(60-1)<くずし字>「申ニも」の「申」
・・くずしは、「中」のように見える。どちらかという 
     と、「P」に近い。

60-1)「間鋪(まじく)」・・「まじく」は、強い打消し推量の助動詞「まじ」の連用形。漢字で表記される場合、「間敷」の「敷」と混用され、「間鋪」が頻出する。「鋪」を使った用例として、「屋鋪」、「厳鋪」などがある。

60-2)「祖父」・・異本は「父祖」。「祖父」は、「父母の父」、「父祖」は、先祖、祖先の意が強い。「父祖」の方が文意に適合しているか。

60-2)「利欲(りよく)」・・利益を得ようとする欲望。

60-2)「当節(とうせつ)」・・この時節。現今。今。

60-3)「用立(ようだち)」・・「用立(ようだ)つ」の連用形。役に立つ。用いることができる。

60-3)「仁恵(じんけい)」・・なさけ。めぐみ。慈悲。

60-4)「御懐ケ被遊候(おなつけあそばされそうろう)」・・「懐(なつ・なづ)ケ」は、「懐(なつ・なづ)ける」の連用形。なつくようにする。てなずけて従わせる。「遊ばされ」は、補助動詞「遊ばす」の連用形。多く動作性の語に付いて、その動作をする人に対する尊敬の意を表わす。動詞の連用形につく場合は、多く、尊敬の接頭語「お」を伴う。本文の例は、「お(御)」+「懐(なつ・なづ)け」(動詞の連用形)+「被遊(あそばされ)」+「候(そうろう)」

     「遊ばす」について、ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌には、<意味は徐々に「あそぶ」意から広がったが、長く芸能・技芸の範囲にとどまっていた。中世の「平家物語」(覚一本)でも、書く意、演奏する意、読経する意、詠ずる意、射る意であり、一般的なする意の用例は、中世末期から近世初期を待たねばならない。近世には補助動詞用法も生じた。敬意は高いが、戦後は衰勢にあり、文部省の『これからの敬語』(1952)でも、「お…あそばす」を「おいおいにすたれる形であろう」としている>とある。

60-4)<くずし字>「被遊候ハバ」・・「被」も、「遊」も決まり字。「遊」は、旁の「方」が偏のようになり、シンニョウは、旁のに続けて「を」のようになる。

60-4)「帰服(きふく・きぶく)」・・つき従うこと。支配下にはいること。服従。帰順。降伏。降参。

60-4)「一助(いちじょ)」・・ちょっとした助け。何かのたし。

60-4)「却而(かえって)」・・副詞。〔「かえりて」の転〕。反対に。逆に。

60-6)<見せ消ち>「カンチユコンテ」・・先に書かれたのは「カンチヱマンラ」。「ヱ」「マ」「ラ」の左にある点(ヽ)は、訂正したことを示す見せ消ち記号。それぞれの右に、「ヱ」を「ユ」、「マ」を「コ」、「ラ」を「テ」と訂正している。異本は「カンチユマンテ」。

60-6)「シラリヲハマ」・・「シララヲロ」とも。日本語表記名「白浦(シラヲロ)」。ここでは樺太東海岸のうち。『大日本地名辞書』には、「元東白漘(ヒガシシラオロ)といへり。白浦村に駅逓あり、南は十里にしてアイ驛に至り、北は二里にして真縫驛に接す。」とある。

60-6)「ウヱケシナ」・・異本は「ウエケシユ」とする。アイヌの人名。

60-6)「ロレイ」・・日本語表記地名「魯礼」「露礼」。樺太東海岸のうち。

『大日本地名辞書』には、「(栄浜の)近地に、シユマヤ、サツサジ、ロレイなどの名あり。」とし、「ロレイ」の名が見える。

60-7)「コタン」・・異本は「コンタ」とする。アイヌの人名。

60-7)「ヲソヱンコ」・・「ヲソエコニ」とも。日本ご表記地名「押江」。樺太東海岸のうち。

6010)「ヱノシマナイ」・・「ヱヌシコマナイ」、「ヱヌシコマナイホ」、「イヌシコマナイ」とも。日本語表記地名「犬駒内」、「犬主駒」、「江主高麗内」とも。樺太南海岸のうち。『大日本辞書』には、「於布伊泊(ヲフユトマリ)の隣村とす、イヌシコマ川(ナイ)といふ。釜泊はさらに犬主駒の東に在り。」、「楠渓(クシユンコタン)より、四里にしてヲフイトマリ番屋一軒、土人家五軒許、六里にしてイヌシコマナイ、土人家十軒許。」とある。

6010)「ハイロ」・・異本は「ロクヽシ厄介 ハイロ」とする。

61-1)「ヲマヘツ」・・「ヲマンベツ」とも。日本語表記地名「小満別」。樺太南海岸のうち。『大日本地名辞書』に「満別」として「遠淵の南方六里の孤村にし、大、小の二部に分かる。」とあり、「大」が「弥満別(ヤワンベツ)」、「小」が「小満別(ヲマンベツ)」か。

