(53-1)「沖ノ口」・・松前藩の役所。

(53-12)「桜庭梅太郎」・・「町年寄日記抜書」(『松前町史史料編第二巻』所収)文政9813日の項には、「町年寄」にその名がある。また、文政期(年代不詳)の『松前藩士名前控』には「町下代」に名が見える。

(53-6)「口書(くちがき)」・・江戸時代では、口書は広義では被糺問者の供述を録取したものをいうが、狭義では吟味筋における「吟味詰りの口書」を意味した。武士およびこれに準ずる身分を有する者(寺社侍以上)については「口上書(こうじょうがき)」と呼び、足軽以下、百姓・町人の分は「口書」といった。吟味筋の手続では、被疑者および関係者を訊問し、ときには拷問を用いたが、これによって犯罪の事実が認定されると、吟味詰りすなわち吟味終結の口書が作られる。この訊問および口書の作成は奉行の下役によって行われる。口書は下役人が作成して供述者に捺印させる。男子は印形を用いさせるが、なければ爪印、女子は爪印、武士は書判であった。捺印された口書は奉行による供述者の訊問によって確認されるが、奉行の面前で捺印させる場合もあった。吟味詰りの口書は場合により詰文言を異にすることで知られる。詰文言は「不埓之旨御吟味受申立様無御座候」というような文言であるが、叱・急度叱・手鎖・過料などの軽い刑(御咎)の場合には、「不埓」「不念」「不束(ふつつか)」と(「不埓詰」)、所払追放以上の刑(御仕置)の場合には、「不届」と(「不届詰」)、数罪あるときは、軽い方には「旁不埓」、重い方には「重々不届」と詰めた。

(53-6)「調子(ちょうし)」・・調子帳(ちょうしちょう)。調書。

(53-9)「在方下役(ざいかたしたやく)」・・町奉行配下の在方掛に属する役人。

(54-1)「大沢村(おおさわむら)」・・現松前郡松前町字大沢。近世は東在城下付の一村で、大沢川河口域に位置する。「福山秘府」によれば文亀2年(1502)大沢に永善坊(のちの寿養寺)が建立されたといい、「松前家記」には永正14年(1517)「大沢ノ寿養寺ヲ大館ニ遷ス」とあることから、一六世紀の初めにはある程度の集落の存在が考えられる。「福山秘府」や「松前年々記」などによれば、元和3年(1617)には大沢川で砂金が発見され、この砂金掘りには迫害を逃れたキリシタンが入っていた。寛永16年(1639)には「於本藩東部大沢亦刎首其宗徒男女都五十人也」(和田本「福山秘府」)とあるように、キリシタン弾圧の舞台となった。

 大正12(1923)、上及部村・大沢村・荒谷村・炭焼沢村が合併し、二級町村として発足、四大字を編成した。昭和29(1954) 松前町の一部となる。

(54-1)「温泉場」・・大沢村の温泉場は、天保6年(1835)には城下寅向(どらめき)町上野へ汲湯することになった。現在同地に、日帰り温泉施設「松前温泉保養センター」がある。

(54-2)「願書(ねがいがき)」・・願いごとを記した書き付け、手紙。

(54-4)「頭取 古田八平」・・足軽頭取。くずし字「頭」

(55-7)「様子(ようす)」・・現代では、けはい。そぶりの意味が強いが、ここでは、そういう状況であることをいう。

(55-8)「跡役(あとやく)」・・前任者の役や権利を引き継ぐこと。また、その人。後任。後任者。

(57-1)「八幡宮」・・松前家2世・光広が永正13(1516)、徳山館に建立した。

(57-1)「殿様」・・松前藩9代・松前章広。

(58-2)「奥村英晋」・・松前藩医者。

(58-6)「御匙医(おさじい)」・・匙で薬を盛るところから、将軍、大名等の病気を診断するのを専門とする医師。おさじ

  江戸時代の医師は、一般には刀圭家(とうけいか)、将軍家や大名などの侍医、御典医は、お匙(おさじ)と呼ばれており、これは江戸時代の漢方医が、薬を調剤するときに「薬匙」を扱う姿を、周囲の人々には頼もしく映ったことに由来する呼称。

