(5-1)「候之義」・・普通は、「候義」で助詞「之」はないのが一般的だが、「之」が挿入されている文書もある。組成はハ行四段活用動詞「候」の連体形「候」+格助詞「の」+形式名詞「義」。ほかに「候之間」「候之処」「候之時」「候之条」「候之由」「候之旨」「候之様」など。

     *「候」の活用:は(未然)・ひ(連用)・ふ(終止)・ふ(連体)・へ(已然)・へ(命令)。終止形と連体形が同じ「さふらふ」(現代仮名遣いでは「そうろう」)

     *格助詞「の」の接続:「の」は、体言と活用語の連体形に接続する。

     *形式名詞:国文法で、名詞の下位分類の一つ。松下大三郎の用語。それ自体には実質的意義が薄く連体修飾語を受けて名詞句を作る。和語では「こと・もの・あいだ・うち・とおり・とき・せい・はず・かた・ほど・よし・ふし・ところ・ゆえ」など、漢語では「件・儀(義)・体(てい)・方(ほう)・点・段・分」などがある。「事(こと)重大である」「そんなことをいうと為(ため)にならぬぞ」など、単独に用いられる場合は特に「実質名詞」として区別される。

**「形式名詞は形式的意義ばかりで実質的意義を欠く名詞である」(松下大三郎『標準日本口語法』〔1930〕)

     *連体形+「の」について、ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』には、

     <中世中頃、漢文訓読の場から、「あざむかざるの記」と書くような用法が成立する。連体形は連体格表示機能を有するから、その下にさらに連体格助詞「の」を用いることは本来あり得ないが、漢文の字面を離れても置字のあることがわかるようにとの配慮から、朱子新注学を奉ずる人々が従来不読の置字であった助字「之」を読んだところから生じたもの(小林芳規「『花を見るの記』の言い方の成立考」〔文学論藻‐一四〕)。>とある。

(5-5)「伯父(おじ)」・・父または母の兄弟。また、父または母の姉妹の夫。若年寄堀田摂津守正敬と仙台藩9代藩主松平政千代との関係は、正敬は、政千代の父(仙台藩8代藩主斉村)の弟にあたり、政千代にとって中国の序列に従えば、「叔父」になる。

*中国では、兄弟の序列は、「伯・仲・叔・李」の順。

**「伯仲(はくちゆう)」・・伯・仲・叔・季のうちの伯仲。一番上の兄と次の兄の間にある差という意味で、ほとんど変わらないこと。優劣がつけにくいこと両者匹敵する状態をいう。

傅毅之於班固、伯仲之閒耳。[傅毅(ふき)の班固(はんこ)に於ける、伯仲の閒なるのみ。]

〔(後漢の章帝のときに宮廷に仕えていた)傳毅と班固においては、(その才に)優劣はありませんでした。]

*<くずし字>「伯父」の「伯」の旁の「白」・・極端に崩れると、左右の縦画が「ヽ(点)」になる場合がある。

(5-5)「合力(ごうりき)」・・力を貸して助けること。金銭や物品を恵み与えること。

(6-1)「調役下役(しらべやくしたやく)・・奉行所の役職名。303人扶持。役扶持3人扶持。役金30両。なお、当時の松前奉行所の体制は、奉行→吟味役→吟味役格→調役→調役並→調役下役元締→調役下役→同心。

(6-1)「庵原直市」・・「直一」とも。(『休明光記附録別巻三』)。また、慶応三年の『履歴明細短冊』でも、箱館奉行支配向調役下役(定役)庵原勇三郎の祖父として、「庵原直一」の名前がある。

     *「庵原」の読み(『人名漢字辞典』)

テキスト ボックス: 姓	読み方
庵原	     あいはら
庵原	あまはら
庵原	あんばら
庵原	いおはら
庵原	いおばら
庵原	いおりはら
庵原	いはら
庵原	いばら

