56-6)「番人之程」・・P55-8「番人之詮」との比較から、「詮(かい)」と書くところを「程」としたか。「詮(かい)」は、「甲斐」で、価値、値打。

56-6)「不埒(ふらち)」・・道理にはずれていて非難されるべきこと。法にはずれていること。けしからぬこと。「不束」に同じ。用例文として「是者、御叱り、急度御叱り、手鎖、過料等に可成と見込之分は、不束或は不埒と認」。

     なお「埒」は馬場などの囲いの意で、「不埒」は、埒のあかないことから転じて、事が解決しないこと。決着のつかないこともいう。

     また、古くは高く作った左側を雄埒、低く作った右側を雌埒といい、現在は、競馬場など、内側のものを内埒、外側のものを外埒という。

56-7右)「ナイヨロ」・・「ナヨロ」とも。日本語表記地名「名寄」。樺太西海岸のうち。吉田著『大日本地名辞書』には、安政元年(1854)(堀付添の)鈴木尚太郎(重尚。号茶渓。後箱館奉行支配組頭)著『唐太日記』を引用し、「九(久)春内より浜伝ひ二里餘にて、ナヨロに着し、当所乙名シトクランケの家に泊す。此シトクランケは、楊忠貞といへる者の曾孫なるよし」と記述している。

56-8)「丈夫(じょうぶ、じょうふ)」・・身に少しの病患、損傷もなく、元気があるさま。勇気ある立派なさま。昔、中国の周の制で、八寸を一尺とし、十尺を一丈とし、一丈を男子の身長としたところからいう。

56-8)「力量(りきりょう)」・・物事をなす力の程度。能力、腕前、器量。

56-8)「生来(しゅらい・せいらい)」・・生まれたときからの性質や能力。また、生まれつき。

568/9)「奸智(かんち)」・・奸知、姦智とも。わるがしこい才知。悪知恵。

56-9)「弁舌(べんぜつ)」・・ものを言うこと。特に、すらすらと上手にいうさま。

56-9)「威服(いふく)」・・権力や威力をもって服従させること。異本は「感伏(かんぷく)」とする。感心して心から従うこと。ひどく感心すること。文脈から「感伏」の方が、合っているか。

5610)「ヲロノフ」・・ロシアの陸軍中尉。ネヴェリスコイのクシュンコタン上陸に先立って、6人の部下とともに、樺太の状況を偵察するため、樺太西海岸北緯51度付近に上陸し、クシュンコタンに向けて南下の途中、ナヨロのシトクランケのところに立ち寄った。

5610)「山韃船(さんたんぶね)」・・『北夷談 三』(松田伝十郎著)によれば、「舟は、五葉の松を以って製造し、舟の敷は、丸木を彫(ほる)なり。釘はことごとく木釘なり。故に大洋或は風波の時は、乗り難し。図左のごとし。」とある。

57-1)「承引(しょういん・うけひき)」・・承知して引き受けること。承知すること。承諾すること。聞き入れること。

57-1)「承引(しょういん)」・・聞き入れること。引き受けること。承諾。

57-2)「外三人」・・シトクランの息子の数は、分かち書き(P57-9)では、惣領、、次男、三男の三名となっているが、外三人とすると、合わせて四人となり、数に不都合が生ずる。「三人」は、「二人」が正しいか。

57-2)「クシユンナイ」・・日本語表記地名「久春内」。「楠内」、「楠苗」とも。樺太西海岸のうち。吉田東伍著『大日本地名辞書』には、「東海岸なる真縫(マアヌイ)に至る横断路の基点にして、川に沿ひて上り、スメチヤノを経て、トドロキを越え、真縫川の谷に通ず。~此の間は一の地峡を成し、幅僅に七里となる。~南方トマリオロに至る七里半、北方ライチシカに至る十四里半。鰊漁業の一中心地。」とある。

57-2)「マカヌイ」・・「マアヌイ」、「マアヌエ」とも。日本語表記地名「真縫」。樺太東海岸のうち。『大日本地名辞書』には、「本島(樺太)の幅員最も狭き、地峡部の東側に在り、オホツク海に濱す。」、「此地方は、古来名高き漁場なるのみならず、真縫は西海岸に越ゆる岐路として名高く、間宮(林蔵)氏は、此より地頸を横断して久春内に出でたり」とある。

57-2~3)「クシュンナイより山越致し、東浦マカヌイ江出」・・西海岸のクシュンナイ(久春内)~東海岸マカヌイ(真縫)は、サハリン島の最狭部

57-3)「搔送船(かきおくりぶね)」・・櫂(かい)で水を搔いて進める舟。ここでは、アイヌの板綴舟か。一方、搔送船に対比される舟として「押送船(櫓を押して進む船)~和船」がある。

57-3)「水先案内」・・船舶が港湾に入るとき、また、内海や運河などの水域を通航するとき、その船に乗り込み、また、水先船で正しい水路を案内すること。

57-4)「甚助」・・異本は「忠助」。

57-4)「無謂(いわれなく)」・・物事をなすのに、正当な根拠、理由がないこと。間違っていること。
57-5)「無制(むせい)」・・掟のないこと。定がないこと。法度がないこと。

