(7-1)「雨垂石村(あまだれいし・むら)」・・『渡島日記』には、「雨垂石村、従赤神村十丁四十間、人家十五軒、~村内に雨垂石と云大岩有。是に注連を張たり。頗る神威よし。」とある。近世から大正12年(1923)まで存続した村。近世は西在城下付の一村で、赤神村の北方、茂草と赤神川に挟まれた地域にあり、西は日本海に面する。地名は当地にある雨垂石という岩に由来するという.

(7-2)「ふだん水のたるゝ事」・・「ふ」は「婦」、「た」はいずれも「多」。「ゝ」は前の単語を繰り返す踊り字。

(7-2)「点蹢(てんてき)」・・「蹢」は「滴」か。「点滴」は、しずく、雨だれ。雨垂石を「点滴石」ともいう。

(7-3)「名とせし」・・影印の「勢」変体仮名。「せ」の字源。

(7-3)「茂草村(もぐさ・むら)」・・現松前町茂草。『渡島日記』には、人家に十七軒。大島を戌(西北西)の初針)、小島を未(南西)の正中に見る。浜は砂原、上は平野にして畑地によろし。土人、好て蕪、馬鈴芋を作りて常食に当り。」とある。一行は、ここで、休憩をした。近世から大正12年(1923)まで存続した村。近世は西在城下付の一村で、雨垂石村の北方にあり、日本海に注ぐ茂草川河口域に位置する。

(7-4)「清部村(きよべ・むら)」・・現松前町清部。町の北西部。『渡島日記』には、「人家五十二軒。従茂草三十二丁四十間。村の上に穴居跡多し。漁者にして畑もの大根、蕪、馬齢芋、栗、稗を作る。海中に二ツ石と云奇岩有。」とある。

(7-4)「けはしき坂」・・影印の「希」は「け」、「者」は「は」、「幾」は「き」。『渡島日記』には、「カド岩岬の上を越る。八丁十間、境目、茂草境三十一丁三十五間。此処海岸絶壁有て通り難し。」とある。

(7-6)「越て」・・影印の「帝」は「て」。

(7-6)「江市町村」・・影印の「市」は、「良」か。「江良町(えらまち)村」。現松前町江良。近世から大正4年(1915)まで存続した村。近世は西在城下付の一村で、南方は清部村、西は海に臨む。『渡島日記』には、「人家八十四軒、文化度三十七軒有しと。旅籠屋、荒物屋等有。~弁才十二艘を繋ぎ沖ノ口出張所有。」とある。

     一行は、ここで宿泊。

(8-1)「往還(おうかん)」・・人の行き来する道。

(8-3)「下れば」・・影印の「連」は「れ」、「ハ」は「は」。

(8-4)「此処に()て」・・影印の「尓」は「に」。「に」の下の「」は、「て」の挿入記号。

(8-6)「じやばみ沢」・・松前町字白坂。享保十二年所附にみえる地名。江良町村の北方、現二越川を越えた辺りをいう。シャクシャインの戦に関連して「津軽一統志」に「ちやばん 家三軒」とみえるのが早く、ゑら町まちの次に記される。前掲所附でも江良町村、「せそこ内」「ふたこゑ」に続いてあげられる。史料には坂名・川名としてみえることが多く、菅江真澄は「蝦夷喧辞弁」で「蛇喰」の文字を当て、「蛇喰坂を下れば」と記す。「蝦夷日誌」(二編)には「シヤハミ小沢」もみえ、「少しの沢也」と記す。現在はジャヌケとよんでいる。(ジャパンナレッジ版『日本歴史地名大系』)

 *奥未川から二越川までの間には次のような主な地名がある。

・ノタトマリ大波のことをノタという。大波がでても舟が着けられる場所という意味。

・ゴロタ(転太)大きな丸い石の意味。こうした石がゴロゴロしているところ。

・ソマルへ(ソマヘ・ソマルベ)意味不明。

菅江真澄の「えみしのさえき」によれば、男根のかたちをした岩が磯辺に立っ

ているので、是をあからさまに言わず、地元の人々は是を物語の名で読んで いると説明している。笠石とも呼んでいる。

     ・ミズナシ岩の岬

・ジャバミ(蛇喰・蛇抜(じゃぬけ))石山さんの牛舎のある沢(一本木の沢)付近の北側。土砂が地滑りを起こして大きくえぐれていた。新国道の工事の時には、この地滑りに気が付かずにずいぶん難工事だった。付近は蛇が多く、地滑りでえぐれた地形を見て、昔の人はこの名前をつけたらしい。現在でも名前の通りマムシは非常に多い。(ウェブ『北海道松前観光奉行』より)

