(151-2)「取留(とりとまり・とりとめ)」:しっかりと定まること。まとまり。しまり。とりとめ。多く、否定の語を伴って用いる。

(151-2)「証拠(しょうこ)」:一定の根拠に基づいて、事実を証明すること。証明のよりどころとすること。また、その材料。証明の根拠。あかし。しるし。証左。

 *テキスト影印の「証」は、旧字体の「證」。

①もと「證」と「証」は別字。当用漢字表で「證」の新字体として「証」が選ばれたため、両者の字形の区別がなくなった。

②昭和21年11月の当用漢字表制定当初に、「証」が「證」の新字体として選ばれた。常用漢字表では、いわゆる康煕字典体の活字として「証」の括弧内に「證」が掲げられている。

*「證」の解字は、「言」+「登」。言葉を下から上の者にもうしつげる意味をあらわす。転じて、物事を昭らかにする。

 「証」は、「言」+「正」。言葉で正す、いさめるの意味を表す。

*したがって、事実を明らかにする意味では、「證拠」が本来の意味。「証拠」は、意味が通じない。「證」が「証」に置き換えられたために、本来の意味が不明になった。

(151-3)「片口(かたくち)」:一方の人だけの陳述。片方だけの言い分。または、それだけをとりあげること。

(151-4)「可相分兼候(あいわかりかぬべくそうろう)」:組成は「相分(あいわかり)」+ 

 「兼(か)ぬ」(終止形)+助動詞「可(べし)」の連用形「可(べく)」+動詞「候(そうろう)」。

 *兼ぬ:接尾語ナ行下二段型。動詞の連用形に付く。「思いどおりに実現できない意を表す。…しかねる。…しにくい」の意の動詞をつくる。

 *助動詞「べし」は、動詞の終止形(ラ変動詞は」連体形)に接続する。

(151-6)「不容易(よういならざる)」:「不」の訓に「なら」をおぎなって、「ならず」がある。「ざる」は、文語の打消しの助動詞「ず」の連体形で、動詞および一部の助動詞の未然形に付く。打消しの意を表す。文章語的表現や慣用的表現に用いられる。「準備不足と言わざるを得ない」「たゆまざる努力」など。

  *「回也愚」:[回也(かいや)愚(ぐ)ナラず](『論語 為政』)

   <顔回(回也=孔子の愛弟子)は、おろかではない>

 

 

 

 

 

 

(151-6)「再応」:同じことを繰り返すこと。再度。ふたたび。多く副詞的に用いられる。

(152-1)「厳敷遂吟味候」:「厳しく吟味(を)遂げ候」。「遂」のしんにょうが、「し」のようになっている。

(152-1)「可相果候」:「相・果(はつ)・可(べく)・候(そうろう)」

 *「可(べし)」は動詞の終止形(ラ変動詞は連体形)に接続するので、「果(は)つ」(終止形)で読む。

(152-34)「早急(さっきゅう・そうきゅう)」:「さっ」は「早」の慣用音。非常に急ぐこと。

 *慣用音:呉音、漢音、唐音には属さないが、わが国でひろく一般的に使われている漢字の音。たとえば、「消耗」の「耗(こう)」を「もう」、「運輸」の「輸(しゅ)」を「ゆ」、「堪能」の「堪(かん)」を「たん」、「立案」の「立(りゅう=りふ)」を「りつ」、「雑誌」の「雑(ぞう=ざふ)」を「ざつ」と読むなど。慣用読み。

(152-3~4)「成丈ケ(なるたけ・なるだけ・なりたけ・なりだけ)」:(動詞「なる(成)」にそれ限りの意を表わす副助詞「たけ」が付いてできた語。)できる限り。できるだけ。なるべく。なりたけ。なりったけ。なるったけ。なるべくたけ。なるべきだけ。

(152-4)「手限(てぎり)」:江戸時代、奉行、代官などが上司の指図を得ないで事件を吟味し、判決を下すこと。手限吟味。

(152-4)「仕置(しおき)」:動詞「しおく(仕置)」の連用形の名詞化処罰。処分。成敗。おしおき。

 *ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌には、<この語は、江戸幕府の法令整備(「公事方御定書」など)が進むなかで、権力による支配のための采配の意から刑罰とその執行の意に移行した。文化元年(一八〇四)以降に順次編集された「御仕置例類集」は幕府の刑事判例集の集大成であるが、それに先立って「御仕置裁許帳」が幕府最初のまとまった刑事判例集として、宝永期(一七〇四〜一一)までに成っていたとみられる>とある。