57-6)「無訖度(きっとなく)」・・「訖」は、「屹」の誤用か。厳しくないこと。やさしいこと。

576.7)「廻浦之節~案内仕」・・シトクランが案内したのは、支配勘定上川傳一郎、同下役長谷川就作、御普請役代り津田十一郎、同福岡金吾、松前藩士今井八九郎。

     このうち、上川らの幕吏は「ホロコタン」まで、今井八九郎は更に北の「ナツコ」まで探索。

*「ホロコタン」・・日本語表記地名「鰭尾(ビレヲ)」で、『大日本地名辞書』には、「北緯五十度なる国境を距る、北方約二里の海岸」、また、今井八九郎の『北地里数取調書』では、「ホロコタン 此所夷家一軒、シメレンクル(スメルンクル)家五軒、~(略)~此所よりロモーまで山越ニ道有よし」とある。

57-9)「惣領(そうりょう)」・・ここでは、家を継ぐ子。嗣子。特に長男または長女。

57-10)「生成(うまれなり)」・・「成(なり)」は、動詞「なる(成)」の連用形の名詞化で、「生(な)ること。」、「生(お)出でること。」の意。「生成」の意は、生まれた時から。生れ付き。なお、異本は「生来」につくる。

57-10)「生質(せいしつ)」・・生まれつきのたち。もって生まれた気質。ひととなり

58-1)「曾祖父(そうそふ)」・・祖父または祖母の父。シトクランの直系尊属の系図は、曾祖父(ヨーチテアイノ=ヤウチウテイ=揚忠貞)―祖父(サヱンケアイノサン)―父(シロトマアイノ)―本人(シトクラン)―子(惣領サヱンケアイノ、次男アヱブ子、三男カンチユマンテ)。

58-2)「官人(かんにん、かんじん)」・・官吏。役人。日本の官制では、①諸司の主典(さかん)以上の役人。②近衛将監以下および院司の庁官などの総称。③検非違使庁の「佐」と「尉」の役人。

58-2)「副都統(ふくととう)」・・中国(清)の官名。清代の八旗制下の各旗の長官(満州語ではグーサ・イ・エジュン)である「都統(漢字)」の下に、都統を補佐するために二人置かれたのが「副都統(満州語メイレン・イ・エジュン)。いわゆる「副長官」。なお、「都統」は、主として兵馬のことをつかさどった。清初の1714年(康煕53年)三姓協領衙門の設置が上奏され、1731年(雍正9年)には三姓地方副都統の設置が上奏され、翌年には副都統が設置され、黒竜江下流、松花江中流域及び沿海州などを統括した。

58-2)「相授(あいさずかり)」・・連用形。神仏または目上の人などから金で買えないようなものを賜ること。いただくこと。

58-3)「満文(まんぶん)」・・満州文字で書かれた文章。満州文字は、清の太祖が1599年(万歴27年)にモンゴル文字を満州語に応用したて定めた文字。満州文字は、起源的には、モンゴル文字、ウィグル文字、ソグト文字とたどって、はるか西方の北セム系のアラム文字にさかのぼる。その後、太宗は、1632年(元聡6年)に、達海(ダハイ)改正を命じ、従来の満州文字に、丸や点を加えて新しい有圏点満州文字をつくった。満州文字は、縦書きで、行は左から右へ追う。単音文字であるが、音節文字的性質もあるという。(平凡社『大百科事典』)

58-3割注)「官理三性地方兵冢副都統」・・秋月俊幸著『日露関係とサハリン島』では、「管理三姓地方兵丁副都統」とし、「間宮林蔵は、ナヨロのハラタ(ヤエンクル)の家に残されていた一通の満州文書をみて、これを敷き写して持ち帰った。この文書には、満州文字と漢文の二種の篆書で管理三姓地方兵丁副都統と記した一辺約十センチメートルの方形の朱印が捺されていた。」、「この文書は、寛政四年(1792)と文化五年(1808)の二度にわたり最上徳内も写しとっており、~」と記述している。

58-3割注右)「三性(さんせい)」・・秋月著の前掲書では、「三姓」としている。「三姓」は地名。「三姓」の満州語「イラン・ハル」の漢字表記が「依蘭哈喇」。現在の中国黒竜江省ハルピン市所属の県名「依蘭(哈喇が省略された)」の旧名。満州族の古くからの居住地で、清室祖宗の発祥の地。牡丹江と松花江の合流点にある交通の要地。

58-3割注右)「地方(ぢかた、じかた)」・・江戸時代、「町方」に対して、田舎(いなか)をいう。農村。「中央」の対語。

58―3割注右)「兵冢(へいちょう)」・・「冢」は、塚(墓の大きなもの)、丘などの意のほか、長(おさ)、かしらの意がある(『角川漢和中辞典』)。ここは、都統が、兵馬のことを司ることから、「兵冢」は「兵隊の長」を意味するか。あるいは、単に副都統の名前か。なお、秋月著の前掲書では、「兵丁」としている。

58-4割注)「嘉慶廿三年と清之年号有之」・・「嘉慶(かけい)」は、清の仁宗(嘉慶帝) 

