0―1)「箱館奉行」・・享和2(1802223日、蝦夷地奉行として新設されたが、同  

   年510日(『柳営補任』では33日、『通航一覧』付録は5117)、箱館奉行と改称、以後、文化4(1807)101024日、奉行所が、箱館から福山(松前)に移転し、松前奉行と改称した。

0-1)「支配組頭」・・支配吟味役。支配吟味役は、300俵高、御役金百両。定員3人。

0-1)「高橋三平」・・高橋守重賢(たかはししげかた)。幕臣。生没:宝暦8(1758)~天保4(1833)。寛政11(1799)蝦夷地御用を命じられる。享和2(1802)1018日箱館奉行支配吟味役となる。文化10(1813)のロシア人艦長ゴロウニンの釈放交渉では応接掛を務めた。のち、文政3(1820)38日、松前奉行となる。

0-2・4)「被□仰付」・・「被」と「仰付」の間が空いているが、「仰」などの文字の前を空けることがある。これは古文書特有の尊敬の体裁で、「欠字」という。

0-4)「卯」・・文化4丁卯年(1807)

0-5)「御目付(おめつけ)」・・江戸幕府・諸藩の職名。定員は、初め十数名~20名程に及んだが、享保17(1732)10名に定まった。若年寄に属し、旗本・御家人の監察、諸役人の勤方の査検を任とし、日常は、殿中礼法の指揮、将軍参詣・御成の供奉列の監察、評定所出座などを分掌。享保8(1723)に役高千石とされた。     退任後は、長崎奉行、佐渡奉行などの遠国奉行、小普請奉行などへ進む者が多かった。

0-5)「遠山金四郎」・・遠山景晋(かげみち。かげくにとも。)。幕臣。生没:宝暦2(1752)~天保8(1837)。通称、金四郎。文化4(1807)64日、蝦夷地出張を命じられた。この時、金四郎は左衛門と改名。箱館着は712日。寛政6(1794)学問吟味甲科筆頭で合格。目付(享和2(1802)3.13~文化9(1812)2.17)、その後、長崎奉行、同13(1816)作事奉行。数度、蝦夷地に渡り、踏査・交渉にあたった。子の景元は、名奉行と称された「遠山の金さん」。

0-6)「御使番(おつかいばん)」・・江戸幕府の職名。若年寄支配の役料500俵、役高は千石。島原の乱後は、軍事的な職務は必要なくなり、全国統治上の視察、監察を主要な役職とした。また、目付とともに、火事場の視察、報告、指揮、大名火消、定火消役の監察、考査などにあたった。定員は、元和3(1617)28名と定められたが、文化年間(1804~18)以降は、560名程度。慶応年間は110余人の人員がみられる。

0-6)「小菅猪右衛門(こすげいえもん)」・・小菅正容(まさかた)。幕臣。高1500石。使番の在任期間:寛政9(1797)正.11~文化510.24。文化4(1807)64日、蝦夷地出張を命じられた。箱館着は726日。

(1-1)「村上大学」・・村上義雄(よしかつ)。幕臣。高1065石。使番在任期間:享和2(1802)正.11~文化7(1810)7.8.目付へ。文化4(1807)64日、蝦夷地出張を命じられた。箱館着は711日。この時、大学は監物と改名。

(1-3)「彼地へ被指遣(さしつかわされ)」・・「被指遣」。「指遣」は、普通は「差遣」。派遣される。「へ」は、「ヽ」と右側のみになる場合が多い。「被」は、小さく、ひらがなの「ら」のように書く場合がある。

(1-5)「発足(はっそく・ほっそく)」・・旅立つこと。出立すること

(1-8)「大名三手江壱人宛」・・「大名三手」とあるが、箱館奉行羽太正養が派兵を要請したのは、南部藩・津軽藩・秋田藩・庄内藩の4藩。南部・津軽・秋田・庄内藩では変報到来とともに出兵の準備をなし、6月中には4藩の兵3000人余が箱館に到着、箱館(南部勢342、秋田勢591人)・サハラ(南部勢30人)・ウラカワ(南部勢100人)・アッケシ(南部勢130人)・ネムロ(南部勢130人)・クナシリ(南部勢380人)・松前(南部勢130人、津軽勢330人。    