      *松前町白坂の「蛇喰」は興味深い例で、享保12年(1727 の古文書や寛政元年(1789)の菅江真澄の紀行「えみしのさへき」などに「蛇喰」 と記されているのだが、現在は「ジャヌケ」と呼ぶという。(齊藤純『蛇抜けと法螺抜け ─天変地異を起こす怪物』より)

      *影印の「志“」は「じ」、「者”」は「ば」、「ミ」は「み」。「み」と「沢」の間の横線-は、「み」と「沢」をつなぐ矢印線。

(8-6)「歩行(かち)」・・乗り物を使わず、自分の足であるくこと。徒歩のこと。

(9-1)「おこしうぬ河」・・漢字表記地名「奥末川」か。『渡島日記』には、「ヲクスエ海岸小石浜。川有巾十間計り洪水の時十七八間に成。歩行わたり。雪解の時、時々怪我人有。」とある。武四郎「東西蝦夷山川取調図」には、「ヲクスエサワ」とある。

(9-2)「原口村(はらぐち・むら)」・・松前郡松前町字原口・字神山。近世から大正4年(1915)まで存続した村。近世は西在城下付の一村で、江良町村の北方にあたり、西は海に面する。地名の由来について「地名考并里程記」に「夷語バラコツなり。則、広き渓間と訳す。扨、バラとは広き又ハ打開けたる所をいふ。コツは水なき渓間亦は窪むと申事にて」と記される。一五世紀中葉に道南十二館の一つ原口館があったという(新羅之記録)。当村に続けて五枚間・おつこの木坂・かきかけ坂・五郎左衛門坂・堂の坂、「彦四郎沢 合三十六丁一里」、とちの木き沢が載り、小砂子村(現上ノ国町)に至る。「此間断崖絶壁景気尤も妙也」であった。「行程記」は「大難所あり。此辺冬は雪にて道を失ふことあり船をよしとす」と記す。

(9-3)「おんこの木沢」・・『渡島日記』には、「三ノウタ沢〔小流、三丁四十間〕、ヲンコノ木沢〔二丁三十間〕、カギカケ沢〔小沢〕此処村境(原口・小砂子)なり」とある。又、『罕有日記』には、此辺の地形について、「蓑歌沢、ヲンコノ木沢、願掛沢、彦四郎沢、橡の木沢、相泊沢渉降ともに険はし、中に就て願掛、彦四郎の二沢険悪にして深し」とある。武四郎「東西蝦夷山川取調図」には、「ヲンコノキ」とある。

(9-4)「小砂子村(ちいさご・むら)」・・現上ノ国町字小砂子など。近世から明治35年(1902)まで存続した村。石崎村の南に位置し、東部は山地、西は日本海に面する。児砂(蝦夷草紙別録)、児砂子(「蝦夷日誌」二編)などとも記される。「地名考并里程記」に「小砂子夷語チシヱムコなり。則、高岩の水上ミといふ事」とある。北の石崎村との間に「堺川」「めのこしわしり」「もつ立石」「はちかみ沢」「泉沢」「大滝」「矢立石」「あふみ沢」「らしたつへ」が記される。「めのこしわしり」はメノコシ岬、「はちかみ沢」は初神沢はじかみさわ、「あふみ沢」は鐙沢、「らしたつへ」はラスタッペ岬などと、海岸沿いの現在地名に比定される。

102.3)「石崎村」・・現上ノ国町石崎。町の南部。南境を石崎川が西流し、西は日本海に面する。『渡島日誌』には、「人家七十五軒(文化度三十七軒)。浜形申八分向。人家川の北岸に立並び、」、「往古は松前内蔵の領分なりしと。」とある。

10-3)「はねさし村」・・現上ノ国町羽根差。町の中央部。長内川下流右岸に位置し、西は日本海に面す。長内川右岸は小さく突き出た岬状を呈し、この岬北側の海岸にはかって集落が形成されたが、現在人家はない。『渡島日誌』には、「羽根差村人家十五軒汐吹村分也。」とある。武四郎「東西蝦夷山川取調図」には、「羽子サシ」とある。

10-3)「塩吹村(しおふき・むら)」・・現上ノ国町字汐吹・字扇石。町の中央部。西は日本海に面す。武藤勘蔵の『蝦夷日記』には、「此日塩吹村泊り。家数四拾三軒、人数百三拾六人。木古村昼休。蠣崎将監知行所なり。一ケ年収納豊年には五六百両もあり。鯡漁、図合船一艘にて凡金百両余の渡世になる。諸入用は弐拾両程の費なり。此十四五年鯡漁なく、凶年にて甚だ困窮といへり。」とある。地名の由来は、沖合の汐吹岩が、西風の強い時に鯨の潮吹きのように汐を吹き上げるkとに由来するという。

