(134-1)「鯡(にしん)」:国訓では「ニシン」。漢語では「ヒ」と読み、魚の卵のこと。なお、中国では「鯖」が「ニシン」を表す。

(134-3)「家内(かない・いえうち)」:家中の者。家の者全部。

    ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌には、

    <(1)「家庭」という言葉が一般に用いられるようになる明治中期以前は、「家内」や「家」がその意味を担っていた。明治初期の家事関係の書物には「家内心得草」(ビートン著、穂積清軒訳、明治九年五月)のように、「家内」が用いられている。

(2)現在では「家内安全」のような熟語にまだ以前の名残があるものの、「家庭」の意味ではほとんど使われなくなり、自分の妻を指す意味のみが残る。>とある。

(13-4)「荒増(あらまし)」:事件などのだいたいの次第。概略。

ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌には

    <「粗(あら)まし」という語源を考える説もある。また、「まし」は「はし(端)」の転で、有り始めの意からともいう。>とある。

(135-3)「呼越(よびこし)」:「呼び越す」は、呼んで来させる。招き寄せる。

(135-6)「幸ひ」:「幸」の脚部の「干」が円(まる)になる場合がある。

 (136-3)「別心(べつしん)」:相手を裏切るような心。そむこうとする気持。ふたごころ。異心。

(136-4)「手限(てぎり)」:江戸時代、奉行、代官などが上司の指図を得ないで事件を吟味し、判決を下すこと。手限吟味。

(136-4)「相当(そうとう)」:ふさわしいこと。また、そのさま。相応。6

(136-4)「申付度(もうしつけたく)」の「度(たく)」:願望の助動詞「たし」の連用形で、訓読み。漢音を和語に利用した。

    *「忖度」の「度(タク)」は漢音。(「度」は呉音)

    *鎌倉時代ころから、「度」の字音「タク」を利用して「めでたく」「目出度」と表記した   例が見られる。のち、願望の助動詞「たし」の各活用の表記に用いられた。(『漢辞海』)

(136-5)「無急度(きっとなく)」:急度と同じ。かならず。

(136-5)「利解(りかい)」:理解。道理。わけ。また、わけを話して聞かせること。説得すること。

(136-6)「兎角(とかく)」:副詞「と」と副詞「かく」を合わせたもの。「兎角」は、当て字。

あれこれ。あれやこれや。何やかや。さまざま。いろいろ。とかくに。

ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌には

(1)対照的な内容をもつ副詞「と」と「かく」を複合して用いるもので、中古以降現代まで使われている。古語においては、「かく」のクがウ音便化して「とかう」となることもある。

(2)「と」「かく」にそれぞれ付加的要素をつけて、「とにかくに」「とにもかくにも」「ともかくも」「とやかくや」「とてもかくても」「とてやかくてや」、また「とあるもかくあるも」「と言ふともかく言ふと」「とやせんかくやあらまし」など、「と」「かく」それぞれが単独で副詞本来の用法を果たすものである。名詞が結びついて、「戸様各様」の用に用いられることもある。>とある。

(136-6)「得心(とくしん)」:心から承知すること。納得(なっとく)。

(137-2)<尊敬の体裁・平出>:2行目の行末「吟味」のあと、空白があり改行されている。この体裁を「平出」といい、敬意を表すべき特定の文字を文章中に用いる場合、改行してその文字を行頭におく書式をいう。テキストでは、「公辺」に敬意を表している。

(137-2)「公辺(こうへん)」:公儀。将軍家。幕府。政府。お上(かみ)。また、それにつながるもの。役所。

(137-3)「差出」の「差」:冠部と脚部が離れており二字見えるが「差」一字。

(137-3)「左候節(さそうろうせつ)」:然(さ)候節。そのような折。「左」は本来は、縦書きの文章では、次のことが左側にあるところから、次に述べるような、文章や事項をいうが、テキストでは、「然(さ=そうような)」の当て字。

(137-4)「遠国(おんごく・えんごく)」:①遠くはなれた国。都から遠くはなれた辺鄙(へんぴ)な土地.②律令制の行政区画である国を、都からの距離によって、近・中・遠の三等に分けた一つ。延喜式によると、遠国には、関東以北、越後以北、安芸石見以南および土佐国が含まれた。テキストでは①。「オン」は呉音、「エン」は漢音。

