつか)」・・江戸時代、吟味筋(刑事裁判)の審理が終わり、被疑者に出させる犯罪事実を認める旨の吟味詰(つま)りの口書の末尾の詰文言の一つで、叱り、急度叱り、手鎖、過料などの軽い刑に当たる罪の場合には「不束之旨吟味受、可申立様無御座候」のように詰めた。

*聞訟秘鑑一口書詰文言之事(古事類苑・法律部三一)「御叱り、急度御叱り、手鎖、過料等に可 成と見込之分は、不束或は不埒と認、所払、追放等にも可 成者は、不届之旨と認」

*「不束或は不埒」・・御叱り、急度御叱り、手鎖、過料。

*「不届」・・所払、追放。

(32-16)「急度叱(きっとしかり)」・・江戸幕府の刑罰。幕府法上最も軽いものが叱責の刑であって、それには急度叱と叱の重軽二種があった。庶民だけではなく、下級武士にも適用された。吟味筋のみならず出入筋においても関係者の望ましくない行為に科すことがあり、道徳的非難・教戒のことも少なくない。白洲で奉行ら裁判の責任者が判決にあたって罪状を述べたあと「急度叱」、あるいは「急度叱置(しかりおく)」と言い渡すだけである。このような刑罰でも、幕府が士庶の身分的挙動の適否を随時公示するために意味があったし、これを受けた者は居住地域の知人らに対し公然と面目を失うことに苦痛があり、むしろ名誉刑の機能をもった。

(32-16)「過料(かりょう)」・・中世から近世に行われた財産刑の一種。主刑として経済的負担を課することは律令制の衰退以後に始まる。過怠と称して寺社の修理などを命じたり財物や銭貨を徴したが、ことに銭貨を徴することを過怠銭・過銭・過料などと称した。

  享保3(1718)に過料刑の体系は整備された。『公事方御定書』は御仕置仕形之事に同年極として「過料、三貫文、五貫文、但、重キハ拾貫文又ハ弐拾両三拾両、其者之身上に随ひ、或村高に応し員数相定、三日之内為納候、尤至而軽キ身上ニ而過料差出かたきものハ手鎖」との箇条をおいている。これらの過料刑は広汎に適用され江戸幕府刑法では博奕その他軽罪に対する主要な刑罰であった。さらに御定書以降もある犯罪に対する従来の刑罰を過料刑に変えた例もかなりあり、過料刑が刑罰に占める位置はいよいよ大きくなった。

  *「きっと」・・現在、一般には、「間違いなく」「必ず」の意味に用いられる。「急度叱り」の場合の「きっと」は、「きびしく。厳重に」の意味。語源説に「キトの促音便」が有力。

(33-5)「自用(じよう)」・・ある物を自分自身の用に使うこと。

(33-7)「泊川町(とまりかわ)」・・現松前郡松前町字月島。近世は松前城下の一町。枝ヶ崎町の東隣で、海岸に沿って伝治沢(大泊川)に至る細長い町域。泊川の澗などを控え城下では重要な地区の一つであった。文化(180418)頃の松前分間絵図によると大坂を境に西を上泊川町、東を下泊川町と称した。上泊川町は一五五間、下泊川町は二一〇間。また西側を泊川町、東側を下泊川町とよぶ場合もあった。

(33-10)「得と(とくと)」・・篤と。影印の「得」は当て字。念を入れて。よく注意して。つらつら。よくよく。十分に。

(33-12)「荒谷(あらや)村」・・現松前郡松前町字荒谷。近世は東在城下付の一村。松前湾に注ぐ荒谷川河口域に位置し、西は大沢村、東は炭焼沢村。新谷(東海参譚)、荒屋(西蝦夷地日記)、安良屋(ちしまのいそ)などと記されることもあった。なお、村内の「スヽキ沢」に沿う道は松前城下と福島(現福島町)・箱館方面とを結ぶ重要な峠道で、吉岡峠または茶屋峠とよばれていた。「廻浦日記」では礼髭(れいひげ)村(現福島町)の方から茶屋峠を下って「スツヽキ川、独木橋有。巾五間、此処にて浜道白神村道と出逢ふ也」と記す。