(153-1)「為御含」:「御含(おふくみ)ノ為(ため)」

 *「為」:下に動詞が来る場合、「す」「さす」とその活用。

      下に名詞が来る場合、「ため」「として」「たり」「なる」

(153-2)「可貴意」:「貴意(きい)ヲ得(う)可(べく)」:相手の考えを聞くことを敬っていう語。多く書簡文に用いる。

(153-3)「松前志摩守」:松前章広。安永4730日生まれ。松前道広の長男。寛政4年松前藩主9代となる。ロシア使節ラクスマンやイギリス船の来航などがあり、寛政11年東蝦夷地が,文化4年には全蝦夷地が幕府直轄地となり、章広は陸奥梁川(福島県)9000石に移封された。文政4年松前復帰がかない、5年藩校徽典(きてん)館を創立。天保4925日死去。59歳。初名は敷広。通称は勇之助。

(153-4)「蛎崎四郎左衛門」:松前藩町奉行。

(153-5)「新井田周治」:松前藩町奉行。

(154-6)「鈴木紀三郎」:松前藩町奉行。

(154-1)「津軽左近将監(つがるさこんのしょうげん)」:津軽信順(のぶゆき)。寛政12325日生まれ。津軽寧親(やすちか)の子。文政8)弘前藩藩主津軽家10代となる。藩政にはあまり熱心ではなく、派手ごのみを幕府からとがめられる。天保10年隠居。文久21014日死去。63歳。号は好問斎,如海,瞳山。

 *「将監」:近衛府の第三等官(判官=じょう)。

(154-1)「御内(おんうち)」:「おん」は接頭語。手紙のあて名の下に書きそえることばの一つ。

(155-1)「寅」:天保元年(1830)。

(155-1)「被 仰付(おおせつけられ)」:「被(られ)」と「仰付」の間が一字分空いている。

 尊敬の体裁で、「欠字」という。「仰付」が下接する場合、欠字の体裁をとることが多い。

(155-2)「此節」の「節」:竹冠が小さく、脚部が大きく縦長になっている。

(155-3)「胡乱(うろん)」:(「う」「ろん」ともに「胡」「乱」の唐音)。あやしく疑わしいこと。

 *ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌には、<(1)「正法眼蔵」や、五山僧の「了幻集」に見えること、また唐音で読まれることからも、禅宗によって伝えられた語と見られる。中国でも「碧巖録」など禅籍に見えるが、禅宗用語というわけではなく、「朱子全書」等、宋代以後の様々な文献にも見える。

(2)「胡」も「乱」も「みだれたさま」を表わし、「胡─乱─」の形でも「胡説乱道」「胡言乱語」「胡思乱想」などが見え、「胡」と「乱」がほぼ同じ意味で使われていることがうかがえる。語の意味も、中国では(1)の意味であったが、日本では(2)の意味をも派生し、後にはこちらの意味の方が多用されることとなった。>とある。

*「胡」は、でたらめの意。また胡(えびす)が中国を乱したとき、住民があわてふためいて逃れたところからという説もある。

(155-4及び8)「候」:「候」が「ヽ()」にように、極端なくずしになっている。

(155-4)「先年」の「年」:最終画の縦棒をまるく跳ね上げて、円のようになる。

(155-4)「訳合(わけあい)」:ことの筋道。理由や事情。

(155-6)「頭取(とうどり)」:松前藩町奉行配下の町方の頭取。

 *「頭取」:元来は、音頭を取る人。音頭取。雅楽の合奏で、各楽器特に、管楽器の首席演奏者。音頭(おんどう)が原意。転じて、一般に頭(かしら)だつ人の意になった。

(155-7)「不埒(ふらち)」:法にはずれていること。けしからぬこと。また、そのさま。ふつごう。ふとどき。不法。

 *「埒(らち)」:馬場の周囲に設けた柵(さく)。古くは高く作った左側を雄埒、低く作った右側を雌埒といい、現在は内側のものを内埒、外側のものを外埒という。

*「埒外」(かこいのそと。転じて一定の範囲の外)

*「埒が明く」:物事がはかどる。てきぱきと事がはこぶ。きまりがつく。かたづく。「埒が明かない」はその逆。語源説に、(1)奈良・春日大社の祭礼で、一夜、神輿の回りに埒を作っておき、翌朝、金春太夫がそれをあけて祝言を読む行事から。(2)賀茂の競馬の時に埒を結ぶところから。

(155-8)「唐津内沢町」:現松前郡松前町字唐津・字西館・字愛宕など。近世から明治三三年(一九〇〇)まで存続した町。近世は松前城下の一町。唐津内沢川沿いの町。松浦武四郎は「小商人、番人、水主、船方等多く住す。此流れの向に新井田嘉藤太此処へ被下ニ相成屋敷有。水車有」と記しており(「蝦夷日誌」一編)、船乗りが多かったことがわかる。

