◎本テキストの概要: 本書は、北海道大学附属図書館所蔵の『蝦夷嶋巡行記』(旧記040)の影印本であり、寛政8年(1796)と同9年(1797)の二度のイギリス船の来航により、松前藩の北方警備に危惧を抱いた江戸幕府は、寛政10年(1798)、大規模な蝦夷地調査隊を派遣したが、そのうちの西蝦夷地の調査に随行した筆者の公暇斎蔵(身分不詳)が、5月から8月にわたり、松前より宗谷まで、帰路は石狩川、ユウフツ経由で松前まで巡見し、翌寛政11年(17999月に『蝦夷嶋巡行記』として取りまとめた紀行記である。

【イギリス船の来航と幕府の蝦夷地調査】

【寛政8年-1回目の来航】

 寛政8年(17968月、一艘のイギリス船が、海図作成のため、東蝦夷地内浦湾のアブタ(虻田)沖に姿を現した。

 18世紀後半、新興のロシアや世界に先駆けて産業革命を成し遂げたイギリスなどの西洋列強、さらに1776年(安永5)に独立を果たしたアメリカによる太平洋海域への進出が盛んになる中、毛皮交易などのため重要な広東、上海、厦門とアラスカ、北アメリカ西海岸を結ぶ海路上に位置するカラフト(唐太)東海岸や蝦夷地周辺の海域は、これまで十分な測量がなされていない海図の空白区域となっていた。

 イギリスの海軍士官ジェームス・クック(キャプテン・クック)隊による第3次探検(1776(安永5)~1779(安永8)によって、ハワイ諸島、北アメリカ西海岸、アラスカ、ベーリング海域の調査はなされたが、千島列島と蝦夷地の沿岸海域については、風と濃霧のため十分な測量がなされず、また、天明7(1787)のフランスのラ・ペルーズ探検隊の調査によっても、対馬海峡から日本海(能登岬まで)を測量しながら北上し、さらに沿海州沿岸とカラフト西岸を測量(間宮海峡を発見できず)し、宗谷海峡(この時、ラ・ペルーズ海峡と命名)を通過してカムチャッカに至ったが、カラフト東岸や蝦夷地周辺の海域は、依然として空白のまま残された。

 このため、当時東南アジアで競合するオランダに第4次英蘭戦争(17801784)で勝利し、南太平洋の制海権を握ったイギリスは、1795年(寛政7)、海軍中佐ウイリアム・ロバート・ブロートンに、東シナ海沿いの琉球から日本列島、朝鮮半島を経て、未知の蝦夷地、サハリンに至る正確な海図の作製を命じた。

寛政8年(1796814日、東北地方を北上してきたブロートンの指揮するプロビデンス号(430トン、乗員150人)は、東蝦夷地内浦湾に入り、アブタ沖に停泊、その後、17日にヱトモ(絵鞆)に移動、停泊をした。

この時東蝦夷地巡見中の家老松前左膳広政からの急報を受けた松前藩は、寛政4年(1792)のロシア遣日使節アダム・ラックスマン一行の応接御用を務めた藩士工藤平右衛門、同米田右衛門及び医師加藤肩吾を通弁見届として、藩士高橋壮四郎を付添いとして派遣、825日に、プロビデンス号を訪れ船内の見分をするとともに、翌26日再び訪問し、松前藩の地図を贈り、その返礼としてブロートンからキャプテン・クックの航跡を図示した世界地図を贈られた。その後、プロビデンス号は、ヱトモ周辺を測量、内浦湾を噴火湾(Volcano-bay)と名付け、830日、死亡した水兵をオルドソン島と名付けた大黒島に埋葬し、出帆、千島列島を経て中国(厦門)へ向かった。

 この間、隠居松前道広(前8代藩主)が鷹狩と称して826日、藩兵280人を率いて亀田まで出兵し、引き返したほか、828日には、津軽藩が出兵準備を行っている。

 幕府は、9月、松前藩から報告を受け、109日、工藤平右衛門、加藤肩吾を、勘定奉行久世丹後守邸において尋問するとともに、老中太田備中守資愛、勘定奉行間宮筑前守信好、目付村上大学を松前御用掛に任じ(間もなく、太田備中守は戸田采女正氏教に、村上大学は新見長門守にそれぞれ交代)、さらに、勘定金子助三郎、普請役宮田左右吉、徒目付古屋平左衛門、小人目付田草川伝次郎、松永善之助を松前見分御用に任じて松前に派遣、5名は、翌寛政9年(17971月~3月にかけて、東蝦夷地を中心に、江差方面の調査をも行い、同5月、幕府に調査報告書を提出した。

