【書誌】

  本書の影印は、昭和8(1933)127日、北海道帝国大学附属図書館(現北海道大学附属図書館)の所蔵になった『蝦夷錦』である。成立年は文化4(1807)

内容説明 文化丁卯事件の際の公私文書を収録。不正確な情報とデマの流行に当時の     狼狽振りがよくあらわれている。

【文化露寇事件まで】(『新北海道史年表』参照)

<寛政4年(1792)

9.5 ロシアの遣日使節ラックスマン、大黒屋幸太夫をともないネムロに入津。修好要望の書簡を持参。

<寛政5(1793)

6.27 ラックスマン、幕臣石川忠房より長崎に至るべき信牌の交付をうける。

<寛政11(1799)

1.16 幕府、書院番頭松平信濃守忠明・勘定奉行石川左近将監忠房・目付羽太庄左衛門正養(まさやす)ら、東蝦夷地仮上知に付、この件の担当老中戸田采女正氏教より、蝦夷地取締御用を命じられる。

1.16 幕府、異国境取締のため、東蝦夷地を当分の間、試みに上知する旨松前藩に通達(上知の範囲を東蝦夷地浦川より知床および東奥島までとし、期間を7か年。『松前家記』によれば211日に松前藩に通達。)

6.- 松前藩、東蝦夷地の仮上知にともない幕吏の松前藩領往来繁雑にて困難の筋もあるにつき、シリウチ川以東ウラカワまでの追上知を内願(同じ頃仮上知の代地も内願)。

8.12 幕府、内願のとおり5000石の代地(武蔵国埼玉郡の12か村)を下付し、追上知を認める旨、松前章広に達す。

11.2 幕府、箱館表の警固を罷め、サハラならびにクスリ辺に勤番所を取建て、御用地年限中、重役の者2~3人、足軽1000人程を駐留させるべき旨、南部大膳太夫・津軽越中守に命じる。毎年、双方より、500人ずつ足軽を派遣、津軽藩は、サハラよりウラカワまで、南部藩は、ウラカワ以東を固め、南部・津軽藩は、箱館にそれぞれ本陣を置き、以後、津軽藩は、サハラ・エトロフに、南部藩は、ネモロ・クナシリ・エトロフに勤番所を補理する。

<寛政12(1800)

2.16 幕府小納戸頭取格戸川藤十郎安諭(やすのり)・小納戸大河内善十郎政良、蝦夷地巡見を命じられる。3月江戸出発、東蝦夷地クナシリ島まで巡見、9月帰府。

<享和元年(1801)

4.1 松平忠明・羽太正養・石川忠房、箱館に到着。忠明は4.22箱館出発、勇払よりシコツ川を通り西蝦夷地を巡見、7.7箱館帰着、7.10帰帆。正養は4.22箱館出発、東蝦夷地をクナシリ島まで巡見、9.5箱館帰着、福山見分、9.16出帆。忠房は4.21箱館出発、東蝦夷地をシレトコ崎まで巡見、7.10箱館帰着、出帆。

5.30 幕府普請役中村小市郎・小人目付高橋次太夫、カラフト島見分の命を受け、東海岸を小市郎が担当してナイブツまで、西海岸を次太夫が担当してショウヤ崎まで検分、8月山丹交易事情や松前藩の樺太の取扱い等を復命。

6.27 幕府支配勘定格富山元十郎・仲間目付深山宇平太、ウルップ島見回り御用にて、エトロフ島シベトロを出船、ウルップ島オカイワタラの岡に「天長地久大日本属島」の標柱を建て、ラッコ猟のためトウボ滞在中のロシア人に遇い、その状況をさぐり、7.7シベトロに帰着。

<享和2年(1802)

2.23 幕府、蝦夷地奉行を新設。戸川筑前守安諭・目付羽太庄左衛門正養(12.16安芸守に任ぜられる。)をこれに任命。

5.10 幕府、蝦夷奉行を箱館奉行と改称。

7.24 幕府、東蝦夷地の仮上知を改め、永上知とする旨松前藩に申渡す。永上知の代価として年々3500両ずつ下付し、武州久喜の所務および東蝦夷地収納よりの下渡金を廃止。