10-4)「方(ほう)」・・四角形。方形。その形であるさま。正方形の一辺。

10-5)「しほふき石」・・「志」は「し」、「本」は「ほ」、「婦」は「ふ」、「幾」は「き」。「汐吹石」は、汐吹岩は別名大文字岩と呼ばれ、現在は汐吹港防波堤の一部となっている。『渡島日誌』には、「汐吹石とて汐の打込時数丈烟霧を噴上る石有。是を牛坂の半腹より見る時は頗る奇也。」とある。また、『罕有日記』では、「径り三十尋許の隆然たる巨巌なり、其色灰に似て其形稜角あり、~、巌下窟をなし西風には潮水窟に入って上部へ吹出す体なり。昨夜より東風強きが故に潮水洞窟を漬かず、塩吹の空し、不見は遺憾多し。」としている。     

10-6)「扇石村(おうぎいし・むら)」・・現上ノ国町扇石。町の中央部。東は山林、西は日本海に面す。『渡島日誌』には、「人家十五六軒。汐吹村の出郷なり」とある。

10-6)「木の子村(きのこ・むら)」・・現上ノ国町木ノ子。町の中央部。西は日本海に面す。北部を小安在川が西流する。地名の由来は、木の切り株からキノコを産したことによるとの説がある。『渡島日誌』には、「人家四十九軒、文化頃も同じ。此辺に至るや馬大に少きよし也。此村畑作多し。此村には商人多し。」ともある。

11-1)「あんさい沢」、「小あんさい沢」・・『渡島日誌』に、「小アンサイ、大アンサイ共に小川 両岸広地流屈曲して深し。」とある。

11-2)「虎之沢」・・『渡島日誌』に、「トラ川 小川、夏分は此処より野に上り、上の国八幡の傍に下るによろし。秋過より冬春は通り難し」とある。武四郎「東西蝦夷山川取調図」には、「トラノサワ」とある。

11-2)「初秋」・・旧暦では七月。旧暦の季節区分は、春は正月、二月、三月。夏は四月、五月、六月。秋は七月、八月、九月。冬は十月、十一月、十二月。なお、閏月は前の月(例:閏七月は七月)に付く。

11-3)「よしや沢」・・「蝦夷巡覧筆記」には、大アンサイにはトラノ沢・ヨシカ沢などの沢があり、沢中に畑地がある。シネコ(洲根子)岬を経ずに上ノ国村に至る山道がある。『渡島日誌』には、「ヨシ沢、小沢。従レ是野道十余丁を過て、医王山より九折を下り坂下に出る。ヨシ沢、是上の国村境なり、汐吹村境より一里三十四丁、従レ是海岸は大岩立重、歩行道なし。」とある。武四郎「東西蝦夷山川取調図」には、「ヨシカサワ」とある。

11-4)「しねか崎」・・和名「洲根子」を当てる。『渡島日誌』では「戻子(ス子コ)岬」、『罕有日記』では「シコロ子崎」につくる。武四郎「東西蝦夷山川取調図」には、「ス子コサキ」とある。

11-4)「上之国村」・・現上ノ国町。北海道の南西部。桧山地方の南端に位置し、北は江差町、厚沢部町、東は木古内町、南は知内町、福島町、松前町に接し、西は日本海に接する。『北海道市町村行政区画便覧(昭和307月、北海道自治協会)』によれば、その開基と沿革は、「村名上の国の由来は、応永年間に安東氏の一族が湊家を起し、津軽大光寺西浜上三郡を領し、上の国と称したことによる(他の一族は津軽下三郡を領し、下の国と称した。)。上の国は七百年の歴史を有する本道最古の村である。昔源頼朝の奥羽征伐によって、敗残の将士の多くが、蝦夷にのがれ、その一派が上の国に来て館を築いた。それが花沢館である。後、松前藩祖武田信広が若狭より渡って、花沢館に遊客中、折から乱を起こしたアイヌの酋長コシャマインを斬って勇武を顕し、以後勝山城を築いて全道に号令するに至った。」とある。

11-5)「高き坂」・・『罕有日記』には、「緩やかな昇り二町余りにて上之国嶺上に至る。下り臨めば江差港より上之国喜多村の村落掌を指すが如し。」とある。

11-6)「北村(きた・むら)」・・現上ノ国町字北村・字内郷。近世から明治35年(1902)まで存続した村。上ノ国村・大留村の北、天ノ川の河口北側に位置する。北は椴川を挟んで五勝手村(現江差町)、西は日本海に面する。元禄郷帳・享保十二年所附に喜多村、天保郷帳には北村とみえる。『渡島日誌』には、「北村 人家八十六軒、文化度七十軒。人家多く、畑作り、山稼、鯡の稼等也。」とある。