【寛政9年―2回目の来航】

 寛政9年(17974月、ブロートンは、再び北方探検のため厦門を出発したが、420日、琉球宮古沖でプロビデンス号が座礁、沈没したため、スクーネル船(80トン、乗員34人)に乗り換え、日本の東海岸を北上、719日、ふたたびヱトモ沖に姿を現した。

 松前藩は、アブタ勤番の酒井栄からの急報により、前年と同様、工藤平右衛門と加藤肩吾を派遣、724日、ブロートンを訪問したが、二人の監視するような応接の態度を怪しんだブロートンは、閏72日、ヱトモを出帆、その後、恵山沖で水深を測り、7日箱館沖に現れ、白神岬をまわって、閏79日には福山城下に接近、その後、津軽海峡を日本海に出、西蝦夷地リイシリ(利尻)島、レブンシリ(礼文)島を経てカラフト西岸を北緯52度まで北上後、反転し、対馬を経て、南シナ海を探検し、厦門に帰っている。

 この間、松前藩は、下国武、新谷六左衛門ら藩兵300人をヱトモに差し向け、また、閏79日の福山接近に際しては、福山城下の守備を固めるなど戦々競々の日を送った。

 幕府は、928日、松前藩主松前若狭守章広の参勤交代による出府の中止を命じ、既に925日福山を開帆、仙台領水沢まで赴いていたのを引き返させ、代わって隠居松前道広の出府を命じ(幕府は、言動に疑惑のある道広の松前居住を好まなかったためともいわれている)、松前道広は、1127日に福山を開帆、江戸に赴いている。

 また、幕府は、922日、津軽藩に対し、近年松前に異国船が度々入来するにつき、番頭1組の箱館への派遣を命じ、津軽藩は、114日、番頭山田剛太郎、目付佐野吉郎兵衛以下550人を出発させ、翌寛政10年(1798)正月3日箱館着後、浄玄寺に本陣を置き、警備に当たらせた。

【寛政10年-幕府の蝦夷地調査と東蝦夷地の仮上知】

 幕府は、ロシア船やイギリス船の相次ぐ来航により、松前藩の北方警備に対し重大な危惧を抱き、寛政10年(1798314日、目付渡辺久蔵胤、使番大河内善兵衛政寿に、同17日には勘定吟味役三橋藤右衛門成方に、それぞれ松前表異国船見届御用を命じ、勘定組頭松山惣右衛門、勘定太田十右衛門、支配勘定近藤重蔵、勘定吟味方改役並水越源兵衛、大島栄次郎、その他御徒目付5、小人目付8、普請役7など総勢180余名で、415日江戸出立、516日福山城下に到着した。

 一行のうち、目付渡辺胤、勘定組頭松山惣右衛門は、福山城下に留まり事に当り、勘定吟味役三橋藤右衛門一行(上下27人)は、西蝦夷地視察した。使番大河内政寿一行の本隊は東蝦夷地シヤマニまで巡回し、別動隊の支配勘定近藤重蔵ら一行(最上徳内、下野源助(木村謙次)、秦檍丸(村上島之丞))は、さらに奥蝦夷地のエトロフ(択捉)島に渡り、727日、モイレマとタンネモイの間の丘に「大日本恵登呂府」の標柱を建立している。

本書の著者・公暇斎蔵は、西蝦夷地巡行の三橋藤右衛門の従者のひとり。一行は、525日、松前を出発し、西蝦夷地をソウヤまで、帰路は、石狩川、千歳経由で巡見した。松前帰着は822日で、86日間、556里の旅であった。

 帰府した渡辺、大河内、三橋の三人は、1115日、将軍(11代家斉)に拝謁、復命した。幕閣らは、この復命に基づいて評議を重ね、ついに、蝦夷地の経営を幕府みずから行うことを決した。