12.14 幕府、戸川安諭、羽太正養に1年毎交代にて箱館在勤を下命。

<享和3癸亥年(1803)

1.18 幕府、箱館奉行支配調役6人・同調役並5人、同調役下役10人を任命、箱館奉行所の体制を整える。2.2321人のうち14人在勤、7人を江戸掛と決定。

<文化元年(1804)

4.21 箱館奉行羽太正養、江戸出発、箱館に到り、戸川安諭と交代。

8.2 幕府、南部・津軽藩の蝦夷地勤番を寛政11年より7か年間の期限付きから永々勤番に改める。

9.6 ロシアの遣日全権使節レザノフ、クルーゼンシテルンの率いる世界周航の探検隊と共に、ナデジダ号に搭乗し、仙台の漂流民津太夫ら4人を伴い長崎に来航。通商をもとめる。レザノフは、上陸中も幽囚同様の扱いを受けた。レザノフは、寛政4(1793)に松前で幕府がラックスマンに交付した信牌を携えた正式な使節であった。

<文化2年(1805)

3.7 ロシア使節レザノフ、長崎奉行所にて、奉行肥田豊後守、幕府派遣の目付遠山金四郎出席のもと、通商要求を拒絶される。

3.18 ナデジダ号、レザノフをのせて長崎出航。日本海を北上してカムチャッカに向かう。レザノフは、帰国後、ロシア皇帝に樺太の領有を具申し、かつ部下のスヴォストフとダヴィドフに報復処置を示唆するという。

7.16 幕府、目付遠山金四郎・勘定吟味役村垣左太夫定行に、西蝦夷地派遣につき準備を命じる(西蝦夷地を収公するための調査と考えられている。)。遠山金四郎は、勘定・徒目付などを伴い閏8.13江戸出発、冬(10.3)福山に到着。村垣左太夫は病気のため途中引き返し、翌年春福山着。

 

【文化露寇事件の概要】

<文化3年(1806)

9.11 露米商会員スヴォストフの率いるフリゲート艦ユナイ号、樺太東海岸オフイトマリに到来、上陸して同地のアイヌの子供1人を連行、同日クシュンコタンに移動して停泊。翌1230人程が上陸してクシュンコタンの運上屋を襲い、富五郎以下4人の番人を捕え、船に連行。米・酒・その他の仕入物を掠奪し、運上屋・倉庫・弁天社をやき、アイヌの子供だけを釈放して、18日退去。

<文化4年(1807)

2.26 箱館奉行戸川筑前守、御暇。5.10江戸出発。6.12箱館到着。

3.22 幕府、松前西蝦夷地一円を召上げ、新規9000石を下付する旨松前章広に申渡す。

3.26 幕府、家督中蝦夷地取治方不行届、かつ隠居後も言行不謹慎の廉により、松前美作守道広を永蟄居に処す。

4.2 転封の報、福山に到来。

4.6 前年の露寇の報到来。

4.8 松前道広、永蟄居の報、福山に到来。

4.16 松前藩家老松前左膳広政・蝦夷地奉行新谷六左衛門、藩兵200人を率いて樺太出兵。5.12樺太に渡る。その後、ソウヤ在勤の深山宇平太の差図により同月28日ソウヤに帰帆、西蝦夷地シャウ・モヘツ(シャリ・モンベツ)を守衛。

4.23 スヴォストフら、前年樺太クシュンコタンで捕縛の番人4人を連行して露米商会のフリゲート艦ユナイ号(艦長スヴォストフ)・スルーブ艦アヴォシ号(艦長ダヴィドフ)にてエトロフ島ナイボに来る。同地繋船中にナイボおよびママイの番屋を襲い、番小屋・倉庫を焼き、米・塩・衣類・諸道具を略取。27日朝出船、ナイボで捕えた五郎治ら5人を連行。

