4月例会での意見について>

P142.3行「折居神は、姥の娘」か、「姥の始」か。

・影印は、「娘」とする。

・姥神大神宮の由来については諸説あり、「於隣(おりん)」なる姥のお告げで、ニシンが群来して人々を飢えと寒さから救い、以来、人々は姥にちなみ「姥が神」として祠を建てて祀ったと云われている説、老夫婦説もある。「娘」説は見当たらない。「姥の始」も、「姥が始」とすれば、意味が通じなくもない。しかし、影印は「娘」として、ここは「姥の娘」と見る。

 

<5月学習分> 

22-1)「語者有」の「語」・・旁の「吾」の脚部の「口」が「ニ」のようになる。

22-1)「彼か(が)家」・・彼の家。「が」は、格助詞。

22-2)「さも」・・「佐」は「さ」。「さも」は、副詞「然(さ)」に助詞「も」が付いた連語。いかにも。まことに。

22-3)「忍びかね」・・「ひ(び)」は「飛」、「か」は「可」、「ね」は「年」。

     *変体仮名「年(ね)」・・最終画を上に円を描くように跳ね上げる。

      4行目「去年」の「年」、6行目「年々」の「年」など。

22-3)「持合居たる」の「た」・・字源は「多」。上部の「夕」が小さく、下部の「夕」が大きく、「両」のくずしのようになる。極端にくずすと「こ」になる。

223.4)「三右衛門トも」・・「トも」は「共」の意か。

22-4)「門送(かどおくり)」・・人を門口まで見送ること。葬式の時、死者の家へ行かず、自分の家の門に立って棺を見送ること。

22-4)「駒(こま)」・・子馬、小さい馬。牡馬をさしていうこともある。転じて、馬の総称。

22-4)「別而(べっして)」・・副詞。格別であるさま。特に。とりわけ。

     *「別方(べっしてかた)」・・特別に親しくしている人。別懇の方。

     *「別者(べっしてもの)」・・特別に親しくしている者。特に懇意な者。

22-5)「所々(しょしょ・ところどころ)」・・あちこと。ここかしこ。

22-6)「ふせぎ」・・「婦」は「ふ」、「世」は「せ」、「幾“」は「ぎ」。

23-1)「船橋(ふなばし・ふねはし)」:多数の船を横に並べて綱または鎖でつなぎ、その上に板を渡して橋としたもの。橋梁のかけにくい河川に恒久的に設けるものと、橋梁のない河川で臨時に設けるものがある。浮橋。

     *「船橋」のランキング・・江戸時代後期における日本の橋の長さを並べた番付表『日本大橋尽』にある船橋では、「越中船橋」(65艘・現富山市・神通川)が65艘、ついで南部船橋(48艘・現盛岡市・北上川)、3位は「越前船橋」(48艘・現福井市・九頭竜川)が上位にある。

     *千葉県船橋市・・船橋の地名の起源については諸説あるが、伝説では日本武尊が東征の折、川を渡るために船で橋を作ったのが由来とされている。市内を流れる海老川に船を並べ、その上に板を渡し、橋を造った。そのような船で造られた橋のことを「船橋」ということから船橋となった、というのが最も有力な説である。

     *越前船橋・・九頭竜川に架かる越前船橋について、ジャパンナレッジ版『国史大辞典』に、

     <「越藩拾遺録」は「凡此川幅百五間余、橋ノ長サ百二十間、鎖五百二十尋、舟四十八艘、浦々ヨリ出スニ、イロハノ印ヲナシテ今ニ至リテ毎年修理ヲ加フ」と記し、次のようにある。