幕府は、翌寛政11年(1799116日に、異国境取締りのため東蝦夷地(範囲は浦川(後、知内)より知床および東奥島まで)を当分の間(期間は7か年)試みに上知する旨松前藩に通達するとともに、御書院番頭松平信濃守忠明、勘定奉行石川左近将監忠房、目付羽太庄左衛門正養、使番大河内善兵衛政寿、勘定吟味役三橋藤右衛門成方に、蝦夷地御取締御用を命じた。

【書誌】

<北海道大学附属図書館の沿革>

○札幌農学校時代

・明治9(1876)8月:札幌農学校が開校し、講堂に「書籍室」が設置される。(蔵書6,149冊)

・同年12月:講堂とは別棟に建坪15坪の木造柾葺2階建て書籍庫を新築する / 講堂内に雑誌と新聞の閲覧所「読書房」を設ける。

・同2411月:書籍館主任(監守)として,新渡戸稲造が就任,最初の館長となる。

・同366月:現在のキャンパスに瓦葺き白亜の図書館を新築する。現北海道大学出版会の建物として現存。

○東北帝国大学農科大学時代

・明治406月:札幌農学校の大学昇格に伴い,「東北帝国大学農科大学図書館」と改称する。

○北海道帝国大学時代

・大正73月:「北海道帝国大学図書館」と改称する。

・同115月:「北海道帝国大学附属図書館」と改正する。

・昭和1211月:道庁収集資料(写本,図類,写真等)7,209点が寄託される。

○北海道大学時代

・昭和2210月:官制改正により「北海道大学附属図書館」と改称する。

○「宍戸昌蔵書記」・・宍戸昌(ししどさかり 18411900)は、宍戸昌は、号を海雲楼と称し、民部省、農商務省等を経て大蔵省国債局長を勤めた。三河国刈谷藩士。本草学者、愛書家としても知られる。

伯父の宍戸弥四郎は、天誅(てんちゅう)組の大和挙兵に参加。

○蔵書印に「MAR 1 ‘36」とあり、1936年(昭和11)3月1日に蔵書となったことが知れる。

【注記】

(3-1)「寛政八丙辰(ヘイ・シン、ひのえ・たつ)年」・・1796年。

(3-1)「アンケリア」・・イギリスを指す。日本語表記では「暗厄里亜」、「諳厄利亜」。

(3-2)「丁己(テイ・シ、ひのと・み)」・・影印の「己」は「巳」。

(3-2)「松前上(まつまえうえ)」・・「上」は、あるものの付近。辺り。

(3-3)「台命(たいめい・だいめい)」・・台命の前は、欠字。「台」は、うてな。たかどの。高楼。転じて役所。台命は、役所の命令。ここでは、幕府(将軍)の命令。

(3-3)「御目付(おめつけ)・・幕府の職名。役高千石。享保頃から10名。旗本を監察、糾弾する役であるが、その職域は、広く、評定番(評定所式日の裁判に陪席)、座敷番(年始八朔等における殿中の儀席、典礼を掌る)、外国掛(外国使臣接見の外国奉行との立合)、諸普請出来映え見分、海防掛等々の分掌がある。徒目付、小人目付を支配する。

      『新北海道史』では、渡辺久蔵胤(わたなべ・きゅうぞう・つづく)。禄高1,000石。在任期間寛:寛政8(1796)~享和元年(1801)。寛政10巳年314日松前表江異国船為見分罷越を命じられている。

(3-3)「御使番(おつかいばん)」・・幕府の職名。布衣、役高千石。戦時には、陣中を巡回して、将士の勇怯、手柄の有無を監察し、伝令等を務め、平時は、命令伝達、上使、諸国の巡察などを行った。古くは28人が定員であったが、次第に増員され、幕末には120人余になった。

      『新北海道史』では、大河内善兵衛政寿(おおこうち・ぜんべい・まさこと)。禄高1,200石。在任期間:天明9(1789)~寛政11年(1799)。寛政10(1798)314日松前表江異国船見届御用を命じられている。

(3-4)「御勘定吟味役(おかんじょうぎんみやく)」・・幕府の職名。役高500石、役料300俵。老中に直属していて、勘定奉行支配の各役の目付的存在で、勘定所関係の事務一切を検査する役。また、幕府で、巨額の臨時出費をするときは、その掛となった。部下に、吟味方改役、吟味改役、吟味下役がいる。