 そもそも「薬匙」とは、固形薬物または粉末薬をすくって調合する匙で、大小さまざまな大きさと形の種類がある。材質は金属、あるいは動物の牙や角や、木製などからできていて、日常的には丈夫で錆が生じ難い真鍮製、金、銀、銅(近年ではステンレスやプラスチック)の製品を用いていた。しかし、金属に触れて変化する薬物を扱う際には、牛角や象牙製のものを使用していた。

 *「匙加減」・・道具としてだけでなく、その微妙な調整技術を含めて「匙加減」という言葉が多用されるようになった。もともとは、匙ですくう薬の多少を「匙加減」と言い、患者を生かすも殺すも、この待医の「匙加減」一つで決まったことから派生して物事を扱う場合の状況に応じた手加減、手心の加え方を表す意味としても広く使われている。

 *「匙を投げる」・・「匙を投げる」とは、医者が匙を投げ出すことから、患者に治る見込みがないと診断して治療を断念すること。物事の見込みがないとあきらめて、これ以上やってもしょうがないと見放す意味で使われるようになった。

  匙を使って薬を盛る医師の技術は、この他にも「匙先」「匙執り」など、さまざまな言葉で表されていて、微妙な匙加減は、医師の大切な技術だったことがわかる。

(58-9)「宮ノ哥村(みやのうたむら)」・・現松前郡福島町字宮歌(みやうた)。

近世から明治39年(1906)まで存続した村。近世は東在の一村で、宮歌みやうた川の流域に位置し、北方は白符(しらふ)村、東は津軽海峡。シャクシャインの戦に関連して「津軽一統志」に「宮のうた 小川有 澗あり 家二十軒」とみえる。元禄郷帳に「宮のうた村」、享保12年所附には「宮の哥村 此辺おやち沢迄一里」と記される。天保郷帳では宮之哥村。宮歌村文書、宮歌村旧記(北海道大学北方資料室蔵)によると、寛永3年(1626)西津軽鰺ヶ沢から六人の漁民が来て澗内(まない)の沢に定着し、当地に家を建てた。二~三年後には戸数も二〇軒ほどになり、澗内川で引網を張って鮭をとったという。宮歌村旧記によれば同12年松前八左衛門の知行所に定められ、用人の加川喜三郎が江戸から下り、上鍋島かみなべしまから下根祭しもねまつり岬までを松前藩主より拝領したという。その際大茂内(おおもない)村(現乙部町)が枝村として、上ヨイチ場所が知行所として付与され、のち九艘川(くそうがわ)村(現江差町)も枝村となったという。松前八左衛門は二代松前藩主松前公広の三男として寛永4年福山館に生れ、小字を竹松丸、または甚十郎と称し、長じて八左衛門泰広と名乗った。同一九年出府し、そのまま幕府に召され、正保3年(1646)廩米(扶持米)一千俵高の旗本となっている。明暦元年(1655)松前に来て藩主高広の後見をし、シャクシャインの戦でも平定に尽力した。のち一千一〇〇石の大身となった(寛政重修諸家譜・松前町史)。当村は明暦元年以降八左衛門の知行所となったと考えられ、同年八左衛門は八幡宮を建立している(福島町史)。

蝦夷島の和人地が松前藩の家臣ではない旗本の知行所となるということは前例がなく、異質の知行体制であった。このように複雑な構造下にある宮歌村は多くの問題を抱えていたが、その最大のものは白符村との村境争いであった。元文4年(1739)には両村の間に騒動が起き、当村は八左衛門代理人で家老の松前将監貢を頼んで藩に訴え出ているが解決をみなかったらしく、天明7年(1787)、文久3年(1863)、慶応4年(1868)、明治7年などにも同様の訴えがあり、紛争が絶えなかった(前掲旧記・宮歌村文書)。当村は一村で沖之口問屋株をもっていた。問屋は寛政6年(1794)の設置で(「永代之記録」宮歌村文書)、沖之口の番所を吉岡よしおか村に設けたものの港が悪く、荷物の積下ろしは実質貝取かいとり澗(現字豊浜)と宮歌の澗で行われていた関係から、宮歌村に問屋を設けて管理する必要があったためとされる(宮歌村文書など)。明治39年吉岡村に合併。