11-6)「御勝手村(ごかってむら)」・・現江差町南浜町付近。町の南部。上の国との境。『渡島日誌』には、「五勝手村、人家百三十七軒。浜形酉五六分。海岸砂地なり。入口柏森大明神、下に地蔵堂、金毘羅堂、恵比寿堂。」とある。近世から明治33年(1900)まで存続した村。南は椴川を境にして北村(現上ノ国町)と接し、北は武士ぶし川を境にして江差寺小屋町と接する。東は山地、西は日本海。

11-6)「江差村(えさし・むら)」・・現江差町。北海道南西部、檜山地方の南部に位置。北は乙部町、東は厚沢部町、南は上ノ国町に接し、西は日本海に面する。『市町村行政区画便覧』による開基及び沿革には、「文治五年源頼朝が奥州を征めた時、南部津軽の人達が本道にのがれ現在の松前、江差付近に占居したのが開拓の初めである。延宝六年に松前氏が檜山を開くに当たって、江差に奉行を置き、檜の伐採と補植を行い、あわせて、一般民政を掌らしめたのが、管内における置庁の始まりである。」とある。武藤勘蔵の『蝦夷日記』には、「江差村泊、家数八百八拾九軒、人数三千五百十二人」、「当所は、松前、箱館同様繁昌の湊にて、浜辺には小屋懸けの内にガノズ 売女の事也 幾人ともなく並び居、三味線を引、松阪節をうたふ。」とある。『渡島日誌』には、江差の繁栄について、「人家三千余軒、四月より五六七月の間の盛なる事、是を未央還(みおうかん~未だ半ばに至らずかえる)と号て、北地より帰る処の船々、岸に纜(ともづな)を繋ぎ、実にめざましき事なり。」としている。一方、『罕有日記』には、「戸数凡二千許り。松前、箱館、此地を以て三港と称す。船懸りは中等なるべし。繁栄はニ港に劣る事遥かなり。」としている。『角川日本地名大辞典』には、「元禄年間(1688~1704)に入って魚肥の需要が高まると、藩の生産主体が鯡漁業へと移行し、享保~寛延年間(1716~51)にかけ、場所請負制が成立し、藩の生産構造が確立した。この推移の中で江差港は、西蝦夷地鯡漁業の基地、生産物の集荷地、交易港として急速に発展した。」、また、「江差港は、慶長15(1610)近江商人の福島屋田付新助を先達に、寛永7年頃から近江商人が続々進出して出店を設置、彼らの商取引ルートの中で、商港としての基盤が確立した。その中で、近江商人の手代や舟子、杣夫・漁夫が、主として北陸から渡来、定住するようになり、彼らの中から独立して地場商人(江差商人)に成長するものが出てきた。寛政年間(1789~1801)に入ると、自由商取引の気運が高まり、西廻海運の安全性確認もあって、近江商人の蝦夷地取引独占の荷所船に対抗して、瀬戸内、北陸商人の買積船(北前舩)が雄飛するようになると、江差商人も彼らと取引し、北前舩の経営に乗出す者が出てきた。近江商人は、場所請負制の確立もあって、資本家にとて有利な場所請負人となり、生産面の経営にあたり、江差の出店を閉鎖した。天明~寛政年間(1781~1801)頃には、江差港の商権は、地場商人(江差在郷商人)の手に移り、北前舩商取引時代に入り、江差港は繁栄期を迎え、北前舩の終焉する明治30年代まで続いた。」とある。

11-6)「はげ山」・・夷王山(標高159メートル)。夷王山は、松前氏の祖武田信広や蠣崎氏一族の居館・勝山館の「詰めの丸」といわれ、山頂に、武田信広を祀る夷王神社がある。

11-6)「松前氏の先祖」・・松前藩の藩祖は、蠣崎季繁の娘と客将武田信広との子の「松前慶広」であるが、当初「蠣崎慶広」と称していたが、文禄2年(1598)秀吉より本領松前を安堵、蝦夷一円の支配が認められ、慶長4年(1599)、「蠣崎」の姓を「松前」と改称。同9(1604)家康よりも蝦夷地の支配権を保証されたことにより、徳川幕藩体制の下における松前藩が成立している。(『新編物語藩史』 新人物往来社)。なお、『罕有日記』には、「寛永の系図に、松前の元祖若狭守信広、上之国の城主蛎崎修理太夫の家督を継ぐと記したり。」ともある。