      『新北海道史』は、三橋藤右衛門成方(みはし・とうえもん・なりみち)。禄高400石。在任期間:寛政8(1796)~享和2(1802)。寛政10317日松前表江異国舟見届為御用罷越を命じられている。

(3-4)「同組頭(どう・くみがしら)」・・「勘定組頭」のこと。勘定奉行の直近下位の職。御目見。350俵高で、役料が100俵つく。公事方、勝手方に分かれ、普請、修復検分のための出張が多い。勘定から昇進し、代官、勘定吟味役、富士見御宝蔵番などに抜擢される。定員は、寛文4年(1664)より12名。

      『新北海道史』では、松山惣右衛門としている。名は直義。寛政7(1795)328日より勘定組頭、文化2(1805)926日勘定吟味役へ。

(3-4)「御勘定役(おかんじょうやく)」・・幕府の職名。「勘定」。勘定組頭の次席。役高150俵、御見得(旗本)。寛政年間には130人、嘉永には250人。

     『新北海道史』では、太田十右衛門。

(3-4.5)「吟味方改役(ぎんみかたあらためやく)」・・幕府の職名。勘定吟味役の直近の部下。寛政7(1794)に再置された。役高15010に扶持。しかし、      『新北海道史』では、吟味方改役並(吟味方改役の次席で、役高1007人扶持)とし、2人は、水越源兵衛と大島栄次郎(後、文化4年箱館奉行支配吟味役格)としている。

(3-5)「支配勘定(しはいかんじょう)」・・幕府の職名。勘定の次席で、役高100俵、御見得以下(御家人)御譜代席。人員は90名位で、ほかに見習が12名。

      『新北海道史』では、近藤重蔵としている。

(3-5)「御徒目付(おかちめつけ)」・・幕府の職名。目付の配下。役高1005人扶持で、御譜代席。人員は50人位で、ほかに西の丸にも24~5人。目付の令によって文案の起草、旧規の調査をするほか、老中、若年寄、大目付、目付の登城を迎え、将軍出行の折は道触をする。

     『休明光記』によると、寛政11年に蝦夷地取締御用の部下に、「徒目付」として、細見権十郎、村田兵左衛門、岩瀬猶右衛門、藤本徳三郎、湯浅三右衛門の五人がいる。

(3-5.6)「御普請役元〆(ごふしんやくもとじめ)」・・影印の「〆」は、「しめ」の合字。幕府の職名。支配勘定の次席。役高100俵、役金10両。

     『休明光記』によると、寛政11年に蝦夷地取締御用の部下に、寺田忠右衛門、三浦千蔵、宮本源次郎、山田鯉兵衛がいる。

(3-6)「吟味方下役(ぎんみかたしたやく)」・・幕府の職名。吟味方改役並の次席。持高、持扶持勤で、役扶持3人扶持。 

     『休明光記』によると、寛政11年に蝦夷地取締御用の部下に、野々山牧三郎がいる。

(3-6)「御普請役(ごふしんやく)」・・普請役元締の部下。303人扶持。御代官手付御普請役と同格。羽織袴姿でつとめる。

     『休明光記』によると、寛政11年に蝦夷地取締御用の部下に、最上徳内、中村小一郎、戸田又太夫、渡辺大之助、河野権次郎、倉橋藤四郎、安藤三次郎、庵原久作、寺沢治郎左衛門がいる。

(3-6)「御小人目付(おこびとめつけ)」・・幕府の職名。151人扶持。御譜代席。人員は、100人程。徒目付に従属し、御目見以下の者を監察糾弾する役。町奉行所、牢屋敷見廻り、勘定所、養生所、講武所、異変の立合などを行い、諸侯の城郭営繕の願出があれば隠密に調査し、また、諸侯、旗本の素行調査も探偵する。また、将軍御成先の警備を行い、先駆をする。

     『休明光記』によると、寛政11年に蝦夷地取締御用の部下に、大橋善四郎、青柳貞一、小林卯十郎、小林新五郎、井上辰之助、栗山政五郎、宮川勝助、内田平四郎、西村常蔵がいる。

(4-1)「戊午(ボ・ゴ、つちのえ・うま)」・・寛政10(1798)

