(120-1)「御用物(ごようもの)」:宮中や官府などの用に供するもの。

(120-3)「弥(いよいよ)」:副詞「いや(彌)」の変化した「いよ」を重ねて強調したもの。

(120-34)「三馬屋(みんまや)」:三厩。青森県津軽半島北西端に位置する村。竜飛(たっぴ)崎が突出している。江戸時代には寒村であったが、松前蝦夷地渡海の要津であった。松

 前藩主の参勤交代、幕府巡見使の渡航にも利用され、木材の積出し、松前から買入れる海産物の中継地としても重要で、湊役人が置かれ、幕末には海防の要地ともされた。

(121-2)「馬形後町(まかどうしろまち)」:馬形町は、北から南に馬形上町・馬形中町・馬形下町が並んでいる。文化4(1807)の松前市街図に「馬形裏町」がみえるが、「後町」との関係は不明。

(121-4)「中川原町(なかかわらまち)」:現松前町字福山。近世から明治33年(1900)まで存続した町。近世は松前城下の一町。中河原町とも記される。大松前川の下流左岸、川原町と蔵町との間の町。

(121-5)「川原町(かわらまち)」:現松前町字福山。近世から明治33年(1900)まで存続した町。近世は松前城下の一町。大松前おおまつまえ川に沿って南北に通ずる二筋の道のうち西側の道に沿う町。河原町とも記した。

(121-8)「四十弐」の「弐」:漢数字の一、二、三などのかわりに用いる壱、弐、参などの文字を大字(だいじ)という。数値について厳密を要する文脈では、令の公式令(くしきりょう)に大字(だいじ、壱・弐・参・肆・伍・陸・・捌・玖・拾など)を用いるべきことを定め、実用された。たとえば『古事記』の中の天皇の享年、『正倉院文書』における物資の数量の記載など。現代にもその遺風があって、漢数字を用いる金銭証票は大字を使用する。

 *「公式令(くしきりょう)」:律令制の中央集権的行政および官僚制的秩序の根幹にかかわる、以下のような広範な内容の条文を収める。公文書の様式、その作成および施行についての細則、公文書に用いる平出・闕字と用字および公印、公文書の保管などについての細則、駅馬・伝馬の利用と公的使者の発遣に関する細則、官人の秩序・執務についての細則、授位・任官の行事に関する諸規定、訴訟手続および意見陳上の手続など。

(122-1)「即夜(そくや)」:すぐその夜。当夜。多く副詞的に用いる。

(122-1)「博奕(ばくえき・ばくち)」:金品など財物を賭けて、囲碁・樗蒲(ちょぼ)・双六などの遊戯の中で勝負をすること。博とも書き、「はくち」「はくよう」とも読む。博戯・博打(ばくち)・賭博ともいい、また樗蒲とか樗蒲一(ちょぼいち)、「かりうち」(朝鮮語系統の語)ともいっている。樗も奕も賭博の意として賽を指す。後世になるともっぱら采・花札などを用いている。十七世紀前半にはウンスンカルタが流行した。そして遊女やその客の間でも遊ばれるようになっていた。また天正カルタという「めくりカルタ」が流行する。やがて十九世紀初めには花札も盛行した。このカルタが賭博用となった。賭銭二百文ともいわれ、カルタ賭博は娯楽とはいいがたいものであり、双六賭博も行われた。中世から近世にかけては、碁・将棋の勝負も賭物としたため、慶長2年(1597)には、『長宗我部元親百箇条』で禁止されている。また慶安2年(1649)二月にもかかる博奕の禁制があり、ついで承応元年(1652)の町触れでも碁・将棋・双六の勝負を賭けることを禁止している。その反面庶民風俗として盤上遊戯が普及し、風呂屋の二階に娯楽場がつくられている。江戸時代には楊弓・大黒・天狗頼母子・布袋屋骨牌・カブ・三枚加留多・ナヲ八・キンゴ打・三つぼ・四つぼ・冠付・独楽・源平・富突・大黒つき・三笠付などいろいろな種類の博奕が生まれている。明治3年(1870)十二月新律綱領には「およそ財物を賭け、博戯を為す者は、皆杖八十の刑に処す、賭場の財物は官が没収する、賭博宿を開帳する者は、賭博に加われないといえども同罪とする」と述べ、士族で盗賊や賭博の罪を犯したものは庶人とするとされた。また明治35年の刑法改正案には「六月以下の懲役又は三百円以下の罰金」という金刑の思想が入って来ている。

*「博奕」の「博」:古代中国のゲームの一種。六本の棒と十二の駒を用いる。なお、テキスト影印の偏は「忄」(リッシンベン)の「愽」で、「博」の俗字。

*「博奕」の「奕」:碁を打つこと。囲碁。なおテキスト影印の脚は「火」に見えるが「大」。

*「ばくち」は、普通「博打」を当てるが、「ばくち」は、「ばくうち」の変化した形。

(122-1)「蔵町(くらまち)」:現松前町字福山。近世から明治33年(1900)まで存続した町。近世は松前城下の一町。大松前川に沿う二本の南北道のうち東側の道に沿った町。南は袋町、西は中川原町。

