30-1)「切者」・・切れ物。「優れもの」の意か。すぐれたもの。最良の品。一級品。

としている。

30-3)「何事」・・「事」は、「古」+「又」で、『漢語林』は「事」の古字としている。

30-4)<漢文訓読の話>「無御座候」

   原文(漢文では白文という)・・「無御座候」

   訓読文1(原文+句読点+返り点)・・「無御座候。」

   訓読文2(原文+句読点+返り点・濁点・半濁点+送り仮名)・・

「無ク御座候ウ。」

   書き下し文・・「御座無く候う。」

*古文書では、漢文の白文のような文章が多い。

*例会の朗読では、④を行っている。

30-9)「珍物(ちんぶつ)」・・珍しい物。珍品。具体的には、山丹交易による軽物といわれる品物で、唐物(蝦夷錦、樺太玉)、クマの毛皮と胆のう、ラッコなどの毛皮、オットセイの睾丸、ワシの羽(真羽)など。

30-9)「替事(かえごと)」・・互いに取り換えること。交換。

31-1)「御法度(ごはっと)」・・近世において、法令によって禁じられている行為や、使用を禁止されている品物。また、一般に禁じられていることを指す。代表的なものに「武家諸法度」、「禁中並公家諸法度」、「寺院法度」、「諸士法度」などがある。

31-2)「御城書」・・「御掟書(おきてがき・ごじょうしょ)」、「御定書(おさだめがき・ごじょうしょ)」「御諚書(ごじょうしょ)」。公布法の一形式。命令書、仰せ書。

31-3)「さ候得ば」・・書簡などでの用語。話を本題に導入する場合などに、文頭に置いて用いる。さて。

31-4)「候候而も」・・「候」がふたつあるが、一つは衍字(えんじ)か。

     *衍字・・「衍」は「あまる」の意。誤って語句の中に入った不要な文字。脱字の逆。誤入の文は衍文。

     *「衍」・・解字は「行」+「水」。「行」はみちの象形。水が道にあふれひろがるの意味をあらわす。

31-4)「少分(しょうぶん)」・・少量。少数。わずかであること。

31-5)「一ケ月三ケ日(いっかげつ、さんがにち)」・・一ケ月のうち三日間の意か。

31-6)「日並(ひなみ)」・・毎日すること。毎日。日ごと。

32-2)「国替(くにがえ)」・・大名の領地を移しかえること。徳川幕府は、大名の統制策として行った。移封。転封とも。

32-4)「当四月帰国」・・文化年間当時、外様大名の多くは、隔年(一年交代)の参勤交代となっており、南部(盛岡)藩は、表(子、寅、辰、午、申、戌)の年の四月参府、翌年の三月入部(江戸から国許へ帰ること。帰国、御暇)を通例としていた。その後、文政期には、半年交代となり、九月参府、三月入部(御暇、帰国)になる。

32-5)「御暇(おいとま)」・・大名や幕臣の場合は、将軍の前を去ること。辞去すること。帰ること。

32-6)「上使(じょうし)」・・江戸幕府および藩などで主家から上意を伝えるために家臣などへ派遣される御使(使者)をいい、その名称は室町幕府に起源をもつという。江戸幕府では、老中・奏者番・使番・小性あるいは高家・側衆などが、時に応じてその役目を勤めた。『柳営秘鑑』によって一例を示すと、老中は三家・国持大名の参府・帰国あるいは三家の病気のとき、奏者番は准国持大名の参府・帰国あるいは国持大名の病気のとき、使番は松平出雲守(富山藩主)・同大和守(白河藩主)・同左兵衛督(明石藩主)の三家の参国・帰国あるいは松平肥後守(会津藩主)・同讃岐守(高松藩主)・同下総守(桑名藩主)・同但馬守(高須藩主)・同左京大夫(西条藩主)の五家の参府のとき、また小性は老中の病気のとき、それぞれ上使に立つ定めであったという。

32-7)「是非々々(ぜひぜひ)」・・「是非」の次の記号は、繰り返し記号。是非(必ず、きっと)の意味を強調している。

32-7)「裁許(さいきょ)」・・役所などで下から上申された事項を審査して許可すること。

32-9)「代り合(かわりあい)」・・順番に代わること。交替すること。

32-933-1)「当四月出府」・・津軽(弘前)藩の参勤交代のパターンは、南部(盛岡)藩と入れ替わる形で、裏(丑、卯、巳、未、酉、亥)の年の四月参府、翌年三月入部(御暇、帰国)となっていた。その後、文政期には、南部藩と同様、半年交代で、裏の年九月参府、翌年三月入部となっていた。

33-2)「拝領物(はいりょうもの)」・・たまわり物。いただき物。

33-4)「御使番(おつかいばん)」・・江戸幕府の職名。はじめは使役とよばれた。戦時中は伝令、指示、戦功の監察、敵方への使者などを任務とし、武功・器量ともにすぐれた者がえらばれた。島原の乱後は軍事的職務は必要なくなり、全国統治上の視察・監察を主要な役職とした。二条・大坂・駿府・甲府城など幕府直轄の要地の目付、両番とともに藩領地の視察、幼少の大名の後見を行う国目付、将軍の代替りごとの諸国の巡察、城郭の受取・引渡しの際の監理などに任ぜられ、また目付役とともに火事場の視察・報告・指揮、大名火消・定火消役の監察・考課などにあたった。若年寄支配。役料五百俵、役高は千石高。慶応三年(一八六七)には役金五百両を与えられ、千石以上はその半額が給せられた。定員は元和三年(一六一七)、二十八名と定められたが、文化年間(一八〇四―一八)以降に五、六十名程度、慶応年間に百十余人の人員がみられる。

33-4)「村上大学」・・ロシアの蝦夷地襲撃事件当時、使番で、文化4(1807)64日、使番小菅猪右衛門、目付遠山金四郎景晋(かげみち)とともに、蝦夷地出張を命じられた。

33-4)「安藤治右衛門(あんどうじうえもん)」・・幕臣(旗本)。家禄2450石。御使番には、文化4卯年(1807)正月11日、西丸御書院番水野石見守組より就任、文化6巳年1111日死去。(『柳営補任』)。なお、蝦夷地出張を命じられた使番は、小菅猪右衛門で、安藤ではない。

33-5)「御目付(おめつけ)」・・江戸幕府の職名。定員は、初め十数名~二十名程に及んだが、享保十七年(一七三二)に十名に定まった。若年寄に属し、旗本・御家人の監察、諸役人の勤方の査検を任とし、日常は、殿中礼法の指揮、将軍参詣・御成の供奉列の監察、評定所出座などを分掌。享保八年(一七二三)に役高千石とされた。

33-5)「遠山金四郎(とおやまきんしろう)」・・遠山景晋(かげみち)。幕臣。通称、金四郎。文化四年(一八〇七)六月四日、蝦夷地出張を命じられた。この時、金四郎は左衛門と改名。目付。その後、長崎奉行、)作事奉行。数度、蝦夷地に渡り、踏査・交渉にあたった。子の景元は、町奉行の「遠山の金さん」。

33-7)「望人(のぞみひと)」・・あることを希望する人。ある職業や地位につくことを希望する人。  

33-8)「高達(こうたつ)」・・「公達(こうたつ)」か。「公達」は、政府や官庁が言い渡すこと。また、そのもの。おおやけからの通達。