所謂いノ印二艘泥原新保浦、ろ一艘和布浦、は一艘蓑浦・松蔭浦、に一艘長橋浦、ほ一艘菅生浦・鮎川浦、へ二艘大丹生浦・小丹生浦、と一艘大味浦、ち三艘蒲生浦・茱崎浦、り一艘居倉浦、ぬ半艘左右浦、る一艘半玉川浦、を三艘海浦、わ二艘宿浦、か二艘新保浦、よ一艘小樟浦、た一艘大樟浦、れ二艘道口浦、そ一艘厨浦・茂原浦、つ一艘高佐浦、ね一艘米浦、な一艘糠浦、ら一艘甲楽城浦、む一艘今泉浦、う一艘河野浦、ゐ一艘池ノ平浦、の二艘大谷浦、お三艘三国浦・宿浦、く一艘米ケ脇浦、や一艘安島浦、ま一艘崎浦、け一艘梶浦、ふ一艘浜地浦、こ一艘波松浦、え二艘北方浦、て一艘半浜坂浦、あ一艘半吉崎浦、以上四十八艘、藤縄ハ国中在々ヨリ出シ丸岡領ハ代物ニテ出ス。鋪板百十組、行桁八十六間、長板三十六間但長三間、亘一尺五寸、厚四寸福井領ヨリ出ス。大水ニテ橋流レタル時、他領ニテ留レバ舟一艘ニ鳥目二百文、鋪板一組ニ百文、行桁一本ニ五十文ヅツ、福井領ハ舟一艘ニ人足二人、鋪板一組ニ人足一人、行桁一本ニ人足半人ヅツ下サルル定ナリ>とある。

23-1)「大茂内村(おもない・むら)」・・現乙部町のうち。近世から明治初年の村。小茂内(こもない)村の北、突符(とつぷ)川流域に位置する。『松前島郷帳』には「大もないむら」、『天保郷帳』には「大茂内村」とある。『渡島日誌』には、「大茂内村、突符村分、八十八軒。文化度四十五軒。従小茂内三丁五間。産物同前。鎮守熊野社並て天満宮、傍に清順庵と云道場有」とある。「松前随商録」には「ヲウモナイ」として「運上場、小名トツフ・ヲカシナイ・ミツヤ・川シラ」とあり、突符(とつぷ)村・三谷(みつや)村・蚊柱(かばしら)村などをも含んでいたようである。旗本領であったため、天明年間(1781~89)に松前藩領の小茂内村と村境相論が発生。文化5年(1808)には本村の宮歌村の定住者と当村への出稼者との間で税負担をめぐり争論が起きている。

23-3)「桑林」・・影印の「桒」は「桑」の異体字(俗字)。

23-4)「往来は船に而往来せしか(が)」・・最初の「往来」は、「往古」で、「往古は船に而往来せしか(が)」か。

23-5)「如斯(かくのごとく)」・・「如斯」と返読する。「如」のくずしは「め」「そ」「ち」のように、極端にくずれる場合がある。下は『くずし字辞典』より

24-1)「三谷村(みつや・むら)」・・現乙部町三ツ谷(みつや)。町の北部。西は日本海に面する。『渡島日誌』には、「清水川越て三ツ谷村、人家六十二軒。文化度は三十五軒也と。産物鯡、鱈、烏賊、鮑、海参、昆布、海苔、雑漁多しと。浜形酉向、西に宮歌岬。左りヲカシナイ岬、其間一湾をなしたり。」とある。

24-2)「瓦崎」・・影印は「瓦」に近い。「シビノウタ」か。『渡島日誌』には、「シビノウタ、小川、人家有、従是本道は九折を上りて野に出る。此処に境目、岡道有。傍にスボの社、所祭諏訪社也。是諏訪の訛かと思はる。」とある。また、『罕有日記』には、「シビ崎、スワ崎ともいう。」としている。

24-2)「ゑワ崎」・・武四郎『東西蝦夷山川地理取調図』に「イワサキ」が見える。

24-4)「蚊野村」・・「蚊柱村(かばしら・むら)」か。現乙部町のうち。『松前島郷帳』には「かはじら村」、『天保郷帳』には「蚊柱村」とある。『渡島日誌』には、「蚊柱村、人家八十一軒。文化度五十四軒。従三谷村三十一丁廿間。浜形戌向。上は崖、浜には磯多く、其間に小船懸るに宜し。産物前に同じ。」とある。