61-3)「恐敷(おそろしく)」・・「恐」は、旁のくずし様によって判読の困難さは増す(『古文書くずし字200選 柏書房』)とされている。

61-4)「普請(ふしん)」・・家屋を建て、また修理すること。建築または土木工事。

61-4)「懇意(こんい)」・・親しくしていること。遠慮のいらない間柄であること。

61-5)「首長(しゅちょう)・・上に立って集団や団体を支配、統率する人。かしら。ここでは、クシュンコタンに建てられた「ムラヴィヨフ哨󠄀所」の隊長ニコライ・ブッセ(本書ではフースセ)を指す。

61-5)「迠(まで)」・・「迄」の誤用。(『新漢語林』)。なお、「迄」と、「迠」は別字で、

     読みも「迄」は、「キツ(漢音)」「コチ(呉音)」、「迠」は、「ショウ」。

61-6)「俄(にわか)に」・・形容動詞「俄(にわか)なり」の連用形。物事が急に起こるさま。また、事態が急変するさま。急激で荒々しいさま。だしぬけ。突然。

61-6)「咎(とが、とがめ)」・・罪、罰。

61-6)「只管(ひたすら)」・・もっぱらそのことに集中するさま、その状態に終始するさまを表わす語。いちずに。ただただ。なお、「只管」は、元来は漢語・仏教用語で、「シカン」と読み、「ただ、ひたすら、一途に、余念をまじえないで」といった意。「只管打坐(しかんたざ)」は、余念をまじえず、ただひたすらに坐禅を行うこと。坐禅に意義や条件をもとめず、無所得の立場に立って坐禅を実践するもので、道元が強調した禅。

61-7)「同船(どうせん)」・・同じ船に乗ること。乗り合わせること。

61-7)「領主役人」・・松前藩士の三輪持、氏家丹右衛門ら。

61-7)「召連(めしつれ)」・・下二動詞「召連(めしつ)る」の連用形。貴人が従者などを従えていく。

61-8)「国法(こくほう)」・・徳川幕府の定めた禁令、法度などの法令のこと。ここでは、いわゆる「鎖国令」としての「海外渡航の禁止」のことを指す。。松前奉行や箱館奉行が任地に赴く時の将軍黒印状に「海外渡航の禁止」のことが触れられている。

*<文化五年(1808)正月七日付松前奉行(荒尾但馬守)宛徳川家斉黒印状>

「異国境嶋々之儀、厳重取計、日本人者不及申、雖蝦夷人、異国江令渡海儀、堅可停止」(『蝦夷地御用内密留』~阿部家文書/道立文書館保管)

*<嘉永七年(1854)閏七月十五日付箱館奉行(竹内下野守)宛徳川家定黒印状>

「日本人異国江不可遣之、若異国住宅之日本人於帰朝者、宗門其外念入相糺可注進之」(国立公文書館内閣文庫所蔵)

*<安政三年(1856)二月十五日付箱館奉行(村垣淡路守)宛徳川家定黒印状>

「異国境嶋々之儀、厳重取計、日本人者不及申、雖蝦夷人、異国江令渡海儀、堅停止之」(国立公文書館内閣文庫所蔵)

6110)「何方江歟(いづかたえか)」・・「歟(か)」は、係助詞で、種々の語、語句に付いて不確かな気持ちを表す。

62-1)「行衛(ゆくえ)」・・「行方」と同義。行くべき方向。行った方向。

62-2)「理解(りかい)」・・ここは、道理を説いて聞かせること。

62-5)「文化度乱妨等」・・文化3(1806)、同4(1807)にわたる、露米商会員フヴォストフの率いるフリゲート艦ユナイ号などによる樺太島、エトロフ島、リシリ島における襲撃、掠奪、誘拐、拿捕などの事件。それらの事件の概要は、以下のとおり。(参照『新北海道史年表』)

