68-1)「両口(りょうぐち)」・・両方の口。二つの口。日本とロシアの両方に二股をかけていることを意味するか。

68-1)「宥恕(ゆうじょ)」・・寛大な心でゆるすこと。

68-2)「内実(ないじつ)」・・内部の事情。内幕(うちまく)。

68-3)「伊豆守」・・松前藩第12代藩主松前伊豆守崇広。藩主在任期間:嘉永2年(184969日~慶応2(1866)424日。のち、老中(元治元11~)、海陸軍総裁(慶応元9.21~10.1)となる。また、崇広の時代、松前藩は、箱館周辺に加えて、安政2(1855)2月、和人地の大半(東部木古内以北、西部乙部村以北)と東・西・北蝦夷地を収公(幕府の直轄領)されるが、同年12月、替地として陸奥国伊達郡梁川などを与えられたことにより、無高から表高3万石の正式な大名となった。

68-2)「不被及御沙汰(ごさたにおよればず)」・・問題になされず。「不被及(およばれず)」の組成は、「及ぶ」の未然形「およば」+尊敬の助動詞「被(る)」の未然形「れ」+打消しの助動詞「ず」の連用形「ず」。

     *「不被及」は、「およばられず」とも読めるが、語調が不自然で、ここは、「およばず」とする。

     *「被」は、多くは受身・尊敬の助動詞「らる」(及びその活用形)として用いられるが、受身・尊敬の助動詞「る」(及びその活用形)としても使われる。

     *尊敬を表す「る」は、他の尊敬を表す「給う」などにくらべると尊敬の度合いが低い。

     *助辞「被」・・「被」を「らる」「る」と読むのは、漢文訓読用法から派生した読み方。動詞の前に置かれ、受身であることを表す。

      吾皇太后徴  われ皇太后に徴(チョウ)さるるも、

      未為  未(いまだ)為(な)す所を知らず(『三国志』)

68-3)「后後(こうご)」・・のちのち。あとあと。「后」には、「きさき」「のち」の訓がある。『新漢語林』は、<常用漢字表には、この字の音は「コウ」しかないので、現在表記で「後」の代わりとして「戦后」「午后」「食后」などど公の場で用いるのは、適切でない>としている。

     *「后」は常用漢字(6学年習得相当の教育漢字でもある)

     常用漢字表は、「法令、公用文書、新聞、雑誌、放送など、一般の社会生活において、現代の国語を書き表す場合の漢字使用の目安を示すもの」(平成221130日内閣告示の「常用漢字表」前文)だから、「皇室典範」第15条、17条に「皇后」があるので、「后」は、常用漢字から外せない。

     同様に、「朕」、御名御璽の「璽」も、日本国憲法の「上諭(じょうゆ)」(天皇の裁可)にある文言だから、常用漢字になっている。

68-4)「不立入様(たちいらざるよう・たちいらぬよう)」・・

     「不」は、漢文訓読の返読用法で、基本形は打消しの助動詞「ず」。

 

未然

連用

終止

連体

已然

命令

 

ざら

 

ざり

 

 

ざる

 

ざれ

 

ざれ

     テキストは、連体形だから、「ざる」「ぬ」の両方の読みがある。両方とも文語体だが、「ざる」の方が、固いニュアンスがある。

68-5)「巨細(こさい)」・・一部始終。委細。

     ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌に、

     <(1)字義どおりの「巨と細」の意味に加えて、漢籍で「無巨細」と使われることが多く、そこから「細大もらさず」という意味になっていったと思われる。また、中世以降、記録とその影響を受けた軍記物を中心として、「巨細」だけで「詳しく」という意味を持つようになる。

(2)キョサイの読みも「伊呂波字類抄」に見えるが、呉音系のコサイの読みの方が一般的である。>とある。

68-8)「寅(とら)」・・ここでは、嘉永7年あるいは安政元年、西暦(グレゴリオ暦)1854年を指す。(嘉永7年1127日、御所の炎上やペリー再航などにより、安政に改元された。)

69-1)「今年三月」・・安政元年(1854)三月を指す。ロシア使節プチャーチンは、安政元年323日に長崎に再々来航し、329日に沿海州のインペラート湾へ出航。

     この時、プチャーチンは、日本側に対して、「本年六月樺太アニワ港において境界交渉を行う」旨の覚書を送っている。なお、『村垣公務日記之二』によれば、堀と村垣が、老中の阿部伊勢守からの「魯西亜使節、からふと江相廻り候ハヽ、境界之大要等応接いたし候様」命じられた御用状を受け取ったのは、59日、ソウヤ逗留中であった。

69-1)「筒井肥前守(つついひぜんのかみ)」・・幕臣。生没年、安永7年(1778)~安政6年(1859)。82歳。名、政憲(まさのり)。字、子恒。叙任名、伊賀守、和泉守、紀伊守、肥前守。文化14年(1817)長崎奉行。文政4年(1821)江戸町奉行。天保12年(1841)西丸留守居。嘉永6年(1853)ロシア使節応接掛。安政元年(1854)大目付(海防掛)。同年1221日締結の日露和親条約に署名。