(137-5)「手数(てかず・てすう)」:それに施すべき手段・手法・技(わざ)などの数。「てすう」と読むと湯桶読み。

(137-6)「腹蔵(ふくぞう)」:心の内にひめ隠すこと。心に思っていることをつつみ隠して外に現わさないこと。

(137-6)「被仰合(おおせあわせられ)」:「仰せ合す」は、多く、助動詞「らる」を付けて用いる。「言い合わす」の尊敬語。御相談になる。

(137-6)「被仰合」の「仰」のくずし字:旁が極端に省略されている。

(138-4)「乍去(さりながら)」:そうではあるが。しかしながら。「さり」は、本来「然り」で、「去」は当て字。

(138-5)「被仰聞(おおせきけられ)」:下一段活用他動詞。「聞ける」は「聞かせる」の意。

    「いいきかせる(言聞)」の尊敬語。言ってお聞かせになる。聞かせて下さる。また、上の命令などをお言い聞かせになる。

     *「聞ける」の活用:れ(未然)・れ(連用)・ける(終止)・ける(連体)・けれ(已然)・けよ(命令)。

     *「被仰聞(おおせきけられ)」の組成:「仰聞(おおせきける)の未然形「おおせきけ」+尊敬の助動詞「らる」の連用形「られ」。

      **助動詞「らる」の接続:未然形が「a」以外の音になる動詞の未然形に接続する。「おおせきく」の未然形は「おおせきけ」で「け(ke)」で「e」。

(138-6)「可得貴意(きいをうべく)」:「貴意」は、相手を敬って、その考えをいう語。お考え。御意見。御意。多く書簡文に用いる。

    *組成:「貴意」+下2段動詞「得(う)」の終止形「う」+推定の助動詞「べし」の連用形「べく」

      **助動詞「べし」は動詞の終止形(ラ変動詞は連体形)に接続する。

(139-1)「恐惶謹言」:男子が、手紙の末尾に書いて、敬意を表す語。恐れながら謹んで申し上げます。「惶」はおそれかしこむ。書き止めという。テキスト影印はわりとしっかりかかれているが、崩した連綿体も多い。

    *「書き止め」:書状など文書の末尾に書く文言。書止め文言。書状では「恐々謹言・謹言」、綸旨では「悉之」、御教書(みきょうじょ)などでは「仍執達如件」、下文などでは「以下」というように文書の様式によってその文言はほぼ定まっている。とくに書状では相手との上下関係によって書札礼(しょさつれい)が定まっていた。

    代表的な例である「弘安礼節‐書札礼之事」(一二八五)によれば、「恐惶謹言」は、「誠恐謹言」に次いで敬意が高く、目上に対して最も広く用いられ、以下「恐々謹言」「謹言」等があって、目下に対しては「…如件」で結ぶ形式をとるという。

実際の文書では「謹言」というさらに上位の表現や、「恐惶かしく」「恐惶敬白」といった「恐惶謹言」に準じた形式も見られ、他に「恐惶頓首」「匆々(草々)頓首」「以上」等が用いられる。いずれも実際の書状では符牒のように書かれる。

(139-3)「蛎崎四郎左衛門」:当時、松前藩の勘定奉行で、町奉行も兼ていた。のち家老格となった。

(139-6)「新井田周次」:松前藩町奉行。

(140-1)「鈴木紀三郎」:松前藩町奉行。

(140-3)「津軽左近将監」:弘前藩11代藩主・津軽順承(ゆきつぐ)。在位期間天保10年(1839)~安政5(1859)。寛政12(1800)113日生まれ。三河吉田藩主松平信明(のぶあきら)3男。津軽親足(ちかたり)の養子となり、文政8(1825)陸奥黒石藩藩主津軽家2代。ついで宗家津軽信順(のぶゆき)の養子となり、天保10

(1839)陸奥弘前藩藩主津軽家11代。倹約,開墾により藩財政を再建,また洋式兵学をとりいれた。元治2(1864)25日死去。66歳。

   *「左近将監」:官位名。「左近」は、左近衛府。右近衛府禁中の警固、行幸の警備などに当たった律令国家の軍事組か。「将監」はその近衛府の第三等官(ジョウ)。なお、第一等官(カミ)は、大将、第二等官(スケ)は、衛門左、第三等官(ジョウ)が将監、第四等官(サカン)は、将曹(しょうそう)。