<文化3年>     

9.11 樺太東海岸オフイトマリ上陸、アイヌの子供一人連行。

9.12 クシュンコタンの運上屋を襲い、四人の番人を捕え、船に連行。米、酒などを掠奪。運上屋、倉庫、弁天社を焼き、アイヌの子供だけを釈放。

9.18 退去。

<文化4年>

4.23 捕縛の四人を連行し来航、エトロフ島ナイボおよびママイの番屋襲撃、番小屋、倉庫を焼き、米、塩、衣類などを略取。ナイボ番屋で捕えた五人を連行。

4.27 出帆。

4.29 エトロフ島シャナを襲撃、会所、南部陣屋、津軽陣屋などに火を放ち、掠奪。南部藩の火業師を誘拐。

5.3 シャナ出船。

5.18 エトロフ島の諸々を徘徊後、樺太島シレトコ沖にあらわれる。

5.21 同島オフイトマリ、5.22同島ルウタカに上陸、それそれ番屋、蔵などを焼払。6.1 リシリ島の湊で、官船など4隻を襲撃、焼却。

6.5 日本人二人を船に残し、その他の八人を伝馬船で釈放し、宗谷岬を迂回しオホーツクを通って帰国。

62-6)「抱り」・・「拘り(かかわり)」の誤りか。「抱り」では、読みも意味も不明。異本は「拘り」で、「関係をもつ。関係する」の意。

62-7)「音曲(おんぎょく)」・・近世以降の邦楽。特に、俗曲。

62-7)「畏心(いしん)」・・おそれかしこまる気持ち、心。

62-7)「和(やわらげ)」・・「和(やわら)ぐ」の連用形。気持ちを穏やかにさせる。

62-7)「面白事(おもしろきこと)」・・愉快な楽しいこと。興味をそそること。

6210)「心なら須(ず)」・・「須」は、「す」の変体仮名。

63-1)「戦栗(せんりつ)」・・戦慄。恐ろしさのあまり、奮え戦くこと。

    *『論語 八佾(はちいつ)編』

周人以栗、  <周人(しゅうひと)は栗(りつ)を以てす>

曰使民戦栗也、<曰く、民をして戦栗(せんりつ)せしむるなり>

[周の人は栗を使っている。栗を用いるのには、(栗の神木の下で行われる死刑・刑罰によって)民衆を戦慄させようという意味がある]

**中国・魯国の社には樹木が神体として置かれ「神木」とされていた。神木の下では民衆の裁判と刑罰が行われたので、周の時代の「栗の木」というのは、神聖な場所を示すと同時に恐怖の場所を示す目印でもあった。

63-1)「察度(さつと)」・・咎(とが)め。非難。なお「察度詰(さつとづめ)」は、江戸時代の裁判で、犯罪の証拠が明らかな場合、被疑者の自白は得られなくても、裁判官の判断により犯人と推定し、裁判を終えること。自白が得られて吟味を終える自詰(じづめ)に対していう語。

63-2)「相歎(あいなげき)」・・「相歎(あいなげ)く」の連用形。憂え悲しむこと。

63-2)「出奔(しゅっぽん)」・・逃げて、姿をくらますこと。

63-2)「教諭(きょうゆ)」・・おしえさとすこと。

63-2)「撫育(ぶいく)」・・かわいがり大事に育てること。

63-4)「ハツコトマリ」・・日本語表記地名「母子泊」、「函泊」、「八虎泊」。南海岸のうち。『大日本地名辞書』に、「楠渓(クシュンコタン)の北方五町に在り、一に函泊(ハコトマリ)の字を当つ。是れ、露人が邦人と雑居の頃、拠りて屡事を構えし處なれば頗世に知られたり。」とある。

63-4)「ウンラ」・・日本語表記地名「雲羅」。樺太南海岸のうち。前掲書に「露人ペルワヤパーヂ(一の沢)の地なるべし。九春古丹の北一里許」とある。

63-4)「ヲフサキ」・・「ヲフユトマリ」とも。日本語表記地名「雄吠泊」、「雄冬泊」、「小冬泊」。前掲書に「露名サウイナパーチ、旧名初泊、また於布伊(雄冬)泊といえり。大泊市街の東方三里にある村落にして、官設の駅逓あり、海岸は、錨地をなし、規模小なれども良港なり。」とある。

63-4)「平夷人ホヲカイ」・・異本は「平同(夷人)ヲホカアイノ」とする。

63-5)「コチヨヘツ」・・日本語表記地名「胡蝶別」。樺太南海岸のうち。

63-5)「ナヲシナイ」・・「ナヱヲンナイ」。「ナイヲンナイ」とも。日本語表記地名「内音」か。樺太南海岸のうち。なお、異本は「トウフツ」につくる。

63-5)「チヱヲンナイ」・・異本では「ナヱヲンナイ」につくる。「内音」か。

63-5)「平夷人トヱノ十ホ」・・異本は「トエチホ」とする。

63-6)「ホロアントマリ」・・日本語表記地名「大泊」。樺太南海岸のうち。『大日本地名辞書』に、「楠渓(クシュンコタン)より二十丁許以南に大泊(或はポロアントマリともいふ)」と記述されている。

63-6)「平夷人アウシハウクランタ」・・異本は、「平異人アウシ ハウクランク」の二人の平夷人の名前につくる。

63-7)「不取用(とりもちいず)」・・(人の)意見などを受け入れて尊重しない。

63-8)「告知(こくち、つげしらせ)」・・つげしらせること。

63-9)「虚実(きょじつ)」・・うそとまこと。実体のあることないこと。

6310)「寄付ケ(よせつけ)」・・「寄付(よせつ)く」の連用形。近寄らせる。近くにひきつける。