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


(6-3)「寺西十次郎(てらにしじゅうじろう)」・・「重次郎」とも。寺西重次郎封元(たかもと)。幕臣。禄高705人扶持。徒組頭から陸奥国代官に昇進(『江戸幕府旗本人名辞典』)。寛政4(1792)塙代官として赴任。人口増のため、妊産婦登録制、乳幼児の保護と指導、衣服の簡素化、農村振興策、商工業振興策など多岐にわたる業績を上げた(『角川日本地名辞典』)。また、『国史大辞典』では、寺西封元を寛政の改革から文化期にかけての名代官の一人に挙げている。

(6-3)「花輪」・・「塙(はなわ)」か。陸奥国白川郡のうち。現福島県東白川郡塙町。享保14((1729)から幕府領として塙代官所が支配。塙代官所が所管役所(出張陣屋)を置いたのは、竹貫、小名浜、浅川。

(6-5)「郡中(ぐんちゅう)」・・小名浜は、陸奥国磐前(いわさき)郡に属しており、磐前郡を含めた小名浜陣屋の管轄地をさすか。

(6-4)「男名濱(おなはま)」・・「小名浜(おなはま)」か。陸奥国盤前(いわさき)郡のうち。現福島県いわき市小名浜。米野村、中島村、中町村、西町村の4か村の総称。寛文10((1670)河村瑞賢によって東廻り海運が創始されると、小名浜港は重要な寄港地となる。

(6-8)「御殿(ごてん)」・・代官は、勘定奉行の支配下にあることから、勘定奉行、若年寄、老中らの幕閣が勤務する江戸城さすか。

(6-8)「実音」・・「実音也」は朱書きとなっており、7頁の朱書きに続いている。

(7-3)「治定(じじょう)」・・決定的であること。決まること。定まること。

(7-4)「朱(しゅ)」・・赤色。赤い色のもの。

(7-7)「別而(べっして)」・・副詞。格別であるさま。特に。とりわけ。

(7-7)「如是(かくのごとし=またはその活用形)」・・漢文訓読の流れで、「かくのごとし」(またはその活用計)と読む。「如斯」、「如此」も「かくのごとし」(またはその活用)と訓じる。

(7-8~9)「松前若狭守(まつまえわかさのかみ)」・・大名。松前藩9代藩主松前章広(あきひろ)。藩主在任期間は寛政4(1792)10.28~天保4(1833)7.25。但、文化4(1807)3.22~文政4(1821)12.7は、陸奥国梁川(現福島県伊達市梁川町)在所。

(7-9)「屋鋪(やしき)」・・江戸下谷新寺町(現東京都台東区小島1丁目)所在の松前藩上屋敷をさす。

(8-2)「土井大炊頭(どいおおいのかみ)」・・大名。老中。下総国古河(こが)藩藩主土井利厚(としあつ)。受領名、大炊頭。藩主在任期間:安永6(1779)12.20~文政5(1822)7.8。老中在任期間:享和2(1803)10.19~文政5(1822)7.8

(8-5)「東奥蝦」・・「夷」が脱か。「東奥蝦夷地」のこと。吉田東伍著『大日本地名辞書』では、幌泉郡の項で「往古、此地(幌泉)を以て、口蝦夷と奥蝦夷とを分かち、以北奥蝦夷の土人を以て」と、幌泉以東を「奥蝦夷」と称した。

(8-5)「恵登呂府(ゑとろふ)」・・ヱトロフ島。漢字表記地名「択捉島」。『大日本地名辞書』所収の『道志(北海道志)』によれば、「択捉島は択捉(エトロフ)、振別(フレベツ)、紗那(シャナ)、蘂取(シベトロ)の四郡を合す。周回凡二百八十里。土民は多く西岸に居り、捕魚を業とす。東岸は懸崖道を絶し、舟を寄する能はず。」とあり、また、羽太正養著の『休明光記』には、「近藤重蔵、山田鯉兵衛、寛政12年炮(1800)を以てエトロフへ巡視し、初めて開拓の事行はる。」とある。

(8-5)「ナイホ」・・「ナイボ」とも。択捉郡の「内保(ないぼ)」。吉田東伍著『大日本地名辞書』によれば、「今、内保村と称す。萌消湾の北方なる広湾に臨み、錨地を有し、本島(択捉島)西南部の首邑に推さる。」とあり、『休明光記』では、「東蝦夷地ヱトロフ嶋シヤナ会所より三十里程南の方」としている。