69-1)「川路左衛門尉(かわじさえもんのじょう)」・・幕臣。生没年、享和元年(1801)~慶応4(1868)68歳。名、聖謨(としあきら)。叙任名、左衛門尉。幕府徒士内藤歳由の次男。文化9年(1812)川路光房の養子。天保11年(1840)佐渡奉行。小普請奉行、普請奉行、奈良奉行、大阪東奉行を経て、嘉永5年(1852)勘定奉行。嘉永6年(1853)ロシア使節応接掛。安政元年(1854)日露和親条約締結に署名。安政5年(1858)西丸留守居。安政6年(1859)隠居。文久3(1863)外国奉行。慶応4(1867)315日江戸城開城目前にして拳銃自殺。

69-3)「疆界(きょうかい)」・・(日本とロシアとの)国境。「疆」は、「さかい」を意味し、同訓は「境」。弓扁の「彊(きょう)」は、別字。

69-3)「某等(それがしら)」・・幕府から派遣された御目付堀織部正と御勘定吟味役村垣与三郎ら一行。

69-4)「六月十八日」・・『蝦夷日記』によれば、「堀、村垣の両殿様は、(617日、クシュンコタンを御出立、リヤトマリに泊り、)618日、シラヌシ御着となり、以後、三日間逗留と」している。

     その後、村垣は、622日、シラヌシ出立、西海岸エンルモコマナイ(真岡)まで行き、71日、シラヌシに立ち戻り、逗留し、711日にソウヤへ渡海、樺太島を離れ、閏729日、箱館へ帰着。一方、堀は、622日、シラヌシ出立、西海岸ライチシカ~東海岸マーヌイを見分後、820日、箱館に帰っている。

694.5)「貴国之人」・・クシュンコタンのムラヴィヨフ哨所の隊長ブッゼら。

69-5)「営柵(えいさく)」・・柵、営造物、建築物。

69-5)「使節」・・ロシアの遣日全権大使エフィーミー・ヴァシーリエヴィチ・プチャーチン(海軍提督)。本書ではホウチヤチン。日本語表記名「布恬廷」。

69-5)「両人」・・ロシア使節応接掛の筒井肥前守と川路左衛門尉。

69-5)「書」・・暦数千八百五十四年(1854611日(安政元年516日)付け船将次官ポスシエト名義の筒井・川路宛の「アニワ港での境界交渉の中止」を告げる書簡(『幕末外国関係文書之六』所収の第212号文書)

69-7)「二国」・・日本とロシア

69-8)「議(ぎ)せむ」・・「議する」は、集まって意見を述べ合う。審議する。

69-8)「東西」・・樺太の東浦(東海岸)や西浦(西海岸)を指す。

69-9)「与里て(よりて)」・・「与=よ」、「里=り」。

6910)「む那し具(むなしく)」・・「那=な」、「具=く」。「空しく、虚しく」

6910)「怒(ぬ)」・・「怒=ぬ」。

70-1)「此日」・・本文書中には、特定した日にちが記されていないが、『村垣公務日記之ニないし三』では、村垣が西海岸廻浦を終えシラヌシに逗留中の710日の条に、「露人来ラバ箱館へ廻航セヨト」告げるように指示をしたり、ソウヤ逗留中の713日の条に、「露人へ示スベキ置書簡(蘭文)」として、料紙大奉書を箱に入れ、堀織部が廻浦から(クシュンコタンへ)戻って来た時に渡すように、松前藩の田崎与兵衛へ託したことが、記されていることから、「此日」とは、「713日前後」と推認できる。

71-図中右・上)「豕畜類(いちくるい)」・・「豕(シ、い、いのこ)」は、本来、「いのしし」を指すが、「豚」類の総称としても用いられる。

71-図中右・中)「大将ホツサイ」・・ムラヴィヨフ哨所の隊長ブッセ(陸軍少佐)。

71-図中右・下)「役出小屋」・・P73-10の説明では、「一 西ノ角焚出小屋」と、「焚出」となっている。また、異図(「唐太島くしゅんこたん露西亜人城柵之図 浩然随筆所収」~『村垣公務日記』所収」では、「焼出シ部屋也」となっている。

72-図中左・中)「ロタノスケ」・・ムラヴィヨフ哨所の副隊長ルダノフスキー(海軍大尉)

74-9)「畳上(たたみあぐ)」・・積み上げる。積み重ねる。

7414)「剣付鉄炮」・・「剱」は、「剣」の異体字(俗字)。また、「炮」は、火扁で、旁は勹(つつみがまえ)の中が「巳」である。剣付鉄炮は、先端に剣をつけた小銃。銃剣。