10
-2)「別条」・・変った事。変事。

10-2)「世上(せじょう)・・世の中。世間。

10-3)「彼是(あれこれ・かれこれ・それこれ)」・・数多くの人や事物を指し示す。あれやこれや。

10-3)「風聞(ふうぶん)」・・うわさ。風のたより。

10-4)「向々(むきむき)」・・諸方面。思い思いであること。

10-4)「無急度(きっとなく)」・・「急度」に同じ。きちんと。間違いなく。

     *「且形()部卿様御事、御隠居御慎被仰出候。夫に付ては外々にも御座候様子に候へ共、未不承候、且又 御城無急度御堅めも有之候由、此御方へも品に寄御人数被差越候様心得」(川合小梅著『小梅日記 1 幕末・明治を紀州に生きる』 東洋文庫256所収 1974

     *「一体大身之輩ハ心掛次第大部之書一二部ズツ茂蔵板致シ普ク後来ニモ相伝候様有レ之度事二候。此段十万石以上之面々江無急度可レ被二相達一候事。六月二十日。七月被二仰出」(松崎慊堂著『 慊堂日暦』東洋文庫420所収 1983

     *「きっと」は、「きと(すばやくの意)」の促音便。「急度」は当て字。

10-6)「南部」・・盛岡藩の藩主家の姓。当時の藩主:南部大膳太夫利敬(天明4.7.17~文政3.6.15)。領地:陸奥国北、三戸(以上青森県)、二戸、九戸、閉伊、岩手、志和、稗貫、和賀(以上岩手県)、鹿角(秋田県)の10郡。当時の石高10万石(文化520万石)。外様中藩(後期から大藩)。居城:盛岡市内丸。

10-6)「津軽」・・弘前藩の藩主家の姓。当時の藩主:津軽越中守(当初出羽守)寧親(寛政3.8.28~文政8.4.10)。領地:陸奥国津軽郡。当時の石高:7万石(文化510万石)。外様小藩(後期中藩)。居城:青森県弘前市下白銀町。

10-6)<くずし字>「書写」の「書」・・・脚部の「日」が省略されることがある。

11-1・6)<くずし字>「趣」・・何とも「おもむき」のあるくずし字。

11-1)「騎(き)」・・接尾語。馬に乗った人、また馬に乗ること。江戸時代、武士の身分の称の一つで、主君から知行を分与される上士をいう。

     また、『地方凡例録(寛政6年(1794))』には、「今の一騎は、知行高二百石以上。侍二人、馬口取一人、鎗持一人、草履取一人、自分とも六人也」とある。

11-4)<くずし字>「目付役」の「目」・・3~5画の横画が省略される場合がある。

11-4)「小奉行(こぶぎょう)」・・奉行の下で、これを補佐する職名。『休明光記』の「南部大膳大夫領分海辺付場所々幷箱館蝦夷地松前表備人数武器員数」中に、物頭、目付、歩武者の役職名とともに、「小奉行」の職名が見える。

11-9)「浦(うら)」・・海や湖の陸地に入りこんだ所。入江。海辺の村里。

12-4)「五月晦日」・・「晦日(みそか)」は、暦の月の初めから30番目の日、または月の末日。旧暦では、月の日数が、大の月(30日)と小の月(29日)があり、本書の「文化四年(1807)五月」は、大の月となっており、晦日は「30日」である。反対に、月の第一の日は、「朔日(さくじつ、ついたち)」である。

12-6)「タナリ島」・・クナシリ島か。『休明光記』によると、当時、箱館奉行支配調役下役元〆中村小市郎(当時シャリ会所詰合)は、クナシリ島へ参り、居合わせており、また、向井勘介(助とも)は、クナシリ詰の箱館奉行支配調役下役であったことから、「タナリ島」は、「クナシリ島」と比定できる。

12-6)「同所会」・・「会所」の「所」が脱で、「同所会所」か。または、「所」と「会」が逆で、「同会所」か。「会所」は、クナシリ島の泊(トマリ)に置かれた会所のこと。

12-7)「中村小市郎」・・当時、箱館奉行(後松前奉行に改称)支配調役下役元〆。本事件発生の際、クナシリ島に居合せた。しかし、その際の対応が悪く、後日(1215日)、(老中)牧野備前守の御下知にて、(松前奉行)村垣定行の宅に於て、左の通申渡しがあった。(『休明光記』)

        松前奉行支配調役下役元〆  中村 小市郎

      其方儀夏クナシリ島へ参り合居候節、ルシア之方に大筒の音相聞、異国船寄来候趣に候処、右場所には向井勘助壱人詰合罷在候を取急不心付、自分持場江罷越とは乍申、右場所引取候段不行届之儀に付、急度可叱置旨、牧野備前守殿被仰渡候。   

12-7)「向井勘介」・・「勘助」とも。当時、クナシリ島詰合の箱館奉行支配調役下役。本件事件発生の際、クナシリ島の防御の手配などに功績があり、老中から以下のとおり、お誉があった。(『休明光記』)

      魯西亜船相見候節防方手配之次第委細老中衆へ申達候処、心掛宜一段之事        

      に候旨被申候、此段申聞誉置可被申事。(箱館奉行より、名代の者に対して申渡があった。)