庄内勢318人)・江差(津軽勢300人)・ソウヤ(津軽勢230人)・シャリ(津軽勢100人)に分遣される。

(1-8)「差添(さしぞい)」・・付き添うこと。かかわり合うこと。他の人を守ったり助けたりするために同伴すること。小菅、村上らは、諸藩の兵を監督した。

(1-9)「南部大膳大夫(なんぶだいぜんのだいぶ・だいぜんのかみ)」・・大名。陸奥国盛岡藩の10代藩主南部利敬(としたか)。受領名、大膳大夫。藩主在任期間:天明4(1784)7.17~文政3(1820)6.15

(2-1)「津軽越中守」・・大名。陸奥国弘前藩(津軽藩とも)の9代藩主、津軽寧親(やすちか)。受領名、出羽守、越中守。藩主在任期間は寛政3(1791)8.28~文政8(1825)4.10)。

(2-2)「発駕(はつが・ほつが)」・・駕籠で出立すること。貴人の出立をいう。

(2-5)「松平政千代」・・大名。陸奥国仙台藩9代藩主伊達周宗(ちかむね)。通称、政千代。受領名、なし(歴代藩主で唯一人「陸奥守」の受領名がない)。寛政8(1796)、父斉村(なりむら)の死により、伯父堀田正敬の補佐のもと、10歳で襲封。藩主在任期間は寛政8(1796)9.29~文化9(1812)2.7。文化9(1812)424日卒、17歳。なお、「松平」姓は、慶長13(1608)に、初代藩主政宗が賜り、陸奥守に転任していることから、以後の藩主も、「松平」の姓を名乗ることがある。

(2-6)「千勢」・・「千」は、「手」で、手勢か。手勢は、その人が直接ひきいている軍勢。

(2-7)「佐竹右京大夫(さたけうきょうのだいぶ・うきょうのかみ)」・・大名。出羽国秋田藩(別称久保田藩)9代藩主佐竹義和(よしまさ)。受領名、右京大夫。藩主在任期間は、天明5(1785)726日~文化12(1815)78日。

(2-9)「物頭(ものがしら)」・・弓組、槍組、鉄砲組などの足軽の頭。足軽大将。 

(3-3)「若年寄(わかどしより)」・・江戸幕府で老中に次ぐ要職。将軍に直属し、老中支配以外の諸役人及び旗本を統轄した。定員は、3~5人。ほかに、将軍世子付の西丸若年寄、前将軍付きの大御所付若年寄があった。6万石以下(主に1万石~3万石)の譜代大名で、奏者番、奏者番兼寺社奉行、側衆、大番頭などからの登用が多かった。

(3-3)「堀田摂津守(ほったせっつのかみ)」・・大名。近江国堅田藩主堀田正敬(まさあつ)。受領名、摂津守。仙台藩9代藩主伊達宗村の8男で、近江国堅田藩主堀田正富の養子となる。若年寄(在任期間:寛政2(1790)~天保3(1832))として財政事務を担当し、老中松平定信を補佐するとともに、『寛政重修諸家譜』編纂の総裁を務めた。のち、文政3(1820)、下野国佐野へ転封。

(3-5)「同月廿二日発駕」・・堀田の箱館着は、726日。

(3-6)「大御目付(おおおめつけ)」・・江戸幕府の職名。古くは、大名、旗本、老中以下諸役人の監察を主な任務とし、御用日に出座し、善悪を糾明すること、誓詞の文言・印形を改めること、海道筋の制札の改替などの職務が定めらていた。その後、宗門改、道中奉行が加役となった。寛文2(1662)老中支配となり、享保8(1723)足高の制が制定され、3千石に定められた。幕藩体制が安定するに伴って、大名を監視し、諸役人を糾弾する監察官としての本来の性格が次第に失われ、各藩への法令の伝達や大名の江戸城内における席次、礼法の取締りなどのあたり、式部官的な傾向が強くなった。定員は、45名だが、幕末には、10名に及んだことがある。町奉行、勘定奉行、長崎奉行、目付などを経て任ぜられる者が多く、旗本の栄職であった。