(33-16)「不念(ぶねん)」・・江戸時代の法律用語で、過失犯のうちの重過失を意味する語。予見できたのにかかわらず、不注意であった場合に用いられ、軽過失を意味する不斗(ふと)に対する語。

(33-16)<欠丁か>・・「不念ニ付」のあとの文章がない。本来は、刑罰内容が、書かれるはず。欠丁か、または勝馬が書かなかったか。

(34-4)「心易(こころやすく)」・・心安く。親しい。懇意である。

(34-6)「荷担(かたん)」・・影印の「胆」は、旧字体の「膽」。他人の荷を背負うところから)力を貸すこと。助けること。味方になること。

(34-7)「所払(ところばらい)」・・江戸時代の追放刑の一種。居住の町村から追放し、立入りを禁止する軽罰。

(34-9)「枝ケ崎(えだがさき)町」・・現松前郡松前町字福山。大松前川下流左岸に位置する。西は大松前町と接し、東は泊川町。町名の由来について、蝦夷日誌」(一編)では「大松前町の并びなり。此名大松前の松の枝の振りし当りより起れるにやと思わる」とある。小松前町・大松前町・唐津内町とともに大手商人・問屋・小宿が店を構える城下の中心地である。文化6(1809)の村鑑下組帳(松前町蔵)によれば中町・袋町と合せて三町で家数一〇九・人数三九七。イソヤ場所請負人柳屋庄兵衛(運上金二〇両)・下ヨイチ場所請負人(同三〇〇両)・上ヨイチ場所請負人(同一八〇両)の柏屋喜兵衛、サッポロ場所請負人浜屋甚七(同六五両)、上ユウバリ場所請負人(同七〇両)・下ツイシカリ場所請負人(同五〇両)の畑屋七左衛門、アツタ場所請負人浜屋平次(同一八〇両)が店を構えていた。

(34-11)「去冬(きょとう)」・・昨年の冬。昨冬。旧冬。

*日葡辞書〔1603〜04〕「Qiotô (キョトウ)。サンヌル フユ」

*同様に、「去春(きょしゅん)」「去夏(きょか)」「去秋(きょしゅう)」と、音読みするのが通例。

(34-14)「大松前町」・・現松前郡松前町字福山。近世は松前城下の一町。大松前川の下流左岸に位置し、西は同川を挟んで小松前町、東は枝ヶ崎町。両町や唐津内からつない町とともに城下の有力商人が店を構える町であった。大松前川河口は松前湊のうちでも最も澗口の広い船入澗で、おそらく福山館築城以前から重要な地域であったとみられる。松浦武四郎は町名について「法華寺の坂ニ松の有しより起るや」と記している。

(35-3)「無念(ぶねん)」・・不念(ぶねん)に同じ。江戸時代の法律用語で、過失犯のうちの重過失を意味する語。予見できたのにかかわらず、不注意であった場合に用いられ、軽過失を意味する不斗(ふと)に対する語。

(35-7)「馬形東新町(まかどひがししんまち)」・・現松前郡松前町字豊岡豊岡。近世は松前城下の一町。東片(ひがしかた)町、馬形新町とも称された。大松前川と伝治沢川(大泊川)に挟まれた海岸段丘上の東部の南側に位置し、西は東上町。文化頃の松前分間絵図には「東新町又片町トモ申」と記され、松前大膳邸などがある。

(35-12)<変体仮名>「もの」の「も」・・字母は、「毛」。「毛」の横画は3画ある。現在のひらがなの横は2画だが、古文書のくずし字は横3画の名残を書くことがママある。

(35-14)「馬形端立町(まかどはたてまち)」・・現松前郡松前町字豊岡。近世は松前城下の一町。単に端立町ともいい、羽立はたて町とも称した。大松前川と伝治沢川(大泊川)に挟まれた海岸段丘上の西側にあり、西方は袋町。当町を含む海岸段丘上の台地を「まかどの」「まがとの」と称し、馬形野観音が文安―宝徳年間(一四四四―五二)頃造立され、のち法華ほつけ寺西隣に移転したという