(155-8)「御慈悲(ごじひ)」:「慈悲」は、仏語。「慈」は{梵}maitr 、「悲」は{梵}karuna の訳語。衆生をいつくしみ、楽を与える慈と、衆生をあわれんで、苦を除く悲。喜びを与え、苦しみを除くこと。テキストでは、あわれんでなさけをかけること。また、「お慈悲でございますから」などの形で、あわれみを請う意の慣用表現としても用いる。

(156-1)「願書(ねがいがき)」:願いごとを記した書き付け、手紙。

(156-2)「風邪(ふうじゃ・かぜ)」:ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌には、<(1)中国古代の「風」は、大気の物理的な動きとともに、肉体に何らかの影響を与える原因としての大気、またその影響を受けたものとしての肉体の状態を意味した。日本での「かぜ」はもともと大気の動きであるが、「感冒」の意の「かぜ」は、平安時代初期から見られ、おそらくは中国語の「風」の移入か。

(2)感冒が「風」の影響を受けるとすることは、「風を引く」の例でわかるが、その症状は必ずしも感冒には限らず、腹の病気や慢性の神経性疾患などを表わしていたことが、「竹取物語」や「栄花物語」などの例でわかる。また、身体以外に、茶や薬などが空気にふれて損じ、効き目を失うことを「カゼヒク」といったことが、「日葡辞書」から知られる。

(3)「風邪」は、漢籍では病気名とは言えず、「日葡辞書」でも「Fûja (フウジャ)」は「ヨコシマノ カゼ」で、身体に影響する「悪い風」とされている。近世では、「風邪」は一般に「ふうじゃ」と読まれ、感冒をさすようになった。病気の「かぜ」に「風邪」を当てることが一般的になったのは明治以降のことである。>とある。

(156-3)「西舘町(にしだてまち)」:現松前郡松前町字西館・字唐津・字愛宕。近世から明治三三年(一九〇〇)まで存続した町。近世は松前城下の一町。福山城の西、小松前川と唐津内沢川に挟まれた台地一帯、唐津内町の背後(北側)にあたる。

(156-4)「当時(とうじ)」:現代では、「その時。その頃。その昔」の意に用いるが、古文書では、「ただいま。現在。現今。今日(こんにち)」の意味になる場合が多い。

 (156-4)「ケシヨウ川」:現在の化粧川は、松前町建石地区を流れる普通河川。光明寺の奥が水源で、国道228号線に架かる大磯橋付近で日本海に注ぐ。

(156-6)「惣社堂」:松前郡松前町字建石・字弁天。近世から明治三三年(一九〇〇)まで存続した町。近世は松前城下の一町。松前城下の最も西に位置する町。東は生符いけつぷ町。

(156-9)「臥居(ふしおり)」:「臥」の偏の「臣」は「石」のように見え、旁の「人」は「ト」のように見える。

(156-10)「風呂敷」:物を包むための正方形の絹または木綿の布。正倉院の宝物にも、崑崙裹(こんろんのつつみ)といって、号楽の装束を包んだ、表は黄あしぎぬ、裏は白のあしぎぬの袷の風呂敷がある。古くは平包とか平油単と呼ばれていた。風呂敷と呼ばれるようになったのは銭湯の発達に伴うもので、手拭い、その他入浴に必要な品を包んで行き、入浴する時は脱衣などを包んでおき、帰りには濡れたものを包んで持ち帰ったところからきている。中世までは入浴に際し、男性は湯褌、女性は湯巻といって、入浴専用の褌と腰巻につけ替えて入り、湯から上がる時はこれを専用の下盥で洗って帰ったためである。このため、他人のものと間違えないように家紋や屋号を染め抜いて用いた。しかし江戸時代中期ごろには湯褌や湯巻を用いる習慣がなくなると同時に、脱衣籠や棚が出現したため、本来の風呂敷としての必要性は少なくなり、平包が風呂敷と同型のため、もっぱら平包を風呂敷と呼ぶようになった。荷物の持ち運びから商人の商品の運搬、旅行具にもなった。また蒲団などの収納具としても重宝されてきた。その他、江戸時代には頭巾にも用いられた。御高祖(おこそ)頭巾とか風呂敷ぼっちといってもっぱら女性が用いたが、この場合は表が黒や紫のちりめん、裏に紅絹(もみ)をつけたり、浅葱木綿でつくったりした。風呂敷の代表柄である唐草模様は、江戸時代の更紗の流行以後、寿柄として伝えられている。(ジャパンナレッジ版『国史大辞典』より)