(122-6)「今暁(こんぎょう)」:今日の夜明けがた。今朝。

(122-7)「自身番」:江戸時代に江戸・大坂・京都などで主として町内警衛のために設けられていた自警制度。町内の大通りの両端に木戸があり、木戸に接して番屋を設け、一方の番屋に木戸番、他の一方に自身番が詰めたので、転じてこの番所をも自身番と称した。自身番は大町には一町に一つ設けたが、二、三ヵ町共同で設置するものもあり、幕末の嘉永3年(1850)には江戸中で九百九十四ヵ所あった。自身番の名称は、はじめ町内の地主町人が自身で交替に勤めたところから生じたという。しかしのちには家主(やぬし)・店番(たなばん)・町内雇いの番人らが組んで昼夜に分かれて詰めた。江戸の天保年間(1830-44)の制度では、大町および二、三ヵ町合同の番所は家主二人・店番二人・番人一人の計五人、小町では家主・店番・番人各一人の計三人が詰め、非常時には増員することになっている。自身番の任務は、交替で町内を巡回し、不審者が町内に立ち廻れば捕えて番所にとどめ置き、奉行所に訴え出る。喧嘩口論をいましめ、夜は火の元を用心させる。また町廻りの奉行所同心などが犯罪容疑者を捕えたとき一時ここに留置して取調べを行うなどのこともあった。元禄11年(1698)の規定によると、自身番所では夜も戸障子を立ててはならず、寄合い咄しなどは禁止され、当番の者は食事も番所ではなく各自の家ですることになっており、勤務の規定も厳重なものであった。しかしのちには町内の寄合相談事などもここで行われ、また町の雇い職員である町代・書役などもここに勤務して町内の雑務を処理するようになった。このため家主らの勤務も名目的なものとなって、雇いの定番人を置いたり、その定番人が妻帯して番屋が住居同然となったりすることもあり、また町内の家主たちが寄合を名目に酒食の会を催すなどして綱紀の乱れを警告されることも多くなった。番所の建物にも規定があり、原則としては九尺二間の小屋であったが、文政12年(1829)には梁間九尺・桁行二間半・軒高一丈三尺と定められた。しかし前述のように番所が番人の住居化する状態ではこの規定は守られず、家の造作を一般家屋同様にしたり、あるいは二階づくりにしたりする者もあったため、町奉行所から増築を禁止し、規定以上の分は建直しのとき縮小するよう申渡しが行われたりしている。自身番屋の多くには、屋根に火の見を設けていた。火の見の構造は枠火の見で、建て梯子をかけ、半鐘をつるしてある。火の見の総高は二丈六尺五寸、枠高三尺五寸、幅三尺五寸四方、一丈五尺の建て梯子を枠内に建ててあった。自身番屋内には纒・鳶口・竜吐水・玄蕃桶などの火消用具が常備されており、半鐘が鳴らされると町役人・火消人足が自身番所にかけつけ、道具を持ち出し、勢揃いしてから火事場に赴いた。番人の賃金、建物の維持改修費、火消用具などの備品費など、自身番所の諸費用はすべて町入用をもって賄われた。

 *じしんばん‐しょうぎ【自身番将棋】:自身番の番屋で、つれづれにさす下手な将棋のこと。床屋将棋、縁台将棋の類。

(122-8)「一段」:(多く「と」を伴って用いる)ひときわ程度がはなはだしいさま。きわだ

っているさま。いっそう。格別に。

(123-1)「宿預(やどあずけ)」:江戸時代、未決囚拘禁の方法の一つ。出府した被疑者を、取調べ期間中公事宿(くじやど=江戸宿)に預けること。手鎖(てじょう)、過料、叱(しかり)など軽い罪にあたるものに用いられた方法で、重罪のものは入牢させた。

(123-2)「宜(よろしく)」:〔副〕形容詞「よろしい」の連用形から。漢文訓読で「宜」の字を「よろしく…べし」と読むところから、そうすることが当然であったり、必要であったりするさまを表わす語。すべからく。まさに。ぜひとも。必ず。

 *「宜は、漢文訓読の再読文字で、「宜」だけで、「よろしく~べし」と読む。テキスト影印は、「宜可有之」と「可(べき)」が重複するが、和製漢文といえる。

 **功宜為王 【功(こう)、宜(よろ)シク王(おう)為(た)ルベシ】(『史記』)

   [功績からすれば、王となるのがよろしい]

(123-7)「未召捕ニ不相成」:「未」は漢文訓読の再読文字で、「未」だけで、「いまだ~ず」だが、テキスト影印は、「不」があり、「ず」が重複するが、これも和製漢文。