     「内保」は、老門(おいと)の西に位置し、北はオホーツク海。中央部で北にアトサノボリ山(阿登佐岳、一二〇五・八メートル)が半島状に突き出ており、半島の付根にキモンマ沼、その南に択捉島中心部の高山から流れでるトキテ川・ベンケベツ川などが流入する内保沼があり、同沼からは内保川が流出してオホーツク海の内保湾に注ぐ。

(8-8)「箱館奉行支配向之もの」・・『休明光記』によれば、この時(425日)、紗那の会所からナイホへ見分に出かけたのは、調役下役関谷茂八郎、同心羽生宗次郎、同小嶋官蔵、同粕谷與七、同梅澤富右衛門と南部、津軽鉄炮方四人、足軽二十六七人。彼らは、大筒、小筒の鉄炮用意し、図合船二艘に乗組、出帆し、その後、シリムイ(野宿)、フウレベツ(「振別」)を経て、ホロホロという処まで行ったとき、調役下役児玉嘉内、ナイボ番人一人、蝦夷人六人らと出会い、ナイボの情報を得たことから、シヤナへ引き返した(426日夜着)。

(8-9)「会所」・・江戸期、松前藩の場所請負人が場所経営の拠点として、現地に設けたのが、「運上家(屋)」であったが、第一次幕領期の東蝦夷地では、幕府の直営となったことから、「運上家)」の名称が「会所」に改められ、その後、松前藩に復領後も「会所」の名称は、そのまま使われた。一方、西蝦夷地では、「運上家」の名称がそのまま使われた。

(8-9)「しやな」・・シヤナ。漢字表記地名「紗那」。『大日本地名辞書』には、「紗那村といひ、島の中部、北西岸に在り、良港を有するを以て、全島の首邑たり」、「昔年、紗那会所の在りし地を、ポンムイといふ。文化中、魯人の来寇せし所なり」とある。

     「紗那」は、北はオホーツク海に臨み、紗那湾に紗那港がある。紗那港からイカバノツ岬までは北に大きく突き出しており、北散布(きたちりつぷ)山(一五六一・一メートル)・散布山(一五八七・三メートル)などの高山がある。紗那湾には紗那川・ナヨカ川などが注いでいる。

(9-1.2)「向勤番之もの」・・「勤番向(きんばんむき)之もの」。『休明光記』によれば、紗那会所詰め(ヱトロフ掛り)の幕吏等は、「吟味役格菊池惣内(箱館へ行き不在)、(調役)下役元〆戸田又太夫、(調役)下役関谷茂八郎、()児玉嘉内、其外同心共、在住御家人並南部津軽勤番足軽等詰合たり」となっている。

(9-7)「怪敷舟(あやしきふね)」・・『新撰北海道史』によれば、この船は、露米商会の雇船で、アラスカ・広東間の毛皮貿易に従事し、津軽海峡を通ってペテルパウロフスクに向かった米国船「イクリプス号」で、本露寇事件とは関係がないとしている。

(9-8)「乗寄(のりより)」・・「乗寄る」の連用形。船で近づくこと。異国船打払令(1825文政8(18252月、江戸幕府が清(しん)とオランダ以外の外国船をすべて撃退することを諸大名に命じた法令)に、「異国船乗寄(のりより)候を見受候はば、其(その)所に有合(ありあわせ)候人夫を以(もっ)て有無に及ばず一図に打払・・」とあり、「乗寄(のりより)候」の文言が見える。

(9-9)「無程(ほどなく)」・・「無程」と返読で、「程無く=まもなく」。

(9-9)「西ノ方しすん(ゑさん)崎」・・『休明光記』では、「ヱサン崎」としている。そうだとすると、方角は、「西ノ方」ではなく、「東ノ方」になるか。なお、『新撰北海道史』によれば、この船(「イクリプス号」)は、「519日午刻、箱館南々西に現れ、次第に近附き、夕刻、汐首岬(現函館市戸井区)の沖に懸り、間もなく東に向かって帆影を没したとある。」とある。