(4-2)「松前地(まつまえち)」・・和人地、シャモ地とも。近世、松前藩領の蝦夷島の地域(北海道)で、統治策の一つとして、蝦夷島南部(道南)に設定された地域で、和人の定住地。範囲は時代により推移し、寛文9(1669)には、西在(日本海側の境界)は熊石村、東在(太平洋側の境界)は亀田村、寛政12(1800)には、西在は熊石村、東在はヤムクシナイ(山越内)まで拡大。西在以遠を西蝦夷地、東在以遠を東蝦夷地として、それぞれの境界に番所を設け、出入りを規制していた。

(4-2)「唐津内(からつない)」・・現松前町唐津。町の南部。南は日本海に面し、東境を小松前川、西境を唐津内川が南流する。『松前町史』(松浦武四郎、弘化4(1847)『初航蝦夷日誌』)には、「唐津内町―仲買・小宿・請負人(伊達・山田・山仙等)有て町並美々しく立ならぶ。海には船掛りの澗あり。上の方に松前内記、蠣崎蔵人の邸等あり。」とある。

(4-2)「松前氏」・・「氏」には、①家の名称、名字、姓。②家柄、家系。③接尾語で、名字に添えて敬意を表す意があるが。この場合は、①の家の名称、名字、姓を表す意に使われている。近代になり、「氏」を音読した「し」にも同様の接尾用法が登場したため、次第に接尾語の「うじ」は用いられなくなっていった。

(4-3)「家従(かじゅう)」・・家臣。家来。

(4-3)「蛎崎将監(かきざきしょうげん)」・・蠣崎将監広年(ひろとし)。画号:波響。家格は寄合席、家禄は500石。松前藩家老(在任期間:明和元年(1764)~文政9(1826))。寛政元年(1789)。メナシ・クナシリの乱に際し、藩に協力したアイヌの酋長の像(夷酋列像)を描き、寛政3(1791)、光格天皇の天覧に供す。また、陸奥国梁川への転封期、藩主章広を補佐し、復領の方策を探り、文政5(1822)4月、復領に伴い、松前内蔵と共に城などを幕府より受領。

(4-3)「宅」・・武藤勘蔵(勘定吟味役三橋藤右衛門の用人)の『蝦夷日記』に、蠣崎将監の宅について、以下のように記している。

     「藤右衛門旅宿蠣崎将監屋敷は、居宅凡四、五千石位の御旗本衆も難及程の普請にて、間数広狭取交三十間もあり。間ごとに、ゐろり、戸棚等あれども、雪隠は至て少く、庭の向に一棟五、六ケ所の寄合雪隠ある故、一体のやうす(様子)内々承糺候処、船繋りの船頭共の宿を渡世にいたし、将監家内は旅籠屋同様のよし。下女なども道中筋飯盛同様の風聞あり、いかにも不取締の事共なり。」

(4-4)「渡辺氏」・・目付渡辺久蔵胤のこと。勘定組頭松山惣右衛門とともに、福山城下にとどまり、107日、福山より帰帆。この場合の「氏(うじ)」は、接尾語として、名字に添えて敬意を表す意に使われている。特に、近世においては武士階級が同輩以下の相手、あるいは第三者を呼ぶのに姓、姓名の後に「氏(うじ)」を添えることもあった。なお、松前家の重臣である「松前熊五郎」や「蠣崎将監」、「蠣崎蔵人」に対しては、陪臣(諸大名の家来)として「氏」や「殿」などの尊称を付けず呼び捨てにしていることから、筆者は、幕臣(旗本・御家人の直参)で、一行の中でも比較的地位の高い人物であることがうかがわれる。

(4-5)「松前熊五郎(まつまえくまごろう)」・・影印の「枩」は、「松」の異体字。「寛政十年家中及扶持人別列席調」(『松前町史』)の御寄合列」の筆頭に「松前熊五郎」の名がみえる。