24-5.6)「相沼内(あいぬまない)」・・現八雲町熊石相沼町。町の南部。南境を相沼内川が流れ、南西は日本海に面する。『天保郷帳』には「相沼内村」とある。『渡島日誌』には、「相沼内村、人家百六十二軒。文化度百八軒。従蚊柱村一里三丁。~中略~。名義は蕁麻多沢(アイウシナイ)との儀なり。*蕁麻=いらくさ・からむし」、「浜形酉向、左ヲリト岬、右黒岩岬の間一湾となりて砂利場。処々暗礁有て小船懸り宜し。土産蚊柱に同じ。」とある。

25-3)「泊り川村(とまりかわ・むら)」・・現八雲町熊石泊川町。『松前島郷帳』、『天保郷帳』ともに、「泊川村」とある。旧熊石町の南部。北東は旧八雲町に接し、南西は日本海に面する。『渡島日誌』には、「泊川村、人家二百六軒。文化度八十六軒。従相沼内七丁五十六間。浜形相沼内に同じく、土産も同じ。」とある。

25-3)「境権現(さかいごんげん)」・・『渡島日誌』には、「是立岩権現とも、また境権現とも云」とある。

25-4)「水かれて」・・「可」は「か」、「連」は「れ」。「水涸れて」の意。

25-5)「うかち」・・「宇」は「う」、「可」は「か」、「知」は「ち」。「穿(うが)つ」の連用形。

261.2)「幅四十間の河」・・見市川(けんにちがわ)。「渡島日誌」には、「見日川、川巾二十余間、急流、石川なり。雪融頃は時々怪我人有。此辺りえは渡し船を備置度事也」とある。

26-2)「熊野村」・・「熊石村」か。現八雲町熊石。昭和387月版の『北海道市町村行政区画便覧』の熊石町の「開基及び沿革」にいると、「アイヌ語「クマウシ」(魚乾竿のある所)より転訛したものである。遠く宝徳年間(1449~1452)より和人が居住していたが、寛保元年(1741)の大海嘯のため全村が全滅し、延享元年(1744)に佐野権次郎江差より移住してより再び移住者を見るようになった。享禄2(1529)本村を雲石と称したが、元禄5(1692)5月熊石村と改称された。」とある。『蝦夷日記』には、「熊石村泊、松前より三十二里、家数五十七軒、人数二百拾六人。当所は蝦夷地の境なり。クドウ場所迄海上五、六里。風待にて二日逗留。」とある。

      『渡島日誌』には、「熊石村役所、従泊り川村二里十丁五十間。従江指御役所下川々除き九里二十七丁二十三間。従松前沖ノ口役所二十六里二十丁四十間。人家三百二十六軒、文化度百九十一軒。元はクマウシと云し也。訳して鯡棚多し(クマウシ)の儀。鯡棚一面に架れば如此号し也。」とある。

      また、『角川日本地名大辞典』によれば、「江戸期の熊石村の町域には、元禄13年の『松前島郷帳』には、あいの間内村、泊川村、見日村、くま石村、ほろむい村。『天保郷帳』には、相沼内村、泊川村、熊石村がみえる。文化年間(1804~18)の記録によると、地内には相沼内、泊川村、見日村、熊石村、関内村の5集落がある。」としている。

      この外、熊石地内から、縄文期の大洞式の注口土器とともに、頭、手、胸、下腹部に白色メノウ(瑪瑙)5個を挿入した土偶が出土しており、国内では例がなく「メノウ入り土偶」と呼ばれ、東京国立博物館に所蔵されている。

26-5)「突兀(とっこつ・とつこつ)」・・山や岩などの険しくそびえているさま。

26-6)「そひへたる」・・「楚」は「そ」、「飛」は「ひ」、「多」は「た」。「聳えたる」

26-6)「雲石」・・『渡島日誌』には、「雲石、沖中二丁に有。と云石有。」と「石」にしている。なお、奇岩「雲石」は、現八雲町熊石雲石(うんせき)町内に所在する。