(3-6)「中川飛騨守」・・幕臣。中川忠英(ただてる)。生没:宝暦3(1753)~文政13(1830)。通称、重三郎ほか。叙任名、飛騨守。天明8(1788)目付、寛政7(1795)長崎奉行、同9(1797)勘定奉行兼関東郡代、文化3(1806)正.30~文政5(1822)6.14大目付。その後、留守居へ。

(3-8)「同月十九日発駕」・・中川の箱館着は堀田らと同じ726日。

(3-9~4-6)「当五月廿四日・・佐竹家よりも届出候よし」・・文化5(1808)5月、箱館奉行羽太正養は、ロシア船襲撃の報に接すると、ただちに奥羽諸藩へ出兵を要請、518日に箱館奉行より発せられた出兵の達書は、21日に津軽藩、22日に南部藩、25日(テキストは24日)秋田藩に、26日庄内藩に達した。諸藩は翌日ないし数日中に兵を発し、漸次箱館に到着した。その数は

    南部藩兵692人(ほかに定式人数250人)

    津軽藩兵500余人

    秋田藩兵592

    庄内藩兵319

    で総勢3000人と称された。

(3-9)「羽太安芸守(はぶとあきのかみ)」・・幕臣。羽太正養(まさやす)。生没:宝暦2(1752)~文化11(1814)。通称、弥太郎、左近、主膳、庄左衛門。叙任名、安芸守。寛政8(1796)目付、同11(1799)蝦夷地取締御用、享和2(1802)蝦夷地奉行、箱館奉行、松前奉行。文化4(1807)1118日、当夏のロシア人エトロフ島渡来一件の取扱不行届につき、松前奉行罷免、逼塞。なお、『柳営補任』では、「当夏中魯西亜人エトロフ島罷越及乱防()候節、詰合之者共平日之心掛不宜、聊之儀ニ度を失ひ立退候、国竟常々申付方不行届故ニ候処、兼々取締相整候由申聞候段不都合義、且又右之節其方箱館ヨリ申上方其外取計麁忽之仕形不調法之至、依之御役御免、小普請入逼塞被仰付、右水野出羽守殿於御宅同人被仰渡」とされている。著書に『休明光記』がある。

(4-1)「羽州(うしゅう)」・・出羽国の別称。現在の秋田県と山形県をいう。明治元年(1868)、「出羽」は、「羽後(秋田県)」と「羽前(山形県)」に分けられる。

(4-5)「城代(じょうだい)」・・城主の留守中、城を守る人。城代家老のこと。

(4-7)「奥州(おうしゅう)」・・陸奥国の別称。現在の青森県、岩手県、宮城県、福島県をいう。明治元年(1868)、陸奥(青森県)、陸中(岩手県)、陸前(宮城県)、磐城(福島県の一部)、岩代(福島県の一部)に分けられる。

(4-7)「越後(えちご)」・・越後国。現在の新潟県をいう。

(4-7)「御代官(おだいかん)」・・江戸幕府の職名。幕府の領地で、一か所大体5万石を支配し、租税を掌る役を「代官」という(10万石以上を預かるのは、「郡代」という。)。役高は、150俵高。御目見である。幕末、代官の数は、全国で41人。

    天保10年の出羽・陸奥・越後の代官所と出張陣屋の場所は、次のとおり(『日本史大辞典』)。

     国名  代官所   出張陣屋場所

陸奥  川俣    陸奥小名浜・陸奥梁川 

         桑折      ―

         塙     陸奥浅川

     出羽  柴橋    出羽寒河江・出羽幸生銅山

         尾花沢   出羽東根・出羽大石田船役所

     越後  脇野町   越後川浦

         出雲崎     ―

         水原    陸奥田嶋

(4-7)「兵糧米(ひょうろうまい)」・・将兵に給する糧食。兵糧にあてる米。

(4-8)「元〆(もとじめ)」・・代官所に置かれた代官を補佐する職の御代官元締のこと。古参の手付(小普請の御家人出身)、手代(町人・百姓出身の適任者)のうちから、御代官元締が2人おかれた。手付の場合、御抱席で50俵高、御役扶持3人扶持から。手代(町人・百姓出身)の場合、御抱席で302人扶持まで。