     の治世中に使われた元号。嘉慶廿三年は、西暦1818年、日本の文政元年にあ 

     たる。秋月著前掲書では、「漢文文書のうち、嘉慶二十三年のものは、陶姓のハラタ(何者かは不明としている)が、近年は西散大国(アイヌ語の「シサム」の音訳で日本のことを指すものとしている。)と通交してデレンへの朝貢を怠っていると詰問し、翌年の入貢の催促を第三者(恐らくはナヨロのハラタ)に依頼したものである。」としている。

58-6)「帰属(きぞく)」・・物や人がどこに、あるいは誰に属するかということ。

58-6)「官府(かんぷ)」・・王や天皇などの住んでいるところ。朝廷、官庁、役所。政府の建物。

58-6)「割符(わりふ、わっぷ)」・・契約の証などのために、二分して互いに所有する小片(二枚にした紙とか、半分に割った竹とかに付けた封印の片方であって、後日、双方のものが、互いに符合するかどうかを知るためのもの。)

58-7)「察度(さっと)」・・咎め。非難。

58-7)「時月(じげつ)」・・異本は「明年」とある。

58-7)「賞誉(しょうよ)」・・ほめたたえること。

58-8)「不致旨(いたさずむね)」・・異本は「可致旨」とある。

58-8)「恩賞(おんしょう)」・・主君が家臣に与える褒美、また褒美の金品、土地など。

58―9)「清(○府)国之官府」・・「府」の左側の○印は見せ消ち記号で、「府」は削除され、右側に「国」が書き加えられているので、ここは、「清国之官府」となる。

58-9)「帰従(きじゅう)」・・つき従うこと。服従すること。

5810)「国人」・・「国」は「同」の誤りか。異本は「同人」とある。同人は、ヨーチテアイノ=楊忠貞のこと。

5810)「寛政年中」・・寛政は元年(1789)~13年(享和元年、1801)まで続いたが、その頃のこと。

59-1)「最相徳内」・・「相」は「上」の誤り。「最上徳内(もがみとくない)」。探検家。宝暦五年(1755)生。天保七年(1836)歿。八十二歳。出羽国村山郡楯岡村の農民の男。本多利明に入門し、天文、暦数、航海術を修め。天明五年(1785)幕府の蝦夷地調査隊に竿取として加わり、東蝦夷を調査。寛政元年(1789)アイヌ蜂起調査のため、青島俊藏らと松前に渡るが、帰府後、青島の問責事件に座して入獄。後許されて普請役に取り立てられ、クナシリ、エトロフウルップ、樺太島を調査。寛政十二年(1800)材木御用掛、文化二年(1805)遠山景晋(遠山金四郎の父)の蝦夷地調査の案内、箱館奉行支配調役等を経て、対露防備のため、斜里、樺太に滞在。自らの体験に基づきシーボルトに蝦夷地の知識を披露した。アイヌ語、ロシア語にも精通した。(岩波書店『国書人名辞典』)

59-1)「和田平太夫」・・「兵太夫」か。当時、小人目付なり、寛政三年((1791)普請役最上徳内と共に択捉、得撫を探検し、同四年(1792)また、徳内と共に樺太を踏査す。後支配勘定に進み蝦夷地の用を勤めしが、享和三年(1803)正月、蝦夷地の事を離れる。(河野常吉著『北海道史人名字彙』)

59-1)「小林源之助」・・医者、本草家。安永四年(1775)生、安政二年(1855)歿。八十一歳。初め久保田、のち小林、さらに坂氏。号、東鴻(とうこう)。初め幕府西丸与力。曾占春に師事して医術、本草学を学び、寛政四年(1792)最上徳内に従って蝦夷、樺太に渡り調査研究に従事。文化十二年(1815)頃江戸に帰り、幕医坂氏の家を嗣ぎ、表御番医師をつとめた。(『国書人名辞典』)

591.2)「写書」(かきうつし)」・・連用形。「写し書き」との読みもある。

59―2)「上箱(うわばこ)」・・物を入れる外側の箱。

59-4)「相制(あいつくり」・・仕立てること。異本は「相副(あいそえ)」とある。

59-5)「同人」・・最上徳内か。

59-5)「印形(いんぎょう)」・・印。印鑑。

597-5)「当時(とうじ)」・・現在。古文書で「当時」といえば、多くは、ただいま。現在。現今。今日(こんにち)のこと。

59-7)「自恣無頼(じしぶらい)」・・「自恣」は、気儘なさま。「無頼」は、無法なことをすること、また、そのさまや人。やくざ。

59-8)「長人(ちょうじん)」・・長身の人。背たけの高い人。

59-8)「威権(いけん)」・・威力と権力。威勢と権柄(けんぺい)。

59-8~9)「愚昧(ぐまい)」・・おろかでものの道理にくらいこと。また、そのさま。

59-9)「侭(まま)」・・副詞。間間。ときどき。時には。

5910)「自餘(じよ)」・・それ以外。そのほか。

5910)「一癖(ひとくせ)」・・ひとつの癖。どことなく普通とは違ったところ。どことなく油断がならないと感じさせる性格。