(4-5)「大河内氏」・・使番大河内善兵衛政寿のこと。東蝦夷地を巡見した。

(4-5)「蛎崎蔵人(かきざきくらうど)」・・「寛政十年家中及扶持人別列席調」(『松前町史』所収)の「御寄合列」に、「蛎崎蔵人」の名がみえる。

(4-6)「あも」・・上代語。母。おも。

*日本書紀〔720〕雄略二三年八月・歌謡「道に闘(あ)ふや 尾代(をしろ)の子 阿母(アモ)にこそ 聞えずあらめ 国には 聞えてな」

*万葉集〔8C後〕二〇・四三八三「津の国の海のなぎさに船よそひ立(た)し出(で)も時に阿母(アモ)が目もがも〈丈部足人〉」

ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』語誌に

(1)「書紀‐歌謡」の例のほかは「万葉集」では防人歌に見えるところから、「おも」の古形が東国方言に残ったと見られる。

(2)中央語「ちちはは」に対する「あもしし」あるいは「おもちち」は、母が先にくるところから、古代母系制の名残と見る説もある。>とある。 

語源説に、オモ(母)の転〔大言海〕がある。

(5-1)「ばくち石町」・・日本語表記地名「博知石町」。現松前町博多。近世から明治33年(1900)まで存続した町。近世は松前城下の一町。南は海に面し、唐津内沢川と不動川(愛宕川)に挟まれた地域。東は唐津内町、西は生符町、北側の台地上は愛宕町。『松前町史』では、「小商人・仲買・蝦夷地出稼ぎ・番人・支配人等の宅多し。」とある。

(5-2)「弁天島」・・松前家二世光廣侯よって弁財天社が建てられた。島の上には明治22(1889)弁天灯台が建てられ、昔は陸地から離れていたが現在は陸地とつなぎ、天然の湾曲部を利用して松前港が作られ、地方港湾として整備されている。

(5-3)「いけぷむら」・・「け」は「希」、「つ」は「川」、「ぷ」は「婦°」。日本語表記地名「生符」。生符町は、現松前町字大磯・字弁天・字建石。近世から明治33年(1900)まで存続した町。近世は松前城下の一町。不動川と化粧川に挟まれた海岸沿いの町。東は博知石町、台地上は白川町。

(5-4)「しよしやどう町」・総社堂町。現松前町字建石・字弁天。近世から明治33年(1900)まで存続した町。近世は松前城下の一町。松前城下の最も西に位置する町。東は生符町。町名は町内に祀られる惣社明神社(惣社堂)に由来する。

(5-4)「折戸村」・・折戸坂の辺り。『渡島日記』のほか、森一馬の『罕有日記巻之ニ』にも、「広き芝野にて建石野と名付く。~略~、出て街道に至れば大石の建石あり、故に原野に付けるよし。又十町余折戸坂(砲台)」とある。現松前町建石のうち。シャクシャインの戦に関連して「津軽一統志」に「おりと」とみえるのが早く、赤平と「ねふた」の間に記される。松前城下と村方の境にあたる立石野のに続けて、折戸・小尽内(こつくしない)の順にあげられている。寛政元年(1789)頃には城下の西、立石野から海岸に下る坂道を下処おりと坂と称していた。現在は大尽内川・小尽内川が日本海に注ぐ一帯の海浜地を広くさす。

(5-4)「里俗(りぞく)」・・「俚俗」~いなかびていること。また、その様。

(5-6)「ふた川」・・大尽内川と小尽内川。

5-66-1)「つくしない」・・『渡島日記』には、「小ツクシナイ〔小沢有〕、大ツクシナ〔小沢有〕。此処より海岸を眺望するや、折戸崎の方より一面の磯、手に取る計に見え、実に奇絶なり。」とある。

(6-2)「くぼかなる所」・・「く」は「具」、「ぼ」は「本」、「か」は「可」、「な」は「那」。「くぼ」は「窪・凹」で、くぼみ、へこんだ所。「か」は名詞または動詞の連用形に付いて場所やところの意を表すことから、「(水のたまる)くぼんだ所」の意か。

(6-3.4)「浜ねぶた村」・・根部田村。『渡島日記』には、「根府田村〔文化度松前より公料引渡しの時は、人家五軒なりしと。当時二十余軒になる。〕村名訳して膃肭魚(臍)を取りしと云儀にて、太古神が始て此処にて膃肭臍を獲給ひし故事有。」ある。現松前町字館浜。近世から大正12年(1923)まで存続した村。近世は西在城下付の一村で、最も松前城下に近い。西から南は海に面する。一五世紀半ばには道南十二館の一つ禰保田(ねぼた)館が所在したとされる。

(6-4)「とつちよ村」・・『渡島日記』には、根府田と札前の境に、「トツチヨポ」、「小トツチヨプ」の名が見える。『罕有日記』では、「トツチユウ」とある。武四郎の『東西蝦夷山川取調図』には「トチウイシ」とある。