4.29 スヴォストフら、エトロフ島シャナを襲う。会所詰の調役下役元締戸田又太夫・調役下役関谷茂八郎らの意見により、同夜幕吏および津軽・南部の戍兵とも同所を引き払う(戸田又太夫はアリムイとルベツの間のオソウシにて自殺)。スヴォストフらは、会所・南部陣屋・津軽陣屋などに火を放ち、掠奪をほしいままにし、負傷していた南部藩の火業師大村治五平を捕えて、5.3シャナを出船。

5.14 エトロフ島にロシア船渡来の第一報、箱館に到来。

5.18 ロシア人エトロフ島シャナ会所の襲撃の報、箱館に到来。同日箱館奉行羽太正養は南部・津軽藩に増兵をうながし、秋田藩佐竹右京太夫・庄内藩酒井左衛門尉に臨時人数催促の書簡を差立てる。南部・津軽・秋田・庄内藩では変報到来とともに出兵の準備をなし、6月中には4藩の兵3000人余が箱館に到着、箱館(南部勢342、秋田勢591人)・サハラ(南部勢30人)・ウラカワ(南部勢100人)・アッケシ(南部勢130人)・ネムロ(南部勢130人)・クナシリ(南部勢380人)・松前(南部勢130人、津軽勢330人、

庄内勢318人)・江差(津軽勢300人)・ソウヤ(津軽勢230人)・シャリ(津軽勢100人)に分遣される。

5.18 スヴォストフら、エトロフ島の諸々を徘徊した後、樺太島シレトコ沖に現れる。5.21に同島オフイトマリ、5.22には同島ルウタカに上陸し、それぞれ番屋・蔵など焼払う。

5.18 異国船1隻、福山沖に現れる。19日箱館沖を過ぎ、恵山方面に䑺走、福山・箱館ともに厳戒。

5.29 スヴォストフら、リシリ島付近にて船4隻発見、西蝦夷地仕入物を積んだ伊達林右衛門手船宜幸丸(儀厚丸、善幸丸とも)を襲撃・拿捕。乗組員は本船をすて橋舟にてテシオに逃れる。

6.1 スヴォストフら、リシリ島の湊に3隻の船、官船万春丸・松前藩船禎祥丸・松前岡田屋手船誠龍丸を発見、襲撃。万春丸に搭乗の公儀役人はじめすべて逃げ去った後であった。スヴォストフらは積荷を略取し、宜幸丸以下4隻を焼却。6.5には五郎治・左兵衛を残し、大村治五平以下8人に伝馬船を与え釈放。スヴォストフらはその後、宗谷岬を迂回しオホーツクを通って帰る。

6.4 幕府、目付遠山金四郎景晋・使番小菅猪右衛門正容・村上大学義雄に、ロシア船渡来につき蝦夷地出張を命じる(この時、金四郎は左衛門、大学は監物と改名)。

6.6 若年寄堀田摂津守正敦、蝦夷地出張を命じられる。6.8大目付中川飛騨守忠英も正敦に差添い蝦夷地に赴くべき旨申渡される。

7.11 幕府使番村上監物義雄上下36人、箱館着。

7.12 幕府目付遠山左衛門景晋上下36人、箱館着。

7.26 若年寄堀田摂津守上下337人、箱館着。同日大目付中川飛騨守上下61人、その他使番・小普請方・奥役右筆ら堀田摂津守の手付一行も一同に到着。

7.27 松前章広、奥州伊達郡・上州甘楽郡・常州信太郡・同河内郡・同鹿島郡のうちに新地9000石を賜る。

8.9 堀田正敦、近蝦夷地見回りのため箱館出発、8.26福山着。これより先、羽太正養・遠山景晋が箱館より福山に移り、遅れて小菅正容・村上義雄・中川忠英・戸川安諭も福山到着。

9.12 堀田正敦以下諸有司、福山より帰帆。手分けして奥羽そのほか海岸通り要害の地を検分して江戸に帰る。

9.27 松前藩家老下国豊前季武、福山城及び版籍を幕府方へ引渡す。

10.24 幕府、納戸頭兼勘定吟味役河尻甚五郎春之・勘定吟味役村垣左太夫定行に松前奉行を命じる。同日、奉行所を箱館より福山に移し、戸川安諭・羽太正養も松前奉行と唱える様達す。