(123-8)「詰木石町(づみきいしちよう・つみきいしちょう)」:江差町字愛宕町。

近世から明治33年(1900)まで存続した町。地名の由来は、松浦武四郎『再航蝦夷日誌』によれば、沖合いに潮の満ちる時現われ、潮が引く時隠れるというウツメキ石があることによるという。緒木石(しみきいし)町(罕有日記)とも記される。海岸沿いの道に沿う縦街十町の一(「蝦夷日誌」二編)。もと詰木石村であったが、町場が形成されて改称された。九艘川(くそうがわ)町・豊部内(とよべない)町の北、豊部内川の河口部の北岸に位置する。東に川原新(かわらしん)町・中新(なかしん)町・北新(きたしん)町がある。江戸後期から明治初期の鍛冶町・浜町は当町に含まれるという。

(124-3)「落着(おちつき・らくちゃく)」:事件などが治まること。物事の解決。

(124-3)「又候(またぞろ)」:副詞「また」に「そうろう」がついた「またぞうろう」の変化したもの)。類似する状態が既にあるのに、他の同様の状態が新たに存在することを、一種のあきれた気持・滑稽感を含めて表わす語。なんともう一度。こりもせずにもう一度。

 *またぞろ‐かたきうち 【又候敵討】:敵討をしようとしながら返討(かえりうち)にあ

ったため、また敵討をすること。又候敵討の願は許可されなかった。

(124-5)「町代久右衛門」:P123には、「久左衛門」とある。

(124-9)「一統(いっとう)」:一つにまとめ合わせた全体。総体。一同。

(124-9)「向後(こうご・きょうこう)」:今から後。こののち。今後。もと漢語で、平安時代の漢文資料に多く見られるが、鎌倉時代以降国語化が進み、口頭語・記録語の中に定着した。時代を問わず漢音で「きゃうこう」と読まれたが、江戸時代には「かう(呉音)+ご(慣用音)」という読み方もされた。

(125-4)「風邪(かぜ・ふうじゃ)」:鼻、のど、気管などの上気道のカタル性炎症。「医心方‐三・風病証候・第一」に「黄帝大素経云風者百病之長也」とあるように、万病のもととされた。感冒。ふうじゃ。かぜのやまい。

 *「風邪」:「風」の影響を受けるとすることは、「風を引く」の例でわかるが、その症状は必ずしも感冒には限らず、腹の病気や慢性の神経性疾患などを表わしていたことが、「竹取物語」や「栄花物語」などの例でわかる。また、身体以外に、茶や薬などが空気にふれて損じ、効き目を失うことを「カゼヒク」といったことが、「日葡辞書」から知られる。

「風邪」は、漢籍では病気名とは言えず、「日葡辞書」でも「Fûja (フウジャ)」は「ヨコシマノ カゼ」で、身体に影響する「悪い風」とされている。近世では、「風邪」は一般に「ふうじゃ」と読まれ、感冒をさすようになった。病気の「かぜ」に「風邪」を当てることが一般的になったのは明治以降のことである。

(125-6)「西館稲荷(にしだていなり)」:「西舘」は、現松前町字西館・字唐津・字愛宕。

近世から明治33年(1900)まで存続した町。近世は松前城下の一町。福山城の西、小松

前川と唐津内沢川に挟まれた台地一帯、唐津内町の背後(北側)にあたる。当地は上級家

臣の屋敷地とされ、シャクシャインの戦に関連して「津軽一統志」に西館町とみえる。享

2年(1717)の「松前蝦夷記」には当町域とみられるなかに西立(にしだて)町・端立(

たて)町・端立中町・今(いま)町・西立寺(にしだててら)町が載り、宝暦11年(1761)の

「御巡見使応答申合書」では西館町・端立町・今館町・端立中町・西立寺町がみえ、文化

4年(1807)の松前市街図には西館町・今町・西端立町が描かれる。しかしこれ以降の史

料には西館町以外の町名はみえず、西館町として統一されたようである。文化頃の松前

分間絵図では台地南東部に蠣崎時松・松前勇馬・蠣崎将監(広年・波響)の屋敷がある。

家の北に稲荷社がある。稲荷社は慶長17(1612)年蠣崎右衛門が西館に造営した。寛文7

(1667)蠣崎蔵人が造営、元禄14年(1701)同家が修理している(福山秘府)。明治38

(1905)徳山大神宮に合祀された。

(126-1)「飯鉢(いいばち・めしびつ・めじばち)」:飯を入れる木製の器。めしびつ。めしばち。

(126-4)「申口(もうしぐち・もうしくち)」:言い分。申し立て。特に、官府や上位の人などに申し立てることば。

(126-7)「正行寺(しようぎようじ)」:松前町字豊岡にある寺院。近世の松前城下に所在。文化(1804-18)頃の松前分間絵図によると武家屋敷地に隣接しており、南西方に法華ほつけ寺がある。浄土宗、護念山と号し、本尊阿弥陀如来。創建は永禄10年(1567)あるいは天正12年(1584)とも伝える。