(6-5)「さつまゐ村」・・日本語表記名は「札前」。現松前町札前。町の南西部、西は日本海に面する。『渡島日記』には、「札前村、人家二十七軒、~。人家多く、漁業にして畑を作る。浜形酉に向ひ、同三分に大島を見る。」とある。近世から大正12年(1923)まで存続した村。近世は西在城下付の一村で、西から南は海に面し、東の方は根部田村。

(6-5)「赤神村(あかがみ・むら)」・・現松前町赤神。近世から大正12年(1923)まで存続した村。近世は西在城下付の一村で、赤神川流域を占める。南方は札前村、西は日本海。

(6-5)「赤神川」・・『渡島日記』には、「寛文の頃(1660年代)、此川の奥より金を掘しと聞。~砂金場跡有。」とある。

(6-5・6)「なまり出たる」・・寛永8年(1631)当地で白銀が出ている.文政12年(1829)又兵衛・長兵衛が赤神村付山の鉛採掘を藩庁に願出たが、先年間掘の際川魚・鰊漁とも皆無になったとの理由で却下された・

(7-1)「雨垂石村(あまだれいし・むら)」・・『渡島日記』には、「雨垂石村、従赤神村十丁四十間、人家十五軒、~村内に雨垂石と云大岩有。是に注連を張たり。頗る神威よし。」とある。近世から大正12年(1923)まで存続した村。近世は西在城下付の一村で、赤神村の北方、茂草と赤神川に挟まれた地域にあり、西は日本海に面する。地名は当地にある雨垂石という岩に由来するという.

(7-2)「ふだん水のたるゝ事」・・「ふ」は「婦」、「た」はいずれも「多」。「ゝ」は前の単語を繰り返す踊り字。

(7-2)「点蹢(てんてき)」・・「蹢」は「滴」か。「点滴」は、しずく、雨だれ。雨垂石を「点滴石」ともいう。

(7-3)「名とせし」・・影印の「勢」変体仮名。「せ」の字源。

(7-3)「茂草村(もぐさ・むら)」・・現松前町茂草。『渡島日記』には、人家に十七軒。大島を戌(西北西)の初針)、小島を未(南西)の正中に見る。浜は砂原、上は平野にして畑地によろし。土人、好て蕪、馬鈴芋を作りて常食に当り。」とある。一行は、ここで、休憩をした。近世から大正12年(1923)まで存続した村。近世は西在城下付の一村で、雨垂石村の北方にあり、日本海に注ぐ茂草川河口域に位置する。

(7-4)「清部村(きよべ・むら)」・・現松前町清部。町の北西部。『渡島日記』には、「人家五十二軒。従茂草三十二丁四十間。村の上に穴居跡多し。漁者にして畑もの大根、蕪、馬齢芋、栗、稗を作る。海中に二ツ石と云奇岩有。」とある。

(7-4)「けはしき坂」・・影印の「希」は「け」、「者」は「は」、「幾」は「き」。『渡島日記』には、「カド岩岬の上を越る。八丁十間、境目、茂草境三十一丁三十五間。此処海岸絶壁有て通り難し。」とある。

(7-6)「越て」・・影印の「帝」は「て」。

(7-6)「江市町村」・・影印の「市」は、「良」か。「江良町(えらまち)村」。現松前町江良。近世から大正4年(1915)まで存続した村。近世は西在城下付の一村で、南方は清部村、西は海に臨む。『渡島日記』には、「人家八十四軒、文化度三十七軒有しと。旅籠屋、荒物屋等有。~弁才十二艘を繋ぎ沖ノ口出張所有。」とある。

     一行は、ここで宿泊。

(8-1)「往還(おうかん)」・・人の行き来する道。

(8-3)「下れば」・・影印の「連」は「れ」、「ハ」は「は」。

(8-4)「此処に()て」・・影印の「尓」は「に」。「に」の下の「」は、「て」の挿入記号。

(8-6)「じやばみ沢」・・影印の「志“」は「じ」、「者”」は「ば」、「ミ」は「み」。「み」と「沢」の間の横線-は、「み」と「沢」をつなぐ矢印線。

(8-6)「歩行(かち)」・・乗り物を使わず、自分の足であるくこと。徒歩のこと。