12-9)「ヘシヨコタン」・・不詳。記述の内容は、「ナイホ」への襲撃事件であることから、「ナイホ」のことか。

132.3)「ゑとろふ之会所」・・ヱトロフ島の会所は、シヤナ(紗那)に置かれていた。

13-1)「生捕(いけどり)」・・「いけ」は生かしておく意の「いける」の連用形から。

つかまえること。捕虜にすること。

13-3)「浪懸(なみがかり)」・・船を碇泊させる意の「澗懸(まがかり)」の誤りか。

13-4)「御番所(ごばんしょ)」・・番人の詰め所。江戸時代、交通の要所などに設けられ、監視、徴税などを行った所。ここでは、クナシリ島に置かれた箱館奉行所の役人の詰め所。「御(ご)」は、番所を敬って言う語。

13-5)「相囲(あいかこみ)」・・連用形。「相」は、接頭語で、動詞についた場合は、語調を整え、また、意味を強める。「囲う」は、中にとりこめて周囲をふさぐ。害から守ってやる。助けまもる。

13-8)「唐太島一件」・・前年(文化3年)に起こった樺太オフイトマリやクシュンコタンへロシアによる襲撃事件をさすか。

14-1)「出来兼(できかね)」・・「かねる」は、補助動詞として用いられる場合は、動詞の連用形について、「~し続けることができない。~しようとしてもできない。」と否定のために用いられる。

14-2)「難計(はかりがたき)」・・「難計」と返読。「計る」は、思いめぐらす。配慮する。「難い」は、難しい。容易でない。困難だ。「計りがたい」は、思いめぐらすことができない。考慮できない。

14-2)「増人数(ましにんずう)」・・「増し」は、「増す」の連用形の名詞化した形で、増すこと。「増人数」は、「増員」の意。箱館奉行は、518日、盛岡、弘前両藩に増兵を、秋田、庄内両藩には援兵を命じた。これを受け、弘前藩は、523日、692人を派遣。秋田藩は、525396人、同26222人計618人が秋田出発。盛岡藩は、65日から806人が盛岡出発。庄内藩は、526319人を派遣。(『新国史大年表』日置英剛編著 図書刊行会)

なお、『新北海道史』では、各藩の人数は、南部藩兵692人(ほかに定式人数250人)、津軽藩兵500余人、秋田藩兵591人、庄内藩兵319人としている。

14-4)「申越(もうしこし)」・・連用形。手紙や使いなどで、言ってよこす。

14-4)「在所(ざいしょ)」・・江戸時代、大名の政庁の所在地、または、旗本や給人の知行地をいう。

14-5)<くずし字>「以上」・・書簡文の末尾を、「以上」という語で結ぶことを「以上止め」という。かなりくずされて、連綿体になる場合がある。

14-6)「南部大膳大夫」・・本御届書の差出人「南部大膳大夫」となっているが、その前の御届書(P10P12)も同じ「南部大膳大夫」となっており、差出月日も、同じ「五月晦日」になっている。同日の日付で、かつ、同じ大名から、幕府への御届出書二通が出されるのが、本御届書の差出人は、「津軽越中守」か。

14―8)「私(わたくし)」・・自分自身に関すること。一人称の代名詞。男女ともに丁寧な言い方として、多く目上の人に対するときやあらたまった場面などで用いられる。ここでは、津軽越中守か。

14-8)「領分(りょうぶん)」・・領有する分。所有する地域。領地。

14-8)「北郡(きたぐん・きたごおり)」・・陸奥国にあった郡。江戸期は南部藩領。現在の下北郡、上北郡、むつ市、十和田市、三沢市にあたる地域。中世以来、南部氏領(盛岡藩領)に属し、正式に北郡という名で呼ばれたのは、江戸時代初期。津軽郡および三戸郡(津軽藩領)に接していた。。明治11(1876)上北・下北の二郡に分かれたため「北郡」は消滅した。津軽越中守が幕府に対する御届書で、南部藩領の北郡について、「私領分」というのは、矛盾がある。

14-8)「田名部(たなぶ)」・・現青森県むつ市の地名。北郡のうち。江戸時代、盛岡藩領。寛文13年(延宝元年 (1673))、盛岡藩の田名部代官所が設置され、田名部通34ケ村を統治し、下北半島の行政上の中心地。このため、下北半島一円を田名部と総称することもあった。

14-8)「佐久浦」・・「佐久」は「佐井」か。「佐井」は、現青森県下北郡佐井村。盛岡藩領の北郡田名部通に属す。下北半島西北端、津軽海峡に注ぐ大佐井川と古佐井川の河辺に位置。享和3(1803)、箱館への渡航地として幕府から指定された。また、寛政5(1793)、黒岩に船遠見番所、文化5(1808)東村に大砲3門、矢越に同8門設置された。なお、佐井は、ヒバの産地、積出港としても栄えた。

14-9)「巳ノ下刻(みのげこく)」・・「下刻」とは、一刻(2時間)を、上、中、下刻に三分した最後の時。したがって、「巳の下刻」は、午前11時30分頃をいう。

14-9)「異国船一艘」・・アラスカ・広東間の毛皮貿易に従事し、津軽海峡を通ってペテルパブロフスクに向かった米国船「イクリプス号」か。