11. 3  幕府、仙台藩松平(伊達)政千代周宗に領分浦々警固と明年(文化5年)1月より、蝦夷地警固のため、出勢を命じる。12.22には、会津藩松平金之助容衆のも同様の命を発す。翌年1月から2月にかけて仙台藩兵2000人・会津藩兵1600人が各城下を出発、蝦夷地の警固につく。

11.18 松前奉行羽太安芸守正養。ロシア人エトロフ島渡来一件の取扱不行届につき、罷免、逼塞を命じられる。

12.9 幕府、ロシア船発見次第打払い、近付くものは召捕または打捨、難船漂着のものは留置いて下知を請うべき旨、万石以上海辺領分の面々に触れる。

12.22 幕府、ロシア船渡来にて出費多額につき南部藩に7000両、津軽藩に5000両貸与。

<文化5(1808)

4.6 戸川筑前守安諭、エトロフ事件の責任を問われて松前奉行罷免、寄合差控えを命じられる。

「参考」

  この年、諸藩の警備は、エトロフが仙台藩兵700人、クナシリが仙台藩兵500人、ネモロが南部藩兵100人、ホロイヅミが南部藩兵50人、箱館が仙台藩兵800人、カラフトが会津藩兵700人、シャリが会津藩兵600人、テシオ・ルルモッペ・マシケが津軽藩兵50人、熊石が津軽藩兵100人、松前が会津藩兵300人。駐屯の藩兵の中には、壊血病などのため多くの死者を出した。(シャリを警衛した津軽藩士72名殉難。

【幕府の対応と政治的影響】(『北海道史事典』参照)

○徳川将軍家の武威が損なわれた事件

・ロシアのエトロフ襲撃に際し、幕臣や警衛の津軽・南部藩兵が戦わずして引いた。

・エトロフ詰の箱館奉行支配調役下役戸田又太夫は、その責任を取り現地で自決。松前奉行  

 の羽太正養、戸川安論は、罷免、奉行所の多くの役人も処分された。

・利尻で拿捕された船には幕府御用船もあったが、搭乗の幕臣は船を捨てて逃亡。

○政治的影響

・蝦夷地とはいえ、公儀の施設が異国から襲撃された事実は、元寇以来の出来事、未曾有の国難と認識された。それを防ぎきれなかった徳川将軍家の威光・武威は大きく傷ついた。

・文化露寇事件の風聞が世上にのぼり、朝廷は幕府にその説明を求める。幕府は異例ともいえる公式に回答をした。

・この形式は先例として残り、時は過ぎ、幕末、ペリー来航をめぐる朝廷と幕府間のせめぎあいのなかで、この先例は度々持ち出され、幕府の行動を縛っていくことになる。

 文化露寇事件をめぐる朝幕間の対応は、以外にも幕末維新期の政治過程に影響を及ぼす契機ともなった。


【幕府の対応と政治的影響】(『北海道史事典』参照)

○徳川将軍家の武威が損なわれた事件

・ロシアのエトロフ襲撃に際し、幕臣や警衛の津軽・南部藩兵が戦わずして引いた。

・エトロフ詰の箱館奉行支配調役下役戸田又太夫は、その責任を取り現地で自決。松前奉行  

 の羽太正養、戸川安論は、罷免、奉行所の多くの役人も処分された。

・利尻で拿捕された船には幕府御用船もあったが、搭乗の幕臣は船を捨てて逃亡。

○政治的影響

・蝦夷地とはいえ、公儀の施設が異国から襲撃された事実は、元寇以来の出来事、未曾有の国難と認識された。それを防ぎきれなかった徳川将軍家の威光・武威は大きく傷ついた。

・文化露寇事件の風聞が世上にのぼり、朝廷は幕府にその説明を求める。幕府は異例ともいえる公式に回答をした。

・この形式は先例として残り、時は過ぎ、幕末、ペリー来航をめぐる朝廷と幕府間のせめぎあいのなかで、この先例は度々持ち出され、幕府の行動を縛っていくことになる。

 文化露寇事件をめぐる朝幕間の対応は、以外にも幕末維新期の政治過程に影響を及ぼす契機ともなった。