20-1)<くずし字>「行方(ゆくえ)」・・「行」のくずし字は「り」のようになる場合がある。

   *なお、「行方」のように、「方」を「え」と読むのは当て字。「行衛」ともあてる。

    ほかに、「方」の読みに、「何方(どちら)」、「彼方(かなた)」「貴方(あなた)」など、「ら」「た」などを当てる。

20-1)<くずし字>「仍之(これによりて・これによって・これにより)」・・「仍」はきまり字。

     *<雑学>「仍(ジョウ)」解字は、人+乃。音符の「乃」は胎児の象形で、人と胎児と世代が重なる様から、「かさなる」「よる」の意味を表す。

     *「仍孫(じょうそん)」・・自分から八世後の世代の呼び名。

       本人・子・孫・曽孫・玄孫・来孫(耳孫)・昆孫・仍孫・雲孫の順。

      **玄孫以下を「鶴の子」ともいい、千年の寿命を保つといわれる鶴のひなに托して長寿を祝い、期する気持で用いられる。

20-3)「後詰(ごづめ・うしろづめ)」・・先陣の交替補充のため、後ろに控えている軍勢。予備軍。援軍。

20-4)「軍船(ぐんせん・いくさぶね)」・・水上の戦に用いる船。戦争に使用する船。

20-5)「兵船(へいせん)」・・戦争に使用する船。兵艦。

20-6)「もつて」の「つ」・・①「つ」「ツ」の字形の起源は諸説があって定めがたい。その原字には、「川」「州」「津」「闘」などがあげられているが、古代朝鮮半島における用字を参考にした「州」の説が有力である。」(『ジャパンナレッジ版本国語大辞典』)②平仮名の「つ」および片仮名の「ツ」は「川」または「州」からできたものかと考えられるが、未詳。(『ジャパンナレッジ版日本百科全書(ニッポニカ』)

     *「川」は、漢音・呉音とも「セン」。訓では「かわ」。万葉仮名で「ツ」と音に用いられているが、漢・呉・唐のいづれの音にも属さない。「州」の呉音「ス」が「ツ」に近いか。

20-8)「天満舟(てんまぶね)」・・伝馬船。橋船。はしけ。本船に搭載し、岸との連絡や荷物の積み下ろしに使用する木造の小船。

20-9)「宛(ずつ)」・・「宛」を「あて」と読めば割当てること、「ずつ」と読めば一定量の割り当てを示す副助詞。本来の用字「充」の異体字が「宛」と似ているため、中世以降混用された。(『漢辞海』)

21-1)「飛道具(とびどうぐ)」・・遠くから飛ばして敵を撃つ武器。鉄砲、弓矢の類。

21-1)「石火矢(いしびや)」・・戦国末期に西洋から伝来した大砲の呼び名。

21-3)「人数働(にんじゅばたらき)」・・軍勢を人員を手配し、配置すること。

21-4)「かね」・・兼ね。「ね」は、変体仮名の「年」。「兼(か)ぬ」の連用形。補助動詞として用いられる場合、動詞の連用形について、「~し続けることができない」、「~しようとしてできない」と、否定の意をあらわす。

22-1)「戸田久大夫」・・戸田又太夫。本事件当時は、ヱトロフ島紗那会所詰めの箱館奉行支配調役下役元〆。八十俵三人扶持、役金拾両、在勤年数御手当金二十両、雑用金五十五両。なお、戸田又太夫に関しては、「ゑとろふ嶋へ魯西亜人渡来候節、会所を明退、自殺候に付、御宛行並屋敷上候」となり、「又太夫が悴、後に松前奉行所同心に御抱入ありけるよし聞へぬ。」と『休明光記』にある。

     また、『写真集 懐かしの千島』(写真集懐かしの千島編纂委員会編 国書刊行会 1981)には、「戸田亦太夫藤原常保の墓」なる写真が掲載されており、「戸田亦太夫の男亦五郎本島に来り石碑を建てしものなりという」と説明がある。

22―1)「縁類(えんるい)」・・縁者。姻戚。親類。

22-5)「ナイホ番所」・・ヱトロフ島のナイホに、場所請負人の番人らが、漁期に出張して住み込んだ番屋。

23-3)「両家」・・南部、津軽両藩のこと。『休明光記』には、「ヱトロフ掛りは、吟味役格菊池惣内、下役元〆戸田又太夫、下役關谷茂八郎、児玉嘉内、其外同心共、在住御家人并南部津軽勤番士足軽等詰合たり」とある。また、日置英剛編著の『新国史大年表』には、「盛岡藩南部家・弘前藩津軽家の藩士300人が、ヱトロフ島紗那の会所を守った」とある。

23-3)「相妨」・・「相防」の誤りか。

23-7)「ルベツ」・・日本語表記地名「留別」。留別村は、択捉島のほぼ中央部に位置し、西は振別村、東は紗那郡有萌村、北はオホーツク海に臨み、留別川の河口に留別港がある。南は太平洋に面し、単冠湾に年萌港がある。寛政10(1798)幕府蝦夷地調査の別働隊近藤重蔵一行が「ベレタルヘ」へ着き、タンネモイに「大日本恵登呂府」の標柱を建てた(木村「蝦夷日記」)。翌年エトロフ島が幕府直轄地となり、1800年にエトロフ場所が設定されると、ヲイトに会所が置かれた。会所は享和3(1803)までに現紗那村のシャナに移されたが、文化4(1807)にロシア船によりナイボの番屋とシャナ会所が襲撃され、老門湾のフウレベツに移された。

24-9)「自害(しがい)」・・自分自らを傷つけて死ぬこと。自殺。『休明光記』によると、戸田又太夫は、「五月朔日、アリムイ(有萌)とシベツとの間において、一同休居している間に、脇差で咽を突きたて、うつぶしになりはや事きれたり。」とある。