(139-46及び140-2)<花押・華押(かおう)>:花字(かじ)の押字の意。 文書で、署名の下に書く自筆の書き判。多くは、実名の文字をくずして図案化したものを用いた。

   *花押:自署の代りに書く記号。押字ともいい、その形が花模様の如くであるところ

から花押とよばれた。また判・判形ともよばれ、印判と区別して書判(かきはん)と

もいう。花押は個人の表徴として文書に証拠力を与えるもので、他人の模倣・偽作を

防ぐため、その作成には種々の工夫が凝らされた。

   花押は中国唐代の文書からみえるが、我が国では十世紀の頃から次第に用いられる

ようになった。はじめ自署は楷書で書くのが例であったが、行書から草書へと変わ

り、特に実名の下の文字を極端に簡略化し、次第に二字の区別がつかなくなって図

様化した。これを草名(そうみょう)という。

   花押には、その人の趣向や時代の流行により、各種の作り方があった。江戸時代の有

職家、伊勢貞丈(一七一七―八四)の『押字考』は、草名体・二合体・一字体・別用

体・明朝体の五種を挙げている。草名体は、上記の如く花押の発生期に現われたもの

であるが、鎌倉時代以降も書札様文書に多く用いられた。藤原行成・吉田定房・一条

兼良(覚恵)などの花押がそれである。二合体は、実名の二字の一部を組み合わせて

草体にしたもので、藤原佐理・藤原頼長・源頼朝などの花押にみられる。一字体は、

名の一字だけをとって作るもので、平忠盛・北条義時・足利義満などの花押がその例

である。別用体は、文字と関係のない図形を用いたもので、三好政康・真木島昭光・

伊達政宗・徳川光圀などの花押がそれにあたり、いずれも鳥の姿を図形化したもの

である。明朝体は、中国明朝の頃に流行した様式であるためにこの名があり、天地の

二本の横線の間に書くことを特徴とする。徳川家康・加藤清正など、その例は多い。

花押の類型は、以上に尽きるわけではなく、前述の複合型もあり、戦国・織豊時代から文字を倒置したり、裏返したものが現われ、苗字・実名・通称などの 組み合わせによるものなど、新様式が発生し、その様相は一段と複雑になった。また一字体の変種とみることもできるが、足利義持・義政の「慈」、織田信長の「麟」、豊臣秀吉の「悉」のように、実名と関係のない文字を選んで花押とすることも行われた。禅僧様の花押も一種独特の類型に属するもので、文字よりは符号に近く、抽象的表現の中に禅宗風の寓意がこめられたものと思われる。さらに平安時代よりみられる略押も花押の一種で、画指に代り身分の低い者や無筆の者が用いる、簡略な符号であった。

 同一人でも、草名体と他の形式の花押を持つ例があり、義満以降の足利将軍のように、尊氏に始まる武家様(特に足利様ともいう)の花押と公家様の花押の両種を使用する例もあった。また一生の間には花押の変遷があり、若年期と老年期では書風の変化がみられるが、意識的に花押を改変することも多かった。改名、出家、政治的地位の変化等を転機とするものであるが、偽造を防ぐために頻繁に変えたり、数種の花押を用途によって使い分けることもあった。

   花押は時代によりその様相が変遷する。平安時代は草名体・二合体が主流であり、中

世に至って二合体・一字体がそれに代わり、さらに前述の如き新様式が現われ、江戸

時代には明朝体が一世を風靡した。また特に武家社会では、同族や主従の間に類似

の花押が用いられる傾向が強く、足利様や徳川判の流行のような現象もみられた。

 花押は自署の代りとして発生したが、平安末期より実名の下に花押が書かれるよう

になり、後には自署と花押を連記する風が生じた。一字体の出現以降は、実名と花押

との関係が薄れ、名と関係のない文字で理想や願望を表わしたりするようになると、

印章と変わるところがなくなった。版刻の花押は鎌倉時代中期から現われるが、近

世になると花押を籠字に彫って、これを押した上に填墨する方法、花押を印章の中

に組み入れたものが現われるなど、花押の印章化が進み、花押と印章は文書の上で

その地位を交代した。(ジャパンナレッジ版『国史大辞典』より)